「あっ、麗羊さま! 申し訳ございません、今はお部屋に入れません……!」
「何があったの?」
ある日、用事を済ませて部屋で休もうとした麗羊だったが、何やらどたばたと騒がしい。
箒を刀のように振り回して駆け回る祥鈴の姿に目を丸くして入口で立ち尽くしていると、気づいた祥鈴が駆け寄ってきた。
「すみません。今、お部屋が、その……散らかっていまして」
「それは見てわかるけれど……いったい何が」
麗羊の疑問に答えるように、部屋の奥からぶにゃあと声がした。
「な、何?」
潰れた蛙のような濁った声に、思わず衣の前を掻き合せる。
「その……猫、なんです」
「猫?」
麗羊の猫ではない。猫に限らず、愛玩動物を飼育できるのは高位の妃のみだ。
「どなたかの猫なのね。迷い込んでしまったの?」
「いいえ、その、迷い込んだというか、放たれたというか」
要領を得ない答えに、麗羊は首を傾げる。
なだめすかして聞き取ったところ、原因は蘭瑛妃だった。席を取る取らないで揉めたあの妃である。
あの日、彼女と茶会の席がかち合ってしまったことが騒動の原因だった。
麗羊は謝罪してその場を退いたが、蘭瑛妃はそれで収まらなかった。謝罪の仕方が気に入らないだの、自分の視界に入ることすら許し難いだの、様々な理由をつけて侍女に当たり散らしていたらしい。
そして忠実なる蘭瑛妃の侍女たちが、麗羊に一泡吹かせようと立ち上がった。
このところ気のたっている飼い猫をけしかけて、麗羊の部屋をめちゃくちゃにしてやろうというわけだ。
結果、突然の闖入者に祥鈴は大騒ぎ。
その声に煽られた猫が大暴れし、ところ構わず跳び回っては物を落とし、布団に爪を立て、花瓶を割り、水浸しになった床で滑り――と、絵に描いたような大惨事になっている。
「それで、あなた怪我は?」
「尻餅ついたくらいですけど……あっ!」
突然の大声に麗羊は身構えたが、時既に遅し。ぼふっという衝撃と共に目の前が真っ暗になった。
「麗羊さま!」
息を吸おうとすると、湿った毛がべたりと顔に張りついてうまく呼吸ができない。窒息する、と冷や汗をかいたのは一瞬のことだった。
「みっ」
強い力で額を押し戻されて視界が戻る。しかし、ぐわんぐわんと脳を揺らすような不快さは消えず、麗羊はずるずると床にへたり込んだ。
「麗羊さまっ!?」
祥鈴が助け起こそうと腕を引っ張るものの、すぐに立ち上がれない。
それでも何が起きたのか把握しようと懸命に目を凝らしていると、猫が棚や机を蹴り倒してどすんばたんと跳ねているのが見えた。
つまり、麗羊も猫にとっては机と同じ飛び石だったというわけだ。
口の中に形容しがたい不快感が残っている。しがみつかれた時に、口の中に猫の毛が入ってしまったようだ。
「麗羊さま、しっかりなさってください!」
「え? あ、ああ……」
突然の衝撃にぐらぐらする額を押さえていると、後ろでくすくすと笑い声が重なっている。ゆっくり振り向くと、見覚えのある妃が猫を抱いていた。
「あらあら牡丹、今日も元気ねえ。でも牡丹には狭すぎる小屋だったんじゃないの?」
蘭瑛妃、そのひとである。
どうやら彼女の猫は牡丹というようだ。確かに牡丹の花にも似た、どっしりした体つきである。
みにゃあお、と返事をした牡丹までもが、細い目を更に糸のように細くして笑う。
わずかな間にぼろぼろになってしまった麗羊を満足げに見下ろし、蘭瑛妃はさっと踵を返してその場を立ち去る。
その後を彼女付きの侍女たちが、甘ったるい声でくすくすと笑いながら続く。
麗羊の部屋に静寂が戻るのは、それから少し経ってからのことだった。
*
「……さあ! お片付けしましょう」
そう言いながら麗羊はようやく立ち上がった。
眉間を指の背で押して、残った不快感を押しのける。
