丑三つ時——陰の気が最高に強まり、鬼門が開く時間。
”怪異”の活動が盛んになれば、祓魔商会の稼ぎ時だ。
「鐵。そこにいるよね……?」
埃臭い6畳一間のおんぼろ小屋は、月の光さえ入らない。完全な暗闇のなかで、鈴音は足を抱えて座っていた。外にいるはずの相棒に声を投げるが、鉄の扉の向こうから反応は返ってこなかった。
この小屋は、元々何に使っていたものですか。
鈴音が恐る恐るそう問うと、依頼人の妻は「さぁ、なんだったかしらねえ」と鐵にしなを作ってみせた。鐵は鐵で「なんでもいいですよ」と好青年風の笑みで答えていたが、きっと彼にはわかっていたのだ。
(……どうみても座敷牢でしょう、ここは!)
鈴音は奥歯を噛み締める。
鐵は、鈴音が怖がるところを見るのが好きなのだ。か弱い乙女の涙をみて喜ぶなんて、怪異と関わりすぎたせいで、性根まで蝕まれてしまったのではないか。
加虐趣味! 浪費家! 女好き! 陰陽師の血筋でなければ、ただのとんでもない美形のくせに!
……もとはあんな男じゃなかったのに、どうしてあんなふうになってしまったのだろう。
心の中で思いつく限りの罵詈雑言を吐き、鈴音は大きくため息ついた。
(ああ気味が悪い。さっさと仕事を終えてお汁粉を飲もう。お給金は弾んでくれるはずだから……)
依頼人は、大正時代に入って急成長した商人だ。なにを売っているのかはよく知らないが、金は唸るほどあるのだろう。
鐵はひどい守銭奴なので、依頼料は決して安くはない。それなのに、今月に入ってもう3度も呼ばれている。一匹見かければ百匹いる。”あの”害虫のように、退治しても退治しても怪異が湧いてくるなんて、まさか怪異の巣でもあるのだろうか。
とはいえ、慢性的に暇な祓魔商会にとって、これ以上ないお得意様であることも事実だった。この家から怪異が消えたら、来月の家賃も払えない。社長の鐵が無駄遣いばかりするから。
「くろがね?」
外にいるはずの上司に声をかける。
上司と言っても、鈴音と歳は三つしか変わらない。鐵は成人したばかりの二十歳だ。鐵のことはずうっと前、物心ついた頃から知っている。こういうのを腐れ縁というのだろうか、わけあって、いまは事務所と家を兼ねた安普請に住む同居人でもあった。
「くろがねったら!」
何度呼んでも答えない。
もしかして、どこかで油でも売っているのでは?
なにせ、鐵のことだ。彼のことはよく、よーく知っている。
もしかすると依頼人の息女とどこぞでよろしくやっているのかもしれない。たしか、綾香と言った。鈴音と同い年の十七歳で、まっすぐな黒髪と涼しげな目をもつ美人だ。「お琴が趣味で……」と傷ひとつない指を唇に当て、上目に鐡を見ていた。
鐡も、まんざらではなさそうだった。
一方鈴音は栗色の巻毛に、勝ち気な丸い瞳。趣味は節約と、掃除だ。荒れた手に、ちょこちょことクリームをすりこむのを日課にしている。
綾香が手をかけて育てられた椿の花なのだとしたら、鈴音はなんだろう。ぺんぺん草か。
しかし、草には草のいいところがある。現実を見て、現実に生きる。堅実こそ、鈴音の信条だ。だから、魔性の男の近くにいても正気を保っていられるのかもしれない。
「鐡のやつ……。いくら美人だからって、好みだからって、もし助けに来なかったらただじゃおかない」
鈴音は膝をぎゅっと抱えて不安に耐える。袴から樟脳が香ると、少しだけ安心した。
鈴音に怪異の姿は見えない。声が聞こえても、気配を感じても、はっきりと見えさえしなければ、それほど怖いことはないのだ。そんなことよりも、この暗闇の方がよほど怖い。
