居酒屋の近くの裏路地に、嘔吐物らしい液体がまだ新しく光っていた。街灯を弾くそれは、不自然なまでに艶めいて、アスファルトのひび割れに沿って広がっている。視界に入った瞬間、腹の底で何かが反転した。煮えたぎる蛇のような熱が胃袋を這い回り、焼けた息となって喉を突き上げる。
夜の空気は冷えているはずなのに、鼻腔にこびりつく酸っぱい匂いだけが生暖かく、現実の輪郭をねばつかせている。路地の奥で換気扇が唸り、どこかのグラスが触れ合う乾いた音がした。さっきまで笑っていたはずの街の声が、急に遠い。
喉元までせり上がったものを、私は嚥下する。
――この感覚には覚えがあった。
ついさっきも、私は同じものを味わっている。田吉海斗が、女に向けて微笑んだときだ。女は白いニットの袖を指先まで引き伸ばしながら、頬に落ちた髪を耳へかけた。左の耳たぶに、小さな金色の月が揺れていた。グラスを持つ爪は薄い桜色で、笑うたびに喉の奥で鈴のような音がした。
「やっぱ海斗は優しいな」
そういわれた田吉は困ったような、それでいて柔らかな、何の含みもないような笑みを女に向けた。私に向ける時よりも、わずかに深い笑みだった。グラスを持つ爪先は薄い桜色で、視線はまっすぐ、ためらいもなく彼女へ落ちていた。その一瞬、私の腹の奥で何かが跳ねた。
さっき裏路地で見たものと同じ、焼けつくような熱が、静かに、しかし確実に胃壁を這い上がってきたのだ。
あのときは笑い声と音楽に紛れてやり過ごせた。喉元まで込み上げたものを、炭酸で押し流し、曖昧な相槌で蓋をした。けれど今、酸っぱい匂いの立ちこめるこの路地で、私ははっきりと理解する。
あれは単なる生理的な嫌悪じゃない。吐き気に似ているくせに、吐き出せない感情だ。
田吉海斗の微笑みが、夜の底で何度も反芻される。女の頬に落ちた視線、わずかに緩んだ目尻。その細部が、私の内側をひっかく。
足元のそれを、私は見下ろす。どろりと広がった液体の中に、未消化のレモンの皮が混じっている。黄色が街灯を受けて鈍く光る。甘い酒と胃酸が混ざり、形を失った残骸。
さっき飲み込んだはずの熱が、またゆっくりと喉へせり上がってくる。私は唾を飲み込み、路地の奥を見つめた。換気扇の唸りがやけに長く、低く、続いている。
息を浅く止めたまま、嘔吐物へと歩み寄る。酸い匂いが一層濃くなり、目の奥がじんと痺れた。私は鞄から煙草とライターを取り出す。指先がわずかに震えているのがわかる。
火をつけたマルボロを、ひと口も吸わずに、その湿った塊へ放った。せめて何かを焦がしていなければ、私の内側だけが燃えてしまいそうだった。
先端の火が弧を描き、どろりとした表面に落ちる。パチ、と小さな音がした。湿気を含んだそれはすぐには燃え広がらず、赤い点だけがかすかに瞬く。パチ、パチ、と弱々しく弾ける音。
まるで「もうやめてくれ」と田吉がどこかで懇願しているみたいだ、と私は思う。
けれど、やめるつもりはない。
胸の奥でくすぶっているものと、足元で燻る火種とが、どこかで静かにつながっている。私は目を逸らさず、その赤い点が黒く潰れて消えゆくまで見届けた。
席に戻ると、勝又千秋が柔らかな笑みを浮かべて「優香、遅かったね」と声をかけてきた。私は曖昧に頷くだけで返し、目はテーブルの向こうにちらりと落とす。千秋はそれに気付くことなく、軽やかに話題を変え、周囲の笑い声に溶け込むように会話を進めていった。
大学に入って最初の頃、私はサークル活動にあまり積極的ではなかった。講義の合間に見かける楽しそうな先輩たちの笑顔は、遠くの光景のように感じられ、自分がその輪に入る想像はできなかった。けれど、千秋が「優香、一緒に行こうよ」と誘ってくれたとき、私は理由もなく頷いた。
「なんとなく……面白そうだから」と言うしかなかった。胸の奥に、漠然とした不安と期待が同居していた。楽しそうに見えるものの、笑いの輪の中で自分が浮いてしまうのではないかという恐怖もあった。それでも千秋と一緒なら大丈夫だろうと思った。
部室の扉を開けた瞬間、雑談や笑い声が渦のように押し寄せ、私の心をざわつかせた。沈黙を恐れるように、私は千秋の後ろにそっと立ち、声をかけられるまで微笑みを作る。
歓迎会とは名ばかりの飲み会に参加した私と千秋だったが、周囲の笑い声やグラスのぶつかる音が、どこか遠くに感じられた。
「優香、もっと飲もうよ」と千秋が軽やかに声をかける。私は一瞬、唇を開きかけるが、言葉は喉の奥で止まった。口の中に炭酸の苦みが残っていて、思わず舌先でぐっと押し流す。目の前でグラスを重ねる手元や、笑顔を交わす先輩たちの動きは、生き生きとしすぎて、まぶしくて、少し怖かった。
