青い炎の詩

詩が死んだのは、きっと私が生まれる少し前のことだ。
正確には、死んだというよりは「不要になった」と言ったほうが正しいかもしれない。

教室の窓から覗く空は灰色に沈んでいて、雨が降りそうで降らない。そんな中途半端な午後。

「では、同調率を上げてください。深度レベル3、舞台は『雨上がりのサンゴ礁』です」

教師の無機質な声が響くと、クラスメイトたちの耳裏に埋め込まれた『感覚チップ』のインジケータが一斉に青く点滅した。
彼らの瞼がゆっくりと落ちる。ある者は口元に微かな笑みを浮かべ、ある者は指先で存在しない水を掻くような仕草をした。

彼らは今、ここにはいない。南国の海、極彩色の魚たちが泳ぐ透き通った水の中にいる。水温、塩の匂い、波の揺らぎ。すべてが脳に直接送信される電気信号によって、完璧に再現されている。

私は一人、机の上に置かれた紙の詩集に視線を落とした。
古書店で手に入れた、五十年以上前の文庫本。表紙は黄ばみ、ページを捲るたびに古紙特有の甘酸っぱい匂いが鼻をくすぐる。
そこには「確かなもの」があった。誰かがペンを握り、悩み、紙にインクを染み込ませた痕跡が。

「……詩」

不意に、隣の席から声がした。
チップの接続を切ったらしい美咲が、気だるげにこちらを見ていた。

「そんなのまだ読んでるの?」

「うん」

美咲は呆れたように息を吐き、自分の耳裏をトントンと指で叩いた。

「あのさ、頑固なのはわかるけど、損してるよ。今回のサンゴ礁パック、すごいんだから。水の冷たさが肌に触れる感覚とか、マジでリアルで……」

「想像できるから、大丈夫」

私が短く答えると、美咲の眉間に皺が寄った。

「想像って。そんな不完全なものより、プロが設計した完璧な体験のほうがいいに決まってるじゃん。詩ってさ、なんか……かわいそうだよね」

「かわいそう?」

「だって、世界はこんなに進化してるのに、わざわざ不便なものにしがみついてるんだもん」

美咲の言葉には悪意はなかった。純粋な憐れみ。それが何よりも私の胸を抉った。
彼女は正しいのかもしれない。完璧に設計された幸福な夢を見られる時代に、わざわざ薄暗い現実と向き合い、難解な言葉の羅列に救いを求めている私は、進化の過程で取り残された化石なのだろう。

チャイムが鳴り、授業が終わった。
私は逃げるように教室を出た。廊下ですれ違う生徒たちも皆、どこか遠くを見ている。彼らの歩行は自動化され、意識はネットワークの中にある。
私は校舎裏の古びた渡り廊下を抜け、図書室へと向かった。

そこは、校内で唯一、時間が止まった場所だった。
埃っぽい空気と、静寂。壁一面を埋め尽くす紙の本。
その一番奥、利用者がほとんどいない詩歌の棚の前が、私の聖域だった。

「また来たのか」

脚立の上から声が降ってきた。
図書委員の二年、更科(さらしな)レン。彼はいつものように、分厚いハードカバーの専門書を片手に私を見下ろしていた。

「……邪魔?」

「いや。ただ、毎日飽きもせずによく来るなと思って」

彼は脚立を降りると、事務的に本の整理を続けた。
更科とは、ここ数ヶ月で顔見知りになった。必要以上の会話はしない。彼もまた、クラスの輪には加わらず、かといって私のように感傷に浸るわけでもなく、どこか冷めた目線で世の中を見ていた。

「今日は顔色が悪いな」

背表紙を揃えながら、彼が言った。

「……美咲に言われたの。私はかわいそうななんだって」

「図星だから腹が立った?」

更科の言葉は淡々としていた。私が睨みつけると、彼は肩をすくめる。

「事実は事実だろ。君はここに逃げ込んで、死んだ人間が書いた言葉に縋ってる。外の世界が怖いから」

「違う。私は、本物の言葉が好きなだけ」

「ふーん。じゃあ、そのノートには本物の言葉とやらが書かれてるわけだ」

ドキリとした。
更科が、探るような目で私を見ていた。

「いつもそれ持ち歩いてるだろ。見られたら恥ずかしいものが書いてるって考えるのが普通だろ」

「……書いてるけど、誰にも見せない」

「なんで?」

「下手だから」

更科は鼻で笑った。

「典型的な言い訳だな。傷つくのが怖いだけだろ。誰にも届かない言葉なんて、独り言と同じだ。存在しないのと同じなんだよ」

「……っ、あなたに何がわかるの」

私はカバンを掴むと、図書室を飛び出した。
悔しかった。図星だったからこそ、腹が立った。
私の詩は、私の心を守るための壁だ。誰かに評価されるためのものじゃない。そう言い聞かせても、更科の「存在しないのと同じ」という言葉が、呪いのように耳にこびりついて離れなかった。