鐡の生家・星宮の家で下働きをしていたときに、よくこうして閉じ込められた。それから暗い場所が怖いのだ。今がいつで、自分が誰なのかわからなくなってくる。闇のなかに自分の魂まで溶けてしまいそうになる。
「けれど、これも仕事。仕事を失う恐怖に比べたら、これくらい」
「……ソボ」
「……はい?」
ガサガサと、紙袋を擦り合わせたような音がした。鈴音は反射的に顔を上げる。
しかし、そこは暗闇。なにも見えやしない。それなのに、じっと鈴音の後ろになにかがいるのがわかった。全身からじわっと汗が吹き出したそのとき、
「アソボ」
「で、でたあぁぁあぁ!!!」
鈴音は悲鳴を上げる。今度こそ聞こえた。はっきり聞こえた。いま、男が鈴音に声をかけた。
水を掻くように暗闇に手を伸ばす。四つん這いのような格好で鈴音は這い出すが、何かの気配が腰のあたりにまとわりついている。そのうえ、まるで氷を当てられたように冷たい。
恐ろしさに涙が流れる。
すると、怪異がはしゃぐように声を上げる。その声につられて、暗闇の中に”なにか”の質量が増していく。だんだん息苦しくなってくるのだ。まるで帝都の祭りの日のように、ひといきれに酔いそうだ。
(鐵、鐵、くろがねーーーーー!!!!)
目を閉じて、耳を塞ぎ、心のなかで社長の名前を唱える。すると、すぐに扉が開いた。
がらりと重い音を立てて開いた扉、その向こうに満月がみえた。こぼれた月明かりが、まっすぐな光線になって鈴音の顔を照らしている。
「はは、すごいなぁ。おまえの涙は。……この怪異たちが、おまえの目に映らないのが残念だよ」
やけにゆったりとした動作は、育ちのせいなのか。使用人がこうして泣いているのだから、もう少し早く助けにこれないものなのか。
「悪い、待たせたな」
「……悪いだなんて思ったことはないでしょう」
「さすが幼馴染にはなんでもお見通しだな」
鐵はかがんで、鈴音の顔をじいっと見た。
そしていつもそうするように、鈴音の頬に残る涙のあとをなぞる。鈴音がくすぐったがると、鐵は赤橙色の瞳をふっと細めた。
「よくやった鈴音、怖かったろう」
まったく嫌味なほどに整った顔をしている。その顔で、労わるようなことをいうから、文句を言う気が失せてしまう。
美しさは暴力だ。鐵をみているとそう思う。
少し癖のある黒髪も、猫背ぎみの姿勢も、うさんくさい薄い笑みも、鐵だからサマになる。そのうえ鐵はすらっとした長身で、花街でさえ金を払わず遊べると噂に聞いた。さすが星宮の血筋だ。そういえば彼の兄も、人間離れした美形だった。
ぼうっとしているうちに、鐵は暗闇を振り返って声を低めた。
「うちの商売道具に触れたからには、それなりの金払ってもらわねえとなァ。……怪異のおっさん」
「……アソ、ビタクナイ」
鐵は、懐から白い札を取り出すと暗闇に投げる。札はぴたりと宙にに張り付いて、やがて煙を上げて燃えた。
✴︎
「……いやァ、ひどいものでしたよ。あんなに恐ろしい悪霊は、そう簡単にはお目にかかれない。うちの事務員なんて腕を二、三本やられましたよ」
仕事用の完璧な笑みで鐵は言う。
(なにが二、三本よ。三本も腕があれば、わたしの方が怪異じゃない)
薄っぺらい説明だが、しかし依頼人の親子は気づかない。鐵の美貌にすっかりやられてしまっている。彼にかかれば、怪異退治でさえ一種のショーになってしまうのか。呆れた。
「そうだったんですねえ。ああ、怖かった。鐵様がいらっしゃらなかったら、わたしたちどうなっていたか。ねえ、よかったわね。綾香」
「ああ、お母様。せっかくですから、鐵様にわたしのお部屋も見ていただけないでしょうか」
「あら。それはいいわね」
「……部屋?」
