「ほ、本当に皇帝陛下だったのですね……」
その夜。自室と比べるのもおこがましいほどに広々とした美しい部屋の壁に張りついたまま、麗羊は素直な感想を口にした。
視線の先には寝着姿で寝台に腰掛け、くつろぐ伯綺帝がいる。
「嘘はつかんぞ。この通りそなたを召しただろう」
「い、いえ、そこを疑っていたわけでは……」
もにょもにょと口篭りながら、麗羊は現在に至るまでの数時間を思い返していた。
あの後、部屋に戻るとほぼ同時に皇帝陛下直属の使いからお召の文が届き、祥鈴は失神しかけた。事前に伯綺本人から知らされていた麗羊まであてられてしまったほどである。
「そなた、使いの宦官が化生の者かとまで言ったらしいな。説得に骨が折れたと困り果てていたぞ」
「い、いえそこまででは……夢なら覚めて欲しかったので、思い切り引っぱたいてくれと頼みましたが」
真顔で訂正した麗羊に、伯綺は干そうとしていた杯を置いて噴き出した。
狂喜乱舞する妃なら掃いて捨てるほど見てきた使いも、麗羊の反応には手を焼いたらしい。
くっくっと喉の奥で笑いながら、伯綺は改めて壁から動かない麗羊に目をやった。
平凡な顔立ちの、小柄な娘だ。うすく粉をはたいて紅を差しているが、むせ返るおしろいの匂いはない。
「この甘さは……蜜か。花ではないな、菓子か?」
「え?」
「いいやなんでも。それより麗羊、そなたいつまでそこにいる」
伯綺は己の隣をぽんと叩く。ここに来いという合図なのは明らかだった。
「え、あ、あの、わた、わたくしは」
「立ったまま眠れるならそこにいてもいいが、そうでないのなら――」
そこで伯綺は言葉を切った。静かに手のひらを麗羊へと差し出す。
「おいで」
「……っ!」
甘くとろけるような低音。
優しげでありつつも、有無を言わせぬ引力が声に宿っている。
人の上に立つものの――帝の、声色だ。
麗羊は夜着の前をきゅっと掴んで立ち尽くす。
このまま踏み出せば、すべてを帝に捧げることになるのだ。
父の言うがままに入宮した麗羊は、日々の務めを果たすことで帝に仕える暮らしをしているつもりだった。
しかし当然ながら、それは宮女でもできること。
妃として本来の役目が、眼前に迫っている。
唇を引き結んで動けなくなった麗羊を見て、伯綺は静かに腰を上げた。
「なるほど? 姫君は迎えが必要というわけだ」
麗羊の自室よりうんと広い部屋も、伯綺の足ならば数歩でたやすく横切れる。呆気にとられる麗羊の前に立った伯綺はわずかに身をかがめ、麗羊の足を軽く掬った。
「きゃあ!」
「お預けはもううんざりだと言っただろう」
横抱きにされた、と認識する頃には麗羊の体は寝台に横たえられていた。耳元で音がぎしりと鳴ったのは、伯綺も乗り上げてきたからである。
「へ、陛下っ! お待ちくださ」
「待ては聞かん。麗羊――喰わせろ」
ひやりと冷たい伯綺の手が麗羊のまぶたを覆う。
暗くなる視界に混乱は頂点を極めた――と、思ったのだが。
「……へ?」
何やらごそごそと乾いた音がする。
寝具の音か、と思った次には、麗羊の体はあたたかな布団にすっぽり包まれていた。
とろけそうな手触りの夜着とあいまって、緊張をゆるゆるとほぐそうとしてくる合わせ技だ。
「……陛下?」
目を塞がれたまま問えば、伯綺の手が布団の上から麗羊の胸元をぽんぽんと軽く叩いた。
「なんだ、子守唄がないと眠れないのか。吾の美声は高くつくぞ」
「い、いえ、そうではなく。その……おつとめ、は」
「だからさっさと寝ろ。夢を見ろ。ただの夢ではないぞ、昼間見ていた変幻自在な月餅の夢だ」
「あ、あの、お待ちください」
じたばたともがく麗羊に、伯綺は渋々瞼を覆う手を外してやる。
「陛下がご所望なのは…………もしや、夢……なのですか?」
口にしながらも、麗羊は自分が口走っていることの荒唐無稽さが信じられない。
だが、伯綺は形の良い眉を少しつりあげてから頷いた。