その日の帰り道。
私は雨上がりの路地裏で、一枚の張り紙を見つけた。

『詩人のための感覚実験室』
主催:竜胆灯(りんどう・ともえ)

古びたレンガ造りの建物の扉に貼られた、今時珍しい手書きのチラシ。それに惹かれて、私は扉に手をかけていた。

中は、不思議な空間だった。
無数の配線、ガラス管、そしてアンティークな家具が混在する工房。ハンダの焦げた匂いと、アロマの香りが混ざり合っている。

「いらっしゃい……あら? 珍しいわね、若い子が来るなんて」

奥から現れたのは、作業着の上に白衣を羽織った女性だった。三十代半ばくらいだろうか。長い髪を無造作に束ね、瞳には理知的な光が宿っている。

「あ、あの、外のチラシを見て……」

「詩、好きなの?」

単刀直入な問いに、私は頷いた。

「へえ、嬉しいな。あ、私が竜胆です。よろしくね」

竜胆さんは優しく目を細め、作業台の引き出しから、小さな紙箱を取り出した。
見た目は、どこにでもある古風なマッチ箱だ。ただ、その表面は夜の海のような深い群青色で、手触りは和紙のようにざらついている。

「これ、試してみて」

「これは?」

「私が作った『詩』。……チップは切ってるわよね? アナログな手順が必要なの」

竜胆さんは箱を押し開け、中から一本の棒を取り出した。
軸は白木でできているが、先端に付いているのは火薬ではない。透き通ったサファイアのような、青い結晶体だった。極小のチップが幾層にも重なり合い、光を吸い込んで鈍く輝いている。

「見ててね」

箱の側面、茶色いヤスリのような部分に、竜胆さんは棒の先端をあてがった。
シュッ、と小気味良い音がする。
その摩擦を合図にしたかのように、先端の青い結晶がパッと瞬いた。
 
火がついたのではない。青い光が、まるで炎のような揺らぎを持って、先端に宿ったのだ。ゆらゆらと頼りなく揺れるその光は、熱を持っていないはずなのに、見ているだけで指先が温かくなるような錯覚を覚えさせた。

「床に置いて」
 
言われるまま、棒をそっと床板へと近づけた。
青い光の先端が床に触れた、その瞬間、水面に絵の具を垂らしたように、青い光が床一面に滲み広がった。
工房の床板が消え、視界が書き換わっていく。

夜明け前の静寂。
露に濡れた朝顔の匂い。
遠くで響く新聞配達のバイクの音。
誰かを待ちわびて、でも来ないと悟った瞬間の、胸が締め付けられるような痛み。

断片的で余白のあるイメージ。感覚チップが与える完璧な体験とは程遠い。
けれど、そこには圧倒的な「手触り」があった。

光が消えたとき、私は泣いていた。

「……すごい」

「それが、言葉と感覚を繋いだもの。私は『感覚詩』と呼んでる」

竜胆さんは私にハンカチを渡してくれた。

「完璧なフルダイブ体験は、受け手を無力にする。与えられたものをただ消費するだけ。でも、詩は違う。空白があるからこそ、あなたの想像力が入り込んで、初めて完成するの」

「空白……」

「そう。あなた、自分で書いたりする?」

私は一瞬躊躇してから、カバンの中のノートを取り出した。更科には見せられなかったもの。竜胆さんはノートを受け取り、静かにページを捲った。

数分間の沈黙。
永遠のように感じられた時間の後、灯さんはノートを閉じた。

「……綺麗な表現だね」

褒められた。そう思って顔を上げた私は、その真剣な眼差しに射抜かれた。

「でも、綺麗すぎてあなたの内面が見えてこないかな」

「え……」

「美しい言葉、芸術的な表現。それにとらわれ過ぎて、自分の中にある本当の言葉が隠されてるって感じた。でも、センスはすごくあると思う。視点は鋭い。今度は自分の内面をもっとのぞいて、そこにある感情を翻訳するように書いてみたらいいんじゃないかな。また書いたらぜひ読ませてね」

