それから、数ヶ月の月日が流れた。
藤堂家は春弥の手によって、常世の国へ送られた。
和咲は常世の国をよく知らない。
この世界の中央にある、生きていくのにとても大変な場所という基本的な知識しか知らなかったが、春弥はそれでいいと言った。
罪を犯した人間たちを常世の国へ送れるのは、春弥が天狐の末裔だからだ。
「これで、藤堂家は界雷から名を消した」
「名を?」
「そうだ。和咲、人は二度死ぬという言葉を知っているか?」
ちょうど、数日前に家庭教師との雑談で出てきた話題だったので、和咲は「はい」と素直に返事をする。
「……人の記憶から消えることが、二度目の死だと教わりました」
「ああ。人間は亡くなると天に向かい、魂を真っ白にして生まれ変わると言われている。そうして、再びこの世に生まれるのだ」
春弥は和咲の自室のソファに座り、指でくるりと大きな丸を描いた。
「だから、きっと和咲のご両親も生まれ変わる準備をしているだろう」
「生まれ変わる……」
「有馬家に縁のある家に生まれるかもしれないし、別の国に生まれるかもしれない。そればかりは俺にもわからない。だが」
一度言葉を切り、春弥は手を和咲の頬に添える。
「きっと今度は、最期まで幸せに生きるだろう」
「……そうだと、いいな」
和咲は目を伏せる。もしも両親が生まれ変わるのなら、今度こそ長く生きて幸せになってもらいたい。
しかし、それが二度死ぬこととなにか関係があるのだろうか? と疑問を抱くと、春弥は言葉を続けた。
「藤堂家は今後、誰も名にすることはないだろう。人々の記憶から完璧に彼らのことが消えたとき、それが『二度目の死』だ」
「藤堂家のことを、忘れる日が来るでしょうか……?」
「来るだろう。そのためにも、和咲にはたくさん、楽しい記憶でつらい記憶を塗り替える必要がある」
キッパリと断言した春弥の顔は、真剣そのものだった。
和咲のために言ってくれていることは、理解している。
「それは、春弥さんも同じではありませんか?」
「俺が?」
「はい。私のために藤堂家を調べていく過程で、知りたくもない悪行を知ったのでしょう?」
神尾家に初めて来てからの三ヶ月、ずっと和咲を独占していた春弥がどうやって調べ上げたのか――その方法を教えてもらい、和咲はずっと気がかりだった。
天狐の力を宿した、小さな狐をあちらこちらに派遣して、情報を収集していたらしい。手のひらほどの、本当に小さな狐だ。
和咲が家庭教師と勉強している時間と、眠りに落ちた時間を使い、情報を整理し、ようやくすべての悪行を把握した途端、和咲に手紙が届いた。
白雨が春弥の仕事場に乗り込み、『お嬢さまが!』と慌てふためく姿を見て、春弥は和咲の指輪に注いだ力を探知し、あの場に移動した。
すぐに春弥に報告してくれたおかげで、最悪の事態は回避できた。そのことに安堵している。
それと同時に、体内をめぐる血液が沸騰しそうなほどの憤りを感じた。
和咲を傷つけた藤堂家に対してともうひとつ、和咲を守れなかった自分自身の不甲斐なさに。
だが、初めて和咲がその声で助けを呼び、春弥の名を呼んだことに歓喜もした。
「世の中には悪意も溢れているが、それと同じように善意も溢れている」
「春弥さん……?」
「藤堂家の悪行を集めていると、有馬家の評判も集まったんだ」
春弥はソファから立ち上がり、和咲の部屋に置いてある鈴を鳴らした。すぐに大量の書類を持った白雨が現れた。
書類を和咲が座っているソファの前にあるローテーブルに置いて、一部を手渡す。
「これはいったい?」
「読んでみればわかる」
和咲は書類に視線を落とし、それが有馬家のことであるとわかると、何度か春弥と書類を交互に見て、彼がただ優しく微笑んでいたので、読み進めることにした。
その書類は、有馬家の善行が記載されていた。