「ええ。最近、なにかに見張られているような気配を感じるのです。お恥ずかしい話ですが、男性の生き霊ではないかと」
「恥ずかしくなんかないわよ、あなたが美しいのが悪いのだから」
「言い寄られるんです。何人も、何人も……」
月光の下、娘は瞳を潤ませながら言う。
(美人っていうのも大変なのね……)
鐵が母屋に視線を向けるから、鈴音も同じように目をこらしてみる。けれどやっぱり、見えはしない。気配だって、本物が出てくるまでは感じないのだ。しかし鐵は「ああ、これはひどい」と難しそうな顔をしている。
「男の生き霊が5体、いや8……ああ、また増えた」
鐵の言葉に親子は抱き合って震えている。
「鐵、いまから退治する? わたし、できるよ」
「いや、やめよう。準備が必要だ」
考え込むようにして、鐵はふたたび口を開いた。
「あれくらいになると、俺もただでは済まないかもしれません。もっと高位の札を用意しなければ。……なあ、鈴音。いくらかかるだろう」
「え? 高位の札?」
「ああ。今日は中位の札を五枚使っただろう。……あれなら、そうだな。最上位のものを十枚は欲しい」
「……なんですって」
さっきの仕事で使ったのは、中程度どころか、一番安い札をたった一枚だけだった。
そもそも鐵にとって、祓魔にお札はいらないのだ。呪文を唱えるのが面倒くさいときに、ああして札を使って省略する。
(……この子の部屋に霊なんかいないんだ。鐵はふっかけるつもりでいる。最低)
そんなことになっているとは梅雨知らず、奥さんはため息まじりに言った。
「お金ならいくらかかっても構わないのよ。……うちの綾香は嫁入り前ですから、おかしなことがあると困るでしょう。だから、いくらだってお支払いしますわ」
「いえ、そんな、あのですね、これは……むぐ!」
背後から回された手に口を塞がれる。
「おっと鈴音。くわしい話は依頼人に伝えるべきじゃない。真実を伝えることが、つねに正しいとは限らない。いつも言っているだろう。……すみませんねえ、うちの事務員が。よおく躾けておきますので」
「むぐ、むぐぐ!」
「鈴音。あんまり俺を困らせるなよ」
ふふ、と奥さんは困ったように笑う。
「あなた、うちの子と同い年なのよね」
「……え、ええ」鐵の手をようやく剥がせた。
「その歳でお仕事をされているなんて関心だわ。それもこーんなに危険なお仕事を。私たちには想像もできない世界よ、ねえ綾香」
「ええ、お恥ずかしいです。働く苦労を知らないなんて、世間を知らないことと同じですから。尊敬しますわ」
「尊敬だなんて、滅相もありません。働いているからって世間を知っているわけではありませんし……」
「あらやだ、素直な方なのねえ」
「ありがとうございます。いつでも素直でいること、亡くなった母との約束なんです」
「あらそう。すずめさんったら、お母様までいらっしゃらないなんて、この世はなんて不平等なのかしら。さて、鐡様つぎは——」
鐵は奥さんの手から封筒を掠め取った。
「鈴音だよ、ババア」
「なんてこというの。せっかくのお得意さんなのに、もうお仕事もらえないかもしれないじゃない!?」
「それは困った」
「……困ってないでしょう」
「くく。さすが鈴音。なんでもお見通しだな」
「誰が聞いたってわかるわよ」
「誰が聞いたってわかるような嫌味を、おまえはわからないんだからかわいいよ」
「……嫌味? どういうこと?」
鐵と並んで夜道を戻る。鈴音たちの帰る家は帝都の中心にあった。ここから一時間はかかるだろう。
