FAULT LINE


大学に入学して半年が経った。
俺の生活もすっかり落ち着いている。
講義にも慣れ、サークルに顔をだし、バイトに行く。
代り映えしないようにも思えるが、様子を伺う人間が周囲にいないのは
思った以上に気が楽になるものだと思った。

一つだけ、違和感があるとすれば白石さんだ。
なぜか、白石さんは俺を連れまわしたがる。
講義やバイトがあると言うと、あっさり引いてくれるが、
時間があるというと、ミステリ談義のためだけではなく、
ご飯を食べに行ったりするようになった。

そして今回だ。
大学院の研究棟で、院生が階段から転落した。
警察は事故と判断したらしい。
けれど、その「らしい」という言い方が、妙に気にかかった。

研究棟は、普段あまり足を踏み入れない場所だった。
学部生の講義棟とは空気が違う。
廊下は静かで、足音がやけに響く。
その日は、昼前からざわついていた。

「知ってる? 院の○○さん、落ちたらしいで」

講義終わりの廊下で、そんな声が聞こえた。
落ちた。
その一言が、妙に軽い。
白石さんが、俺の横で足を止めた。

「どこから?」

問いかけは自然だった。
好奇心を隠してもいない。

「研究棟の非常階段やって。三階かららしい」

答えた学生は、俺たちの顔を交互に見て、
それ以上は何も言わなかった。
噂はそれだけだった。
事故。
足を滑らせた。手すりが古かった。
いろんな言い方が飛び交っている。
けれど、白石さんは何も言わない。
ただ、ほんの少しだけ視線が細くなった。

「蒼」

名前を呼ばれる。

「時間あるか?」

問い方は軽い。
断れるように、ちゃんと余白を残している。
俺は一瞬だけ考えた。
関係ない。俺には関係ない。

「……あります」

答えてから、自分の声が少しだけ乾いていることに気づいた。
白石さんは頷くだけだった。

「ほな、見に行こか」

見に行く。
その言い方が、少しおかしかった。
まるで現場が、展示物みたいに聞こえた。
けれど、違和感はそこじゃない。
事故と判断されたものを、わざわざ見に行く。
そこに、意味があるのか。

研究棟に近づくにつれて、人だかりが見えてくる。
規制線はもうない。
警察は引き上げた後だ。
階段の下に、白いチョークの跡が残っている。
そこが、落下地点らしい。
白石さんは、すぐには近づかなかった。
上を見上げる。三階。
角度を測るように、じっと。

「……蒼」

声が低くなる。

「あの位置、不自然やと思わんか?」

俺は、何も言わなかった。
言えなかった、のほうが近い。
事故。とっさに足を踏み外す。
落ちる。
その像が、頭の中でうまく結ばれない。
落下現場は、研究棟の裏手にある外付けの非常階段だった。

白石さんが、ゆっくりと階段を上がる。
止める理由はなかった。
俺も、ついていった。
踊り場の手すりは、思ったより低い。
そして、外に向かってわずかに傾斜している。

「……低いですね」

俺が言うと、

「せやな」

短く返る。
白石さんは手すりに手を置き、体重をかけてみる。
ぐらつかない。腐ってもいない。

「事故なら、掴んでるはずや」

独り言みたいに言った。
その瞬間、背中に冷たいものが走った。
事故。事故って、なんや。
俺は、視線を逸らした。
白石さんは、それに気づいたのか、気づいていないのか。
何も言わない。
ただ、踊り場の床をじっと見ている。
そして、ぽつりと。

