浦和探偵 ジン 外伝   プロヴェナンス ――美術保険調査ファイル――

沈黙の断層
 
 夜の画廊では、音が沈む。昼間は柔らかく見えた白壁が、照明を落とすと冷たい面になる。足音は床に吸われ、声は短く切れる。空調の微かな風だけが、天井のどこかで一定の周期を刻んでいた。機械警備は作動中だった。入口脇の操作盤で赤いランプが一定間隔で点滅している。センサーは完全停止ではない。管理者が持つ携帯端末で、点検経路だけが一時的にバイパスされている。監視カメラは動いている。天井のドーム型レンズが、ゆっくりと回転した。
「こちらが今夜の記録です」
管理者がタブレットを掲げた。作業ログの画面が開かれている。開始時刻、点検対象、作業者名、すべて記録される。
「点検範囲は展示面のみ。解体は禁止。裏面確認は、額装を外さない範囲でお願いします」
声は穏やかだったが、目は鋭かった。
「承知しました」
橘は短く答える。弦太は何も言わない。展示番号七番の前で立ち止まると、管理者は少し離れた場所に腕を組んで立った。視線は、こちらから一瞬も外れない。
 「コンディションレポート、もう一回見てもいいん?」
弦太が低く言う。橘はファイルを開いた。開梱時損傷なし、支持体歪みなし、絵具層剥離なし、裏面ラベル写真添付、受入時重量三・八キログラム。
「問題は確認されておりません」
「昼とは違って見えるよなん」
弦太が額縁を見上げた。そのとき、背後から声がした。
「保存処置は入っています」
振り向くと、画廊の副代表が立っていた。昼間はいなかった。「裏面の安定処理です。輸送前に専門工房で軽く補強しています。古い作品ですからね。接着剤の匂いが多少残っているかもしれません」
言葉は滑らかだった。まるで先回りするように。橘は一瞬だけ視線を落とす。
「処置の記録は、どちらでしょうか」
「簡易処置です。修復申請が必要なレベルではありません。保護のための軽い裏打ちです」
副代表は肩をすくめた。管理者が腕時計を見る。
「裏面撮影は三分以内でお願いします。作業、続けてください」
弦太はニトリル手袋をはめた。青い手袋が静かに伸びる。
「持ち上げてみるんさ」
橘が反対側に回る。額縁を持ち上げる。二十号油彩、重量は規定範囲。だが持ち上げた瞬間にわかる。重心が右に寄っている。ほんの数センチ。均質な額装品なら起きない偏りだった。弦太が小さくつぶやく。
「……出てるなんよ」
橘はうなずかない。額縁を静かに戻す。
「裏面の撮影を行います」
 管理者は数秒黙り、うなずいた。橘は額縁の固定金具を外し、慎重に裏面を覗く。キャンバス張りは整っている。タックスの間隔も均一、木枠の反りもない。だが裏貼り紙が白い。経年の黄変がない。接着剤の縁が、まだ硬い。橘はタブレットで昼のレポート写真を拡大した。そこに写る紙の縁には繊維の毛羽立ちがある。今目の前にある断裁面は鋭利だった。刃物の切り口、新しい。同じ紙ではない。一度剥がされている。
「ここなんさ」
弦太が指さす。キャンバス縁に微細な穴。タックスではない。ホチキス痕、幅六ミリ。輸送保護紙に使われるサイズだ。橘は拡大鏡を当てた。断面が鋭い、新しい。
「一度外されてるんさ」
橘は答えない。管理者がこちらを見ている。副代表も黙っている。空調の風だけが天井で回る。
 橘は撮影を続けた。ラベル、紙縁、タックス配列、右側のキャンバス縁。すべて記録する。額縁を戻し、固定金具を締め、管理者へ向き直る。
「点検、完了しました」
——整合しない。
形式を守る。記録を残す。それが保険調査員の仕事だった。
 画廊を出ると、夜気は冷えていた。路肩に黒いジャガーが停まっている。ジンがエンジンをかける。古い直列六気筒が低く唸った。橘は助手席に乗り込み、弦太は後部座席へ。信号を一つ越えたところでジンが言った。
「再梱包センター、知ってるか」
「契約書には、ありません」
「書かない場所ほど、物が動く」
ジャガーは国道へ出る。トラックの列が光の帯を作っている。橘は前を見たまま答えた。
「確認します」
ジンはそれ以上言わない。ジャガーは一定の速度で、夜の浦和を抜けていった。その数時間後、展示番号七番の絵は展示室から姿を消すことになる。