静かなる包囲
ジンの事務所を出たのは、午後三時を少し過ぎた頃だった。空は朝から変わらず鉛色のまま、低く垂れ込めている。風はない。雲は動かない。ただ重さだけが空に残っていた。ジャガーとバイクが道路へ出ると、バックミラーの中で黒いセダンがゆっくり動いた。追ってきている。だが車間距離は一定だった。詰めない。離れない。追い越さない。
橘はミラー越しに観察した。
「……撮影しています。フロントグリル内部に小型カメラ。ルーフ後端に通信アンテナ。ドライブレコーダーは外付けの増設型です」
ジンは前を見たまま答える。
「後方にもう一台いるん」
「確認した」
インカムから弦太の声が入る。
「威嚇じゃないんさ。証拠取りだよなん」
橘は端末を開いた。立入許可書、管理室での質問、ログの閲覧。すべてが今、第三者のカメラで記録されている。
「撮影されています。手順は記録に残る。不備扱いになる可能性があります」
弦太は小さく笑った。
「殴らないで殺すやり方なんさ」
国道に出た。トラックの列、排気の匂い、物流の幹線道路特有の重たい空気だった。前方に誘導灯が見えた。車列が減速している。
「検問かなん」
弦太はさりげなく左折する。
制服の男が二人立っていた。警察の制服に似ている。だが完全には一致していない。ジャガーが停止する。
「車両確認です。ご協力ください」
橘は制服を観察した。胸のエンブレムが、警察の規格とは微妙に違う。ジンが窓を少し下げた。
「どこの管轄?」
「地域合同の盗難対策です。類似車両のナンバー照合をしています」
照合依頼書が差し出された。形式は整っている。ジンが書類を一瞥し、何気なく言った。
「じゃあ無線で本部にナンバー飛ばしてくれ?」
一瞬、男の目が動いた。
「……こちらではセンター照会になります」
ジンの返答が、わずかに遅れた。
本物の警察なら、照会は最初から警察無線だ。民間のセンター照合など使わない。ジンはそれ以上何も言わなかった。エンジンを切った。
待機が始まる。車列は動かない。十分、三十分、一時間。男たちは丁寧だった。怒鳴らない。急かさない。ただ同じ言葉を繰り返す。「もう少しお待ちください」。その間に弦太の声が入った。
「僕は外から行くねん」
ジンは答えない。それが了承だった。インカムにバイクのエンジン音が響く。
再梱包センターの裏手、弦太はバイクを倉庫の陰に停めた。問題は裏口だった。金属扉、カード式電子ロック、上部に赤外線センサー、そして床に薄いプレート。重量センサー。弦太はポケットから細いワイヤーを取り出し、ドアの隙間へ滑り込ませた。内部のラッチを探る。カチ。ロックが外れた。だが扉を開けない。床のセンサーがある。ゆっくりと体重を移動させ、足先だけで床を触る。反応しない。次の一歩、センサーの端。わずかに軋む。止まる。呼吸を止める。警報は鳴らない。通過。中は薄暗い駐車スペースだった。その奥で、二人の男が立っていた。副代表と、黒いセダンの運転手。二人は握手をしていた。弦太はシャッター音を消して撮影する。その瞬間、奥の扉が開く音がした。警備員の足音。弦太は柱の陰へ滑り込み、警備員が通り過ぎるのを待ってから建物を出た。
検問から一時間三十分後、橘の端末が震えた。会社の上司だった。
「橘。今どこだ」
「国道の検問です」
「……そうか。画廊から正式抗議が来た。調査員による違法侵入と作品損傷の疑いだそうだ」
「昨夜の点検は許可を得ています」
「分かってる。俺はお前を信じてる。だがな、上がうるさい。理事会と保険会社本体が動き始めた。調査の停止命令が出そうだ」
橘は何も言えなかった。
「橘、本音を言うぞ。この案件、でかすぎる。お前を守り切れる自信が、正直ない」
「……ですが」
「分かってる。だから今すぐ帰社しろとは言わない。ただし記録だけは残せ。物理的証拠だ。書類じゃなくて、触れる証拠」
通話が切れた。
検問が解除されたのは、それから三十分後だった。「照合完了しました。問題ありません」。制服の男が微笑む。ジャガーが発進する。橘はバックミラーを見た。セダンはもういない。事務所に戻ると、ドアに書類が挟まれていた。業務制限通知。調査権限停止。静かな包囲だった。
「橘」
スピーカーから弦太の声。スマートフォンの画面が差し出される。副代表と黒いセダンの男が握手している写真だった。
「裏で会ってたんさ」
ジンが煙草をくわえた。
「検問で時間を稼いでる間にか」
橘は写真を見つめた。
「繋がりました。副代表、物流会社、検問。全部同じ線の上です」
窓の外で夜の灯りが点き始めていた。静かな包囲は、もう完成していた。