「落ちたんやないかもしれんな」

断定ではない。でも、迷いもない。

「可能性はある」

空気が、一段冷えた。
俺は、ようやく息を吐いた。

「……事故やって言われてるんですよね」

言葉に棘が混じる。
白石さんは、少しだけ笑った。

「せやな」

それだけ。肯定も否定もせず。

「ほな、蒼」

視線が合う。

「これは事故やと思うか?」

白石さんの視線は、まっすぐだった。
俺は、手すりから目を逸らす。

「……可能性はあると思います」

自分でも驚くほど、落ち着いた声が出た。

「手すり、低いですし。三階って言っても、この高さやったら身を乗り出した拍子にバランス崩すこともある」

白石さんは、何も言わない。
俺は続ける。

「院生って、徹夜とかも多いんですよね。集中切れてたら、足元見てないこともあるし」
「……せやな」

短い返事。
否定も肯定もない。
白石さんはもう一度、踊り場から下を見下ろした。

「ほな、もう一個だけ」

軽い調子で言う。

「真っ直ぐ落ちたら、あそこに身体、行くか?」

視線で示された場所を見る。
チョークで囲まれた落下地点は、階段の正面ではなく、少し外側にずれていた。
風が吹き抜ける。冷たい。

「……身体、回転したとか」

言ってから、少しだけ後悔した。
苦しい言い訳に聞こえる。
白石さんは、ほんのわずかに笑った。

「回転な」

手すりに軽く触れ、体を半歩外へずらす。

「自分で落ちるときはな、無意識に掴もうとする」

指が手すりをなぞる。

「掴むと、身体は内側に寄る」

白石さんは、下を指差した。

「でもあれは、外に弾かれてる」

俺は黙る。言い返せる理屈を探す。
でも、うまく見つからない。

「事故やったらな」

白石さんの声が、少しだけ低くなる。

「もっと雑や」

その言い方が、妙に引っかかった。
雑。事故は、雑。
計算されていない。
その単語が、胸の奥で小さく波打つ。

「……それでも」

俺は視線を外さない。

「事故ってことにしたい人は、いると思いますよ」

言ってから、自分の言葉に驚いた。
白石さんが、ゆっくりこちらを見る。

「ほう」
「大学ですし。評判とか。研究費とか。大事なこと、いっぱいあるでしょう」

関係ない。俺には関係ない。
そう言い聞かせるみたいに続ける。

「警察が事故って言ってるなら、それで終わりにしたい人のほうが多いんじゃないですか」

白石さんは、少しだけ目を細めた。

「蒼」

名前を呼ばれる。

「俺はな」
「終わらせたいかどうかで判断せえへん。
 起きたことが何か。それだけや」

風がまた吹く。
階段の金属が、かすかに鳴った。
俺は、手すりを見たまま言う。

「……関係ないですよ。俺らには」

半分、本音。半分、願望。
白石さんは、そこで初めて、はっきり笑った。

「せやな」

でも、その笑いは軽くなかった。

「関係ないことに首突っ込むのが、趣味や」

言い切る。迷いがない。
俺は、少しだけ息を吐いた。
この人は、止まらない。
俺が距離を取っても、止まらない。
それを、どこかで分かっている自分がいる。

「……どうするんですか」

聞いてしまった。
白石さんは、踊り場をもう一度見渡す。

「まずは、落ちた院生のこと調べる」
「警察みたいなこと、するんですか」
「警察は警察のやり方がある」

淡々と。

「俺は、俺のやり方や」

そう言って階段を下り始める。
俺は、数秒遅れてついていった。
関係ない。そう思いながら。
でも、足は止まらなかった。

「院生、誰なんですか」

俺は、できるだけ淡々と聞いた。
関心があるわけじゃない、という顔をして。

「理工の修士二年。名前は……坂井やったかな」

白石さんは、スマホを取り出す。

「知り合いか?」
「いや。学部違いますし」

ほんまに知らん。知らんはずや。
それなのに、名前を聞いた瞬間、胸の奥がざわついた。
院生。優秀。研究。期待。
その先に、事故。
俺は視線を地面に落とす。

「評判は?」
「悪くないらしい」

白石さんは短く答える。

「指導教員とも揉めてへん。金銭トラブルも今のところ出てへん」
「……もう調べてるんですか」

思わず言う。

「さっきの噂話してた子に、ゼミの後輩がおるらしい」

さらりと言う。

「情報は、足や」

歩きながら、もう数人にメッセージを送っている。
俺は、その横顔を見る。躊躇がない。

「事故やったら」

口をついて出る。

「ここまでしませんよね」

白石さんは、立ち止まらない。

「せやな」

肯定する。

「事故やったら、俺も見に行かん」

じゃあやっぱり。そう思いかけて、飲み込む。
俺は、関係ない。関係ないはずや。

「蒼」

不意に、名前を呼ばれる。

「嫌やったら、ここで引いてええで」

足が止まる。

「俺一人でもできる」

振り向いた顔は、真面目だった。
無理に連れ回す気はない。
選ばせてる。俺は、少しだけ笑う。

「……別に、嫌やないです」

自分でも、驚くほど素直な声やった。

「ほな、続行やな」

白石さんは、満足げでもなく、当然みたいに歩き出す。
俺はその背中を追いながら、思う。
この人は、正義感でやってるんやない。
好奇心でもない。もっと単純や。

「気になったから」や。

それが、妙に怖い。
そして、少しだけ羨ましい。
自分の中にあるものを、そんなふうに真っ直ぐ扱えることが。
スマホが震える。白石さんが画面を見る。

「……ほう」

目が、細くなる。

「何か出ました?」
「坂井、今月で研究テーマ変わる予定やったらしい」
「それが?」
「指導教員の反対押し切ってな」

俺は、思わず足を止めた。
押し切って。その言葉が、妙に刺さる。

「事故やったら、ただの偶然や」

白石さんは、静かに言う。

「でも、偶然が重なると、偶然やなくなる」

俺は、空を見上げた。青い。
何も起きてないみたいに、青い。

「……調べるんですね」
「せや」

一拍置いて。

「蒼」
「はい」
「人はな」

歩きながら、前を向いたまま言う。

「追い詰められたときに、選ぶ」

その言葉に、胸がざわつく。

「何を、ですか」
「楽なほうか、踏ん張るほうか」

俺は、何も返せなかった。
その問いが、事件の話なのか、俺への話なのか。
分からなかったからや。
白石さんは、振り返らない。
でも、俺が隣にいるのを疑っていない。
その距離が、少しだけ近くなった気がした。
まだ、触れられる距離ではないけど。


研究棟の裏手に回ると、立入禁止のテープはもう外されていた。
階段は、外付けの非常階段だ。
鉄製で、雨に濡れた跡がまだ乾ききっていない。

「ここから落ちたらしい」

白石さんは、手すりに触れずに見上げる。
三階。手すりの高さは十分ある。

「普通に歩いてて、落ちます?」

俺は、手すりに軽く体重をかける。
ぐらつきはない。

「酔ってたら?」
「研究棟で、ですか」
「時間帯によるな」

白石さんは一段、上がる。
俺も続く。足音が、金属に反響する。
二階の踊り場で、白石さんが止まった。

「落ちたのは三階やけど」

上を見ずに言う。

「最初に体がぶつかったのは、ここや」
「……なんで分かるんですか」
「傷」

指で示す。
手すりの塗装が、わずかに剥げている。
新しい。
俺は、喉が乾くのを感じる。

「自分で落ちたなら、もっと抵抗の跡がある」

白石さんは、静かや。

「手すり掴むとか、爪痕残るとか」

俺は無意識に、自分の指を見る。

「……突き飛ばされた?」

言葉にした瞬間、空気が変わる。

「まだ分からん」

白石さんは、即答しない。
踊り場から三階へ上がる。
扉の前で、白石さんは立ち止まる。
研究室のプレート。坂井の名前。

「押し切った研究テーマ、知りたいな」
「揉めてたなら、動機になる?」
「動機は後や」

即答。

俺は、その順番を知っている。
初めて会った教室で聞いた。順番。
一つ前が、次を呼ぶ。
白石さんは、振り向いた。
「行くか」
それだけ言って、研究室の扉の前に立つ。
白石さんは、少しだけ目を細める。

