「お前風情が何を言おうとそこは私の席よ。おどきなさい!」
甲高い声で高圧的にまくしたてられ、竦んだ少女の眼前に杯が投げつけられた。
固く目をつぶった少女だが、予想していた痛みも冷たさもそこにはない。
代わりに訪れていたのは、あたたかな抱擁だった。
おそるおそる目を開ける。
「怪我はない?」
「――麗羊さま!」
少女は己が仕える妃――麗羊に庇われていたのだ。
前髪から滴る果実酒を拭いもせず、麗羊は少女を背に庇う。そして、杯を投げつけた女に深々と礼をした。
「大変失礼を致しました。以後、お邪魔は致しません。ご容赦ください」
「そうよ。ここはあなた程度の身分が立ち入れるような庭院じゃないの。さっさと消えなさい」
「かしこまりました」
麗羊は再び深く頭を下げる。目を伏せたまま背に庇った少女を連れて、その場を後にした。
*
「麗羊さま、本当に、本当に申し訳ございません!」
自室に戻る道すがら、少女は何度も謝り続ける。その隣を歩く主人たる妃――麗羊は、手のひらを向けて落ち着かせるように謝罪を制した。
「いいの。午後のお茶を外で――と気を使って、あの場所に席を用意してくれていたのよね?」
「……はい。でも後からあの方がいらして……ああ、麗羊さまのお召し物が……」
涙声の少女に言われて、はじめて麗羊は自分の装束を見下ろした。
果実酒をぶちまけられた白い裳に、大きく歪な染みが浮かんでいる。
それを見て、麗羊はにっこりと微笑んだ。
染みができた部分を二箇所、つまんでひらひらと揺らす。
「ねえ、こうして見るとこの染み、猫ちゃんに見えない?」
「……へっ?」
思わぬ問いかけに少女は目を丸くする。つまんだ布の位置を耳に見立てれば、猫の顔に見えるかもしれない。
「ほーら、こうすると……にゃあ」
頬にあたる部分を広げるように引っ張れば、平べったくなった猫が笑っているようだ。
「……ふふっ、麗羊さまったら。それじゃあ猫ちゃんがかわいそうです」
「そうね。あなたも笑ってくれたし、猫ちゃんで遊ぶのは終わりにするわ」
そう言いつつも、麗羊はつまみ方を変えてにゃあにゃあと口ずさんで遊んでいる。
「麗羊さま……ありがとうございます」
少女は先程とは違う意味でにじんできた涙をこらえ、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。
「麗羊さまは、底抜けにお優しくていらっしゃるんですから。まさに人の上に立つお方の鑑。皇后陛下にもふさわしいお心ばえです」
うっとりと語りながら茶席の支度をする侍女は、先程麗羊が庇った少女だ。祥鈴という。
まだ丸みの残る幼げな頬を緩ませて語る祥鈴に、麗羊はむず痒そうに首を横に振った。
「何を言っているの。もっとふさわしい方がたくさんいらっしゃるわよ」
「えええ、そうですかあ?」
あからさまに顔をしかめた祥鈴は、先程の杯をぶつけてきた妃を思い出しているに違いない。麗羊は苦笑しながら言葉を続ける。
「確かに、この後宮には様々な妃がいらっしゃるわね。感情的な方、鷹揚な方……」
「そして麗羊さまは、とびっきりお優しい方です!」
にっこりと笑った祥鈴は、湯気を立てている茶碗を麗羊の前にコトリと置いた。
「ありがとう。でも、優しいだけじゃだめ。教養や判断力、勇気……皇帝陛下と共に国を納めるには、必要な素質は山とあるのよ」
「ふうん……麗羊さまだって充分だと思いますけど」
「まさか! 私みたいな者が妃としてここで暮らせているのも、皇帝陛下が素晴らしいお方だから」
ふう、と湯気に息を吹きかけて冷ましながら、麗羊は茶碗に口をつける。
その様子を見つつも、祥鈴は得心がいっていないようだった。
「麗羊さまは陛下のお妃さまのおひとりですけど、直接お会いされたことはありませんよね。どうして皇帝陛下が素晴らしいってわかるんですか?」
あっけらかんと現実を描写した無邪気な質問に、麗羊はむせそうになりながらも茶を飲み干した。