「初めからそう言っている。吾は、そなたの夢を喰いたい」
夢を喰らう。
聞き違いではない。
確かに、帝――伯綺はそう言ったのだ。
麗羊がぽかんと見上げていると、苦笑した伯綺は覆いかぶさるのをやめて、隣にごろんと寝転がる。肘を枕代わりにするとぽつりぽつりと話し始めた。
「こんなおとぎ話を聞いたことはないか? “この国は、神仙が夢の中でこしらえたものだ“」
「……ええ。だから神仙の夢を壊さぬよう、刻苦勉励することが誉れであると……習いました」
「うん、道徳めいた落ちがついているが大枠は合っている。だがな、夢は儚い。苛烈な悪夢とて、永遠に覚えてはいないだろう」
「そうですね。覚えていたと思ってもいつのまにか忘れてしまって……」
「それはな、吾の――獏の仕業なのだ」
声を落とした伯綺が、内緒話をするように顔を近づけた。
その近さはもとより、語られた内容に麗羊はうろたえる。
「ば、獏? 夢を喰べる、あの獏ですか?」
麗羊も獏のことは知っている。
悪夢を喰べる伝説の生き物だ。もちろん実在は信じていない。
「そうだ。あのおとぎ話には続きがある。儚き夢でできた国を護るため、神仙は獏に命じた。国を脅かす悪夢をすべて喰らい尽くせ、とな」
そう語る伯綺の表情は、燭台の朧げな灯りの下でわかるほどに真剣なものだった。
昼間、麗羊をからかって詰め寄っていた時の悪戯めいた笑みはどこにもない。
「悪夢を放っておけば形をなし、国を蝕む。だから獏はこの国を護るのだ。姿を変えてひとと交わり、血を繋いで悪夢を喰らい続ける。昼間は皇帝として国を統べ、夜は獏として国を護る――なんと忙しいことだろうな?」
ふ、と燈明かりが揺れる。その一瞬、伯綺の瞳が蒼白く光った。
「で、では皇帝陛下は……獏、なのですか」
「お、理解が早いな。今度は夢なら覚めろと言わんのか」
皮肉交じりに口の端だけを上げた伯綺に、麗羊は頭を抱えながらも懸命に考えをまとめる。
「誠に皇帝陛下なら、こんなに壮大な嘘を持ち出さずとも……私ひとり、どうにでもなるではないですか。ですが――どうして?」
「ん?」
「獏が喰べるのは……悪夢。なぜ私の夢を……悪夢ではない、子どもじみた月餅の夢など、ご所望なのですか?」
混乱しどおしの頭から絞り出した自覚はあったが、麗羊の問いは伯綺が語ってきた話の矛盾を突いた。
獏は悪夢を喰べる。
麗羊が思いつく悪夢といえば、天災や悲劇、永遠の別離といった絶望だ。
しかし、麗羊の夢は悪夢と呼ぶには平和過ぎる。
飛び跳ねるたび餡が変わる月餅の夢など、どう考えても悪夢ではない。
余程、皇帝陛下が無類の月餅好きで、古今東西の月餅を喰べ尽くすことこそ至上と説明されれば納得するのだが――どうやら、そうではない。
「悪夢を食べたことはあるか?」
「……ないです」
「だろうな。悪夢はいいぞ。あのぴりりとした舌触り、鼻に抜けるような辛さ。苦味を噛み締め、口の中ではじけた時など生きているという実感が湧く」
「そ、そういうものですか……」
突然熱く語り出されて困惑する麗羊だが、そのぼんやりした相槌で充分とばかりに伯綺は好き勝手に話を続ける。
「神仙に押しつけられた役目――などと被害者ぶるつもりはない。こちらも好きでやっている。悪夢を喰うにはまず人間を増やさねば。だからまつりごとにも励むし、後宮だって広くした。人が集えばそこに刺激が生まれ、感情が湧く。何が悪夢の芽となるかわからんからな。だがそれがいい」
「そ、それで後宮を……!?」
近年稀なる賢帝と称えられている皇帝陛下に、まさかこんな自己本位な目論見があろうとは。
麗羊の中で、憧れの皇帝の横顔がガラガラと音を立てて崩れていく。
しかし、崩れていくのは思い出だけではなかった。目の前の伯綺のなめらかな話しぶりにもヒビが入る。
「だがな、あれは失敗だった」
「失敗?」
「質が落ちた。最近の悪夢は不味い」