夜の空気は冷えているはずなのに、鼻腔にこびりつく酸っぱい匂いだけが生暖かく、現実の輪郭をねばつかせている。路地の奥で換気扇が唸り、どこかのグラスが触れ合う乾いた音がした。さっきまで笑っていたはずの街の声が、急に遠い。
喉元までせり上がったものを、私は嚥下する。
――この感覚には覚えがあった。
ついさっきも、私は同じものを味わっている。田吉海斗が、女に向けて微笑んだときだ。女は白いニットの袖を指先まで引き伸ばしながら、頬に落ちた髪を耳へかけた。左の耳たぶに、小さな金色の月が揺れていた。グラスを持つ爪は薄い桜色で、笑うたびに喉の奥で鈴のような音がした。
「やっぱ海斗は優しいな」
そういわれた田吉は困ったような、それでいて柔らかな、何の含みもないような笑みを女に向けた。私に向ける時よりも、わずかに深い笑みだった。グラスを持つ爪先は薄い桜色で、視線はまっすぐ、ためらいもなく彼女へ落ちていた。その一瞬、私の腹の奥で何かが跳ねた。
さっき裏路地で見たものと同じ、焼けつくような熱が、静かに、しかし確実に胃壁を這い上がってきたのだ。
あのときは笑い声と音楽に紛れてやり過ごせた。喉元まで込み上げたものを、炭酸で押し流し、曖昧な相槌で蓋をした。けれど今、酸っぱい匂いの立ちこめるこの路地で、私ははっきりと理解する。
あれは単なる生理的な嫌悪じゃない。吐き気に似ているくせに、吐き出せない感情だ。
田吉海斗の微笑みが、夜の底で何度も反芻される。女の頬に落ちた視線、わずかに緩んだ目尻。その細部が、私の内側をひっかく。
足元のそれを、私は見下ろす。どろりと広がった液体の中に、未消化のレモンの皮が混じっている。黄色が街灯を受けて鈍く光る。甘い酒と胃酸が混ざり、形を失った残骸。
さっき飲み込んだはずの熱が、またゆっくりと喉へせり上がってくる。私は唾を飲み込み、路地の奥を見つめた。換気扇の唸りがやけに長く、低く、続いている。
息を浅く止めたまま、嘔吐物へと歩み寄る。酸い匂いが一層濃くなり、目の奥がじんと痺れた。私は鞄から煙草とライターを取り出す。指先がわずかに震えているのがわかる。
火をつけたマルボロを、ひと口も吸わずに、その湿った塊へ放った。せめて何かを焦がしていなければ、私の内側だけが燃えてしまいそうだった。
先端の火が弧を描き、どろりとした表面に落ちる。パチ、と小さな音がした。湿気を含んだそれはすぐには燃え広がらず、赤い点だけがかすかに瞬く。パチ、パチ、と弱々しく弾ける音。
まるで「もうやめてくれ」と田吉がどこかで懇願しているみたいだ、と私は思う。
けれど、やめるつもりはない。
胸の奥でくすぶっているものと、足元で燻る火種とが、どこかで静かにつながっている。私は目を逸らさず、その赤い点が黒く潰れて消えゆくまで見届けた。
席に戻ると、勝又千秋が柔らかな笑みを浮かべて「優香、遅かったね」と声をかけてきた。私は曖昧に頷くだけで返し、目はテーブルの向こうにちらりと落とす。千秋はそれに気付くことなく、軽やかに話題を変え、周囲の笑い声に溶け込むように会話を進めていった。
大学に入って最初の頃、私はサークル活動にあまり積極的ではなかった。講義の合間に見かける楽しそうな先輩たちの笑顔は、遠くの光景のように感じられ、自分がその輪に入る想像はできなかった。けれど、千秋が「優香、一緒に行こうよ」と誘ってくれたとき、私は理由もなく頷いた。
「なんとなく……面白そうだから」と言うしかなかった。胸の奥に、漠然とした不安と期待が同居していた。楽しそうに見えるものの、笑いの輪の中で自分が浮いてしまうのではないかという恐怖もあった。それでも千秋と一緒なら大丈夫だろうと思った。
部室の扉を開けた瞬間、雑談や笑い声が渦のように押し寄せ、私の心をざわつかせた。沈黙を恐れるように、私は千秋の後ろにそっと立ち、声をかけられるまで微笑みを作る。
歓迎会とは名ばかりの飲み会に参加した私と千秋だったが、周囲の笑い声やグラスのぶつかる音が、どこか遠くに感じられた。
「優香、もっと飲もうよ」と千秋が軽やかに声をかける。私は一瞬、唇を開きかけるが、言葉は喉の奥で止まった。口の中に炭酸の苦みが残っていて、思わず舌先でぐっと押し流す。目の前でグラスを重ねる手元や、笑顔を交わす先輩たちの動きは、生き生きとしすぎて、まぶしくて、少し怖かった。