確かに麗羊は妃の立場であるが、その身分は下から数えた方が早い。入宮してから今日に至るまで、言葉を交わしたことはおろか、真正面から帝の顔を見たことすらないのだ。
一度だけ垣間見たのは横顔のみ。これでは妃も侍女も変わらない。
なので麗羊は軽く咳払いをして、当たり障りのない口ぶりで答えを繋いだ。
「後宮が……広くなったでしょう、最近」
「ええ。だから麗羊さまは後宮に入れたんですよね。陛下はお妃様をたくさん侍らせるのが好きなんですねえ」
「そこに誤解があるのよ」
静かに茶碗を置いた麗羊がぴん、と立てた人差し指で発言を制する。祥鈴は叱られたように肩をすぼめて萎縮した。
恐る恐る上目遣いにちらりと様子を窺われて、麗羊は怒っていないと手をひらりと振る。
「後宮に暮らすのは妃だけじゃない。あなただってそうでしょう? あとは誰がいるかしら?」
「ええと……他のお妃様とその侍女、お食事を作る方、楽士の方、あっ、普請の方も見かけます」
指折り数えながら思いつく限りの職を挙げていく祥鈴に、麗羊は頷く。
「そうね。それだけの方が暮らしている……つまり、陛下はその方々の暮らしをまかなっているのよ」
「陛下が?」
「後宮は陛下のものですもの。自分のものを管理するのは当然でしょう」
「じゃあ、あたしが後宮で暮らせているのも、陛下のおかげなんですか?」
「ええ」
麗羊は力を込めて頷く。
祥鈴は何度か目を瞬きして、気の抜けたような声を出した。
「へええ……皇帝陛下って、すごいお方なんですねえ……」
「わかったかしら?」
「はい! でもやっぱり、あたしには麗羊さまが一番すごい方です!」
歯を見せて笑う祥鈴の結論に、麗羊は内心で脱力しかけた。
「あたしみたいなのにも、こうして辛抱強く教えてくださるんですもの。陛下はすごいお方ですが、麗羊さまは素晴らしい方です!」
両手で大きく円を描いて「素晴らしい」を表現されては、麗羊はそれ以上何も言えない。
自分を無邪気に慕ってくれる祥鈴に合わせて、残りのお茶を楽しむことにした。
甲高い声で高圧的にまくしたてられ、竦んだ少女の眼前に杯が投げつけられた。
固く目をつぶった少女だが、予想していた痛みも冷たさもそこにはない。
代わりに訪れていたのは、あたたかな抱擁だった。
おそるおそる目を開ける。
「怪我はない?」
「――麗羊さま!」
少女は己が仕える妃――麗羊に庇われていたのだ。
前髪から滴る果実酒を拭いもせず、麗羊は少女を背に庇う。そして、杯を投げつけた女に深々と礼をした。
「大変失礼を致しました。以後、お邪魔は致しません。ご容赦ください」
「そうよ。ここはあなた程度の身分が立ち入れるような庭院じゃないの。さっさと消えなさい」
「かしこまりました」
麗羊は再び深く頭を下げる。目を伏せたまま背に庇った少女を連れて、その場を後にした。
*
「麗羊さま、本当に、本当に申し訳ございません!」
自室に戻る道すがら、少女は何度も謝り続ける。その隣を歩く主人たる妃――麗羊は、手のひらを向けて落ち着かせるように謝罪を制した。
「いいの。午後のお茶を外で――と気を使って、あの場所に席を用意してくれていたのよね?」
「……はい。でも後からあの方がいらして……ああ、麗羊さまのお召し物が……」
涙声の少女に言われて、はじめて麗羊は自分の装束を見下ろした。
果実酒をぶちまけられた白い裳に、大きく歪な染みが浮かんでいる。
それを見て、麗羊はにっこりと微笑んだ。
染みができた部分を二箇所、つまんでひらひらと揺らす。
「ねえ、こうして見るとこの染み、猫ちゃんに見えない?」
「……へっ?」
思わぬ問いかけに少女は目を丸くする。つまんだ布の位置を耳に見立てれば、猫の顔に見えるかもしれない。
「ほーら、こうすると……にゃあ」
頬にあたる部分を広げるように引っ張れば、平べったくなった猫が笑っているようだ。
「……ふふっ、麗羊さまったら。それじゃあ猫ちゃんがかわいそうです」
「そうね。あなたも笑ってくれたし、猫ちゃんで遊ぶのは終わりにするわ」