「今日は俺の助手や」
「助手?」
「そうや」

当然みたいに言う。

「横で見て、疑ってみ」

その言い方が、妙に嬉しい。
守られる側やなく、並べと言われている。

「……分かりました」

俺は、研究室の扉を見る。
プレートには院生の名前が並んでいる。
ここだ。

白石さんは、ノブに手をかけた。
一瞬だけ止まる。
鍵はかかっていない。
扉が、静かに開く。
俺は、その横に立つ。
逃げようと思えば、まだ間に合う距離だ。
けれど、動かなかった。

白石さんは、扉の隙間から室内を一度だけ見た。
「……坂井の机、あれやな」
それだけ言って、踊り場へ視線を戻す。

机を見たはずやのに、目はもう階段に戻っている。
その切り替えが、妙に早い。
白石さんの声が、やけに平坦だった。

「どういう意味ですか」
「転落。深夜。目撃なし。揉め事の記録なし。防犯カメラ、角度的に映らん。ほな事故や」

言葉が、やけに揃いすぎていた。
俺は階段の上を見る。

(事故で済ませたいんやな)

そのとき、上の踊り場から足音がした。
俺は顔を上げる。
若い男が、こちらを見下ろしている。

目が合った瞬間、逸らされた。

「……あの人、知り合いですか」

白石さんは振り向かない。

「今から知り合いになる」

そう言って、階段を上がり始めた。
俺は一瞬ためらってから、後を追う。

(またや)

踏み込むな、と覚えたはずなのに。
足は、止まらなかった。
階段を上がる途中で、白石さんは立ち止まった。
踊り場の手前、ちょうど視線がぶつかる位置。

「ちょっとええですか」

上にいた院生は、一瞬だけ迷う顔をした。
けれど逃げなかった。

「……何ですか」

声が硬い。
白石さんは名乗らない。
代わりに、踊り場を指で示した。

「ここで落ちたんですよね」

院生の喉がわずかに動く。

「そう、聞いてます」

“聞いてます”。

俺はその言い方を覚えた。

「あなたは?」
「同じ研究室です」
「第一発見者?」
「……違います」

即答。早すぎる。
白石さんは表情を変えない。

「最後に会ったのは」
「その日の夕方です」
「揉めてた?」
「いいえ」

今度は、少し間があった。
俺は二人の間に立つ空気を感じる。
冷たい。けれど張り詰めているわけではない。
白石さんが階段の手すりに触れる。
指で軽く撫でる。

「ここ、滑ります?」

院生は視線を落とす。

「……古いですけど、普通です」

白石さんは踊り場に上がる。
俺も上がる。
そこから下を見ると、思ったより高い。

「酔ってたとか」
「飲んでません」

今度は即答ではない。
白石さんは振り向かない。

「警察には、事故でええ言うた?」

院生が顔を上げる。

「……そうです」
「なんで」

空気が変わる。
院生の拳がわずかに握られる。

「研究室に問題を持ち込みたくなかった」

本音かどうかはわからない。
でも、嘘でもない気がした。
白石さんは、ようやくこちらを見る。

「あなた、事故やと思ってます?」

院生は答えない。
沈黙。
その沈黙が、答えだった。
俺は胸の奥が、ひやりとするのを感じた。

(事故やない)

言葉より先に、そう思ってしまった。
院生が小さく言う。

「……あいつは、そんな落ち方、せえへん」

白石さんの目が細くなる。

「どんな落ち方やったら、事故なんや」

院生は階段を見下ろす。

「躊躇なく、前に出るやつでした」

その一言で、何かがずれた。
躊躇なく前に出る人間が、
踊り場から、背中から落ちるだろうか。
俺は、階段の縁を見る。
擦り傷。浅い。

(昨日のあの話と同じや)

順番。
何が先で、何が後か。
白石さんが静かに言う。

「もう一回、当日の流れ、教えてもらえます?」

院生は息を吐いた。
逃げない。
逃げない人間の顔だった。
俺は、その横顔を見ながら、
自分の内側を探る。

怖くない。
事故かどうかなんて、俺には関係ない。
――本当に?

胸の奥が、わずかに軋んだ。
白石さんが、俺を一瞬だけ見る。
ほんの一瞬。
見透かされたような気がして、
目を逸らした。
院生は踊り場の壁にもたれたまま、ゆっくり話し始めた。

「夜十時前です。俺は資料室にいて……あいつは研究室に残ってた」
「二人きり?」
「……はい」

白石さんは頷くだけだ。

「言い争いは?」
「してません」

間。

「……少なくとも、声を荒げたりは」

白石さんの視線が、階段の上へ流れる。

「上は、実験室やな」
「ええ」
「誰でも出入りできる?」
「院生はカードキーです」
「被害者も持ってた?」
「もちろん」

白石さんは踊り場の縁を指でなぞる。

「落ちた音は?」

院生の目が揺れた。

「……大きな音は、聞いてません」
「“大きな”?」
「何か落ちた音はしました。でも、棚か何かやと思って」

俺はその言い方に引っかかる。

(何か、って何や)