初めて、自分を見てもらえた。そんな高揚感があった。

私はその日から、彼女の工房に通うようになった。


学校での私の居場所は、急速に失われていった。

きっかけは、二週間前の国語の授業だった。
教師は「共感性統一テスト」を実施すると宣言した。クラス全員で同じ感情プログラムを体験し、その反応速度と一致率をスコア化するというものだ。

「全員、チップを起動。リンクを開始します」

クラスメイトたちの意識が統合されていく。教室という空間が、巨大な一つの脳みそになったような不気味な感覚。
私は、チップの電源を入れなかった。
灯さんに言われた「自分の言葉」を探している最中だった。それに上書きされる、そんな嫌悪感があったからだ。

「……長谷川さん」

教師の声が、冷ややかに響いた。

「なぜリンクしないのですか。システムがエラーを吐いています」

「……できません」

「これは授業です。個人の気分で集団の調和を乱すことは許されません」

教師がタブレットを操作すると、電子黒板にクラス全体の「共感マップ」が表示された。美しい円形のグラフの中で、私を示すポイントだけが黒いノイズとして点滅している。

「見てみなさい。あなたのせいで、クラス全体の評価ランクが下がっています。協調性というのは、社会に出るために最も必要なスキルですよ」

教室中の視線が私に刺さった。
軽蔑。苛立ち。
言葉に出さなくても、彼らの思念が伝わってくるようだった。

「……私は、ロボットじゃありません」

震える声で、私は反論した。

「自分の感情は、自分で決めます。誰かに押し付けられたくありません」

「ほう。では、君はこの社会システムそのものを否定すると?」

教師の威圧的な態度に、私は唇を噛んで俯くことしかできなかった。

休み時間、美咲が私の机にやってきた。
いつものような心配そうな顔ではない。はっきりとした怒りを孕んだ表情だった。

「詩、さっきの何?」

「……ごめん」

「詩と仲がいいってだけで、私まで白い目で見られるの。私の同調スコアまで疑われるんだから」

「そんなの、おかしいよ」

「おかしくない! みんなそうやって生きてるの。苦しいことも、辛いことも、チップで共有して、中和して、なんとかやり過ごしてる!」

美咲の声が裏返った。
ハッとした。彼女の目には涙が溜まっていた。

「詩はいいよね、自分だけの世界があって」

美咲はそれだけ言い捨てて、席に戻っていった。
彼女の背中が小さく震えているのを見て、私は初めて気づいた。
美咲がチップに依存するのは、単なる享楽のためだけではない。彼女もまた、何かに怯え、傷つかないように必死で武装しているのだと。

私は彼女を「軽薄だ」と見下していた。でも、本当は彼女の痛みに気づこうともしていなかった。

放課後、私は図書室には行かず、まっすぐに灯さんの工房へ向かった。
工房のドアを開けるなり、私は言った。

「書けません」

灯さんは作業の手を止め、黙って私の隣に立った。

涙が溢れて止まらなかった。
学校での孤立、美咲との決裂、そして何より、自分の傲慢さへの自己嫌悪。

灯さんは私の背中をさすりながら、静かに言った。

「その気持ちを忘れないでいれば、きっといい詩が書けるよ」

「……こんなの、忘れたいです」

「詩はね、光から生まれるだけじゃない。影から生まれることもあるのよ」

灯さんは棚から一つのガジェットを取り出した。作りかけの、無骨な金属の箱。

「今度、ここで朗読会があるの。詩ちゃん、そこに出てみない?」

「無理です! 私なんかが……」

「なんか、なんてことない。無理強いはしないけど、実際に言葉を紡ぐことで見えてくることもあると思う」

「……私にできるんでしょうか」

「それはわからない。見つけるのは詩ちゃん自身だから」

私は……。

「やって、みたいです」


それからの一週間、私は書き続けた。けど、ノートに向かっても、出てくるのは陳腐な言葉ばかり。

自分の言葉の無力さに打ちひしがれながら、私は図書室へ向かった。更科なら、何かヒントをくれるかもしれない。そんな下心があった。
私が近づくと、彼は読んでいた本を閉じた。