くあ、とつまらなそうに欠伸をした伯綺は眉を寄せた。
「同じ場所で暮らしているせいか? 似たり寄ったりなものばかりだ。陥れたり仕返しされたり……妬み嫉みばかりで面白みがない。風通しを良くするために大量解雇でもしようかと思ったが、悪夢が現実になったら本末転倒だからやめた。喰えない悪夢に意味はない」
夢見が悪いから枕を変えてみようか、と同じ調子でとんでもないことを言い出した伯綺に麗羊は青ざめる。
この男、悪夢のためなら突拍子のないことを成せる権力を持っているのだ。
今回の後宮拡張も、たまたま雇用を創出し、良い方向に向かっているだけにすぎない。
胸の前で手を合わせてきゅっと縮こまっている麗羊を見て、伯綺はその鼻の頭をつんとつついた。
「そこに飛び込んできたのが、そなたの夢だったのだよ」
「は……」
一転してきらめいた瞳。麗羊は瞬きを繰り返す。
「生き馬の目を抜く後宮で、のほほんと月餅を追いかける夢など見たことはない。素っ頓狂なことこの上ない!」
「そ、それは……ありがとうございます?」
「悪夢を糧としてきたが、ここらで宗旨替えも悪くない。不味い悪夢をもそもそ食むのも飽きた。というわけで――寝ろ」
すべての話は結局そこに着地した。
何もわからぬまま寝台に寝かされた時よりかは麗羊も落ち着いているものの、やはり不安は残る。
「あ、あのっ」
「なんだ、まだあるのか」
「……ご所望どおりの夢が見られるか、わからないのですが」
顎の下まで掛け布団を引っ張りながら問えば、伯綺は目をすうと細めた。
「まだ手数をかけさせるようなら、本当に夜伽の相手をしてもらおうか」
「ふ、普通に寝かせてください!」
「ならさっさと寝ろ」
「おやすみなさいませ!」
即座に麗羊は布団を頭から被った。
芋虫のように潜り込んだので頭頂部しか見えなくなる。
伯綺は小さく息をつくと、布団を軽くぽんと叩いた。
「おやすみ」
それきり、ふたりの間に会話はないまま夜は更けていった。
その夜。自室と比べるのもおこがましいほどに広々とした美しい部屋の壁に張りついたまま、麗羊は素直な感想を口にした。
視線の先には寝着姿で寝台に腰掛け、くつろぐ伯綺帝がいる。
「嘘はつかんぞ。この通りそなたを召しただろう」
「い、いえ、そこを疑っていたわけでは……」
もにょもにょと口篭りながら、麗羊は現在に至るまでの数時間を思い返していた。
あの後、部屋に戻るとほぼ同時に皇帝陛下直属の使いからお召の文が届き、祥鈴は失神しかけた。事前に伯綺本人から知らされていた麗羊まであてられてしまったほどである。
「そなた、使いの宦官が化生の者かとまで言ったらしいな。説得に骨が折れたと困り果てていたぞ」
「い、いえそこまででは……夢なら覚めて欲しかったので、思い切り引っぱたいてくれと頼みましたが」
真顔で訂正した麗羊に、伯綺は干そうとしていた杯を置いて噴き出した。
狂喜乱舞する妃なら掃いて捨てるほど見てきた使いも、麗羊の反応には手を焼いたらしい。
くっくっと喉の奥で笑いながら、伯綺は改めて壁から動かない麗羊に目をやった。
平凡な顔立ちの、小柄な娘だ。うすく粉をはたいて紅を差しているが、むせ返るおしろいの匂いはない。
「この甘さは……蜜か。花ではないな、菓子か?」
「え?」
「いいやなんでも。それより麗羊、そなたいつまでそこにいる」
伯綺は己の隣をぽんと叩く。ここに来いという合図なのは明らかだった。
「え、あ、あの、わた、わたくしは」
「立ったまま眠れるならそこにいてもいいが、そうでないのなら――」
そこで伯綺は言葉を切った。静かに手のひらを麗羊へと差し出す。
「おいで」
「……っ!」
甘くとろけるような低音。
優しげでありつつも、有無を言わせぬ引力が声に宿っている。
人の上に立つものの――帝の、声色だ。
麗羊は夜着の前をきゅっと掴んで立ち尽くす。
このまま踏み出せば、すべてを帝に捧げることになるのだ。