孤児院に寄付した、強盗を捕まえた、道に迷っている人を案内した――大きなことから小さなことまでの善行が羅列されていて、和咲は言葉を呑む。
助けられた人たちが、有馬家の両親が亡くなったことに対し、嘆き悲しんでいたことも記されていたのだ。
『子どもの笑顔を見ると、疲れが吹き飛ぶと言っていた』
『あの子のために自分ができることをしたい、と語っていた』
『善意はめぐるものだから、とお礼に金一封を用意しようとしたら断られた』
『その代わり、困っている人がいれば助けてあげてほしい、と頼まれた』
なによりも、両親が和咲をどう思っていたのか、そしてなぜ人助けをしていたのかを知ることができて、和咲は胸になにかが込み上げる。
「……ッ」
堰を切ったように溢れる涙が和咲の頬を伝い、書類に水滴が落ちた。
書類を持つ手が震え、くしゃりと皺ができてしまったが、春弥も白雨もなにも言わない。好きなだけ涙を流せばいい、とただ見守っていた。
時折和咲の肩が跳ね、もっと泣きたいのに我慢しているように感じ、春弥は彼女の隣に座って、そっと抱き寄せる。
書類から手を離し、春弥の胸の中で和咲は泣き続けた。
両親が、和咲の――いや、和咲だけではなく、多くの人の心に残り、生き続けている。
「だから、悪行を調べることも苦ではなかった」
それが、和咲の問いへの答えだと気づき、春弥と視線を合わせた。
「何度感謝しても、感謝しきれないくらいです……」
不幸の中にいた和咲を連れ出し、大切にしてくれた人。
和咲の中で、少しずつ気持ちが大きくなっていった。
「言っただろう。天狐は受けた恩を忘れない、と」
くすっと笑う顔はとてもまぶしくて、和咲は目を細める。
こんなに素敵な人の婚約者が、本当に自分でいいのだろうかという考えが一瞬頭の片隅によぎった。
「それに、これでようやく和咲は俺のことを見てくれるだろう?」
「……えっ? それは、どういう……」
「今まで、未来のことを考える余裕はなかっただろう?」
春弥に問われて、和咲は確かにそうだと心の中でつぶやく。
両親が亡くなった五歳頃から、神尾家に保護されるまでの十一年間。
ただただ耐えてきた。真清や他の使用人からの嫌がらせは、どんどんと過激になっていき、最終的には襲われるという事態にまで起きた。
もしも自分があの手紙を読んだとき、最初から春弥に助けを求めていたらどうなっていたのだろうか、と想像して和咲は目を伏せる。
(……私が、私の気持ちを信じられなかっただけ)
きっと、春弥は和咲が助けを求めたら、すぐに手を貸してくれただろう。
だけどあの瞬間、和咲の頭にあったのは両親の形見のことだけで、春弥に縋ろうとは思いつかなかった。
いや、それには語弊がある。
『そんなこともひとりで解決できないのか』
と、心底呆れられるのが怖かっただけ。
今なら、春弥がそんなことを言わないと断言できる。
春弥との付き合いは藤堂家の人たちよりも短いが、藤堂家の人たちよりも濃密な関係を築いていると、今なら胸を張って言えるのだ。
「……そうですね。心も身体も、痛みに耐えていた分、未来を想像することなんてできませんでした」
本当のことだ。あのまま藤堂家で暮らしていたら――そう考えてゾッと悪寒が走った。
「そうだろうな。ならば、今から考えてほしい。俺と結婚することを」
するりと春弥の手が和咲の左手を撫で、薬指の指輪に触れる。
神尾家に来たときにはめられた指輪は、今日もしっかりときらめいていた。
「……その答えは、もう決まっているんです」
和咲の言葉が意外だったのか、少しだけ春弥の目が見開く。
「私は、神尾家に恩を返したい。……そして、できれば、あなたのそばにいたいと願っているのです」
和咲は春弥の手に自身の手を重ねた。