そう言いつつも、麗羊はつまみ方を変えてにゃあにゃあと口ずさんで遊んでいる。
「麗羊さま……ありがとうございます」
少女は先程とは違う意味でにじんできた涙をこらえ、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。
「麗羊さまは、底抜けにお優しくていらっしゃるんですから。まさに人の上に立つお方の鑑。皇后陛下にもふさわしいお心ばえです」
うっとりと語りながら茶席の支度をする侍女は、先程麗羊が庇った少女だ。祥鈴という。
まだ丸みの残る幼げな頬を緩ませて語る祥鈴に、麗羊はむず痒そうに首を横に振った。
「何を言っているの。もっとふさわしい方がたくさんいらっしゃるわよ」
「えええ、そうですかあ?」
あからさまに顔をしかめた祥鈴は、先程の杯をぶつけてきた妃を思い出しているに違いない。麗羊は苦笑しながら言葉を続ける。
「確かに、この後宮には様々な妃がいらっしゃるわね。感情的な方、鷹揚な方……」
「そして麗羊さまは、とびっきりお優しい方です!」
にっこりと笑った祥鈴は、湯気を立てている茶碗を麗羊の前にコトリと置いた。
「ありがとう。でも、優しいだけじゃだめ。教養や判断力、勇気……皇帝陛下と共に国を納めるには、必要な素質は山とあるのよ」
「ふうん……麗羊さまだって充分だと思いますけど」
「まさか! 私みたいな者が妃としてここで暮らせているのも、皇帝陛下が素晴らしいお方だから」
ふう、と湯気に息を吹きかけて冷ましながら、麗羊は茶碗に口をつける。
その様子を見つつも、祥鈴は得心がいっていないようだった。
「麗羊さまは陛下のお妃さまのおひとりですけど、直接お会いされたことはありませんよね。どうして皇帝陛下が素晴らしいってわかるんですか?」
あっけらかんと現実を描写した無邪気な質問に、麗羊はむせそうになりながらも茶を飲み干した。
確かに麗羊は妃の立場であるが、その身分は下から数えた方が早い。入宮してから今日に至るまで、言葉を交わしたことはおろか、真正面から帝の顔を見たことすらないのだ。
一度だけ垣間見たのは横顔のみ。これでは妃も侍女も変わらない。
なので麗羊は軽く咳払いをして、当たり障りのない口ぶりで答えを繋いだ。
「後宮が……広くなったでしょう、最近」
「ええ。だから麗羊さまは後宮に入れたんですよね。陛下はお妃様をたくさん侍らせるのが好きなんですねえ」
「そこに誤解があるのよ」
静かに茶碗を置いた麗羊がぴん、と立てた人差し指で発言を制する。祥鈴は叱られたように肩をすぼめて萎縮した。
恐る恐る上目遣いにちらりと様子を窺われて、麗羊は怒っていないと手をひらりと振る。
「後宮に暮らすのは妃だけじゃない。あなただってそうでしょう? あとは誰がいるかしら?」
「ええと……他のお妃様とその侍女、お食事を作る方、楽士の方、あっ、普請の方も見かけます」
指折り数えながら思いつく限りの職を挙げていく祥鈴に、麗羊は頷く。
「そうね。それだけの方が暮らしている……つまり、陛下はその方々の暮らしをまかなっているのよ」
「陛下が?」
「後宮は陛下のものですもの。自分のものを管理するのは当然でしょう」
「じゃあ、あたしが後宮で暮らせているのも、陛下のおかげなんですか?」
「ええ」
麗羊は力を込めて頷く。
祥鈴は何度か目を瞬きして、気の抜けたような声を出した。
「へええ……皇帝陛下って、すごいお方なんですねえ……」
「わかったかしら?」
「はい! でもやっぱり、あたしには麗羊さまが一番すごい方です!」
歯を見せて笑う祥鈴の結論に、麗羊は内心で脱力しかけた。
「あたしみたいなのにも、こうして辛抱強く教えてくださるんですもの。陛下はすごいお方ですが、麗羊さまは素晴らしい方です!」
両手で大きく円を描いて「素晴らしい」を表現されては、麗羊はそれ以上何も言えない。
自分を無邪気に慕ってくれる祥鈴に合わせて、残りのお茶を楽しむことにした。