父の言うがままに入宮した麗羊は、日々の務めを果たすことで帝に仕える暮らしをしているつもりだった。
しかし当然ながら、それは宮女でもできること。
妃として本来の役目が、眼前に迫っている。
唇を引き結んで動けなくなった麗羊を見て、伯綺は静かに腰を上げた。
「なるほど? 姫君は迎えが必要というわけだ」
麗羊の自室よりうんと広い部屋も、伯綺の足ならば数歩でたやすく横切れる。呆気にとられる麗羊の前に立った伯綺はわずかに身をかがめ、麗羊の足を軽く掬った。
「きゃあ!」
「お預けはもううんざりだと言っただろう」
横抱きにされた、と認識する頃には麗羊の体は寝台に横たえられていた。耳元で音がぎしりと鳴ったのは、伯綺も乗り上げてきたからである。
「へ、陛下っ! お待ちくださ」
「待ては聞かん。麗羊――喰わせろ」
ひやりと冷たい伯綺の手が麗羊のまぶたを覆う。
暗くなる視界に混乱は頂点を極めた――と、思ったのだが。
「……へ?」
何やらごそごそと乾いた音がする。
寝具の音か、と思った次には、麗羊の体はあたたかな布団にすっぽり包まれていた。
とろけそうな手触りの夜着とあいまって、緊張をゆるゆるとほぐそうとしてくる合わせ技だ。
「……陛下?」
目を塞がれたまま問えば、伯綺の手が布団の上から麗羊の胸元をぽんぽんと軽く叩いた。
「なんだ、子守唄がないと眠れないのか。吾の美声は高くつくぞ」
「い、いえ、そうではなく。その……おつとめ、は」
「だからさっさと寝ろ。夢を見ろ。ただの夢ではないぞ、昼間見ていた変幻自在な月餅の夢だ」
「あ、あの、お待ちください」
じたばたともがく麗羊に、伯綺は渋々瞼を覆う手を外してやる。
「陛下がご所望なのは…………もしや、夢……なのですか?」
口にしながらも、麗羊は自分が口走っていることの荒唐無稽さが信じられない。
だが、伯綺は形の良い眉を少しつりあげてから頷いた。
「初めからそう言っている。吾は、そなたの夢を喰いたい」
夢を喰らう。
聞き違いではない。
確かに、帝――伯綺はそう言ったのだ。
麗羊がぽかんと見上げていると、苦笑した伯綺は覆いかぶさるのをやめて、隣にごろんと寝転がる。肘を枕代わりにするとぽつりぽつりと話し始めた。
「こんなおとぎ話を聞いたことはないか? “この国は、神仙が夢の中でこしらえたものだ“」
「……ええ。だから神仙の夢を壊さぬよう、刻苦勉励することが誉れであると……習いました」
「うん、道徳めいた落ちがついているが大枠は合っている。だがな、夢は儚い。苛烈な悪夢とて、永遠に覚えてはいないだろう」
「そうですね。覚えていたと思ってもいつのまにか忘れてしまって……」
「それはな、吾の――獏の仕業なのだ」
声を落とした伯綺が、内緒話をするように顔を近づけた。
その近さはもとより、語られた内容に麗羊はうろたえる。
「ば、獏? 夢を喰べる、あの獏ですか?」
麗羊も獏のことは知っている。
悪夢を喰べる伝説の生き物だ。もちろん実在は信じていない。
「そうだ。あのおとぎ話には続きがある。儚き夢でできた国を護るため、神仙は獏に命じた。国を脅かす悪夢をすべて喰らい尽くせ、とな」
そう語る伯綺の表情は、燭台の朧げな灯りの下でわかるほどに真剣なものだった。
昼間、麗羊をからかって詰め寄っていた時の悪戯めいた笑みはどこにもない。
「悪夢を放っておけば形をなし、国を蝕む。だから獏はこの国を護るのだ。姿を変えてひとと交わり、血を繋いで悪夢を喰らい続ける。昼間は皇帝として国を統べ、夜は獏として国を護る――なんと忙しいことだろうな?」
ふ、と燈明かりが揺れる。その一瞬、伯綺の瞳が蒼白く光った。
「で、では皇帝陛下は……獏、なのですか」
「お、理解が早いな。今度は夢なら覚めろと言わんのか」
皮肉交じりに口の端だけを上げた伯綺に、麗羊は頭を抱えながらも懸命に考えをまとめる。
