一日が終わる。
窓辺に腰掛けていた麗羊は、浮かない顔を映していた手鏡を文机に伏せた。雑記帳を開き、日付にバツ印を付け足す。
あの日以来、伯綺からの連絡は途絶えたきり。
自分で望んだこととはいえ、繋がりを断ち切ったことへの後悔は消えない。
「今夜も、陛下は蘭瑛様をお召しなのかしら……」
独り言に胃の腑がずんと重くなる。
しかし、日中に祥鈴が仕入れてきた情報は、麗羊にとっては朗報だった。
蘭瑛妃はこのところ、ご機嫌ななめらしい。
猫の鳴き声に混じって癇癪を起こしたような甲高い喚き声と、部屋を追い出された侍女のすすり泣きが聞こえてくるというのだ。
皇帝陛下の寵愛を欲しいままにしているならば、彼女の性格上、大手を振って喧伝するはずだ。
そうではないということは――
そこまで考えて、麗羊はかぶりを振って深呼吸を繰り返す。
「他人の不幸を喜ぶなんて、罰が当たるわ」
「おや、ずいぶんとお優しい」
夜風に窓帷子が揺れる。
そのふくらみと共に黒い塊が麗羊の部屋に押し入った。
がたん、と文机が揺れる。その勢いで手鏡が落ちて砕け散った。
「お静かに」
悲鳴をあげる寸前で、麗羊の口が塞がれた。
片手で麗羊の顔を覆ってしまいそうな大きな手のひらは男の手だ。
男の顔は、暗い色の頭巾で隠されている。しかしその目元には見覚えがあった。
険しく鋭いまなざし。
「岩了さ……ま?」
男――岩了は、自由な方の人差し指をぴんと立てて己の口元にあてる。
喋るな。
その意を汲んだ麗羊は頷く。手のひらは外された。
「伯綺様が伏せっている」
そのひと言で麗羊の呼吸が詰まった。
「御身のうちで悪夢が暴れている。今までに見たことがないお苦しみようだ」
「どうして……陛下は獏なのですよね? 長い間、悪夢を召しあがって……なのに何故、悪夢が陛下に牙を剥くのですか」
「そうだ。陛下の求める夢は悪夢のみ。ずっとお側にいたわたくしは見ている」
黒い外套の下、岩了の腰元から銀の光がすらりと抜きいでた。
「波のごとく果てなき射干玉の悪夢が侵食された」
銀の光が――その切っ先が、麗羊に向けられる。
「獏が羊に足元をすくわれるとはな」
その言葉は、突きつけられた短剣よりも確実に麗羊の胸を貫いた。
「わ……たし?」
伯綺の求めるがままに見た数々の夢。
語って聞かせた荒唐無稽な夢物語。
あれらが伯綺を――蝕んでいた?
麗羊の鼓動が、体から逃げ出さんばかりに跳ね回る。
しかし、鼓動すら斬り捨てんばかりに岩了のまなざしが狙いを定めていた。
伯綺の苦しみが自分によるものならば。
麗羊は俯き唇を噛み締める。
「……岩了さま。お願いがございます」
「図々しい。この上まだ望みがあるか」
「ええ」
そう言うと麗羊はその場にしゃがみ込んだ。
逃げるつもりならこの場で斬り捨てんとした岩了が刃を突き出す。
麗羊が掴んだのは、砕けた手鏡の破片だった。
「痴れ者。そんなものでわたくしに勝てるか」
「いいえ、勝つつもりなど――ありません」
麗羊は破片を持つ手を引く。
そして、自分の首筋にぴたりと押し当てた。
「陛下のご容態を思えば、私など何度刺しても飽きたらないことでしょう。ですが悪夢を侵食した私が原因なら、私にしかできないことがあるはずです。陛下を救う夢ならば、この胸を引き裂いてでも献上致します」
瞬きひとつせずに言い切った麗羊を、岩了は信じられないものを見る目で見つめる。
「……お前に求められていたのは悪夢ではない。出来もしないことを……まさに夢物語でしかない」
「見くびらないでください!」
麗羊は静かに激昂した。
「幸いにして、陛下のおかげで悪夢の蓄えもできました。胸が潰れるほどの悪夢も、泣き叫びたくなるほどの悪夢も私の中には渦を巻いております。それに――」
鏡の破片を握りしめる麗羊の手から、細い赤がひとすじ伝う。岩了のほうが頬をしかめる中、痛みなど感じぬ顔で麗羊はきっと眼前を見据えた。
「今、この状態こそが耐え難い悪夢そのもの。悪夢が現実を侵食している真っ最中ではありませんか。ならばこの悪夢を逆夢にする。それが私のなすべきことです」
皮膚の下で熱い血潮が脈打っている。
夜の冷気を受けて冷たく冴えていた鏡が、麗羊の熱にあてられてぬるく肌に馴染んでいる。
赤い雫がぽたりと床に落ちた時、岩了は構えていた短剣を懐にしまった。
「……口だけではないと証明してもらう」
麗羊は無言で頷く。
とうに覚悟は決めていた。
