孤高の2人が手を繋ぐとき

 突然、春斗はテレビドラマの主人公になった。
 サスペンス・ドラマやホラー映画で見掛けるシーンであるが、それはあくまでも演出であって作り話だと思っていた。いや、ストーカー殺人などという事件をニュースで見た気はする。それも、どこか遠くで起きるものだと思っていた。

 青いワンピースに白いカーディガンを羽織った女性。背中まで伸びた黒髪は、慌ててベッドの下に潜ったからなのか乱れて顔を隠している。春斗に見覚えは無いが、同じ学校である生徒の可能性が高い。
 いや、この女性の素性など、今はどうでもいい。状況の把握と、今後の対応を考えなければならない。
 春斗は相手の挙動に最深の注意を払いながら、右手に包丁を持った女性と向き合った。


「もう・・・美玖のこと嫌いになったよね」
 不意に、美玖と名乗った女性が口を開いた。
 美玖という名前を思い浮かべるが、春斗には全く心当たりがない。そもそも、女子生徒の名前など1人として覚えていなかった。
「勝手に部屋に上がり込んでベッドに寝転んだり、クローゼットに入っていた服を羽織ったり、ああ、トランクスは1着お土産に貰って行くね。代わりに、私が履いていたパンティを入れてあるから。いいよね?あとね、さっき燈矢君が握ったドアノブ。燈矢君の手汗が染み付いていたから、キレイに舐め取っておいたから」

 乱れた髪の間から、異様に大きい黒目が春斗の目を覗き込んでくる。
 美玖の口にしている言葉が全く理解できず、意味を咀嚼しようと春斗は努力する。
 何も声を発しない春斗を暫く眺めていた美玖が、唐突に満面の笑みを浮かべた。

「怒らないってことは、美玖を赦してくれるってこと?ありがとう。やっぱり、燈矢君は美玖のことを愛しているんだね。良かったあ。これからもずっとずっと、一緒にいていいんだね。嬉しい。いつも燈矢君の周りには女の子がいっぱいいるし、私なんか、名前も覚えてもらえてないんじゃないかなって、そう思っていたんだ。でもね、去年の11月18日12時23分に、廊下で転びそうになった私を抱き止めてくれたよね。笑顔で、大丈夫、って言ってくれたよね。もう、運命の出会いだって思ったんだ。どんなに障害があっても、絶対に乗り越えてみせるって、神様に誓ったんだよ。だけど、なかなか話しもできなくって。ずっと、美玖は悲しかったんだ。でもね、なかなか言葉を交わせなくても、心はずっと1つだって思ってたんだ。毎日1万回は好きだってノートに書いてたし。ああ、もう、ノートも10冊を超えたんだよ。今度、プレゼントするね。でもね、それでも、時々ね、会えなくて胸が苦しくなることがあるんだ。声が聞けなくて、心臓がドクドクうるさくなる時があるんだ。きっと、燈矢君に会えないと私は死んじゃうんだと思う。燈矢君の声が聞けないと、私は生きていけないんだと思う。燈矢君が私の側にいないと、私は、私はさ、頭の中がグチャグチャになって、もう何もかもがどうでも良くなってしまうんだ。だから、今日はどうしても会いたくて来ちゃったんだ。もし、私のジャマをする人がいたら、排除しようと思って、コレも持ってきたんだ。用意周到だよね、私って。絶対に、良いお嫁さんになると思うよ」

 垣間見える頬を真っ赤に染めながら話し続ける美玖。
 誰がどう見ても、正気の沙汰ではない。
 感情の昂ぶりとともに自分を肯定していく。
 自分が善だと認識していく。
 自己中心的に事実を捻じ曲げていく。
 白が黒になり、黒が白になる。
 愛してる。
 愛されている。
 現実が虚構に塗り潰されていく。
 春斗は美玖の言葉を聞きながら身震いする。
 狂気に飲み込まれてしまう。
 この状況はどうにかしなければならない。
 しかし、すでに思考力が低下している。
 それでも、もう少しすれば2人が帰宅してしまう。

 突然、美玖の双眸が春斗を捉えた。
 (スダレ)のように垂れ下がる黒髪の向こう側で、喜色を湛えて目が弓なりなった。

「ねえ、燈矢君。私は貴方をこんなにも愛しているわ。愛してる、愛してる、愛してる。何度だって言える。だから、燈矢君も、私を愛してるって言って欲しいな」
 美玖は少しずつ春斗との距離を詰め始める。窓際に置いてあるベッドの位置から、春斗が立っているドアに向かって歩いてくる。
 方法を何も思い付かないため、春斗は時間を稼ぐために「愛してる」と口にしようとする。しかし、それを美玖が遮った。
「愛・・・・・」
「名前を呼んで。名前を呼んでから、愛してるって言って」
「美・・・玖」
「違う。ちゃんと、フルネームで呼んで。他の美玖ではなく、私だと、ちゃんと特定して欲しいんだ」

 春斗の頭の中が真っ白になった。
 この美玖が誰なのかを、春斗は知らない。
 同じ学校の生徒だとしても、仮にクラスメートだとしても、他人に関心が無い春斗がフルネームで覚えている可能性は極めて低い。そもそも、春斗は目の前にいる美玖を、今日初めて見たと認識している。当然、フルネームなど知っているはずがないのだ。

 春斗の言葉を待っている美玖の気配が徐々に黒く染まっていく。
 それは春斗にも分かった。
 しかし、適当な名前を口にすることもできない。
 美玖に対して「知らない」と告げることはできない。

 包丁を持つ右手からギリギリという音が聞こえ始める。
 春斗の視線の先で、力を込め過ぎた美玖の右手が真っ白になっていく。


「ねえ、燈矢君―――――愛し合うのは来世にしようか?」