白石さんは問い詰めない。

「発見は?」
「下の学部生が……悲鳴を」
「あなたはその時どこに」
「資料室です」
「一人で?」
「はい」

即答。
白石さんは、ほんの少しだけ微笑む。

「資料室、鍵かかります?」
「かかります」
「閉めてた?」

沈黙。
院生の喉が動く。

「……閉めてません」

俺の胸が、ざわつく。
閉めていない資料室。
十時前。
研究室には二人きり。

「被害者は、何か抱えてました?」

白石さんの声は、いつも通りだ。

「……研究費の件で揉めてました」
「誰と」
「教授と……」

言いかけて、院生は首を振る。

「いや、違う。俺も含めてです」

俺は思わず顔を上げた。

「含めて?」

院生の目が、初めてこちらを見た。

「共同研究のデータを巡って、意見が割れてた」
「盗用?」

白石さんが淡々と問う。
院生は、息を呑む。

「……そこまでは」
「でも疑った?」
「……はい」

その瞬間、空気が変わった。

疑い。
研究。
名誉。

動機になる。
白石さんは階段を見下ろす。

「酔ってへん。手すりは普通。大きな音はない。資料室は開いてた」

一つずつ、静かに並べる。
俺の頭の中でも、順番が並び始める。
院生が、低く言う。

「……俺は、落としてません」

否定。
頼んでもいないのに。
白石さんは首を傾ける。

「落とした、言うてへんよ」

院生の肩が強張る。
沈黙。
俺は、その沈黙が怖くないことに気づいた。
怖いのは、別のものだ。

(俺やったら、どうする)

一瞬、そんな考えが浮かぶ。
すぐに振り払う。
白石さんが、踊り場から一段上がる。

「当日、ここで何があったかは、まだ分からん」

ゆっくり言う。

「でも、事故やと言い切るには、足りへんもんが多すぎる」

院生は目を閉じる。

「……警察は、面倒を避けた」
「あなたも?」

院生は答えない。
白石さんが、階段を下りる。
俺も続く。
踊り場から見上げる院生の顔は、どこか追い詰められていた。

「もう一つだけ」

白石さんが言う。

「あなた、被害者が落ちた“向き”、見ました?」

院生の目が大きく開く。

「……仰向けでした」
「手は?」
「……片方、伸びてた」

白石さんは、静かに息を吐く。

「前に出る人間が、後ろ向きに仰向けで落ちるか」

院生の顔色が変わる。
俺の背中に、冷たい汗が流れた。
順番が、合わない。
白石さんが、俺を見る。
ほんの一瞬。
その目は、俺の奥を探るようだった。

(やっぱり)

白石さんは気づいている。
俺が、こういう話に平気な顔をしていることに。
俺は、視線を逸らさない。

「……続き、調べますか」

自分でも驚くほど、落ち着いた声だった。
白石さんが、わずかに笑う。

「もちろんや」

その笑いに、
胸の奥が、ほんの少しだけ、軽くなった

研究棟を出ると、外の空気は思ったより冷たかった。
夕方の光がガラスに反射して、白く揺れている。
白石さんは歩きながら、何も言わない。
俺も、隣で黙ったままついていく。
しばらくしてから、白石さんが口を開いた。

「資料室、開いてたんが引っかかる」
「嘘ついてるってことですか」
「断言はせえへん。でも、閉めてない言うたときの間が長すぎた」

俺は思い出す。
あの喉の動き。視線の揺れ。

「研究費の件も、揉めてたのは事実ですよね」
「せやな」
「でも、揉めてたら犯人ってわけでもない」
「そうや」

白石さんは、立ち止まる。
研究棟の階段を振り返る。

「順番がな」
「順番?」
「仰向けで、片手が伸びてた」

俺の背中に、さっきの冷たい感覚が戻る。

「後ろから押されたら、体は前に倒れる」
「……うん」
「でも仰向けやった」

俺は言葉を探す。

「振り向いた?」
「可能性の一つやな」

風が吹く。
構内の木がざわつく。

「誰かが、声をかけた」

白石さんが、続ける。

「振り向いた瞬間、重心が後ろに移った」
「押された」
「あるいは、引かれた」

俺の喉が乾く。

「……事故じゃない」

白石さんは俺を見る。

「まだ言わへん」

その視線は、いつもの穏やかなものだ。
でも、奥に鋭さがある。

「証拠が要る」
「資料室、ですか」
「せやな。あと時間や」
「時間?」
「十時前。大きな音はない。悲鳴は下の学部生」

白石さんは、指で空中に線を引くように言う。

「落ちた瞬間、誰がどこにおったか」

俺は気づく。

「アリバイ」
「うん」

静かに歩き出す。
俺は隣で、考える。

(振り向いた瞬間)

頭の中に、別の映像が一瞬よぎる。
振り向いた瞬間。
何かを言われた瞬間。
心臓が一拍、強く鳴る。
白石さんの声が、すぐ横で落ちた。

「蒼」

呼び方が、いつもより低い。

「こういう話、平気か」

俺は顔を上げる。

「平気ですよ」

即答。
自分でも驚くほど。
白石さんは、少しだけ目を細める。

「無理せんでええ」
「無理してません」

俺は、笑ってみせる。

「ミステリ好きなんで」

嘘じゃない。
嘘じゃないけど、全部でもない。
白石さんは、しばらく俺を見ていた。
それから、ゆっくり頷く。

「ほな、明日もう一回行く」
「何を見るんですか」
「手すりの高さと、靴底」

俺は一瞬、理解が遅れる。

「靴底?」
「滑ったなら、擦れ方がある」

その言い方が、妙に優しい。
順番を説明してくれる。
置いていかない。
胸の奥が、少しだけ温かくなる。

(この人は)

怖がらせるために事件を解いてるんじゃない。
面白がるためでもない。
ただ、順番を正しく並べたいだけだ。
その姿勢が、妙に安心する。

「蒼」

また、呼ばれる。

「今日、付き合ってくれて助かったわ」

俺は、肩をすくめる。

「連れ回したのはそっちでしょ」

白石さんが笑う。

「せやな」

夕暮れが、少し濃くなる。
俺は歩きながら思う。

(振り向いた瞬間)

