夢とうつつの狭間で、麗羊は跳ねる月餅を追いかけている。
「待って、向こうには虎のように大きな猫がいるの。あなたなんてひとくちで丸呑みされちゃうんだから」
ぶにゃあ、と濁声で喉を鳴らす牡丹が大きな口を開けて待ち構えている。
しかし月餅は止まらない。鞠のように跳ねるたび、月餅から花びらがこぼれて餡に変わる。
「待って待って、これじゃ食べる前に潰れちゃう」
麗羊は必死に足を進めるものの、月餅は空高く跳ね上がる。
天を跳ね飛ばすほどに高い。
勢いのついた月餅は月を押しのけ天に張りつくと、自分が月になってしまった。
「ああ!」
立ち尽くして悲鳴を上げた麗羊がすっぽり影に覆われる。
月が落ちてくる。その顔は牡丹だ。
「いやあああっ」
どしん、と体が潰された。
重い。
息ができない。
頬のあたりを草がかすめてこそばゆい。
ぶんぶんと顔を横に振って身を捩るうちに、夢を見ていたのだと気がついた。
ぐん、と何者かに引き上げられるように意識が浮上する。慌てて目を開けた先には――
「おい、ここまできてお預けか!?」
「…………え?」
見たことのない男が、麗羊に覆いかぶさっていた。
「え、ではない。夢の続きを今すぐ見せよ」
「ゆ、ゆめ、の?」
「跳ね回る月餅だ。花びらの餡をまき散らすのは考えものだがな。見た目はともかく喰べにくい。そのあたりを考えてから再度見せろ。跳ねるたびに餡が変わるのだろう? 月になる前に献上すれば許してやる」
麗羊が一を言うと十や二十になって返ってくる。
夢から覚めたばかりの麗羊には、花を纏った月が人のかたちを取っているとしか思えなかった。
それほどまでに美しい男だったのだ。
夜空のきらめきを映しとったように輝く黒髪。
きりりとした眉の下には、玻璃のごとくきらめく蒼白い瞳。
麗羊の顔の横についている腕がたくましくなければ、中性的な面差しの妃と思ったかもしれない。
しかし、彼は紛うことなき男性であった。
ばっと大きな手のひらで両のまぶたが覆われる。
「きゃっ」
突然真っ暗になった視界に麗羊が悲鳴を上げると、男の声が耳元に響いた。
「さ、眠れ」
「ね……!?」
しっとりした声色が耳たぶをくすぐる。麗羊は息を呑んだ。
「人は暗くなれば寝る。そなた、今は明るいのに寝ていたではないか。なら暗くすれば一発だろう。さあ寝ろ。眠れ、夢を見ろ」
最後の方は歌うように節をつけて、低く囁かれる。
そう眠れと命令されても、この状態で、はいかしこまりましたとなるはずがない。
「ど、どなたですか」
「そんなことはどうでもいい。あの月餅を喰わせろ。あんな珍妙な菓子は初めて見た」
「ゆ、夢の中ですよ?」
会話しているうちに、夢を見ていた麗羊ですらどんな夢だったか記憶が儚くなっていく。それをこの男は目に焼きついているように語るのだ。
「そうだ、夢だ。だからこそ、そなただけに独り占めさせるには惜しい」
「夢に出ていたものでお腹は膨れません」
「膨れるさ。吾ならば、な」
喉の奥で男が笑う。視界が閉ざされている麗羊にもその気配は感じ取れた。
低く空気を揺らす声。
乱暴なようでいて、どこか伸びやかで品のある色香をまとった声。
麗羊の体がぴくりと動き、固くなった。
その様に男はやれやれとため息をつきながら、麗羊のまぶたから手を離す。
「覚醒してしまったか。これではお預けではないか」
急に射し込んできた光に目がくらんだ。
麗羊は目を細めるが、男の顔は逆光になっていてはっきりと見えない。
「あ、あの……」
このまま起き上がっては、覆いかぶさっている男と頭がぶつかってしまう。
その胸板に触れるぎりぎりのあたりまで手を上げて押し返す仕草をしているが、男が起き上がる気配はない。麗羊が意のままにならなかった意趣返しなのだろうか。
