「何を見ても、声をあげるな」
岩了はそう言って、伯綺の寝室へ繋がる扉を開けた。
幾重もの黒い紗幕が部屋中を覆っている。
床まで着くほどの長さのもの、風にたなびく程度の丈のもの。
どのくらい重なっているのか、初めて見る麗羊には判別できない。
そう。ここは、麗羊の知る伯綺の寝室ではなかった。
幾度もここに来たことはある。
初めての夜は、壁にへばりついていたら伯綺に横抱きにされて寝台へ連れて行かれた。
それ以降は自分の足で向かったが、このように視界を覆うほどの紗幕は見たことがない。
そっと麗羊が手を伸ばして触れようとすると、岩了が押しとどめた。
「これを」
岩了が短剣をひらめかせる。
冴え冴えときらめいていた刃は、紗幕に触れた途端にただの鉄錆に変わって朽ちた。
ひゅ、と麗羊は息を呑む。
「これが……悪夢、なのですか」
「ああ。悪夢が実体を持った。もはや伯綺様が御身の内にとどめられなくなっている」
麗羊は改めて部屋に垂れ下がる漆黒の紗幕を見上げた。
時折ゆらめくのは、風によるものではない。
悪夢自体が息づいていることによる蠢きだ。
「わたくしが部屋を出てからそう経っていないというのに、増え続けている。もうお姿を見るのも難しい」
歯噛みした岩了の言葉を聞きながら、麗羊は部屋をもう一度見渡した。
奥の寝台に伯綺が横たわっているのだろう。そこが一番紗幕が分厚い。
そこから麗羊たちの立つ入口付近にかけては、少しづつではあるものの闇が薄らいでいる。
麗羊は壁にぴたりと背をつける。
初めてお召しがあった夜と同じように。
そこから目を凝らすと――床に巻物が転がっているのが見えた。
見える範囲ということは悪夢も分厚くはない。麗羊は床に膝を着くと、すうと息を吸い込んで紗幕に突っ込んだ。
「待て、何を」
岩了が止めようとしたが、その腕を振り払う。
何かが紗幕に引っかかった感触。
視界の端に何かがきらりと光った。
一瞬、闇が薄らいだ。
巻物は目の前だ。
「麗羊!」
首根っこを掴まれて後ろに引き倒された。
尻もちをついた麗羊の手から、鏡だったものが土塊と化してこぼれ落ちる。
しかし、もう片方の手には――
「見てください、岩了様。巻物は無事です」
引っ掴んだ巻物の紐が絡まるのももどかしく押し開く。
それはいつかの折、伯綺が麗羊に見せた神仙や羊が遊ぶ絵巻物だった。
「なぜ、これだけが無事で……」
訝しむ岩了の声を聞きながら、麗羊は絵巻物の中の羊を見つめる。
そして――決然と顔を上げた。
「岩了様。ここからは私ひとりで参ります」
返事を聞かずに、麗羊は黒の紗幕に向かって駆け出した。
「おい!」
引き戻そうとした岩了の手から、麗羊の輪郭がすりぬける。
麗羊が蠢く闇に呑まれた後、ひとり残された岩了は空の手のひらを握りしめて膝に打ちつけた。
岩了はそう言って、伯綺の寝室へ繋がる扉を開けた。
幾重もの黒い紗幕が部屋中を覆っている。
床まで着くほどの長さのもの、風にたなびく程度の丈のもの。
どのくらい重なっているのか、初めて見る麗羊には判別できない。
そう。ここは、麗羊の知る伯綺の寝室ではなかった。
幾度もここに来たことはある。
初めての夜は、壁にへばりついていたら伯綺に横抱きにされて寝台へ連れて行かれた。
それ以降は自分の足で向かったが、このように視界を覆うほどの紗幕は見たことがない。
そっと麗羊が手を伸ばして触れようとすると、岩了が押しとどめた。
「これを」
岩了が短剣をひらめかせる。
冴え冴えときらめいていた刃は、紗幕に触れた途端にただの鉄錆に変わって朽ちた。
ひゅ、と麗羊は息を呑む。
「これが……悪夢、なのですか」
「ああ。悪夢が実体を持った。もはや伯綺様が御身の内にとどめられなくなっている」
麗羊は改めて部屋に垂れ下がる漆黒の紗幕を見上げた。
時折ゆらめくのは、風によるものではない。
悪夢自体が息づいていることによる蠢きだ。
「わたくしが部屋を出てからそう経っていないというのに、増え続けている。もうお姿を見るのも難しい」
歯噛みした岩了の言葉を聞きながら、麗羊は部屋をもう一度見渡した。
奥の寝台に伯綺が横たわっているのだろう。そこが一番紗幕が分厚い。
そこから麗羊たちの立つ入口付近にかけては、少しづつではあるものの闇が薄らいでいる。
麗羊は壁にぴたりと背をつける。
初めてお召しがあった夜と同じように。
そこから目を凝らすと――床に巻物が転がっているのが見えた。
見える範囲ということは悪夢も分厚くはない。麗羊は床に膝を着くと、すうと息を吸い込んで紗幕に突っ込んだ。
「待て、何を」
岩了が止めようとしたが、その腕を振り払う。
何かが紗幕に引っかかった感触。
視界の端に何かがきらりと光った。
一瞬、闇が薄らいだ。
巻物は目の前だ。
「麗羊!」
首根っこを掴まれて後ろに引き倒された。
尻もちをついた麗羊の手から、鏡だったものが土塊と化してこぼれ落ちる。
しかし、もう片方の手には――
「見てください、岩了様。巻物は無事です」
引っ掴んだ巻物の紐が絡まるのももどかしく押し開く。
それはいつかの折、伯綺が麗羊に見せた神仙や羊が遊ぶ絵巻物だった。
「なぜ、これだけが無事で……」
訝しむ岩了の声を聞きながら、麗羊は絵巻物の中の羊を見つめる。
そして――決然と顔を上げた。
「岩了様。ここからは私ひとりで参ります」
返事を聞かずに、麗羊は黒の紗幕に向かって駆け出した。
「おい!」
引き戻そうとした岩了の手から、麗羊の輪郭がすりぬける。
麗羊が蠢く闇に呑まれた後、ひとり残された岩了は空の手のひらを握りしめて膝に打ちつけた。