人は、どんな顔をするんだろう。
信じてる相手の声に振り向くのか。
疑ってる相手に振り向くのか。

それとも。
白石さんが、ふと前を見たまま言う。

「蒼は、どう思う」
「何がですか」
「落ちた院生」

俺は、少し考える。

「……誰かを、信じたんじゃないですか」

言った瞬間、自分でも意味が分からない。
でも、口から出た。
白石さんが、横目で俺を見る。

「信じた?」
「声をかけられて、振り向いたなら」

一瞬、静寂。

「信じてなかったら、振り向かない」

俺は言い切る。
白石さんの視線が、わずかに深くなる。

「……なるほどな」

その声が、少しだけ低い。
俺は歩きながら、自分の胸の奥を確かめる。
俺は、何を信じる。
誰を。
白石さんの横顔が、夕焼けに染まる。
その横顔を見ながら、
胸の奥で何かが、静かに動いた。

「信じてなかったら、振り向かない」

自分で言っておいて、胸の奥がざらついた。
白石さんはしばらく何も言わなかった。
歩幅だけが、ほんの少しゆっくりになる。

「蒼」

低い声。

「それ、自分の話ちゃうやろな」

足が一瞬止まりそうになる。

「違いますよ」

間髪入れずに返す。
白石さんは、そこで追及しない。
ただ、「そか」とだけ言う。
そのあっさりした引き方が、逆に居心地悪い。
構内のベンチに腰を下ろす。
夕方の風が、ジャケットの裾を揺らす。

「整理しよか」

白石さんが言う。

「院生は十時前に研究棟に戻った。資料室の鍵は開いてた。
 階段で転落。大きな物音はなし。第一発見は下の学部生」

「悲鳴は、落ちた後」
「せやな」

白石さんは地面を見たまま続ける。

「仰向け。片手が伸びとる。手すりに擦れた痕は薄い」
「滑った、感じじゃない」
「うん」

俺は、膝の上で手を組む。

「声をかけられて、振り向いた。
 重心が後ろに移って、押された」
「可能性の一つ」
「犯人は?」
「まだ早い」

白石さんの言い方は穏やかだ。
でも、線は引いている。

「蒼はどう思う」

また聞かれる。
今度は逃げない。

「事故じゃない、と思います」
「理由は」
「順番が、きれいすぎる」

自分で言って、はっとする。
白石さんが、ほんの少しだけ口元を緩める。
白石さんは、俺を見る。
その視線が、少しだけ強い。

「ええやん」
「……何がですか」
「ちゃんと考えてる」

それだけ言う。
胸の奥が、変にざわつく。

「蒼はな」

白石さんは、空を見上げたまま言う。

「人の話、ちゃんと聞く」
「普通ですよ」
「いや」

否定が早い。

「普通やない」

言い切られると、困る。

「信じるかどうかは別にして、一回ちゃんと受け取る」

夕日が、横顔を照らす。

「それ、ええとこや」

喉が詰まる。
褒められ慣れていないわけじゃない。
成績も、態度も、昔から評価はされた。
でも。
こういう言われ方は、初めてだ。

「……白石さんは」

言いかけて、止まる。

「何」
「なんで、俺を連れ回すんですか」

沈黙。
数秒。
風が吹く。

「迷惑やったか」
「そうじゃないです」

即答してしまう。

白石さんが、ゆっくりこちらを向く。

「蒼、面白いねん」
「何がですか」
「考え方」

軽い調子で言っているのに、
目は笑っていない。
ちゃんと見ている。

「それに」

一瞬、言葉を選ぶ間。

「放っといたら、どっか行きそうやしな」

心臓が、跳ねる。

「どこに」
「知らん」

あっさり。

「でも、どっか遠いとこ」

視線が、真っ直ぐ向けられる。
逃げ場がない。

「俺は、蒼におってほしい」

笑えばいいのか、
茶化せばいいのか、分からない。

「……知り合ってまだ半年ですよ」

やっと出た言葉は、それだった。

「せやな」
「まだ、そんな」
「時間の問題ちゃう」

きっぱり。

「蒼は、蒼や」

胸の奥に、ひびが入る。
特別じゃないと言われたいのに、
蒼は蒼や、と言われる。
それは、肯定なのか、
逃げ道を塞がれたのか。

「なあ」

白石さんが、少しだけ身を乗り出す。

「今回の件、最後まで付き合うか」

事件の話。逃げ道が、戻る。

「……はい」

答えていた。考える前に。
白石さんが、笑う。
今度は、ちゃんと目も。

「ほな、明日は靴底や」
「靴底」
「擦れ方と、粉」
「粉?」
「研究棟、改修中やろ。階段横、石膏の粉落ちとる」

俺は思い出す。白い、細かい粉。

「靴についてたら?」
「位置が分かる」

淡々と。
俺は、その横顔を見る。
この人は、事件を解いている。
でも。それだけじゃない。
俺の中の、何かも、
少しずつほぐしている気がする。
それが怖い。けれど。
逃げたいとは、思わなかった。



