【完結】眉目秀麗な天狐は、虐げられた乙女を独占して離さない

 この国――(かい)(らい)には、天狐の末裔がいる。

 あやかしと人間の共存を目指し、積極的に活動しているため有名な一族だ。

 現在の当主――(かみ)()(はる)()は、目の前の藤堂家の人々の話を、興味なさそうに右から左へ聞き流していた。

 もともと、この藤堂家の訪問を決めたのは、求めていた人の気配を感じたからで、藤堂家の自慢話を聞くためではない。

 心底うんざりとした顔を隠さずにいると、真清が眉を八の字にして頬に手を添えた。

「申し訳ありません、父の話が長くて……」

 神尾家と懇意になる絶好の機会だと、張り切って美しく着飾った真清は彼に近づこうとした。

 だが、鋭い眼光に射貫かれ、真清はビクッと動きを硬直させ、取り繕うように笑う。

「……その(かんざし)は?」

 ふと、春弥が真清の簪に興味を示した。自分に興味を持ってくれたことに安堵して、真清は嬉々として語り出す。

「素晴らしいものでしょう? とても腕のある職人が作ったものらしいです。とある家の方からいただきました。わたくしのほうが似合うだろう、と」

 ぴくり、と春弥の片眉が跳ねる。じろりと睨まれて、困惑の色を浮かべる真清に、春弥は自身の銀色の髪をかき上げて大きなため息を吐いた。

「有馬家の者が、その簪をお前に? あり得ぬな」
「なっ! なぜそんなことをおっしゃるのですか?」
「その簪は、代々有馬家の娘に受け継がれるものだ」

 目を大きく見開いたのは、真清だけではない。藤堂家の当主も同じ顔をしていた。

「返してもらう」

 すい、と簪を真清の頭から引き抜くと、彼女の髪がはらりと落ちる。

 呆然としている真清を横目に眺め、春弥はそっと簪に自身の〝力〟を注ぐ。

 すると、簪から水色の青い光が現れ、春弥を導くように光が伸びていった。その光が赤くなったことに春弥は顔をしかめて、真清と彼女の父親を置いて駆け出す。

 あまりにも勢いよく駆け出したので、真清は春弥の背中を見つめることしかできなかったが、あの光が示していた方角は和咲に掃除を言いつけた場所だと気づき、「お待ちください!」と彼を追いかけた。

 真清が追いついた頃には、春弥がその腕にしっかりと和咲を抱いていた。

 和咲の頭から、血が流れている。

「この娘は、俺が引き取ろう」
「それはなりません! 彼女は藤堂家の使用人です」
「……俺が求めていたのは、この人だ」

 春弥は和咲を抱き上げ、すれ違いざま真清を一瞥して倉庫から出ていく。

 氷のような視線を浴びて、真清はぶるりと身体を震わせながら、両手の拳を固く握りしめた。

 ◆◆◆

 和咲はゆっくりと目を開けた。

 見慣れない天井が視界に入って、がばりと勢いよく起き上がり、言葉を呑む。

 そこは、まるで異世界のようだった。

 有馬家に住んでいた頃のおぼろげな記憶と、藤堂家で過ごしていたかび臭い部屋とはまったく違う場所だ。

(ここは、どこ……?)

 照明の形も、棚の形も、和咲には馴染みのないもので、物珍しさで辺りを見回す。

「失礼します、お嬢さま……」

 扉をノックする音と開く音。聞き慣れない女性の声が順番に聞こえて、和咲は彼女のほうへ視線を向けた。

「お目覚めですか!」

 パァッと明るい顔になった女性は、頭に猫耳が生えていた。ビュンッと風を切る音を立てベッドに近づき、ぎょっと目を丸くする和咲を目にして軽く頬をかく。

「あ、びっくりさせちゃいましたね。あやかしを見るのは初めてですか?」

 和咲はこくりと肯定した。この国にはあやかしがいる、とは知識として知っている。

 しかし、どんなあやかしがいるかは知らない。

「有馬家のお嬢さま。わたしは猫又の(はく)()と申します!」

 白雨と名乗った猫又は、ふわふわの白い長髪にアーモンド型の大きな青い瞳を持つ、愛らしい女性だ。ピコピコと三角の猫耳が動いているので、思わずそちらに目をやってしまう。

「あっ、いけない! お嬢さまが目覚めたのなら、旦那さまを呼ばなくちゃ!」

 ぐるりと身体を反転させて白雨は部屋から去っていき、五分もしないうちに戻ってきた。――一度見たら忘れることはできない、二十代前半くらいの眉目秀麗な男性を連れて。

(……誰?)