「私は学がなくてみすぼらしい、と言われてきました。ですが、春弥さんが家庭教師を雇ってくれたおかげで、少しずつですがいろんなことを学んでいます。みすぼらしいと言われた身なりは、春弥さんが整えてくれました。貧相な身体だったのも、今ではだいぶ肉付きよくなったと思います」
三食をしっかりと食べることで、骨と皮のようだった身体はだいぶふっくらと女性らしい丸みを帯びた身体になり、春弥が用意してくれた服を着ても見栄えがよくなった。さらに、学習能力は家庭教師の折り紙つきだ。
こんなによくしてもらっているのに、春弥は足りないとばかりに和咲を甘やかす。
自分だって春弥を甘やかしたい。しかし、和咲にはどうすれば春弥にも甘えてもらえるのか、わからなかった。
白雨は『お嬢さまを甘やかすのが、旦那さまの趣味にゃー』と笑っていた。
「だから、えっと、私に甘えてください!」
ぎゅっと春弥の手を握りしめそう伝えると、彼は天井を仰いだ。
それからすぐ、和咲の肩に自身の額を押しつけて顔を隠す。
「春弥さん?」
「……あー……白雨はこれで失礼しまぁす。あとはおふたりでごゆっくりと、ごゆっくりとお過ごしくださいませー!」
そんなふたりを眺めていた白雨は、肩をすくめてその場から逃げ出した。ふたりの甘い雰囲気に割り込むのは悪いと思ったが、呼ばれない限り和咲の部屋に近づかないよう、使用人たちに伝えなくては、と。
「白雨っ?」
ごゆっくり、を強調して去った白雨を目で追いかけたが、彼女はすでに部屋から姿を消していた。
「俺に『甘えて』と言ったのは、和咲が初めてだ」
「えっ、そうなのですか?」
「ああ。天狐の末裔として、なにかをしてほしいと言われることは多かったが……」
神尾家は人間とあやかしの共存を目指している。だからこそ、双方に困ったことがあれば駆り出されることが多い。
考え方がそれぞれ違うため、折り合いをつけるためにも神尾家は中立の立場を貫いていた。
長く続く神尾家の歴史の中でも、今回の有馬家の件を含めた藤堂家の悪行は、あまりにも惨かった。あやかしたちも顔をしかめるほどに。
「そうか、甘やかしているつもりが、甘えていたのかもしれないな」
「春弥さん……?」
和咲を甘やかすことで、必要とされたかったのかもしれない。春弥はそう自己分析して、くくっと喉奥で笑った。
溢れるほどの愛情を注いだのは、和咲が春弥から離れさせなくするため。
つらい思いをしてきた和咲にとって、春弥の愛情はずっと欲していたものだろうと計算していたのだ、無意識ながら。
「俺もまだまだ青いな……」
小さく息を吐く春弥は、和咲のことをぎゅっと強く抱きしめる。
あまりにも小声だったため、和咲には春弥がなにを言ったのかは聞こえなかった。ただ、その体温が心地よくて、彼の背中に腕を回した。
◆◆◆
それから、和咲と春弥はゆっくりと、丁寧に互いことを知っていった。
春弥は仕事がある日は、帰宅すると和咲のそばから離れず、休日は外に出ていろいろなところを見回った。
和咲と春弥は、神尾家から徒歩三十分くらいにある公園のベンチに座っていた。
金木犀の甘い香りが鼻腔をくすぐる。
この匂いを嗅ぐと、どこか懐かしさを覚えるのは、おそらく両親と手を繋いで歩いていた記憶があるからだろう。
父と母に挟まれていた頃の、淡い記憶が鮮明によみがえり、和咲は目を細めて空を仰いだ。
「天に両親がいるのなら、今の私たちも見守ってくれているのでしょうか」
「きっとな。……ああ、今日はいい天気だ」
雲ひとつない晴天だった。程よく暖かく、こうしてベンチに座っていると心が凪ぐ。
そんな、穏やかな日だ。
「和咲」
「はい」
「結婚式の日取りを、そろそろ決めようか」
「ふふ、そうですね。正式に、春弥さんの妻になりたいです」
女性は十六歳から結婚を許される。和咲はもう結婚できる年齢なのだ。
