陛下、普通に寝かせてください!~夢喰帝と空想寵妃~

「麗羊さま、ようやくあくびが収まりましたね」
「えっ……そ、そんなに気になるほどだった?」
 
 祥鈴の指摘にぎくりと麗羊が振り向くと、祥鈴はいつもの笑顔で無邪気に笑っていた。
 
「ここ最近はおひとりでおやすみでしたから。ぐっすりお眠りになれて良かったです!」
「……そうね」
 
 この数日間、麗羊にお召しはかかっていない。
 月の障りのせいである。
 その期間は帝に穢れを移してはいけないという決まりがあるため、麗羊は伯綺の寝所に入れない。
 もちろん岩了を通じて伯綺の耳には入れてある。
 こればかりは自然の摂理のため、伯綺は無理を通そうとはしなかった。
 麗羊の懐には伯綺からの文が忍ばせてある。
「休め」
 たったそれだけの文だ。しかし、伯綺なりの優しさがにじんでいた。
 これを渡してきた岩了に、伯綺への返事を書きたいと申し出た麗羊だったが「わたくしは伝書鳩ではありません」と突っぱねられてしまったことが悔やまれる。
 しかし、礼なら直接伝えればいい。障りが明ければまた伯綺に会えるのだから――そう思い直すと、憂鬱な期間も少しは前向きに過ごせる気がした。
 祥鈴の言う通り、ひとりで眠るのは久しぶりだった。夢も見ないほどに深く眠った翌朝は爽快感もあったが、それ以上に――
 
「麗羊さま、お寂しいんじゃありませんか?」
 
 気晴らしの散歩中のことだ。
 隣を歩く祥鈴のひとことに、麗羊の歩みが止まる。
 
「そう……ね。そうかも」
「麗羊さま、陛下っていつもどんな感じなんですか? 朝までぎゅーっと腕の中なんですか?」
「なっ……! は、はしたないわよ、祥鈴!」
「えへへ……すみません。でも気になって。他のお妃様に仕える子たちとお喋りしてると、どうしてもそういう話になるんです」
 
 頬を染める麗羊を見て、祥鈴はぺろりと舌を出す。
 
「夜の陛下をご存知なのは、麗羊さまだけでしょう?」
 
 麗羊の胸の奥に、ぽんと何かが芽を出した。
 鳥が羽ばたくようにざわめきながら、その双葉は好き勝手に生長して麗羊の胸を掻き乱す。
 
 伯綺は毎晩、麗羊を寝所に召す。
 そしてああいう夢が見たい、この夢の続きを見ろと無理難題を言い出す。
 それに応えられる時もあるし、もちろん外れる時のほうが多いのだが――朝になって、夢の批評をする伯綺は楽しそうだ。
 この表情を知っているのは、麗羊だけだ。
 その事実が、どうしようもなく麗羊の呼吸を浅くさせる。
 早く月の障りが終わって欲しい。早く伯綺に会いたい。
 自然と麗羊の足が速くなる。
 
「れ、麗羊さまっ! お待ちくださ……あ」
 
 後ろをぴょこぴょこと着いてきていた祥鈴が、妙な声を出した。
 麗羊も立ち止まる。
 渡り廊下の向こう側に――蘭瑛妃が佇んでいた。

「ご機嫌よう」
 
 猫なで声で挨拶され、麗羊は逃げ場を失った。端に避けて膝を着いて頭を下げる。
 
「蘭瑛妃には、ご機嫌麗しゅう」

 言葉少なに挨拶をした麗羊だが、蘭瑛妃は通り過ぎることなく麗羊を見下ろしたままだ。
 
「毎晩のお召し、お疲れ様」
 
 蘭瑛妃は控えていた侍女に振り向く。すると侍女は渡り廊下に沿って植えられていた牡丹の花を鋏で切り取った。
 それは蘭瑛妃の手を経て麗羊に渡される。
 
「……?」
 
 猫までけしかけてきた彼女の手のひら返しを訝しむも、ここで花を捨てる訳にもいかない。

「あなたを花に喩えるなら今が盛りかしら。美しい花が満開ね」
「……もったいないお言葉にございます」
「でもね……花は実を結んでこそよ?」
 
 歌うように口ずさんだ蘭瑛妃は、その軽やかな声色とは打って変わった視線で麗羊を貫いた。
 
「月の障りで下がっているのね。あんなに毎日お召しがあって情けないこと」
 
 麗羊は小さく唇を噛んだ。
 そう。妃の本来の役目は、皇帝の血を次代へ繋ぐこと。
 麗羊の求められかたが異質なのだ。
 しかし、それは伯綺の秘密を知っているからこそだ。そう思うことで麗羊は気持ちをしゃんと保とうとする。
 しかし、次に蘭瑛妃が言い放った言葉に、麗羊は耳を疑った。
 