「そなた、名は」
「え」
「名を名乗れ」
「あ、あなた様こそいったいどなたなのですか! この傍若無人ななさりよう、帝にしか許されぬような――」
そこまで口にした麗羊は、はたと口を噤んだ。
まさか。
宦官と呼ぶには逞しい体。
低く、品のある艶めいた声。
遥か昔、遠くから見かけたきりの凛々しい横顔と、眼前の不敵な笑みが二重写しになる。
「っ、こ、皇帝、へい――」
わなわなと震えた唇がその形に動く。
麗羊が言い当てた通りの位に就く男は、はらりと垂れた前髪を手のひらで乱雑に掻きあげた。
「自分で正解にたどり着いたか。そうだな、我が名は伯綺。この国を統べる者だ」
麗羊の瞳が月餅よりもまん丸に見開かれる。それを愉快そうに眺めた伯綺は、再び麗羊に名を問うた。
「それで、吾にお預けを食らわせた勇敢なる姫君の名は何という?」
「……れ、れれ、麗羊に、ございます」
今度ばかりは麗羊も従わざるを得なかった。もつれる舌を必死に動かし名を名乗る。たった四文字の己の名が、呪文のように長く感じた。
「……ふうん? レイヨウ。そう。麗羊か」
伯綺は口の中でその響きを確かめるように、幾度か麗羊の名を繰り返し呼ぶ。
そのたびに麗羊は耳に火がついた心持ちだったが、満足して軽く頷いた伯綺が麗羊の顎を鷲掴みにしたものだから、耳どころではなく顔じゅうが燃え上がった。
「今宵、そなたを召す。支度をしておけ。忘れたなどとは言わせぬからな」
突然の宣言。
麗羊の脳内は針を刺された水風船のように乱れて、支離滅裂な思考の飛沫を撒き散らす。
召す、とは寝所にだ。
つまり、妃としての務めを果たせ、と。
自分が、夜伽を?
それ以上は想像できなかった。麗羊はとっさに固く目をつぶって顔を覆う。
「どうした。吾の顔は見ていられぬほど恐ろしいか」
麗羊はぶんぶんと激しく首を振って否定する。幼子のようにむずがる仕草だが、そんなことを気にしている余裕はない。
「お、恐れ多くて、陛下のご尊顔を拝するなどとっ」
絞り出した建前を悲鳴混じりに訴えるが、伯綺は興味が無さそうに聞き流した。
「そうかそうか、恐れ多いか」
ふ、と吐息が笑う。
掴まれたままの顎が羽根のように優しく撫でられ、掬い上げるように持ち上げられる。
今までの強引さから一転した、壊れ物を扱うような仕草に、麗羊はそっと手をどけた。
「……っ、ん!?」
唇に、火が灯されたようだった。
眼前に見えるものが、何かわからぬほどの近さ。
男の――伯綺の唇が、麗羊のそれに重ねられている。
触れるだけの、淡いくちづけ。
しかし、麗羊から呼吸を奪うには充分だった。
硬直しきった麗羊をからかうように、唇はそっと戯れに動く。
輪郭をなぞる動きがこそばゆく、麗羊はふっと息を漏らした。
「……っ、っく」
妙な間合いで呼吸をしたせいで、喉の奥で酸素が乱れた。
咳き込んだ麗羊に、伯綺はようやく唇を離す。
その直前、ついばむように上唇を吸っていくのを忘れないあたりが、余計に麗羊の呼吸を乱していった。
「月餅娘にくちづけは早かったかな」
「っ、お、おたわむれ……なさらないで、くださ」
けほけほと咳き込む麗羊の腕を引いて上体を起こしてやった伯綺は、もう一度麗羊の顎を捉えて自分のほうへと向かせる。
ぎくりと強ばった体をゆるやかにほどくように、口元を緩ませた。
「まなこに映すのが恐れ多いなら、その唇で覚えておけ」
伯綺は麗羊の唇をすうとなぞると、潔く立ち上がった。
「ひとまずはお預けも良し。今宵、ゆっくりそなたを味わうとしよう」
思わせぶりな言葉ひとつ残して、伯綺は庭院に消える。
