姫ヶ岳の登山口はいくつかあるが、そのうち1つは寺のすぐ近くにあった。2人はバイクをそのまま停めさせてもらい、姫ヶ岳に足を踏み入れた。この辺りはすでに標高が高いため、頂上付近までは大人の足で3時間程度のことだった。目的地である6年前に心愛と父親が発見された場所は9合目付近であり、慣れない者だと同じように3時間近くかかるという。
姫ヶ岳は有名な山という訳でもなく、登山を目的として訪れる観光客はほとんどいない。登山口が観光地化していることもなく不便であることに加え、険しい割りに景観が優れていることもないなど登頂しても達成感が得られないから敬遠される傾向にある。しかし、一部の登山愛好家には8合目以降の岩場が難関ルートのため、チャレンジの目的で登頂する者もいるようだ。
先を急ごうとする燈矢を後ろにし、春斗が前を歩く。気持ちばかり焦ってオーバーペースで登ると、心愛を見付けつ前に体力を失って動けなくなるかも知れない。それに、そもそも燈矢の身体は運動不足の春斗のものなのだ。険しい山道を走るように登ることができるはずがない。
住職の言葉通り、姫ヶ岳の登山道は未整備で獣道レベルだった。登山口から10分も歩かないうちに道と藪の区別がつかなくなり、足下には木の根が飛び出し、注意していないと足を引っ掛けてバランスを崩してしまう。この山道を家族連れで登ることなど不可能に近い。それでも、春斗は元より燈矢も無駄口を叩かず、薮を掻き分けながら黙々と足を動かす。この状況で無駄に体力を使うことが、どんなに愚かな行動なのかを2人とも理解していたからだ。
そして、1時間以上が経過した頃、周囲の木々が低くなり前方の視界が開け始めた。そろそろ、8合目付近に到達するようだ。この辺りからは、登山愛好家から難関ルートと言われる岩場になる。足下が岩と砂利になり傾斜が更に厳しくなる。バランスを崩すと、かなり下まで滑り落ちてしまうことになる。しかも、片側は数十メートルはある崖であり、万一滑落すれば谷底まで止まれそうな場所は無い。ただ、草木が少なくなって登山ルートが明確に分かるため、よほどアクシデントが限りは滑する危険性は低いと思われる。
可能性が低いだけで、数年、十数年に一度は滑落事故が発生している。斯く言う心愛の父親も、その一人である。
2人が岩場に入ってすぐの時だった。突然、山頂から吹き下ろす風が強くなり、真っ白な霧が視界を奪い始めた。同時に、急激に周囲が暗くなった。
「もしかして、雨が降るのかな?」
そう呟いた春斗は、先ほど燈矢の父親が口にした言葉を思い出した。「ひと雨きそうだから」と。一応、春斗は出発前に天気予報で確認はしたが、雨が降る予報はなかった。ただ、「所によってにわか雨」とはなっていた気がする。
「燈矢、風向きからもしても、通り雨が降りそうな感じがする。一旦、あそこに非難しよう」
そう言って春斗が指差したのは、2メートル以上ありそうな巨石が折り重なり、ちょうど屋根のようになっている場所だった。
「分かった。一応カッパは持ってはいるが、雷はヤバイしな」
2人は急ぎ足で斜面を登ると、50メートルほど先にあった自然の屋根の下に隠れた。
屋根の下に潜り込み、5分もしないうちに雨が降り始めた。
夕立というほどには激しくはないが、地面で弾ける雨粒がクツを濡らしていく。霧に覆われ視界が希薄になり、雨音によって音が遮断された。そんな空間に異変が起きる。
春斗の目に、複数の人影が写った。
ユラユラと揺れながら近寄って来る。
燈矢の耳に、複数の呻き声が聞こえた。
四方から聞こえる声は徐々に大きくなる。
重傷を負った者が涙を流す姿が、春斗見える。
何度も誰かの名前を呼ぶ声が。燈矢の耳に届く。
少しずつ弱くなる雨。
雷鳴が遠ざかっていく。
山彦は、家族の元に戻りたくで足掻く霊なのかも知れない。
そうだとすれば、あの山彦は心愛の父親のものだ。
心愛を捜して彷徨い、やっと見付けた。
やっと、届いた思い。
その思いを、山姫に利用された。
せめて、この人達に安らぎを―――――
春斗は燈矢と手を繋ぐ。
燈矢も春斗と同じ思いだったのか前を向いた。
霧雨の中へと、息苦しさに耐えながら2人は足を踏み出す。
順番に歩み寄り、春斗の右手と燈矢の手を合わせて合掌する。
懐から御札を出し、額に貼り付けていく。
無念を抱えたままなのか、それとも、解放されて安堵したのか。
立ち止まったまま、あるいは、自ら歩み寄ってきて。
表情を歪めて、または、薄く笑いながら。
―――――遺した者達との縁が切れた。
通り雨が上がり、一気に霧が晴れていく。