立地はいいが、ひどいボロ屋だ。そのうえ近くにはやくざ者の事務所があるからと、相場よりずいぶん安く借りられている。その事務所もうちの少ない得意先のひとつだ。月に一度、呪い返しに呼ばれている。
「そういえば鐵、そのランプはなに?」
「すごいだろう、電気手灯っていうんだ。電気で灯りがつく、すぐれものだ」
「すごいけど、すごくない! どうせすぐ飽きちゃうのに、こんな高価そうなものを買うなんて信じられない!」
「しょうがないだろ。流行り物が好きなんだから。今日の儲けでツケを払えば問題がない」
それにしても、儲かったなぁ。鐵は懐に手をいれて、札束の厚みを確認している。
「それだけあれば、普通の二人暮らしなら半年は暮らせるわよ」
「それはすごい。俺なら一週間で使い切れる」
「ええ、すごいわねえ。本当に危なっかしいひと」
鐵は守銭奴のくせに、お金の使い方には無頓着なのだ。有り体にいえば、生活力がない。
「鈴音がいてくれるから、俺は生きていられるんだよ」
「……そうでしょうね。わたしがいなかったら、家も借りられなくて路上生活まったなしだわ」
「そうかもしれない」
鐵は涼しい顔で笑っている。ふん、と鈴音は鼻息をもらした。
(わたしがいなくなったって、鐵ならしぶとく生きていくんでしょうね。その顔で、どこかの女の家にでも転がり込むんだわ)
鐵は鈴音の視線に気づかずに、さっぱりした顔で月を見上げている。そしてぽつりともらす。
「なあ鈴音、約束してくれるか。どこへも行かないって」
「……は? どうしたの急に、そんなこと言って」
「仕事がなくなったら、俺のために泣いてくれ」
「それってどういう……ハッ!」
鐵は、鈴音のことを”商売道具”だと言いたいのだ。
鈴音の涙には怪異を惹きつける力がある。特殊な霊媒体質だと、鐵はよく言っている。
「おまえの涙に、怪異がうじゃうじゃ寄ってくる。さながら、おまえは金を産む鶏だよ」
くくく、と鐵はおかしそうに笑っている。
「なんてこと。鐵、それは詐欺だわ。涙を利用して仕事を増やそうだなんて、詐欺師のやることだわ!」
「うるさいよ」
鐵は、人差し指で鈴音の唇を塞いだ。ふよふよ、と押されて鈴音は黙る。
「夜だ」
鐵といると調子が狂う。普段の鈴音はもっと大人なはずなのに、鐵の前ではまるで子供だ。
「人を騙して生きて、何が悪い?」
「え?」
鈴音は、その美しい横顔を見上げて目を見開く。
あっけにとられていると、鐵はゆっくりと鈴音を向いた。
妖艶な目をとろりと細め、口元には三日月のような笑みが浮かんでいる。
まるで完璧な笑い方は、かえって作り物のようだ。鈴音はぞっとした。鋼が、人間ではない、幽鬼のように見えたのだ。
「わ、悪いに決まってるでしょう」
「そうだろうか」
「そうよ」
鐵は喉を鳴らして笑った。掠れた声に、なぜだか鈴音の肌は泡立った。
「ここより他に、いくところなんかないのは俺も、おまえも同じだろう。爪弾きもの同士、仲良くやろう。これから先も、ずっと」
そして、鐵は先に歩き出す。
けれど鈴音は、どうしても着いていけなかった。
(……ひとを騙して生きるなんて、わたしにはできない)
もちろん、鐵は本物だ。誰を騙しているわけでもない。見えないものを退治して法外な謝礼をもらう。まさに月宮家と同じ、陰陽師の仕事に難癖をつけるつもりはない。それで救われている人がいることを、鈴音は身をもって理解している。けれど、鈴音には合わないように思うのだ。
鈴音には、地道に働くほうが合っている。見えるものをコツコツと地道に積み上げていくほうが、性に合っていると思うのだ。
「どうした?」鐵が足を止める。
「わたし、このお仕事を辞めようと思うの」
鈴音は、きっぱりと顔を上げる。