「誠に皇帝陛下なら、こんなに壮大な嘘を持ち出さずとも……私ひとり、どうにでもなるではないですか。ですが――どうして?」
「ん?」
「獏が喰べるのは……悪夢。なぜ私の夢を……悪夢ではない、子どもじみた月餅の夢など、ご所望なのですか?」
混乱しどおしの頭から絞り出した自覚はあったが、麗羊の問いは伯綺が語ってきた話の矛盾を突いた。
獏は悪夢を喰べる。
麗羊が思いつく悪夢といえば、天災や悲劇、永遠の別離といった絶望だ。
しかし、麗羊の夢は悪夢と呼ぶには平和過ぎる。
飛び跳ねるたび餡が変わる月餅の夢など、どう考えても悪夢ではない。
余程、皇帝陛下が無類の月餅好きで、古今東西の月餅を喰べ尽くすことこそ至上と説明されれば納得するのだが――どうやら、そうではない。
「悪夢を食べたことはあるか?」
「……ないです」
「だろうな。悪夢はいいぞ。あのぴりりとした舌触り、鼻に抜けるような辛さ。苦味を噛み締め、口の中ではじけた時など生きているという実感が湧く」
「そ、そういうものですか……」
突然熱く語り出されて困惑する麗羊だが、そのぼんやりした相槌で充分とばかりに伯綺は好き勝手に話を続ける。
「神仙に押しつけられた役目――などと被害者ぶるつもりはない。こちらも好きでやっている。悪夢を喰うにはまず人間を増やさねば。だからまつりごとにも励むし、後宮だって広くした。人が集えばそこに刺激が生まれ、感情が湧く。何が悪夢の芽となるかわからんからな。だがそれがいい」
「そ、それで後宮を……!?」
近年稀なる賢帝と称えられている皇帝陛下に、まさかこんな自己本位な目論見があろうとは。
麗羊の中で、憧れの皇帝の横顔がガラガラと音を立てて崩れていく。
しかし、崩れていくのは思い出だけではなかった。目の前の伯綺のなめらかな話しぶりにもヒビが入る。
「だがな、あれは失敗だった」
「失敗?」
「質が落ちた。最近の悪夢は不味い」
くあ、とつまらなそうに欠伸をした伯綺は眉を寄せた。
「同じ場所で暮らしているせいか? 似たり寄ったりなものばかりだ。陥れたり仕返しされたり……妬み嫉みばかりで面白みがない。風通しを良くするために大量解雇でもしようかと思ったが、悪夢が現実になったら本末転倒だからやめた。喰えない悪夢に意味はない」
夢見が悪いから枕を変えてみようか、と同じ調子でとんでもないことを言い出した伯綺に麗羊は青ざめる。
この男、悪夢のためなら突拍子のないことを成せる権力を持っているのだ。
今回の後宮拡張も、たまたま雇用を創出し、良い方向に向かっているだけにすぎない。
胸の前で手を合わせてきゅっと縮こまっている麗羊を見て、伯綺はその鼻の頭をつんとつついた。
「そこに飛び込んできたのが、そなたの夢だったのだよ」
「は……」
一転してきらめいた瞳。麗羊は瞬きを繰り返す。
「生き馬の目を抜く後宮で、のほほんと月餅を追いかける夢など見たことはない。素っ頓狂なことこの上ない!」
「そ、それは……ありがとうございます?」
「悪夢を糧としてきたが、ここらで宗旨替えも悪くない。不味い悪夢をもそもそ食むのも飽きた。というわけで――寝ろ」
すべての話は結局そこに着地した。
何もわからぬまま寝台に寝かされた時よりかは麗羊も落ち着いているものの、やはり不安は残る。
「あ、あのっ」
「なんだ、まだあるのか」
「……ご所望どおりの夢が見られるか、わからないのですが」
顎の下まで掛け布団を引っ張りながら問えば、伯綺は目をすうと細めた。
「まだ手数をかけさせるようなら、本当に夜伽の相手をしてもらおうか」
「ふ、普通に寝かせてください!」
「ならさっさと寝ろ」
「おやすみなさいませ!」
即座に麗羊は布団を頭から被った。
芋虫のように潜り込んだので頭頂部しか見えなくなる。
伯綺は小さく息をつくと、布団を軽くぽんと叩いた。
「おやすみ」
それきり、ふたりの間に会話はないまま夜は更けていった。