翌日。

研究棟の階段は、昨日と同じ顔をしていた。
昼の光が差し込んでいるぶん、踊り場の埃までよく見える。

「ここや」

白石さんはしゃがみ込む。
俺も隣に屈む。
段の縁に、うっすら白い粉が溜まっている。

「改修のときの石膏や」

指先で軽く触れると、粉は簡単に崩れた。

「昨日の院生、靴底見ました?」

「ちらっとな」
「ついてました?」

白石さんは首を横に振る。

「ほとんどない」

俺は階段を見上げる。

「……ここ、踏んでない」
「せや」

踊り場から数段上。
粉が厚い位置がある。
そこだけ、靴跡が乱れている。

「踏み合い」

俺が呟く。

「一人分やないな」

白石さんが言う。

「幅が広い」

俺は息を詰める。

「押された」
「可能性は高い」

そのとき、足音がした。
振り返ると、昨日の院生が立っている。

「……何してるんですか」

声は低いが、怒ってはいない。

「現場検証ごっこ」

白石さんがさらりと言う。
院生は、階段を見る。
そして、粉の溜まりに視線を落とした。

「……そこ」
「気づいてました?」

俺が聞く。
院生は、少しだけ目を伏せる。

「見ました」
「警察には?」
「事故扱いでしたから」

事故。
その言葉が、空気を鈍くする。
白石さんが立ち上がる。

「誰と一緒やったん」

院生は黙る。
沈黙が長い。

「研究室、もう一人いましたよね」

俺が言う。
院生の目が揺れる。

「……同期です」
「揉めてた?」
「議論です」
「何について?」
「研究テーマ」

白石さんが口を挟む。

「被害者、方向転換しようとしてたやろ」

院生が顔を上げる。

「……どうして」
「論文の提出時期や。共同研究なら、進路に関わる」

院生の喉が鳴る。

「彼は、抜けるつもりでした」
「一人で?」
「はい」

白石さんは、踊り場を見る。

「振り向いたんやろな」

院生は拳を握る。

「……止めようとしました」

俺の背筋が冷える。

「止める、つもりでした」

言い直す。

「押した?」
「違う!」

声が響く。
研究棟の壁に、反響する。
院生は息を荒くする。

「肩を掴んだだけです」

白石さんは静かだ。

「背中側から?」

沈黙。
答えない。
それが答え。

「彼、前向いてたやろ」

白石さんの声は低い。

「振り向いた瞬間、バランス崩した」

院生は目を閉じる。

「……落ちるとは思わなかった」

その一言で、すべてが揃う。
押すつもりではなかった。
止めるつもりだった。
でも、力が強すぎた。
事故と、言えなくもない。
けれど。

「事故やない」

白石さんが言う。

「選択や」

院生の肩が震える。
俺は、胸の奥が締め付けられるのを感じる。
間違いは、一瞬。
悪意じゃない。
でも、結果は変わらない。
院生が小さく言う。

「警察、行きます」

白石さんは頷くだけ。

「そのほうがええ」

院生は階段を下りていく。
一段一段、ゆっくり。
静かになる。
俺は、粉の残る段を見つめる。

「……怖いですね」

自分でも、何が怖いのか分からない。
白石さんが隣に立つ。

「何が」
「一瞬で、人生変わること」

沈黙。
風が、研究棟の窓を揺らす。

「蒼」

低い声。

「間違えることと、間違いを選ぶことは違う」

俺は顔を上げる。

「さっきのは、間違いや」
「……」
「選んだんちゃう」

胸の奥が、ずきりと痛む。
言っていない。何も。
それでも。

「蒼は、選ばんやろ」

目を逸らせない。

「俺は、人を見る目だけはある」

根拠のない言い方。
なのに。
不思議と、否定できない。
俺は、視線を落とす。

「……そんなの、分かりませんよ」
「分かる」

きっぱり。

「少なくとも、俺はそう思ってる」

その言葉が、胸の奥に落ちる。
重いはずなのに、少しだけ、軽い。
俺は階段を見上げる。
白い粉が、まだ残っている。
完全に消えることはない。
けれど。
踏み出すことは、できる。

「次、何します」

俺が言う。白石さんが笑う。

「飯、もう夕方や」
「事件は」
「終わったやろ」

あっさり。
俺は苦笑する。
でも、歩き出す。隣に並ぶ。
風が強い。
金属階段の冷えが、まだ手のひらに残っている。
階段を下りる足取りは、昨日より軽かった。

階段を下りきったところで、白石さんが立ち止まった。

「蒼」

呼び止められて、振り返る。

「飯言うたけどな」

少しだけ間がある。

「今日は俺の家、来るか」

一瞬、意味が分からなかった。

「……家?」
「せや」

さらりと言う。

「研究棟より静かや」

冗談みたいな口調なのに、目は本気だ。

「なんで」

自分でも、妙な問いだと思う。
白石さんは肩をすくめる。

「飯作るの、嫌いちゃうし」

それだけでは足りない。
足りないのに、続きがある気がして、待ってしまう。

「蒼」

また呼ばれる。

「さっきの話やけどな」

“選ばんやろ”のことだと分かる。

「俺は、蒼を放っとく気ない」

空気が、止まる。

「……なんで」
「なんでやろな」

軽く笑う。
でも、すぐに真顔になる。

「蒼が、どっか遠く行きそうやから」

昨日と同じ言葉。
けれど今度は、距離が近い。

「俺はな」

白石さんが一歩寄る。

「蒼のそばにおりたい」

冗談じゃない。照れもない。
ただの事実みたいに言う。
心臓が跳ねる。

「俺のこと、まだ分かってないでしょ」

言いながら、自分でも分かっている。
これは時間の問題じゃない。

「半年で十分や」

即答。
笑う。
視線が、まっすぐ落ちてくる。
逃げ道を残してくれる言い方。
でも。

「選ばんやろ。
 蒼はゆっくりでええ」

さっきの言葉が、頭の奥で鳴る。
俺は、何を選ばないのか。
分からない。
口が動く。

「……行きます」

言ったあとで、自分でも驚くほどあっさりしていた。
白石さんの目が細くなる。
嬉しそう、というより。安心した、に近い。

「ほな決まりや」

並んで歩き出す。
研究棟を出ると、空が広い。
俺は横顔を見る。
この人は、事件を解く。
そして、俺にも踏み込んでくる。
怖いはずなのに。
逃げたいとは、思わなかった。
むしろ。