春弥は「そうか」とうっすら頬を染めた。和咲はそんな彼の顔を見るのも好きだ。
数度、弁当を作って春弥の職場に届けに行ったことがある。
そのとき、春弥のそばには女性がいたが、彼は冷たくあしらっていた。
だが、和咲に気づくとパァッと一瞬で顔を明るくして、嬉々として和咲に近づいて来た。弁当の入った包みを受け取ると、心底愛しいとばかりに微笑んでいた。それを目撃した春弥の部下が『え、笑ってる……?』とこぼれ落ちそうになるほど目を見開いていた。
春弥に取り入ろうとしていた女性は、複雑そうに表情を歪めて、去っていった。
同じことが重なると、さすがに春弥の職場に『神尾家の当主は婚約者に心底惚れ込んでいる』という噂が流れるようになった。
そのことを思い出し、和咲は顔を赤らめる。
周りからはいったい、自分たちの関係はどんなふうに見えているのか、と。
「和咲の誕生日に式を挙げようか?」
「春弥さんの誕生日でもいいんですよ?」
誕生日と結婚記念日が重なるのも、素敵なことだと思う。
「いや、和咲の誕生日がいい。それなら、二度お祝いできるからな」
どうやら、春弥は愛情を『与えたい』という気持ちが強いようだ。
和咲はそんな春弥を見ると、心がくすぐったくなる。
大切にされていることがわかる。自分のことよりも和咲のことを優先してしまう春弥に、それならば自分が彼のことを優先すればいいと考えた。
「それじゃあ……毎年、お祝いをお願いしますね?」
「ああ、任せてくれ」
はちみつのように甘い声色で、春弥は答えた。
和咲はそっと彼の頬に手を添えると、目を閉じる。
春弥は小さく笑い、和咲の唇に自身の唇を重ねた。
その瞬間、そよ風が吹いた。
――まるで、ふたりのことを祝福するような、優しいそよ風だった。
ふたりは視線と指を絡めて、笑い合う。
きっと、自分たちのことを有馬家の両親が祝福してくれたのだ、と同じことを考えて、幸せな時間を過ごした。
了
藤堂家は春弥の手によって、常世の国へ送られた。
和咲は常世の国をよく知らない。
この世界の中央にある、生きていくのにとても大変な場所という基本的な知識しか知らなかったが、春弥はそれでいいと言った。
罪を犯した人間たちを常世の国へ送れるのは、春弥が天狐の末裔だからだ。
「これで、藤堂家は界雷から名を消した」
「名を?」
「そうだ。和咲、人は二度死ぬという言葉を知っているか?」
ちょうど、数日前に家庭教師との雑談で出てきた話題だったので、和咲は「はい」と素直に返事をする。
「……人の記憶から消えることが、二度目の死だと教わりました」
「ああ。人間は亡くなると天に向かい、魂を真っ白にして生まれ変わると言われている。そうして、再びこの世に生まれるのだ」
春弥は和咲の自室のソファに座り、指でくるりと大きな丸を描いた。
「だから、きっと和咲のご両親も生まれ変わる準備をしているだろう」
「生まれ変わる……」
「有馬家に縁のある家に生まれるかもしれないし、別の国に生まれるかもしれない。そればかりは俺にもわからない。だが」
一度言葉を切り、春弥は手を和咲の頬に添える。
「きっと今度は、最期まで幸せに生きるだろう」
「……そうだと、いいな」
和咲は目を伏せる。もしも両親が生まれ変わるのなら、今度こそ長く生きて幸せになってもらいたい。
しかし、それが二度死ぬこととなにか関係があるのだろうか? と疑問を抱くと、春弥は言葉を続けた。
「藤堂家は今後、誰も名にすることはないだろう。人々の記憶から完璧に彼らのことが消えたとき、それが『二度目の死』だ」
「藤堂家のことを、忘れる日が来るでしょうか……?」
「来るだろう。そのためにも、和咲にはたくさん、楽しい記憶でつらい記憶を塗り替える必要がある」
キッパリと断言した春弥の顔は、真剣そのものだった。
和咲のために言ってくれていることは、理解している。