「今夜からあなたの代わりに、わたくしが陛下の寝所に上がることになったのよ」
「……え?」
 
 礼儀を忘れ呆然とした顔を向けた麗羊を叱責せずに、蘭瑛妃は得意げに語り出す。
 
「陛下は今まで寝所に妃を呼ばなかったけれど、あなたが前例を破ってくれたおかげ。重臣たる父がそこをうまく突いて頼んでくれたの」
 
 にたりと歪んだ笑顔を直視できない。
 耳鳴りがするが、蘭瑛妃の言葉だけは嫌になるほどはっきり聞き取れていた。
 
「毎晩あなたを呼んでいたのに、いきなりの独り寝だもの。きっとお寂しいのね。だからわたくしがお慰めするのよ」

「へ、陛下は……」

 それを是としたのか。
 問いただしたいのに、言葉が喉に張りついて出てこない。
 もし肯定されたならこの場で失神しそうだった。
 
「心配しないで。わたくしが身ごもっても、あなたを後宮から追い出すなんてしないわ。わたくし付きの侍女として雇ってあげる」

 うふふ、と耳につく甘い笑い声が、麗羊の頭の中でぐるぐると渦を巻く。
 とっさに口元を抑えた麗羊の背中に祥鈴が手を添えた。
 
「あら、ご気分が悪いの? 重い方なのかしら。ゆっくりと養生しなさい」

 蘭瑛妃は蹲る麗羊の横を、軽やかな足取りで通り過ぎていく。
 後ろに続く侍女たちの蔑みの視線を感じて、麗羊はきつく目を閉じた。
 
「麗羊さまっ、お部屋に戻りましょう。すぐに床を整えます。とにかくお休みください」

 祥鈴に支えられて麗羊はなんとか立ち上がる。
 
 その夜、麗羊の浅い眠りは、悪夢で何度も断ち切られた。

 *
 
 「う……あ、いや、ああっ」
 
 がばりと跳ね起きた麗羊の背中を、冷たい汗が伝った。
 全身にぐっしょりと寝汗をかいている。
 はあはあと荒い呼吸を繰り返しながらも、耳をそばだたてて隣の部屋で休んでいる祥鈴の気配を窺う。
 起きてこないところを見るに、麗羊が魘されていたことは気づかれていないようだ。
 それを不幸中の幸いとして、麗羊は夜着の替えを取りに寝台から下りた。
 
 ここ数日――蘭瑛妃からあのことを聞かされて以来、麗羊は毎晩悪夢に苛まれている。
 夢の内容は同じ。伯綺のそばに蘭瑛妃がいる。
 ふたりの影が重なる情景ばかりを目の当たりにして、麗羊の心は痛いほどに乱れ、引き裂かれている。
 
「こんな夢……伯綺様に召し上がっていただけない」
 
 汗を拭っていた手拭いに、涙がひと粒落ちる。
 麗羊が伯綺に求められているのは、一風変わった夢を見たからだ。
 非現実的で馬鹿馬鹿しくも力の抜ける空想の世界に、物珍しさから麗羊を召したのだとわかっている。
 しかし今、麗羊は伯綺が見飽きた悪夢ばかりしか見られない。こんな夢ばかり見る自分を伯綺が傍に置くとは思えない。
 求められているのは自分ではない。夢なのだ。
 あの蘭瑛妃とて伯綺の求める夢を献上できるのなら、伯綺の寵愛を受ける可能性はあるのだ。
 
「……いや、いや……!」
 
 麗羊は手拭いで顔を覆い、いやいやと首を振る。
 息が苦しい。
 胸が痛い。
 手拭いには涙の痕が残っているというのに、今の麗羊にはそれを何に喩えることもできなかった。
 
「猫ちゃんにも……何にも見えない。ただの染みだ……」
 
 ほたりと落ちた大粒の涙が、影色に手拭いを染める。
 麗羊は何も見たくないとこぼし、もう一度顔を覆った。