――どこまで踏み込んで来るんやろ、この人。

そんなことを考えている自分が、少しだけ可笑しかった。



格子戸を押し開けると、乾いた紙の匂いが先に出てきた。

「……ここ」

蒼は、靴を脱ぎかけたまま止まる。
土間の奥、細い廊下の両脇に、本が積み上がっている。
棚に収まりきらなかった背表紙が、波みたいに揺れている。

「人、住んでます?」

思わず聞く。白石が笑う。

「一応な、俺が」

上がり框を越えると、足元にまで資料がある。
踏まないように歩くと、自然と距離が近づく。

「危ないで」

白石が手を伸ばす。蒼の肘を軽く支える。
触れられた箇所が、妙に熱い。
町家は広いはずなのに、圧迫感がある。
本が空間を削っている。

「……侵食されてますね」

蒼が呟く。
白石が振り返る。

「何に」
「本に」
「せやな」

あっさり肯定する。

奥の部屋は、辛うじて座れる空間が確保されていた。
低い卓と、古びたソファ。
その背後にも、背の高い書棚。
窓から差す光が、埃を浮かせる。

「座り」

白石は、卓の向こう側に腰を下ろす。
蒼は少し迷って、同じ側に座る。
本に囲まれているせいか、声が吸われる。

「ここ、落ち着くんですか」
「落ち着く」

即答。

「静かやろ」

確かに、外の音は遠い。
けれど静けさというより、閉じている感じだ。
蒼は棚の一冊に目を留める。
犯罪心理、刑法、近代史、海外の判例集。

「……事件のため?」
「半分」

白石は立ち上がり、台所へ向かう。
小さな流し台と、最低限の調理器具。

「半分?」
「ただの趣味」

やかんを火にかける音。
蒼は部屋を見渡す。
生活の痕跡はある。
けれど、人の温度が薄い。

「家には帰らないんですか」

白石の背中が、少しだけ止まる。

「帰るで」
「じゃあ、なんでここに」

火が小さく揺れる。

「蒼は?」

逆に聞かれる。

「何が……」
「なんで京都に?」

一瞬、呼吸が止まる。

「……家、出たかっただけです」

白石は振り返らない。

「それだけ?」
「それだけです」

嘘ではない。全部でもない。
湯が沸く。
白石が二つのカップを持って戻る。
距離が近い。
本の匂いと、湯気と、白石の体温。

「蒼」

低い声。

「ここ、好きか嫌いかで言うたらどっちや」

突然の問い。
蒼は部屋を見渡す。
侵食された空間。整っていない。
片付いていない。

でも。

「……嫌いじゃないです」

白石が笑う。

「ほな、ええ」

その言い方が、妙に満足げで。
蒼は、視線を逸らす。

「俺な」

白石は、湯気越しに言う。

「蒼が来るの、嬉しい」

直球。
逃げ道なし。

「……なんで」

また同じ問い。

「蒼が、この空間に入った」

当たり前みたいに言う。

「それだけで、ちょっと整った気する」

心臓が鳴る。
侵食されているのは、どっちだ。
蒼は、カップを持つ手に力を込める。

「……俺、そんな」
「そんな?」

言葉が続かない。
白石は、蒼をじっと見る。

「蒼はな」

ゆっくり。

「外では、ちゃんとしてる」

胸が軋む。

「でも、ちゃんとしすぎや」

目を逸らせない。

「ここでは、せんでええ」

静かな声。
この町家は、侵食されている。
けれど。
今、少しだけ、呼吸が楽だ。
蒼は、視線を落とす。

「……白石さんは」
「何」
「俺を、どこまで連れてく気ですか」

白石は、間を置いて笑う。

「蒼が止まるとこまで」

逃げない答え。
蒼は、知らないうちに、笑っていた。
白石は、卓に肘をつき、蒼を正面から見た。

「止まるとこまで、言うたやろ」

軽い口調なのに、目は逸らさない。
蒼はカップを持ったまま視線を落とす。
白い湯気が、二人の間を曖昧にする。

「……俺、そんな大層な人間ちゃいますよ」

口から出たのは、防御だった。

「知ってる」

即答。

「普通の大学生や」
「それも知ってる」

白石は少し身を乗り出す。

「普通の大学生が、あんな目せえへん」

蒼の呼吸が止まる。

「あんな?」
「選ばんやろ、って言うたときの顔」

逃げ道が消える。
蒼は笑おうとする。

「気のせいです」
「ちゃう」

短い否定。

「蒼は、自分のこと、信用してへんやろ」

言葉が、真っ直ぐ刺さる。
怒るべきなのかもしれない。
でも、怒れない。

「……信用?」
「自分が、どっかで間違えるんちゃうかって」

白石は声を落とす。

「思ってる」

図星、という言葉が頭をよぎる。
蒼は視線を上げる。

「人間やから」

それだけ言う。

「せやな」

白石は頷く。

「人間やから、間違える」

少し間を置く。

「でもな」

低い声。

「蒼は、逃げへん」
「何から」
「人から」

静かだが、揺らがない。
蒼は、胸の奥がざわつくのを感じる。
逃げたいと思ったことはある。
何度も。
でも。
誰かに踏み込むことを、やめられなかった。

「白石さんは」

蒼が言う。

「俺のこと、買いかぶりすぎです」
「俺は、人を見る目だけはある」

前にも聞いた台詞。
でも今は、少し違う。
白石は、ゆっくりと蒼の手に触れる。
カップを持つ手に、指が重なる。
強くはない。
逃げられる程度の力。

「蒼」

名前を呼ぶ声が、近い。

「俺はな、蒼に興味ある」

真正面。

「事件も面白いけど」

少し笑う。

「蒼のほうが、面白い」

心臓が跳ねる。距離が、近い。

「……そういうの、軽いですよ」

苦し紛れの抵抗。

「軽ない」

白石の指が、ほんの少しだけ強くなる。

「半年、見てきた」

逃げ道が、消えていく。

「蒼がちゃんとしてるのも、踏み込むのも、
 たまに急に黙るのも」

すべて、見られている。

「俺は、蒼に触れたいと思ってる」

言葉が落ちる。
重くもなく、事実みたいに
蒼の喉が鳴る。逃げればいい。
立ち上がればいい。
でも。動かない。

「……後悔しますよ」

やっと出た言葉。
白石は笑う。

「せえへん」

即答。

「蒼は?」

問い返される。
蒼は、視線を逸らさない。

「……分からないです」

正直な答え。白石は、頷く。

「それでええ」

距離が、あと少し。触れている手が、ゆっくり外れる。
強引には来ない。選ばせる。

「今日、ここ泊まるか」

さらりと言う。冗談みたいな口調。
でも、目は真剣。蒼は、息を吸う。
本に侵食された空間。
逃げ場は、ない。でも。
怖いよりも、好奇心が勝っている。

「……布団、あります?」

白石が笑う。

「ある」

蒼は、ゆっくりと頷いた。
距離は、まだゼロじゃない。
でも。確実に、近づいている。
白石は立ち上がり、奥の襖を開けた。
押し入れの中にも、本が詰まっている。
布団はその隙間に押し込まれていた。