 目が、離せない。こんなにも顔立ちが整っている男性を、和咲は見たことがない。

 ぽう、と和咲の頬が赤くなった。そのことに慌てたのは、男性だ。

「熱が?」

 ふるふる、と和咲は首を横に振って否定した。その瞬間、頭にずきりと痛みが走り、自身の額に手を置く。

「頭を怪我したのだ。無理はしないように」

 男性の言葉に和咲はハッと目を(みは)る。

 ――あの倉庫で起きたことがよみがえり、納得してうなずいた。

 扉を乱暴に閉められた衝撃で、なにかが落ちたのだろう、と。そこで、もうひとつ思い出して和咲は顔面を蒼白にさせた。

(ペンダント……!)

 松本に踏みつけられ、壊されたペンダント。

 幸せだった頃の大切な記憶。あのペンダントの、せめて写真だけでも、自分の手に残しておきたい。

 はくはく、と音にならない言葉が和咲の口から発せられる。

 聞きたいのに、声は出てくれない。そんな和咲に手を伸ばして、男性は彼女を強く抱きしめて、なだめるように背中をぽんぽんと叩いた。

 そのあまりに優しい手つきに、和咲は心を落ち着かせなくては、と深呼吸を繰り返す。ふと、男性の匂いがどこかで嗅いだことがあるような気がして、不思議そうな表情を浮かべる。

「……落ち着いたか?」

 少しのあいだ、男性は黙って和咲の顔を覗き込んできた。

 ありがとうございます、と口を動かす和咲だったが、やはり声にはならなかった。

「お嬢さま、声が……」
「どうやらそのようだな。しかし、我らにはわかる。安心なさい、ここは安全な場所だから」

 男性がふわりと微笑み、和咲は顔を赤くして目をそらす。

「そうだ、名乗っていなかったな。俺は神尾春弥だ。そなたの名は?」

 有馬和咲、と口を動かす彼女に、春弥と白雨は小さく顎を引いた。

「とりあえず、まずは着替えましょうか! お嬢さまに似合いそうな服をたくさん用意したんですよ」

 白雨は和咲の手を引いて、移動させる。和咲の目の前の見慣れない棚のことを『クローゼットって言うんですよ』と説明し、扉を開けるとハンガーにかけられた洋服――ブラウスと膝丈のスカートがずらりと並んでいる。

「こういう服を着たことありますか?」

 自身が着ているスカートの裾を摘まむ白雨に、いいえ、と口だけ動かす。

「じゃあ、着てみましょう!」

 ぶんぶんと勢いよく和咲は首を横に振って嫌がった。そのことにキョトンとした顔になる白雨は、ぽんと拳を手のひらに打ちつけた。

「着替え方がわからないのですね! 大丈夫、白雨が手伝いますから!」

 ぐっと親指を立てて片目を閉じる白雨は、早速ブラウスとスカートを取り出し、部屋の中にいる春弥に目配せをする。

 春弥は肩をすくめて部屋から出ていき、扉がパタンと閉まるのを待って、和咲の服を脱がしにかかった。

 あっという間に着ているものをはぎ取られ、目を白黒とさせている和咲に洋服を着させる。

(そういえば、いつの間にこの寝間着に着替えていたの?)

 藤堂家では縞柄の木綿の着物を着ていた。それが起きたら肌触りのよい浴衣になっていたのだ。

「うん、ぴったりですね」

 あっという間に着替えが終わり、白雨は和咲を姿見の前に立たせた。

 鏡に映る自分の姿を確認すると、ブラウスもスカートも和咲のために作られたかのようにぴったりで、感心するほど。

 ――だが、足が出ているということは、あのふくらはぎの傷痕も見られるということだ。血の気の引いた和咲は、じりじりと鏡から離れようとした。

「着替え終わったか?」
「完璧です!」

 扉が開き、春弥が入ってきた。洋服に身を包んだ和咲を目にして、「ほう」と腕を組んで頭の天辺からつま先まで眺め――ふと、彼女のふくらはぎに残る傷痕に気づき、ツカツカと歩み寄った。

「……その傷は?」

 見られてしまった、と和咲はうつむく。五歳の頃、藤堂家に引き取られてからずっと、傷の手当てを受けた覚えがない。

 カタカタと震える和咲の肩に手を置いたのは、白雨だった。

「白雨の力を使っても?」
「ああ、構わない……いや、その前に証拠は必要だな」

 春弥はパチンと指を鳴らすと、ポンッとなにかが出てきた。古い鏡のようだ。

 鏡に和咲の傷痕を映すと、そのまま四角い紙が出てきた。すぐになにかが浮かび上がる。和咲の後ろ姿だ。しっかりと、ふくらはぎの傷痕が写っている。

「うん、なかなかいい出来ではないか?」
「そうですね、バッチリです! じゃあ、お嬢さま、白雨と手を繋ぎましょう!」

 両手を出す白雨。その手をそっと握ると、白雨は和咲と額を重ねて、なにかをつぶやいた。

 馴染みのない言葉だったので、和咲には白雨がつぶやいていた内容はわからなかった。ただ、温かいものが和咲を包み込むことはわかった。

 和咲を慈しむような、優しい温かさ。

『いたいの、いたいの、飛んでいけ~』

 不意に、母の声がよみがえった。

 転んで泣きじゃくる和咲を抱きしめて、痛いところに手をかざし、そんな呪文を唱えていた母の声を。

(……ッ)