嫌な空気を散らすために、あえて大きな音で手のひらを打ち鳴らせば、祥鈴はぴくりと肩を揺らしながらも調子を取り戻していく。
麗羊は率先してひっくり返った椅子や机を元に戻す。
放っておいたら見苦しいままだし、自室を他人に引っ掻き回された惨めな気持ちを引きずりたくはなかった。
「麗羊さまっ、休んでいてください! あたしがやりますから」
「ひとりよりふたりでしょう?」
「あんな大きな猫に蹴飛ばされたんですよ? すぐに動いてはお身体に障ります」
「大袈裟よ。ちょっとびっくりしただけ」
麗羊は軽く頭を振ってみる。もう不快感はなかった。
「ね? それに休むと言っても、このままじゃゆっくりできないもの」
麗羊が部屋を手で示すと、祥鈴はぐっと押し黙った。
床には花瓶の破片が散乱し、壁に掛かっていた織物は引き裂かれて、太い糸がほつれている。
この状態で心穏やかに休めるわけがないのだ。
「で、ですが……っ」
祥鈴がぶんぶんと首を振る。どうにか麗羊を休めようと知恵を絞っているようだ。
その気遣いだけで麗羊には充分なのだが。
「そうだ! お部屋がだめならお庭です! ほーら、いいお天気ですよ。ここはあたしに任せて、お花を愛でてきてください!」
これは名案とばかりに祥鈴が手を打つ。
痛いほどの思いやりを無碍にできない麗羊は、申し訳なさに胸を痛めつつも部屋を後にせざるを得なかった。
*
「……あった! これでひとつの束にできるわ」
麗羊は庭院を散策しながら花を摘んでいる。花瓶に活けるための花だ。
土や汚れを払った花々を、別の茎でひとつの束にまとめる。ふうと息をついて辺りを見渡した。
庭師によって手入れされた庭院は季節の花々が植えられ、後宮に住むものの目を楽しませてくれる。
花瓶に活けるには背の低い小花は摘まずにおいたので、なんとはなしに眺めながら、麗羊は大樹の根元に腰を下ろした。
「こんなことしかできないけれど……綺麗な花を見て、少しの間だけでも嫌なことを忘れられますように」
くるくると手の中で花束を回しながら、麗羊は次に摘むものについて思いを馳せた。
「もう少し先には香りのいい花もあったはず……お茶に浮かべたら心持ちも変わるかしら」
祥鈴の顔を思い浮かべる。
自分が蔑ろにされたことを我がことのように憤り、心を砕いてくれる優しい少女だ。彼女の顔をこれ以上曇らせたくはなかった。
身分の高い妃たちに比べて、後ろ盾の覚束ない我が身を省みる。
麗羊の家は商いで財をなしたとはいえ、血筋の貴さでは遠く及ばない。その商いですらも、堅実第一の曽祖父が残したものを元手にこつこつ積み上げてきただけの、華やかさには欠ける生業だ。
「今、帰っても余計に気を使わせてしまうだろうから、もう少しここで時間を潰して……それから……」
ふあ、とこみ上げてきたあくびを噛み殺す。蘭瑛妃の前で張っていた気が緩んだのだろうか。
眩しい日差しを適度に遮る木陰のおかげで目の前は薄暗く、体は花摘みで適度にあたたまっている。
「……だめよ、寝ちゃだめ。祥鈴は今もお掃除しているの」
そうひとりごとを呟くも、眠気は麗羊の背後を捉えたようで、眠気覚ましに動こうとしても立ち上がる気力がわかない。
麗羊は力なく頭を振って空を見上げる。
ちぎれた雲がゆったりと風に流されていく様はのどかとしか言いようがなく、振り払おうとした眠気はまとわりついて離れない。
「……何か考えなきゃ。そうね、あの雲……のしたお餅みたい。こねて丸めて……月餅にして……餡は……芋餡がいいな……」
だんだんとまぶたが下りてくる。麗羊が見ているのは、空に浮かぶ月餅か、はたまたまぶたの奥に見える月餅か。
「白餡……栗餡……いが栗の中から月餅が産まれたら栗餅……」
思考が空想になり、どんどん支離滅裂な方向へ流れていく。
やがて、ついに麗羊は無言になる。