「それは、春弥さんも同じではありませんか?」
「俺が?」
「はい。私のために藤堂家を調べていく過程で、知りたくもない悪行を知ったのでしょう?」
神尾家に初めて来てからの三ヶ月、ずっと和咲を独占していた春弥がどうやって調べ上げたのか――その方法を教えてもらい、和咲はずっと気がかりだった。
天狐の力を宿した、小さな狐をあちらこちらに派遣して、情報を収集していたらしい。手のひらほどの、本当に小さな狐だ。
和咲が家庭教師と勉強している時間と、眠りに落ちた時間を使い、情報を整理し、ようやくすべての悪行を把握した途端、和咲に手紙が届いた。
白雨が春弥の仕事場に乗り込み、『お嬢さまが!』と慌てふためく姿を見て、春弥は和咲の指輪に注いだ力を探知し、あの場に移動した。
すぐに春弥に報告してくれたおかげで、最悪の事態は回避できた。そのことに安堵している。
それと同時に、体内をめぐる血液が沸騰しそうなほどの憤りを感じた。
和咲を傷つけた藤堂家に対してともうひとつ、和咲を守れなかった自分自身の不甲斐なさに。
だが、初めて和咲がその声で助けを呼び、春弥の名を呼んだことに歓喜もした。
「世の中には悪意も溢れているが、それと同じように善意も溢れている」
「春弥さん……?」
「藤堂家の悪行を集めていると、有馬家の評判も集まったんだ」
春弥はソファから立ち上がり、和咲の部屋に置いてある鈴を鳴らした。すぐに大量の書類を持った白雨が現れた。
書類を和咲が座っているソファの前にあるローテーブルに置いて、一部を手渡す。
「これはいったい?」
「読んでみればわかる」
和咲は書類に視線を落とし、それが有馬家のことであるとわかると、何度か春弥と書類を交互に見て、彼がただ優しく微笑んでいたので、読み進めることにした。
その書類は、有馬家の善行が記載されていた。
孤児院に寄付した、強盗を捕まえた、道に迷っている人を案内した――大きなことから小さなことまでの善行が羅列されていて、和咲は言葉を呑む。
助けられた人たちが、有馬家の両親が亡くなったことに対し、嘆き悲しんでいたことも記されていたのだ。
『子どもの笑顔を見ると、疲れが吹き飛ぶと言っていた』
『あの子のために自分ができることをしたい、と語っていた』
『善意はめぐるものだから、とお礼に金一封を用意しようとしたら断られた』
『その代わり、困っている人がいれば助けてあげてほしい、と頼まれた』
なによりも、両親が和咲をどう思っていたのか、そしてなぜ人助けをしていたのかを知ることができて、和咲は胸になにかが込み上げる。
「……ッ」
堰を切ったように溢れる涙が和咲の頬を伝い、書類に水滴が落ちた。
書類を持つ手が震え、くしゃりと皺ができてしまったが、春弥も白雨もなにも言わない。好きなだけ涙を流せばいい、とただ見守っていた。
時折和咲の肩が跳ね、もっと泣きたいのに我慢しているように感じ、春弥は彼女の隣に座って、そっと抱き寄せる。
書類から手を離し、春弥の胸の中で和咲は泣き続けた。
両親が、和咲の――いや、和咲だけではなく、多くの人の心に残り、生き続けている。
「だから、悪行を調べることも苦ではなかった」
それが、和咲の問いへの答えだと気づき、春弥と視線を合わせた。
「何度感謝しても、感謝しきれないくらいです……」
不幸の中にいた和咲を連れ出し、大切にしてくれた人。
和咲の中で、少しずつ気持ちが大きくなっていった。
「言っただろう。天狐は受けた恩を忘れない、と」
くすっと笑う顔はとてもまぶしくて、和咲は目を細める。
こんなに素敵な人の婚約者が、本当に自分でいいのだろうかという考えが一瞬頭の片隅によぎった。
「それに、これでようやく和咲は俺のことを見てくれるだろう?」
「……えっ? それは、どういう……」