「……ほんまにあるんや」

蒼が思わず言う。

「失礼やな」

笑いながら、白石は布団を引きずり出す。
埃が舞う。

「掃除してないんですか」
「してる」

即答。

「本が増えるほうが早いだけや」

畳の上に布団を敷く。
町家の夜は、昼よりも静かだ。
窓の外の音が、遠い。蒼は部屋を見回す。
ここに泊まる。
言葉にすると、妙に重い。

「蒼」

布団を整えながら、白石が言う。

「嫌やったら、まだ帰れるで」

逃げ道を残す。それが、ずるい。
蒼は首を横に振る。

「嫌じゃないです」

本音だ。怖さはある。
でも、それは白石が怖いわけじゃない。

「分からんままでええ」

白石は言う。

「分からんまま、そばにおるのもありや」

蒼は、息を吐く。

「白石さんは、迷わないんですか」
「迷うで」

あっさり。

「でも、決める」

静かな声。

「蒼と近づきたい。それだけは」

胸が熱くなる。逃げたくなる。
でも。

「……俺、簡単な人間じゃないですよ」
「知ってる」

白石は笑う。

「簡単やったら、興味持たん」

その言い方が、ずるい。蒼は布団の端に座る。
畳が冷たい。白石が、向かいに座る。
距離は、一枚分。手を伸ばせば触れられる。

「蒼」

低い声。

「触れてええ?」

問いかけ。命令じゃない。
蒼は、視線を上げる。この人は、踏み込む。
でも、押さない。

「……はい」

小さく、答える。
白石の手が、頬に触れる。
温かい。指先が、耳の後ろへ滑る。
強引じゃない。
確認するみたいに。
蒼の心臓が、跳ねる。

「……少」

正直に言う。
白石は、距離を縮めない。

白石は気づいている。
でも、追及しない。
額が、触れそうな距離。

「蒼が止めたら、止まる」

逃げ道は、ある。でも。
蒼は、止めない。
白石の唇が、そっと触れる。
軽い。触れただけ。それでも、体温が一気に上がる。

侵食されているのは、どっちだ。
蒼は、目を閉じる。逃げない。
白石の手が、背中へ回る。
抱きしめるでもなく、ただ、支える。
その腕の中で、蒼は思う。

――俺は、何を選んでる。

分からないまま。でも、離れたくないと思っている。
距離は、まだゼロじゃない。けれど。
確実に、線は越えた。
白石の腕の中は、思っていたより静かだった。

強く抱き寄せるわけでもなく、
逃げ道を塞ぐわけでもない。
ただ、背中に回された手が、そこにある。

蒼は、目を閉じたまま呼吸を整える。
触れているのは唇だけのはずなのに、体の奥まで熱が落ちてくる。
離れようと思えば、離れられる。
白石は、力を込めていない。
それでも。

「……やめますか」

自分でも驚くくらい、声は冷静だった。
白石は、すぐには答えない。
唇が離れる。
額が、そっと触れた。

「蒼が、やめたいなら」

低い声。嘘はない。
蒼は目を開ける。
近すぎる距離で、白石の瞳が揺れている。
迷っていない。けれど、押してもいない。

(ずるい)

そう思う。選ばせる。
いつもそうだ。
蒼は、喉を鳴らす。

「……分かりません」

正直に言う。分からない。
好きかどうかも、正しいかどうかも、
自分が何から逃げているのかも。
ただ。
白石といるときだけ、
自分の中のざらついた部分が、少し静まる。

それが、本物なのか、
一時的な麻酔なのかも分からない。
白石は、蒼の頬に触れたまま、ゆっくり言う。

「分からんままでええ」

息が、混じる。

「俺は、蒼を欲しいと思ってる」

直球だった。飾りも、理屈もない。
蒼の胸が強く打つ。
欲しい。その言葉に、抗う力が抜ける。

(俺は、何を確かめたいんや)

瘡蓋を剥がすみたいに、
痛いところに触れて、それでも目を逸らさない。
白石の指が、頬から首筋へ滑る。
ゆっくり。急かさない。
蒼は、息を吐く。
止めない。
止める理由を、探さない。
それが答えだった。

白石の唇が、もう一度重なる。
今度は少しだけ長い。
背中に回された腕が、蒼を引き寄せる。
強くはない。
けれど、確実に距離が消える。

畳の匂い。
夜の静けさ。
二人分の呼吸。

蒼の指が、無意識に白石のシャツを掴んでいた。
離れないように、ではない。
落ちないように、だ。

白石は、蒼の指先に気づく。
それでも、何も言わない。
ただ、もう一度、確かめるように口づける。

蒼は、考えるのをやめた。

好きかどうかも、正しいかどうかも。
今はどうでもいい。
体温が近い。
その事実だけで、十分だった。

畳に倒れ込むとき、
白石の手が、蒼の頭を庇う。
そのささやかな優しさが、
最後の理性を、静かに溶かした。

流された。
けれど、抗わなかったのは、自分だ。

白石の胸に顔を埋めながら、
蒼は息を整える。
夜は、まだ深い。
けれど、もう戻らない。

蒼は、目を閉じたまま、何も考えないことを選んだ。