規則正しく上下する肩のあたりに、ふっと大きな影がさした。
「何があったの?」
ある日、用事を済ませて部屋で休もうとした麗羊だったが、何やらどたばたと騒がしい。
箒を刀のように振り回して駆け回る祥鈴の姿に目を丸くして入口で立ち尽くしていると、気づいた祥鈴が駆け寄ってきた。
「すみません。今、お部屋が、その……散らかっていまして」
「それは見てわかるけれど……いったい何が」
麗羊の疑問に答えるように、部屋の奥からぶにゃあと声がした。
「な、何?」
潰れた蛙のような濁った声に、思わず衣の前を掻き合せる。
「その……猫、なんです」
「猫?」
麗羊の猫ではない。猫に限らず、愛玩動物を飼育できるのは高位の妃のみだ。
「どなたかの猫なのね。迷い込んでしまったの?」
「いいえ、その、迷い込んだというか、放たれたというか」
要領を得ない答えに、麗羊は首を傾げる。
なだめすかして聞き取ったところ、原因は蘭瑛妃だった。席を取る取らないで揉めたあの妃である。
あの日、彼女と茶会の席がかち合ってしまったことが騒動の原因だった。
麗羊は謝罪してその場を退いたが、蘭瑛妃はそれで収まらなかった。謝罪の仕方が気に入らないだの、自分の視界に入ることすら許し難いだの、様々な理由をつけて侍女に当たり散らしていたらしい。
そして忠実なる蘭瑛妃の侍女たちが、麗羊に一泡吹かせようと立ち上がった。
このところ気のたっている飼い猫をけしかけて、麗羊の部屋をめちゃくちゃにしてやろうというわけだ。
結果、突然の闖入者に祥鈴は大騒ぎ。
その声に煽られた猫が大暴れし、ところ構わず跳び回っては物を落とし、布団に爪を立て、花瓶を割り、水浸しになった床で滑り――と、絵に描いたような大惨事になっている。
「それで、あなた怪我は?」
「尻餅ついたくらいですけど……あっ!」
突然の大声に麗羊は身構えたが、時既に遅し。ぼふっという衝撃と共に目の前が真っ暗になった。
「麗羊さま!」
息を吸おうとすると、湿った毛がべたりと顔に張りついてうまく呼吸ができない。窒息する、と冷や汗をかいたのは一瞬のことだった。
「みっ」
強い力で額を押し戻されて視界が戻る。しかし、ぐわんぐわんと脳を揺らすような不快さは消えず、麗羊はずるずると床にへたり込んだ。
「麗羊さまっ!?」
祥鈴が助け起こそうと腕を引っ張るものの、すぐに立ち上がれない。
それでも何が起きたのか把握しようと懸命に目を凝らしていると、猫が棚や机を蹴り倒してどすんばたんと跳ねているのが見えた。
つまり、麗羊も猫にとっては机と同じ飛び石だったというわけだ。
口の中に形容しがたい不快感が残っている。しがみつかれた時に、口の中に猫の毛が入ってしまったようだ。
「麗羊さま、しっかりなさってください!」
「え? あ、ああ……」
突然の衝撃にぐらぐらする額を押さえていると、後ろでくすくすと笑い声が重なっている。ゆっくり振り向くと、見覚えのある妃が猫を抱いていた。
「あらあら牡丹、今日も元気ねえ。でも牡丹には狭すぎる小屋だったんじゃないの?」
蘭瑛妃、そのひとである。
どうやら彼女の猫は牡丹というようだ。確かに牡丹の花にも似た、どっしりした体つきである。
みにゃあお、と返事をした牡丹までもが、細い目を更に糸のように細くして笑う。
わずかな間にぼろぼろになってしまった麗羊を満足げに見下ろし、蘭瑛妃はさっと踵を返してその場を立ち去る。
その後を彼女付きの侍女たちが、甘ったるい声でくすくすと笑いながら続く。
麗羊の部屋に静寂が戻るのは、それから少し経ってからのことだった。
*
「……さあ! お片付けしましょう」
そう言いながら麗羊はようやく立ち上がった。
眉間を指の背で押して、残った不快感を押しのける。
嫌な空気を散らすために、あえて大きな音で手のひらを打ち鳴らせば、祥鈴はぴくりと肩を揺らしながらも調子を取り戻していく。