「今まで、未来のことを考える余裕はなかっただろう?」
春弥に問われて、和咲は確かにそうだと心の中でつぶやく。
両親が亡くなった五歳頃から、神尾家に保護されるまでの十一年間。
ただただ耐えてきた。真清や他の使用人からの嫌がらせは、どんどんと過激になっていき、最終的には襲われるという事態にまで起きた。
もしも自分があの手紙を読んだとき、最初から春弥に助けを求めていたらどうなっていたのだろうか、と想像して和咲は目を伏せる。
(……私が、私の気持ちを信じられなかっただけ)
きっと、春弥は和咲が助けを求めたら、すぐに手を貸してくれただろう。
だけどあの瞬間、和咲の頭にあったのは両親の形見のことだけで、春弥に縋ろうとは思いつかなかった。
いや、それには語弊がある。
『そんなこともひとりで解決できないのか』
と、心底呆れられるのが怖かっただけ。
今なら、春弥がそんなことを言わないと断言できる。
春弥との付き合いは藤堂家の人たちよりも短いが、藤堂家の人たちよりも濃密な関係を築いていると、今なら胸を張って言えるのだ。
「……そうですね。心も身体も、痛みに耐えていた分、未来を想像することなんてできませんでした」
本当のことだ。あのまま藤堂家で暮らしていたら――そう考えてゾッと悪寒が走った。
「そうだろうな。ならば、今から考えてほしい。俺と結婚することを」
するりと春弥の手が和咲の左手を撫で、薬指の指輪に触れる。
神尾家に来たときにはめられた指輪は、今日もしっかりときらめいていた。
「……その答えは、もう決まっているんです」
和咲の言葉が意外だったのか、少しだけ春弥の目が見開く。
「私は、神尾家に恩を返したい。……そして、できれば、あなたのそばにいたいと願っているのです」
和咲は春弥の手に自身の手を重ねた。
「私は学がなくてみすぼらしい、と言われてきました。ですが、春弥さんが家庭教師を雇ってくれたおかげで、少しずつですがいろんなことを学んでいます。みすぼらしいと言われた身なりは、春弥さんが整えてくれました。貧相な身体だったのも、今ではだいぶ肉付きよくなったと思います」
三食をしっかりと食べることで、骨と皮のようだった身体はだいぶふっくらと女性らしい丸みを帯びた身体になり、春弥が用意してくれた服を着ても見栄えがよくなった。さらに、学習能力は家庭教師の折り紙つきだ。
こんなによくしてもらっているのに、春弥は足りないとばかりに和咲を甘やかす。
自分だって春弥を甘やかしたい。しかし、和咲にはどうすれば春弥にも甘えてもらえるのか、わからなかった。
白雨は『お嬢さまを甘やかすのが、旦那さまの趣味にゃー』と笑っていた。
「だから、えっと、私に甘えてください!」
ぎゅっと春弥の手を握りしめそう伝えると、彼は天井を仰いだ。
それからすぐ、和咲の肩に自身の額を押しつけて顔を隠す。
「春弥さん?」
「……あー……白雨はこれで失礼しまぁす。あとはおふたりでごゆっくりと、ごゆっくりとお過ごしくださいませー!」
そんなふたりを眺めていた白雨は、肩をすくめてその場から逃げ出した。ふたりの甘い雰囲気に割り込むのは悪いと思ったが、呼ばれない限り和咲の部屋に近づかないよう、使用人たちに伝えなくては、と。
「白雨っ?」
ごゆっくり、を強調して去った白雨を目で追いかけたが、彼女はすでに部屋から姿を消していた。
「俺に『甘えて』と言ったのは、和咲が初めてだ」
「えっ、そうなのですか?」
「ああ。天狐の末裔として、なにかをしてほしいと言われることは多かったが……」
神尾家は人間とあやかしの共存を目指している。だからこそ、双方に困ったことがあれば駆り出されることが多い。
考え方がそれぞれ違うため、折り合いをつけるためにも神尾家は中立の立場を貫いていた。