 和咲の中で、いろんなものが癒されていく感覚があった。びっくりして、白雨を見つめると、彼女はにっこりと微笑んだ。

「小さい傷も大きい傷も、白雨が治したので、安心してくださいね!」

 ぱっと手を離して、ドンッと自身の胸を叩く白雨は、堂々としていた。

 胸を叩く白雨に、和咲は自身の手に視線を落とす。

 白雨の言う通り、荒れていた手はすっかりと癒え、まるで真清のようなすべすべの肌になった。

「声は? 出そうですか?」

 問われて声を出そうとしたが、やはりはくはくと唇が動くだけで、声にはならなかった。そのことに春弥は眉を八の字にし、和咲の頭をそっと撫でる。

「無理はしなくていい。白雨の治癒を使っても出ないということは、心因性だろう」

 心因性? と和咲は自身の胸元に手を添えた。

 心当たりはたくさんあった。唇を噛み締める和咲に春弥の指が触れた。

「なに、この家で暮らしているうちに声も出るようになるさ」

 確信を持っているような春弥の言葉が、なぜかとても心に沁みた。こんなふうに声をかけられたのは、何年ぶりだろうと和咲は考えて、途中でやめた。それよりも、今は確認したいことがある。

 和咲は春弥の服の袖を引っ張り、ペンダントを知りませんか、と尋ねた。

「ああ、ペンダントなら俺が持っているよ。もうひとつ、そなたの物もね」

 春弥は和咲の唇の動きから正確に言葉を読み取り、白雨に視線をやった。彼女はこくりと短く返し、部屋から出てすぐに戻ってきた。

 白雨の手には、無残にも壊れたペンダントとキラキラと輝く簪がしっかりと握られている。

「この簪、藤堂家の娘が使っていたが、渡した覚えはあるか?」

 ふるり、と首を横に振った。母がよく使っていた簪は、真清が気に入って和咲から奪い取り、愛用していた。

「そうか、やはりな。……正当な持ち主のもとに戻ってこられて、簪も喜んでいる」

 和咲は簪をじっと見据える。本当にそうだったらいいのに、と心の中でつぶやく。

 春弥は白雨から壊れたペンダントを受け取り、和咲に見せた。

「そなたが探していたペンダントはこれか?」

 和咲は何度も首を縦に振った。

 春弥の手からペンダントを受け取ろうとすると、彼は「少し待って」と柔らかい口調で和咲の動きを制した。

 どうして? そう視線で問う和咲に、春弥はペンダントを隠すように自身の手を重ねて〝力〟を注ぐと、淡く青い光が辺りを照らす。

「……ッ!」
「……お気に召したかな?」

 重ねた手を離す。無残な状態だったペンダントは、すっかり元通りになっていて、和咲は息を呑んだ。

「なにがあったのか、教えてくれるだろうか?」

 和咲の手にペンダントを渡すと、彼女は目を潤ませてゆっくりと首を縦に動かした。

 そして、和咲は音にならない声で語り始める。

 五歳の頃から今までの自身の状況を――。


 すべてを聞き終え、春弥はぎりっと両手を握りしめた。爪が食い込み、今にも血が出そうだ。

 白雨も二本の尻尾をぶわっと膨らませて、フーッフーッと息を荒くしている。

「よくも有馬家の娘にそんなことを……!」
「本当ですよ! いや、有馬家じゃなくても、そんな扱いはダメです!」

 春弥と白雨が怒髪冠を()く。その様子を眺めて、和咲は困惑してあわあわと意味のない手の動きをした。

「藤堂家か……確か十一年前から羽根ぶりがよくなったな」

 和咲の話を聞くためにソファに座っていた春弥と白雨は、その内容に顔をしかめて十一年前から最近のことまでを思い出す。

「十一年前は、負債で首が回っていなかったはずだが……」
「ああ、事業が失敗したんですよね。それがこの十一年のあいだに……」

 白雨は紡いでいた言葉を途中で切り、春弥と顔を見合わせた。

 まさか、とふたりは口を揃え、そのまま黙り込んでしまった。

 少しの沈黙のあと、春弥はソファの背もたれに身を預け、天井を仰ぐ。

 大きく息を吸って、長く吐く。なにかを耐えるような、そんな重さを感じた。

「……とりあえず、そなたはこの神尾家で暮らすことになる」

 和咲は目をぱちくりと瞬かせる。なぜ? と小首をかしげると、春弥は愛しそうに目を細めて、彼女の手を取る。

「神尾家は受けた恩を忘れない。この家にいれば、不当な扱いを受けることもないだろう。……これを」

 春弥が取り出したのは、小さな箱だった。彼は静かに箱を開け、中身を和咲に見せた。

(なんて綺麗な指輪……)