麗羊は率先してひっくり返った椅子や机を元に戻す。
放っておいたら見苦しいままだし、自室を他人に引っ掻き回された惨めな気持ちを引きずりたくはなかった。
「麗羊さまっ、休んでいてください! あたしがやりますから」
「ひとりよりふたりでしょう?」
「あんな大きな猫に蹴飛ばされたんですよ? すぐに動いてはお身体に障ります」
「大袈裟よ。ちょっとびっくりしただけ」
麗羊は軽く頭を振ってみる。もう不快感はなかった。
「ね? それに休むと言っても、このままじゃゆっくりできないもの」
麗羊が部屋を手で示すと、祥鈴はぐっと押し黙った。
床には花瓶の破片が散乱し、壁に掛かっていた織物は引き裂かれて、太い糸がほつれている。
この状態で心穏やかに休めるわけがないのだ。
「で、ですが……っ」
祥鈴がぶんぶんと首を振る。どうにか麗羊を休めようと知恵を絞っているようだ。
その気遣いだけで麗羊には充分なのだが。
「そうだ! お部屋がだめならお庭です! ほーら、いいお天気ですよ。ここはあたしに任せて、お花を愛でてきてください!」
これは名案とばかりに祥鈴が手を打つ。
痛いほどの思いやりを無碍にできない麗羊は、申し訳なさに胸を痛めつつも部屋を後にせざるを得なかった。
*
「……あった! これでひとつの束にできるわ」
麗羊は庭院を散策しながら花を摘んでいる。花瓶に活けるための花だ。
土や汚れを払った花々を、別の茎でひとつの束にまとめる。ふうと息をついて辺りを見渡した。
庭師によって手入れされた庭院は季節の花々が植えられ、後宮に住むものの目を楽しませてくれる。
花瓶に活けるには背の低い小花は摘まずにおいたので、なんとはなしに眺めながら、麗羊は大樹の根元に腰を下ろした。
「こんなことしかできないけれど……綺麗な花を見て、少しの間だけでも嫌なことを忘れられますように」
くるくると手の中で花束を回しながら、麗羊は次に摘むものについて思いを馳せた。
「もう少し先には香りのいい花もあったはず……お茶に浮かべたら心持ちも変わるかしら」
祥鈴の顔を思い浮かべる。
自分が蔑ろにされたことを我がことのように憤り、心を砕いてくれる優しい少女だ。彼女の顔をこれ以上曇らせたくはなかった。
身分の高い妃たちに比べて、後ろ盾の覚束ない我が身を省みる。
麗羊の家は商いで財をなしたとはいえ、血筋の貴さでは遠く及ばない。その商いですらも、堅実第一の曽祖父が残したものを元手にこつこつ積み上げてきただけの、華やかさには欠ける生業だ。
「今、帰っても余計に気を使わせてしまうだろうから、もう少しここで時間を潰して……それから……」
ふあ、とこみ上げてきたあくびを噛み殺す。蘭瑛妃の前で張っていた気が緩んだのだろうか。
眩しい日差しを適度に遮る木陰のおかげで目の前は薄暗く、体は花摘みで適度にあたたまっている。
「……だめよ、寝ちゃだめ。祥鈴は今もお掃除しているの」
そうひとりごとを呟くも、眠気は麗羊の背後を捉えたようで、眠気覚ましに動こうとしても立ち上がる気力がわかない。
麗羊は力なく頭を振って空を見上げる。
ちぎれた雲がゆったりと風に流されていく様はのどかとしか言いようがなく、振り払おうとした眠気はまとわりついて離れない。
「……何か考えなきゃ。そうね、あの雲……のしたお餅みたい。こねて丸めて……月餅にして……餡は……芋餡がいいな……」
だんだんとまぶたが下りてくる。麗羊が見ているのは、空に浮かぶ月餅か、はたまたまぶたの奥に見える月餅か。
「白餡……栗餡……いが栗の中から月餅が産まれたら栗餅……」
思考が空想になり、どんどん支離滅裂な方向へ流れていく。
やがて、ついに麗羊は無言になる。
規則正しく上下する肩のあたりに、ふっと大きな影がさした。