ジンの事務所を出たのは、午後三時を少し過ぎた頃だった。空は朝から変わらず鉛色のまま、低く垂れ込めている。風はない。雲は動かない。ただ重さだけが空に残っていた。ジャガーとバイクが道路へ出ると、バックミラーの中で黒いセダンがゆっくり動いた。追ってきている。だが車間距離は一定だった。詰めない。離れない。追い越さない。
橘はミラー越しに観察した。
「……撮影しています。フロントグリル内部に小型カメラ。ルーフ後端に通信アンテナ。ドライブレコーダーは外付けの増設型です」
ジンは前を見たまま答える。
「後方にもう一台いるん」
「確認した」
インカムから弦太の声が入る。
「威嚇じゃないんさ。証拠取りだよなん」
橘は端末を開いた。立入許可書、管理室での質問、ログの閲覧。すべてが今、第三者のカメラで記録されている。
「撮影されています。手順は記録に残る。不備扱いになる可能性があります」
弦太は小さく笑った。
「殴らないで殺すやり方なんさ」
国道に出た。トラックの列、排気の匂い、物流の幹線道路特有の重たい空気だった。前方に誘導灯が見えた。車列が減速している。
「検問かなん」
弦太はさりげなく左折する。
制服の男が二人立っていた。警察の制服に似ている。だが完全には一致していない。ジャガーが停止する。
「車両確認です。ご協力ください」
橘は制服を観察した。胸のエンブレムが、警察の規格とは微妙に違う。ジンが窓を少し下げた。
「どこの管轄?」
「地域合同の盗難対策です。類似車両のナンバー照合をしています」
照合依頼書が差し出された。形式は整っている。ジンが書類を一瞥し、何気なく言った。
「じゃあ無線で本部にナンバー飛ばしてくれ?」
一瞬、男の目が動いた。
「……こちらではセンター照会になります」
ジンの返答が、わずかに遅れた。
本物の警察なら、照会は最初から警察無線だ。民間のセンター照合など使わない。ジンはそれ以上何も言わなかった。エンジンを切った。
待機が始まる。車列は動かない。十分、三十分、一時間。男たちは丁寧だった。怒鳴らない。急かさない。ただ同じ言葉を繰り返す。「もう少しお待ちください」。その間に弦太の声が入った。
「僕は外から行くねん」
ジンは答えない。それが了承だった。インカムにバイクのエンジン音が響く。
再梱包センターの裏手、弦太はバイクを倉庫の陰に停めた。問題は裏口だった。金属扉、カード式電子ロック、上部に赤外線センサー、そして床に薄いプレート。重量センサー。弦太はポケットから細いワイヤーを取り出し、ドアの隙間へ滑り込ませた。内部のラッチを探る。カチ。ロックが外れた。だが扉を開けない。床のセンサーがある。ゆっくりと体重を移動させ、足先だけで床を触る。反応しない。次の一歩、センサーの端。わずかに軋む。止まる。呼吸を止める。警報は鳴らない。通過。中は薄暗い駐車スペースだった。その奥で、二人の男が立っていた。副代表と、黒いセダンの運転手。二人は握手をしていた。弦太はシャッター音を消して撮影する。その瞬間、奥の扉が開く音がした。警備員の足音。弦太は柱の陰へ滑り込み、警備員が通り過ぎるのを待ってから建物を出た。
検問から一時間三十分後、橘の端末が震えた。会社の上司だった。
「橘。今どこだ」
「国道の検問です」
「……そうか。画廊から正式抗議が来た。調査員による違法侵入と作品損傷の疑いだそうだ」
「昨夜の点検は許可を得ています」
「分かってる。俺はお前を信じてる。だがな、上がうるさい。理事会と保険会社本体が動き始めた。調査の停止命令が出そうだ」
橘は何も言えなかった。
「橘、本音を言うぞ。この案件、でかすぎる。お前を守り切れる自信が、正直ない」
「……ですが」
「分かってる。だから今すぐ帰社しろとは言わない。ただし記録だけは残せ。物理的証拠だ。書類じゃなくて、触れる証拠」
通話が切れた。
検問が解除されたのは、それから三十分後だった。「照合完了しました。問題ありません」。制服の男が微笑む。ジャガーが発進する。橘はバックミラーを見た。セダンはもういない。事務所に戻ると、ドアに書類が挟まれていた。業務制限通知。調査権限停止。静かな包囲だった。
「橘」
スピーカーから弦太の声。スマートフォンの画面が差し出される。副代表と黒いセダンの男が握手している写真だった。
「裏で会ってたんさ」
ジンが煙草をくわえた。
「検問で時間を稼いでる間にか」
橘は写真を見つめた。
「繋がりました。副代表、物流会社、検問。全部同じ線の上です」
窓の外で夜の灯りが点き始めていた。静かな包囲は、もう完成していた。


