陛下、普通に寝かせてください!~夢喰帝と空想寵妃~

「はあっ、はあっ、はあ……っ」
 
 麗羊は駆けている。
 幾重にも重なる紗幕を押しのけ、掻き分け、引き裂き、闇を駆ける。
 胸元に抱えた絵巻物が、麗羊を悪夢の牙から守っていた。
 
 麗羊と伯綺の思い出の品。
 これだけが悪夢に侵されずに無事だった。
 ならば麗羊にできることは――
 
「……っ!」
 
 重たげな絹織物のような幕が舞い上がり、行く手を阻む。
 視界を塞がれた麗羊は二、三歩後ずさりして、追い払うように跳ね上がる裾を見上げた。
 
「……伯綺様。跳ねているのがただの織物ですよ。こんな月並みな夢で満足ですか?」
 
 闇の裾が引いていく。そこに踏み込んだ麗羊は、勢いのままに悪夢の緞帳へと押し入った。
 
「ここ、は」
 
 そこは寝室ではなかった。
 宮中でもない。
 麗羊の見知った都の風景でもない。
 今にも降り出しそうな曇天が垂れこめ、草も芽吹かせぬ砂が風に舞う。
 
「これが、悪夢……?」
 
 禍々しい怪物はいない。耳をつんざく悲鳴も聞こえてこない。
 何も――いない。
 
 建物も生き物も存在しない、見渡す限りの荒涼とした世界に麗羊はひとり立っていた。
 居るだけで寒々しさを覚える。
 麗羊は巻物を抱え直して一歩踏み出した。
 ざくり、と足元の砂が音を立てた。踵が沈み込む感触に足を取られかけながら歩き続ける。
 
「伯綺様……?」
 
 呼びかけに応えるものはない。
 それでも進むうちに、かたかたと体が震えていくのを感じた。
 歯の根が合わない。
 巻物を握る手が、砂に埋もれる足が、氷をあてたように冷たくなっていく。
 
「こんな……こんなに寂しいものを、伯綺様は召し上がっていたのですか?」
 
 これが悪夢の成れの果てなのか、それとも伯綺自身の夢なのか、麗羊には判別がつかない。
 だが、伯綺の一部であることは確かだ。
 その時、空気が唸った。
 涙も凍りつかせそうな風が、麗羊から巻物を奪わんと吹き荒れる。
 
「きゃあ!」
 
 緩んだ腕から巻物がこぼれ落ちる。
 結わえ直していなかった巻物が、ぶわりと風で広がった。
 
「……え!?」
 
 巻物から、羊が落ちてきた。
 一匹、二匹、三匹。
 描かれている分だけの羊がぼとぼとと落ちては、おしくら饅頭のようにかたまり出す。
 麗羊が体の震えも忘れて見入っていると、一匹だけが違う方向を向いていた。
 絵巻物の通りだ。
 その一匹がふるふると身を捩る。
 するとあたたかな光が羊を包む。
 否、羊自身が光の塊になったのか。
 唖然とする麗羊の見る前で、羊は光の中に消え、後には小箱だけが残されていた。
 
「これ、は……?」
 
 装飾の少ない、麗羊にも抱えられそうな大きさの小箱だ。
 麗羊はしゃがみ込んで小箱の蓋に手をかける。鍵はかかっていなかった。
 
「ここまで来たなら……!」
 
 ぐ、と力を込めて開ける。
 跳び出してきたのは――月餅だった。
 
「わあっ」
 
 尻餅をついた麗羊の前でぴょん、と跳ねた月餅は、更に高く高く跳ね上がる。
 伯綺が初めて求めた夢だ。
 その行く先を見届けるよりも早く、次が小箱から飛び出した。
 平べったい猫の顔だ。いつだったか果実酒をかけられた染みから着想を得た猫が実体を持っている。
 夢に見た記憶はなかったが、いつの間にか伯綺に喰べられていたのだろうか。
 次には羊の毛玉から綿飴が飛び出す。これは伯綺に語った空想だ。
 
「……伯綺様、私の夢を大切にしまっていてくださったのですね……」
 
 次から次へと忙しなく飛び出してくる夢の欠片は、どれもこの荒涼とした風景には似合わぬほどに柔らかく、あたたかい。
 麗羊の胸にも光が灯る。
 立ち上がり、滲みかけていた涙を拭う。
 その背後で、薄暗い霧がしゅるしゅると鎌首をもたげて刃の形を取った。
 
 一瞬だった。
 振りかぶる黒の刃と、青白い一閃。
 麗羊が振り向くよりも速く、刃を受け止めたのは―― 
 
「夢が主人に仇なすか。笑わせるな!」
「伯綺様……!」
 
 麗羊を庇うように抱え込んだ伯綺は、刃を掴む手に力を込める。途端に刃は霧に戻り、風に煽られて空の彼方へと消えていった。
 
「無事か、麗羊」
「は、伯綺様、手、手がっ」
 
 刃を素手で掴んだのを目の当たりにした麗羊は、慌てて止血しようと伯綺の腕を掴む。
 しかし、そこには傷ひとつ見当たらなかった。
 
「……え?」
 
 ぱちぱちと瞬きする麗羊に、伯綺はぷっと噴き出した。
 
「何を不思議がっている。これは夢だぞ」
「そ、そうですけども……!」
「痛むのは――そなたの方だろう」
 
 伯綺は麗羊の手をそっと包む。手鏡の破片で傷ついた手はもう出血してはいなかったが、痛々しい傷痕は残っている。
 
「うつつの傷は夢にできぬか。すまない」
 
 辛そうに眉を寄せた伯綺は、そっと麗羊の傷口に唇を寄せる。その冷たさに麗羊の肩が硬直した。
 
「伯綺様、こんなに冷えて……」
 
 麗羊は自由な方の手で伯綺の頬を包み込む。伯綺はその温もりにほうと息をついた。
 
「そなたは……あたたかいな。あの小箱にしまっておきたいくらいに、あたたかく……優しい光だ」
「……だめですよ。伯綺様をあたためられなくなってしまいます」
「そうか……それは、困るな」
「でしょう?」
 
 ふふ、と微笑む麗羊に、伯綺は泣きそうな笑顔で応えた。
 そっと麗羊の手に自分の手を重ねる。
 
「伯綺様、帰りましょう」
「ああ。そなたがいれば凍えることはない」
 
 ふたりは温もりを分かち合う。
 目覚めはすぐそこに来ていた。