暗闇の中を一人歩いている。
ぐるりと視線を動かしても誰もいない。ただ闇が広がっていた。そんな中で、自分の体だけがぼんやりと光っていて、場違いだな、と秋羅は思った。
こんなところに来た覚えはない。しかし自分がパジャマを着ているところを見ると、夢の中なのかもしれない。
それにしても変な夢だ、と思う。
音一つしない暗闇を、目的なんてないはずなのに何処かに向かって歩いている。少し経つと、自分以外の何かがぼんやりと光っているのが見えた。向かっている先に、その光っているものはあった。
目を凝らしてみてみると、手だった。病的な白さの無数の手が、まるで秋羅を誘うように手招きしている。恐怖心はなぜかなかった。そこに行くのが当然のように足は動いていく。
近づけば近づくほど、その手は指先を秋羅に伸ばすかのように、ゆっくりとした動きで手招きする。誘われるように勝手に近づいていく足。
ピチャリ。冷たい感覚が足の裏に走って、動きを止めた。
下を見れば、ゆらゆらと水面が揺れていた。その水面に自分の影が映っている。なのに、手の影は映っていなかった。
静かに顔を上げる。真白な手たちは、未だに秋羅を手招きしている。
どうしよう。そう思ったのと同時だった。
急に手首を掴まれて、大きく肩を揺らす。勢いのまま振り返った先。
立っていたのは、同い年くらいの青年だった。秋羅よりも少し背が低く、元気よく跳ねた金混じりの茶髪の青年。髪と同じ色の瞳の眼光は、この場の何よりも力強く見えた。
目が合うとその青年は、ぱっと手を離してくれた。
「そっちに行くと死ぬぞ」
真剣な声だった。青年が指を差している方を見れば、手招きする無数の手がある。もう一度青年に視線を合わせる。
死ぬってその死ぬなんだろうか。物理的に? 夢の中なのに?
いろんな疑問が頭の中を駆け巡っていく。秋羅が困り果てているのを見かねたのか、青年は静かに言った。
「まあ死にたいなら止めねーけど」
好きに選べば良いと言わんばかりの声だ。
僕は死にたいのだろうか、と自問する。そんなはずがない。厄介なことや嫌なことが多いし、厄介な体質のことは確かにある。とはいえ、死ぬほどのことじゃない。この体質をなんとかして、平穏に暮らせたらきっとぜんぜん違う人生になるはずだから。
「死にたくない」
そんな気持ちを込めて力強く言った。しかしそんな決意も虚しく、青年は別段気にした様子もなく、ふーん、と言うと再び秋羅の手首をやわく掴んだ。
「じゃあこっち」
そういって青年は歩き出した。
暗闇の中で何も見えないはずなのに、その足運びには迷いがない。ただまっすぐ、何処かに向かって歩いている。
後ろから何かボソボソとした声が聞こえた。何か言っていることは分かるのに、言葉として認識できない不気味なそれ。青年に連れられてさっきの場所から遠ざかるうちに、やがて聞こえなくなった。
もう一度青年の背中を見る。
青年は秋羅とは違って、私服を着ていた。首まであるフルジップパーカーに、カーゴパンツ。通っている大学でよく見る格好だった。完全に寝る服装である秋羅とは大違いだ。
青年に掴まれている手首が、じんわりと温かい。歩調も心地よいからか、眠っているはずなのに、意識がだんだんと微睡んでいく。
ふと気付けば真っ暗闇だったはずの空間は、白が混じってぼんやりと明るくなっていた。その中でも一番明るいところまで来ると青年は、ヨシ、と言って足を止める。
くるりと振り返った青年が言う。
「此処まで来たら大丈夫だろ」
どうしてそんなことが分かるのだろう。常人では持ち得ない能力を、彼は持っている気がする。そう思うのに、口が動かない。聞きたいことが山程あるのに。
そんな秋羅をよそに、青年は手を離すと秋羅のまわりを検分するように歩く。
「うん、憑いてきてるやつもいなさそうだし大丈夫だな」
安心したように言った青年は、しっかしなぁ、と呆れたように言った。
「アンタ相当寄せやすいみたいだから、由緒ある神社のお守りとか持ち歩いた方が良いぞ」
それはどういう意味、と聞こうとしたのと、背中を思い切り叩かれたのは同時。声を出すよりも先に、体が勢いよく傾く。
まずい! 転ぶ! そう覚悟した。
のだが。
バッと目を開けたら、いつも通りの天井が見えた。
えっ、と思わず声が出る。今まで目を開けていたはずなのに、目を開けたってどういうことだ。自問する。でも確かにそういう感覚があったのだ。今いるのは、さっきまでいた空間とは全く別の、眠りにつく前のいつも過ごしている自室に違いなかった。
体を起こして、上半身を触ってみる。
ぐっしょりとパジャマが濡れていた。かなりの量の寝汗をかいたようで、掛け布団やシーツまで濡れている。
室温が高い季節でもないのに、だ。
真冬じゃなくてよかった、と思いつつベッドから抜け出した。
起動したスマートフォンが、あと数分で午前5時という時刻を表示してくれる。確かに窓の外を見れば、空が白み始めていた。
濡れたパジャマを下着ごと脱ぎ捨てて、すぐに新しい下着とスウェットを引っ張り出す。
それにしても、と思いを巡らせる。
あまりにもリアルな夢だった。
途中までは温度感を全く感じていなかったのに、あの足先が水に触れた感覚と、名前も知らない青年に掴まれた手の感覚は、本物そっくりだった。いや、多分本物なのだろう。
己を誘っていた無数の手。
今思い直すと、相当に不気味だ。背筋が冷える感覚に、体を震わす。でも、と思いながら青年に掴まれた手首を持ち上げる。確かに残っている温かさが、さっきまで見ていたものは夢ではない、と知らしめるようだった。
あの無機質な冷たい空間で、彼だけが人間味があった。いつも感じる不快感も、羨望も、嫉妬も何もない、ただ心地よい風が吹く木陰のような空気が、あの青年と秋羅の間には流れていた。
「……名前、聞けばよかったな」
普段は、人の名前なんてあまり聞かない。よくつるんでいる友人とは別として、新しい人間関係を構築するのは骨が折れるから。
それは秋羅の容姿に関係している。
父と母のいいとこ取りをした顔は、世間一般で言う美形に属している。らしい。美醜のことを気にしたことのない秋羅にはよくわからないが、顔が整っているとそれだけで嫉妬や争いの種になる。気の置けない友人にもよく、そりゃあそんだけ顔整ってたらな、と呆れ顔をされることもある。
それ故に容姿で寄ってくる輩とは、必要最低限の付き合いしかしない。これ以上面倒事に巻き込まれるのは御免だ。ただでさえ自分の体質のせいでややこしい人生を送っているのだから、これ以上面倒事は増やしたくない。
交友関係をあまり広げないのが常だった。
なのに、彼の名前は知りたいと思った。
それは彼が自分のこの不幸体質をなんとかしてくれるかも、と思ったからでもあるし、純粋に彼が何者なのか気になったからでもある。
いやそもそも、と思う。彼は本当に同じ人間だったのだろうか。よく秋羅を悩ませてくる、人ならざるものの可能性だってある。
ふう、と息を吐いて頭を振る。
このまま考えてもドツボにハマるだけだ。答えの出ない問いを続けるほど無駄なことはない。そう考え直して、汗に濡れたパジャマとシーツ、掛け布団を洗濯機に放り込むことにした。