残された麗羊はすっかり腰が抜けてしまっていた。
「待って、向こうには虎のように大きな猫がいるの。あなたなんてひとくちで丸呑みされちゃうんだから」
ぶにゃあ、と濁声で喉を鳴らす牡丹が大きな口を開けて待ち構えている。
しかし月餅は止まらない。鞠のように跳ねるたび、月餅から花びらがこぼれて餡に変わる。
「待って待って、これじゃ食べる前に潰れちゃう」
麗羊は必死に足を進めるものの、月餅は空高く跳ね上がる。
天を跳ね飛ばすほどに高い。
勢いのついた月餅は月を押しのけ天に張りつくと、自分が月になってしまった。
「ああ!」
立ち尽くして悲鳴を上げた麗羊がすっぽり影に覆われる。
月が落ちてくる。その顔は牡丹だ。
「いやあああっ」
どしん、と体が潰された。
重い。
息ができない。
頬のあたりを草がかすめてこそばゆい。
ぶんぶんと顔を横に振って身を捩るうちに、夢を見ていたのだと気がついた。
ぐん、と何者かに引き上げられるように意識が浮上する。慌てて目を開けた先には――
「おい、ここまできてお預けか!?」
「…………え?」
見たことのない男が、麗羊に覆いかぶさっていた。
「え、ではない。夢の続きを今すぐ見せよ」
「ゆ、ゆめ、の?」
「跳ね回る月餅だ。花びらの餡をまき散らすのは考えものだがな。見た目はともかく喰べにくい。そのあたりを考えてから再度見せろ。跳ねるたびに餡が変わるのだろう? 月になる前に献上すれば許してやる」
麗羊が一を言うと十や二十になって返ってくる。
夢から覚めたばかりの麗羊には、花を纏った月が人のかたちを取っているとしか思えなかった。
それほどまでに美しい男だったのだ。
夜空のきらめきを映しとったように輝く黒髪。
きりりとした眉の下には、玻璃のごとくきらめく蒼白い瞳。
麗羊の顔の横についている腕がたくましくなければ、中性的な面差しの妃と思ったかもしれない。
しかし、彼は紛うことなき男性であった。
ばっと大きな手のひらで両のまぶたが覆われる。
「きゃっ」
突然真っ暗になった視界に麗羊が悲鳴を上げると、男の声が耳元に響いた。
「さ、眠れ」
「ね……!?」
しっとりした声色が耳たぶをくすぐる。麗羊は息を呑んだ。
「人は暗くなれば寝る。そなた、今は明るいのに寝ていたではないか。なら暗くすれば一発だろう。さあ寝ろ。眠れ、夢を見ろ」
最後の方は歌うように節をつけて、低く囁かれる。
そう眠れと命令されても、この状態で、はいかしこまりましたとなるはずがない。
「ど、どなたですか」
「そんなことはどうでもいい。あの月餅を喰わせろ。あんな珍妙な菓子は初めて見た」
「ゆ、夢の中ですよ?」
会話しているうちに、夢を見ていた麗羊ですらどんな夢だったか記憶が儚くなっていく。それをこの男は目に焼きついているように語るのだ。
「そうだ、夢だ。だからこそ、そなただけに独り占めさせるには惜しい」
「夢に出ていたものでお腹は膨れません」
「膨れるさ。吾ならば、な」
喉の奥で男が笑う。視界が閉ざされている麗羊にもその気配は感じ取れた。
低く空気を揺らす声。
乱暴なようでいて、どこか伸びやかで品のある色香をまとった声。
麗羊の体がぴくりと動き、固くなった。
その様に男はやれやれとため息をつきながら、麗羊のまぶたから手を離す。
「覚醒してしまったか。これではお預けではないか」
急に射し込んできた光に目がくらんだ。
麗羊は目を細めるが、男の顔は逆光になっていてはっきりと見えない。
「あ、あの……」
このまま起き上がっては、覆いかぶさっている男と頭がぶつかってしまう。
その胸板に触れるぎりぎりのあたりまで手を上げて押し返す仕草をしているが、男が起き上がる気配はない。麗羊が意のままにならなかった意趣返しなのだろうか。