「……ひどい顔だな」

「うるさい」

彼の向かいに座り、ぐしゃぐしゃになったノートを広げた。

「更科くん。……言葉って、何?」

唐突な問いに、彼は眉を上げた。

「哲学的な質問だな。辞書的な意味か?」

「違う。どうすれば、人に届くの?」

更科はしばらく黙り込み、窓の外を見た。

「言葉そのものに力なんてないよ」

「え?」

「言葉はただの記号だ。受け取る側のデータベースと照合されて、初めて意味を持つ。だから、共通のデータベースを持たない相手には、どれだけ言葉をぶつけても届かない」

「じゃあ、無理ってこと?」

「いや、それはあくまでも現代における常識にすぎない」

更科は私に向き直った。

「なんでもかんでもデータとして見てるなら、ハックすることだって可能だろ?」

「ハック?」

「論理や意味じゃなく、もっと原始的な部分……本能とか、情動とか、そういう感覚に干渉するんだ。君が嫌ってる『感覚チップ』と同じことを、生身の言葉でやるんだよ」

私は、美咲に「意味」を伝えようとしていた。チップは悪いことだ、現実は素晴らしいと、理屈で説得しようとしていた。そうだ。詩は、感覚に訴えるものじゃないか。

「……ありがとう、更科くん」

「礼を言われるようなことはしてない。で? なんでいきなりこんなこと聞いたのさ」

「今度、自作の詩を朗読することになって、いろいろと行き詰まってたの」

「へえ。じゃあ、俺も見に行くよ」

「嫌だ」

「直球だな。せっかく相談にのってあげたのに。君の赤面もののポエムを聞けるなんて最高の経験、逃す手はないよ」

意地悪な言い方だったけれど、口元は少し笑っていた。
結局、私は更科に会場と時間を教えることになってしまった。


その夜、私は一気に詩を書き上げた。
タイトルはない。
ただ、自分の中にある熱だけを封じ込めた、短い詩だった。



朗読会の日。
外は激しい雨が降っていた。

ギャラリーには、灯さんの呼びかけで集まった二十人ほどの客がいた。
そして、部屋の隅に更科が立っていた。腕を組んで、壁に寄りかかっている。

私は緊張で吐きそうだった。

「大丈夫」

灯さんが私の肩を強く握った。

「詩ちゃんの〈そのまま〉をみんなに届ければいい」

開演のベルが鳴る直前、ドアが開いた。
雨に濡れた傘を畳みながら入ってきたのは、美咲だった。

なぜ。どうして。
美咲は私と目が合うと、バツが悪そうに視線を逸らした。服についた雨粒を軽く払い、部屋の隅に小さくなって立った。

きっと、更科が教えたのだ。

私の出番が来た。
マイクの前に立つ。スポットライトが眩しい。
客席の視線が集まる。

息を吸う。

私はノートを開かなかった。
言葉はもう、身体の中に溶けている。

私は語り始めた。

声が震えた。でも、そのまま続けた。

私の声は、次第に叫びに近くなっていった。

最後のフレーズを吐き出した瞬間、マイクがキーンとハウリングした。
それが合図だったかのように、私はその場にへたり込んだ。

静寂。

パチ、パチ、パチ。

小さな拍手が聞こえた。
顔を上げると、美咲が泣きながら手を叩いていた。

それを皮切りに、拍手が波のように広がった。
更科が、ニヤリと笑うのが見えた。
灯さんが、ハンカチで目元を押さえていた。

私は立ち上がり、深く頭を下げた。



会の終了後。
美咲が私の元へやってきた。

「ごめん」

「謝んないでよ……なんかさ、チップの見せる世界だけが正しいってわけじゃないんだなって、そんなこと思った。ああもう。表現へたくそすぎでしょ私」

美咲は少し照れくさそうに、ポケットから何かを取り出した。
それは、灯さんが作ったガジェットだった。

「これ、買ってみた。てかさ、詩のも作ってよ」

「え?」

「ほしいじゃん、友達のそういうのってさ」

私は涙を堪えて、大きく頷いた。

窓の外では、いつの間にか雨が上がっていた。
雲の切れ間から、夕日が差し込んでいる。


数日後。
私は灯さんの工房で、新しい作品の仕上げをしていた。

小さなマッチ箱。色は深い群青色。
中には、あの日私が読んだ詩の、一番核になる部分をデータ化して埋め込んである。

「できたね」

灯さんが、完成した箱を光にかざした。

「名前は?」

マッチを擦る。
シュッ、という音と共に、青い光が灯る。
まだまだ未熟だけれど、完成させられたことがうれしかった。

私はそれをカバンにしまい、教室へ向かう。

詩は死んでいない。
形を変え、姿を変え、私の、誰かの手の中で、確かに息づいている。