長く続く神尾家の歴史の中でも、今回の有馬家の件を含めた藤堂家の悪行は、あまりにも惨かった。あやかしたちも顔をしかめるほどに。
「そうか、甘やかしているつもりが、甘えていたのかもしれないな」
「春弥さん……?」
和咲を甘やかすことで、必要とされたかったのかもしれない。春弥はそう自己分析して、くくっと喉奥で笑った。
溢れるほどの愛情を注いだのは、和咲が春弥から離れさせなくするため。
つらい思いをしてきた和咲にとって、春弥の愛情はずっと欲していたものだろうと計算していたのだ、無意識ながら。
「俺もまだまだ青いな……」
小さく息を吐く春弥は、和咲のことをぎゅっと強く抱きしめる。
あまりにも小声だったため、和咲には春弥がなにを言ったのかは聞こえなかった。ただ、その体温が心地よくて、彼の背中に腕を回した。
◆◆◆
それから、和咲と春弥はゆっくりと、丁寧に互いことを知っていった。
春弥は仕事がある日は、帰宅すると和咲のそばから離れず、休日は外に出ていろいろなところを見回った。
和咲と春弥は、神尾家から徒歩三十分くらいにある公園のベンチに座っていた。
金木犀の甘い香りが鼻腔をくすぐる。
この匂いを嗅ぐと、どこか懐かしさを覚えるのは、おそらく両親と手を繋いで歩いていた記憶があるからだろう。
父と母に挟まれていた頃の、淡い記憶が鮮明によみがえり、和咲は目を細めて空を仰いだ。
「天に両親がいるのなら、今の私たちも見守ってくれているのでしょうか」
「きっとな。……ああ、今日はいい天気だ」
雲ひとつない晴天だった。程よく暖かく、こうしてベンチに座っていると心が凪ぐ。
そんな、穏やかな日だ。
「和咲」
「はい」
「結婚式の日取りを、そろそろ決めようか」
「ふふ、そうですね。正式に、春弥さんの妻になりたいです」
女性は十六歳から結婚を許される。和咲はもう結婚できる年齢なのだ。
春弥は「そうか」とうっすら頬を染めた。和咲はそんな彼の顔を見るのも好きだ。
数度、弁当を作って春弥の職場に届けに行ったことがある。
そのとき、春弥のそばには女性がいたが、彼は冷たくあしらっていた。
だが、和咲に気づくとパァッと一瞬で顔を明るくして、嬉々として和咲に近づいて来た。弁当の入った包みを受け取ると、心底愛しいとばかりに微笑んでいた。それを目撃した春弥の部下が『え、笑ってる……?』とこぼれ落ちそうになるほど目を見開いていた。
春弥に取り入ろうとしていた女性は、複雑そうに表情を歪めて、去っていった。
同じことが重なると、さすがに春弥の職場に『神尾家の当主は婚約者に心底惚れ込んでいる』という噂が流れるようになった。
そのことを思い出し、和咲は顔を赤らめる。
周りからはいったい、自分たちの関係はどんなふうに見えているのか、と。
「和咲の誕生日に式を挙げようか?」
「春弥さんの誕生日でもいいんですよ?」
誕生日と結婚記念日が重なるのも、素敵なことだと思う。
「いや、和咲の誕生日がいい。それなら、二度お祝いできるからな」
どうやら、春弥は愛情を『与えたい』という気持ちが強いようだ。
和咲はそんな春弥を見ると、心がくすぐったくなる。
大切にされていることがわかる。自分のことよりも和咲のことを優先してしまう春弥に、それならば自分が彼のことを優先すればいいと考えた。
「それじゃあ……毎年、お祝いをお願いしますね?」
「ああ、任せてくれ」
はちみつのように甘い声色で、春弥は答えた。
和咲はそっと彼の頬に手を添えると、目を閉じる。
春弥は小さく笑い、和咲の唇に自身の唇を重ねた。
その瞬間、そよ風が吹いた。
――まるで、ふたりのことを祝福するような、優しいそよ風だった。
ふたりは視線と指を絡めて、笑い合う。
きっと、自分たちのことを有馬家の両親が祝福してくれたのだ、と同じことを考えて、幸せな時間を過ごした。
了



