一禍来福


 暗闇の中を歩いていた。
 ここはどこだろう。そう思うのに、秋羅の足は勝手に進んでいく。足が進む方へ目をやると、ぼんやりと何かが光っているのが見えた。進むにつれ、はっきりと見えてくる。
 手だ。病的な白さの無数の手。
 宙ぶらりんの闇から何本も生えて、こっちだよ、と手招きしている。
 似たようなことが起こると、いつもビビり散らかしているはずなのに。そう自分を冷静に分析している間も、足は進んでいく。まるでその手の方へ行くのが当たり前かのように。
 ぴちゃり。
 冷たい感覚が足の裏に走ったのと同時に、足が止まる。
 下を見れば、水面に片足を突っ込んでいた。ゆらゆらと揺れる水面に映る無表情の自分。すぐ近くにあるはずの手は、映っていない。
 行きたくない。ふと思う。
 相変わらず、目の前の手はずっとこちらを手招きしている。もうすぐ触れてしまいそうなくらい近い。
 どうしよう。でもなんか嫌だ。
 そう思った刹那、急に手を掴まれた。
 大きく跳ねた肩。勢いよく振り返った。
 金混じりの茶色の瞳に射抜かれる。強い光を宿した瞳が、秋羅をじっと見つめていた。同じ年くらいの青年だ。動揺する秋羅を他所に、青年は静かに言った。

「そっちに行くと死ぬぞ」

 真剣な声だった。青年は反対の手で、何かを指さす。それを目で追えば、無数の手がある方だった。何も答えずにいた秋羅に何を思ったのか、青年はぱっと手を離した。さっきまで手首に灯っていたぬくもりが消えていく。心細さが増した気がした。

「まあ死にたいなら止めねーけど」

 青年の言葉を頭で反芻する。死にたい、のだろうか。いや、とすぐ否定する。自分の体質のせいで厄介な日々を送っているけれど、死にたいと思うほどじゃない。

「死にたくない」

 はっきりとした声が出た。力が籠っているのが自分でも分かる。決意が声に出したのに青年は別段気にした様子もなく、ふーん、と言って、秋羅の手首をまた掴んだ。
 圧迫するようなそれではなく、やわく寄り添ってくれるような掴み方だった。

「じゃあこっち」

 青年が歩き出すと、秋羅の足も勝手に動き出した。
 ボソボソと後ろから何か聞こえる。言葉として聞き取れないが、自分に向かって何か言っているのは分かった。しかし青年が足を止めることはない。青年について歩くうちに、やがてそれは聞こえなくなった。
 にしても、と思う。
 青年の歩みには迷いがない。彼は何処に行くべきか知っているんだろうな、と漠然と思う。やわく掴まれた手のひらは、温かさと共に安心感を呼び起こしてくれた。彼がいれば大丈夫なんだ、と理由もなく確信する。彼が届けてくれる温もりのお陰で、どんどんと気が潤んでいく。
 改めて青年を観察してみる。
 通う大学内でよく見かける学生みたいな格好だ。
 瞳と同じ色の髪色に、首まであるフルジップパーカー、カーゴパンツを着込んでいる。パジャマの自分とは大違い。
 どうせなら、いつもの格好で会いたかったな。
 そんな事を思いながら顔を上げると、真っ暗闇だったはずの空間がぼんやりと明るくなり始めていた。
 その中でも一番明るい場所に辿り着くと、やっと青年は足を止めた。必然的に秋羅の足も止まる。ヨシ、と言った青年がくるりと振り返った。

「此処まで来たら大丈夫だろ」

 言うやいなや、ぱっと手が離される。さっきまで引かれて前に出ていた腕が、自分の横まで戻ってくる。さみしい。とっさにそんな気持ちが湧いて、さみしいってなんだよ、と思わず首を傾げてしまった。
 そんな秋羅をよそに、秋羅の頭から足の先、更には背中まで何かを確認するように視線を巡らせた青年は、うん、と言った。

「憑いてきてるやつもいなさそうだし、大丈夫だな」

 数秒前まで満足げだった青年は、しっかしなぁ、と少し眉を顰めた。

「アンタ相当寄せやすいみたいだから、由緒ある神社の御守りとか持ち歩いたほうが良いぞ」

 それはどういう意味、と聞こうとしたのと、背中を思い切り叩かれたのは同時。声を出す檻も先に体が勢いよく傾く。
 まずい! 転ぶ! 
 そう覚悟した。

 のだが。

 バッと目を開けたら、いつも通りの天井が見えた。
 えっ、と思わず声が出る。今まで目を開けたはずなのに、目を開けたってどういうことだよ。じもんする。でも確かにそういう感覚があった。
 体を起こす。ぐっしょりとした感覚に、思わず顔を顰めた。手で触れたパジャマ。かなりの量の寝汗をかいたらしく、濡れて重くなっていた。
 はぁ、と思わず溜息が出る。
 もう一度ベッドに倒れ込んだ。布が張り付く不快感も、夢のことを考え始めたらどうでもよくなった。
 さっきまで見ていたあれは、多分ただの夢ではないのだろう。
 彼がいなかったら、今度こそマジでヤバかったかも、と思う。
 強い光を宿した、金混じりの茶色の瞳を持つ青年。彼がいたおかげで、この現実に戻ってこれたのだろうと思う。
 青年が掴んでくれた手首を、なんとなく持ち上げて触れてみる。あったはずの温もりは、もうない。そこに彼がいた証なんてどこにもない。
 でも秋羅は確信している。あの青年は、現実にいる人だ。理由なんて聞かれても答えられないけれど。

「……名前、聞けなかったな」

 ぽつりと落ちた独り言は、名残惜しそうに部屋に響いて、やがて消えていった。