窓辺に腰掛けていた麗羊は、浮かない顔を映していた手鏡を文机に伏せた。雑記帳を開き、日付にバツ印を付け足す。
あの日以来、伯綺からの連絡は途絶えたきり。
自分で望んだこととはいえ、繋がりを断ち切ったことへの後悔は消えない。
「今夜も、陛下は蘭瑛様をお召しなのかしら……」
独り言に胃の腑がずんと重くなる。
しかし、日中に祥鈴が仕入れてきた情報は、麗羊にとっては朗報だった。
蘭瑛妃はこのところ、ご機嫌ななめらしい。
猫の鳴き声に混じって癇癪を起こしたような甲高い喚き声と、部屋を追い出された侍女のすすり泣きが聞こえてくるというのだ。
皇帝陛下の寵愛を欲しいままにしているならば、彼女の性格上、大手を振って喧伝するはずだ。
そうではないということは――
そこまで考えて、麗羊はかぶりを振って深呼吸を繰り返す。
「他人の不幸を喜ぶなんて、罰が当たるわ」
「おや、ずいぶんとお優しい」
夜風に窓帷子が揺れる。
そのふくらみと共に黒い塊が麗羊の部屋に押し入った。
がたん、と文机が揺れる。その勢いで手鏡が落ちて砕け散った。
「お静かに」
悲鳴をあげる寸前で、麗羊の口が塞がれた。
片手で麗羊の顔を覆ってしまいそうな大きな手のひらは男の手だ。
男の顔は、暗い色の頭巾で隠されている。しかしその目元には見覚えがあった。
険しく鋭いまなざし。
「岩了さ……ま?」
男――岩了は、自由な方の人差し指をぴんと立てて己の口元にあてる。
喋るな。
その意を汲んだ麗羊は頷く。手のひらは外された。
「伯綺様が伏せっている」
そのひと言で麗羊の呼吸が詰まった。
「御身のうちで悪夢が暴れている。今までに見たことがないお苦しみようだ」
「どうして……陛下は獏なのですよね? 長い間、悪夢を召しあがって……なのに何故、悪夢が陛下に牙を剥くのですか」
「そうだ。陛下の求める夢は悪夢のみ。ずっとお側にいたわたくしは見ている」
黒い外套の下、岩了の腰元から銀の光がすらりと抜きいでた。
「波のごとく果てなき射干玉の悪夢が侵食された」
銀の光が――その切っ先が、麗羊に向けられる。
「獏が羊に足元をすくわれるとはな」
その言葉は、突きつけられた短剣よりも確実に麗羊の胸を貫いた。
「わ……たし?」
伯綺の求めるがままに見た数々の夢。
語って聞かせた荒唐無稽な夢物語。
あれらが伯綺を――蝕んでいた?
麗羊の鼓動が、体から逃げ出さんばかりに跳ね回る。
しかし、鼓動すら斬り捨てんばかりに岩了のまなざしが狙いを定めていた。
伯綺の苦しみが自分によるものならば。
麗羊は俯き唇を噛み締める。
「……岩了さま。お願いがございます」
「図々しい。この上まだ望みがあるか」
「ええ」
そう言うと麗羊はその場にしゃがみ込んだ。
逃げるつもりならこの場で斬り捨てんとした岩了が刃を突き出す。
麗羊が掴んだのは、砕けた手鏡の破片だった。
「痴れ者。そんなものでわたくしに勝てるか」
「いいえ、勝つつもりなど――ありません」
麗羊は破片を持つ手を引く。
そして、自分の首筋にぴたりと押し当てた。
「陛下のご容態を思えば、私など何度刺しても飽きたらないことでしょう。ですが悪夢を侵食した私が原因なら、私にしかできないことがあるはずです。陛下を救う夢ならば、この胸を引き裂いてでも献上致します」
瞬きひとつせずに言い切った麗羊を、岩了は信じられないものを見る目で見つめる。
「……お前に求められていたのは悪夢ではない。出来もしないことを……まさに夢物語でしかない」
「見くびらないでください!」
麗羊は静かに激昂した。
「幸いにして、陛下のおかげで悪夢の蓄えもできました。胸が潰れるほどの悪夢も、泣き叫びたくなるほどの悪夢も私の中には渦を巻いております。それに――」
鏡の破片を握りしめる麗羊の手から、細い赤がひとすじ伝う。岩了のほうが頬をしかめる中、痛みなど感じぬ顔で麗羊はきっと眼前を見据えた。
「今、この状態こそが耐え難い悪夢そのもの。悪夢が現実を侵食している真っ最中ではありませんか。ならばこの悪夢を逆夢にする。それが私のなすべきことです」
皮膚の下で熱い血潮が脈打っている。
夜の冷気を受けて冷たく冴えていた鏡が、麗羊の熱にあてられてぬるく肌に馴染んでいる。
赤い雫がぽたりと床に落ちた時、岩了は構えていた短剣を懐にしまった。
「……口だけではないと証明してもらう」
麗羊は無言で頷く。
とうに覚悟は決めていた。