「そなた、名は」
「え」
「名を名乗れ」
「あ、あなた様こそいったいどなたなのですか! この傍若無人ななさりよう、帝にしか許されぬような――」
そこまで口にした麗羊は、はたと口を噤んだ。
まさか。
宦官と呼ぶには逞しい体。
低く、品のある艶めいた声。
遥か昔、遠くから見かけたきりの凛々しい横顔と、眼前の不敵な笑みが二重写しになる。
「っ、こ、皇帝、へい――」
わなわなと震えた唇がその形に動く。
麗羊が言い当てた通りの位に就く男は、はらりと垂れた前髪を手のひらで乱雑に掻きあげた。
「自分で正解にたどり着いたか。そうだな、我が名は伯綺。この国を統べる者だ」
麗羊の瞳が月餅よりもまん丸に見開かれる。それを愉快そうに眺めた伯綺は、再び麗羊に名を問うた。
「それで、吾にお預けを食らわせた勇敢なる姫君の名は何という?」
「……れ、れれ、麗羊に、ございます」
今度ばかりは麗羊も従わざるを得なかった。もつれる舌を必死に動かし名を名乗る。たった四文字の己の名が、呪文のように長く感じた。
「……ふうん? レイヨウ。そう。麗羊か」
伯綺は口の中でその響きを確かめるように、幾度か麗羊の名を繰り返し呼ぶ。
そのたびに麗羊は耳に火がついた心持ちだったが、満足して軽く頷いた伯綺が麗羊の顎を鷲掴みにしたものだから、耳どころではなく顔じゅうが燃え上がった。
「今宵、そなたを召す。支度をしておけ。忘れたなどとは言わせぬからな」
突然の宣言。
麗羊の脳内は針を刺された水風船のように乱れて、支離滅裂な思考の飛沫を撒き散らす。
召す、とは寝所にだ。
つまり、妃としての務めを果たせ、と。
自分が、夜伽を?
それ以上は想像できなかった。麗羊はとっさに固く目をつぶって顔を覆う。
「どうした。吾の顔は見ていられぬほど恐ろしいか」
麗羊はぶんぶんと激しく首を振って否定する。幼子のようにむずがる仕草だが、そんなことを気にしている余裕はない。
「お、恐れ多くて、陛下のご尊顔を拝するなどとっ」
絞り出した建前を悲鳴混じりに訴えるが、伯綺は興味が無さそうに聞き流した。
「そうかそうか、恐れ多いか」
ふ、と吐息が笑う。
掴まれたままの顎が羽根のように優しく撫でられ、掬い上げるように持ち上げられる。
今までの強引さから一転した、壊れ物を扱うような仕草に、麗羊はそっと手をどけた。
「……っ、ん!?」
唇に、火が灯されたようだった。
眼前に見えるものが、何かわからぬほどの近さ。
男の――伯綺の唇が、麗羊のそれに重ねられている。
触れるだけの、淡いくちづけ。
しかし、麗羊から呼吸を奪うには充分だった。
硬直しきった麗羊をからかうように、唇はそっと戯れに動く。
輪郭をなぞる動きがこそばゆく、麗羊はふっと息を漏らした。
「……っ、っく」
妙な間合いで呼吸をしたせいで、喉の奥で酸素が乱れた。
咳き込んだ麗羊に、伯綺はようやく唇を離す。
その直前、ついばむように上唇を吸っていくのを忘れないあたりが、余計に麗羊の呼吸を乱していった。
「月餅娘にくちづけは早かったかな」
「っ、お、おたわむれ……なさらないで、くださ」
けほけほと咳き込む麗羊の腕を引いて上体を起こしてやった伯綺は、もう一度麗羊の顎を捉えて自分のほうへと向かせる。
ぎくりと強ばった体をゆるやかにほどくように、口元を緩ませた。
「まなこに映すのが恐れ多いなら、その唇で覚えておけ」
伯綺は麗羊の唇をすうとなぞると、潔く立ち上がった。
「ひとまずはお預けも良し。今宵、ゆっくりそなたを味わうとしよう」
思わせぶりな言葉ひとつ残して、伯綺は庭院に消える。
残された麗羊はすっかり腰が抜けてしまっていた。