雲間から差し込んだ光が、道標のように一本の道を形作った。
その先に、朱色に塗られた鳥居が小さく見える。
そこが、山の神様を祀った場所だ。そこで、心愛が2人を待っている。
姫ヶ岳は有名な山という訳でもなく、登山を目的として訪れる観光客はほとんどいない。登山口が観光地化していることもなく不便であることに加え、険しい割りに景観が優れていることもないなど登頂しても達成感が得られないから敬遠される傾向にある。しかし、一部の登山愛好家には8合目以降の岩場が難関ルートのため、チャレンジの目的で登頂する者もいるようだ。
先を急ごうとする燈矢を後ろにし、春斗が前を歩く。気持ちばかり焦ってオーバーペースで登ると、心愛を見付けつ前に体力を失って動けなくなるかも知れない。それに、そもそも燈矢の身体は運動不足の春斗のものなのだ。険しい山道を走るように登ることができるはずがない。
住職の言葉通り、姫ヶ岳の登山道は未整備で獣道レベルだった。登山口から10分も歩かないうちに道と藪の区別がつかなくなり、足下には木の根が飛び出し、注意していないと足を引っ掛けてバランスを崩してしまう。この山道を家族連れで登ることなど不可能に近い。それでも、春斗は元より燈矢も無駄口を叩かず、薮を掻き分けながら黙々と足を動かす。この状況で無駄に体力を使うことが、どんなに愚かな行動なのかを2人とも理解していたからだ。
そして、1時間以上が経過した頃、周囲の木々が低くなり前方の視界が開け始めた。そろそろ、8合目付近に到達するようだ。この辺りからは、登山愛好家から難関ルートと言われる岩場になる。足下が岩と砂利になり傾斜が更に厳しくなる。バランスを崩すと、かなり下まで滑り落ちてしまうことになる。しかも、片側は数十メートルはある崖であり、万一滑落すれば谷底まで止まれそうな場所は無い。ただ、草木が少なくなって登山ルートが明確に分かるため、よほどアクシデントが限りは滑する危険性は低いと思われる。
可能性が低いだけで、数年、十数年に一度は滑落事故が発生している。斯く言う心愛の父親も、その一人である。
2人が岩場に入ってすぐの時だった。突然、山頂から吹き下ろす風が強くなり、真っ白な霧が視界を奪い始めた。同時に、急激に周囲が暗くなった。
「もしかして、雨が降るのかな?」
そう呟いた春斗は、先ほど燈矢の父親が口にした言葉を思い出した。「ひと雨きそうだから」と。一応、春斗は出発前に天気予報で確認はしたが、雨が降る予報はなかった。ただ、「所によってにわか雨」とはなっていた気がする。
「燈矢、風向きからもしても、通り雨が降りそうな感じがする。一旦、あそこに非難しよう」
そう言って春斗が指差したのは、2メートル以上ありそうな巨石が折り重なり、ちょうど屋根のようになっている場所だった。
「分かった。一応カッパは持ってはいるが、雷はヤバイしな」
2人は急ぎ足で斜面を登ると、50メートルほど先にあった自然の屋根の下に隠れた。
屋根の下に潜り込み、5分もしないうちに雨が降り始めた。
夕立というほどには激しくはないが、地面で弾ける雨粒がクツを濡らしていく。霧に覆われ視界が希薄になり、雨音によって音が遮断された。そんな空間に異変が起きる。
春斗の目に、複数の人影が写った。
ユラユラと揺れながら近寄って来る。
燈矢の耳に、複数の呻き声が聞こえた。
四方から聞こえる声は徐々に大きくなる。
重傷を負った者が涙を流す姿が、春斗見える。
何度も誰かの名前を呼ぶ声が。燈矢の耳に届く。
少しずつ弱くなる雨。
雷鳴が遠ざかっていく。
山彦は、家族の元に戻りたくで足掻く霊なのかも知れない。
そうだとすれば、あの山彦は心愛の父親のものだ。
心愛を捜して彷徨い、やっと見付けた。
やっと、届いた思い。
その思いを、山姫に利用された。
せめて、この人達に安らぎを―――――
春斗は燈矢と手を繋ぐ。
燈矢も春斗と同じ思いだったのか前を向いた。
霧雨の中へと、息苦しさに耐えながら2人は足を踏み出す。
順番に歩み寄り、春斗の右手と燈矢の手を合わせて合掌する。
懐から御札を出し、額に貼り付けていく。
無念を抱えたままなのか、それとも、解放されて安堵したのか。
立ち止まったまま、あるいは、自ら歩み寄ってきて。
表情を歪めて、または、薄く笑いながら。
―――――遺した者達との縁が切れた。
通り雨が上がり、一気に霧が晴れていく。
雲間から差し込んだ光が、道標のように一本の道を形作った。
その先に、朱色に塗られた鳥居が小さく見える。
そこが、山の神様を祀った場所だ。そこで、心愛が2人を待っている。