 一目見ただけでも、それが高価なものだとわかった。

「そなた、恋人はいるか?」

 いないです、と和咲の口が動く。春弥は安堵したように柔らかく微笑み、彼は指輪を和咲の左手の薬指にはめる。

「ならば、今日からそなたは俺の婚約者だ」

 目を大きく見開く和咲は、身体を硬直させた。

(私が? 学もなくみすぼらしい私が、こんなに美しい人の婚約者に?)

 そんなこと、許されるはずがない! と和咲は指輪を抜こうとしたが、ぴったりとはまった指輪はまったく動かず、焦った表情を隠さず春弥を見上げる。

「ちなみにその指輪は、俺の力を注いでいるから、一度はめたら抜けないぞ」
「先に言うべきだと思うにゃー」

 呆れたような白雨を無視して、春弥は和咲の手をぎゅっと握りしめた。

「十一年前、迎えにいけず申し訳なかった。神尾家が引き取っていれば藤堂家で不当な扱いを受けることはなかっただろうに……」

 深々と頭を下げられて、和咲はぽかんと口を開けてしまう。

 どうして、こんなに自分によくしてくれるのか、和咲にはわからなかった。

「理由が気になるか?」

 こくり、と首を動かすと、春弥は神尾家と有馬家のことを教えてくれた。

 この世界がまだひとつの国だった頃、罠にかかった狐を助けた乙女がいた。その乙女は和咲のような赤みを帯びた黒髪に、藍色の瞳を持っていた。

 乙女はとある豪族の娘だったらしく、有馬家の当主と結婚を約束していたらしい。

 狐は乙女がいつまでも幸福であることを願った。

 誰かのために祈ることを続けて、何年、何十年、何百年、何千年と年月を重ねていき――狐はついに天狐という高みへ至った。

 天狐になってからは、自身の子を増やし、あの乙女の血筋になにかあればすぐに駆けつけられるようにと準備をしていた。

 そのうちに世界は四つの国にわかれた。

 春の国、夏の国、冬の国――そして、秋の国。

 乙女の血筋は秋の国にいたため、天狐も秋の国で彼女の血筋を見守っていた。

 そのうち、天狐の子どもが乙女の血筋と惹かれ合うことが増え、天狐は子どもたちに『人の姿』を授けた。それと同時に天狐の力を宿した簪も乙女に贈った。

 もちろん、乙女の血筋だけではなく、他の人間と結婚をすることもある。恋はいつどこで落ちるかわからないものだ。

 だが、天狐の力を注いだ簪を渡したのは、有馬家だけ。

 代々、有馬家に生まれた乙女に受け継がれている。

 ――春弥の話を聞き終え、和咲は簪を凝視した。母がよく使っていた簪にそんな力が込められていたとは、知らなかったのだ。

「しかし、十一年前、突然有馬家の気配が途絶えた。何者かに隠されていたのだ」

 忌々しそうに目を吊り上げて、春弥は言葉を続ける。

「巧妙に隠されていたが、ようやく尻尾を掴めた。そこが藤堂家だった」

「お嬢さまが埃っぽい倉庫に倒れていたって聞いたときは、胸が痛みました」

 和咲は藤堂家に引き取られるまでのことを思い返す。幼いながらも、両親の大切にしていた物がどんどんと運ばれていたことを、うっすらと覚えていた。

 そういえば、この簪はどうして和咲の荷物に入っていたのだろう? と疑問を抱く。この簪も藤堂家に一度没収され、気づいたら和咲の手に戻ってきていた。

 考え込んでいると、春弥が和咲の頬に触れる。

「遅くなって本当にすまない。これまでの不幸を忘れさせるくらいの幸福をそなたに注ごう」

 有馬家と神尾家の繋がりはわかった。だが、それは遠い昔の話だ。それなのに自身が『有馬家の娘』という理由で、春弥の恩恵を受けていいのかと視線をさまよわせる。

「あ、ちなみに神尾家の当主である春弥さん、婚約者どころか恋人もいませんので、ふたりがくっついてくれたら白雨は幸せですにゃー!」

 わざとらしく語尾に『にゃー』をつけて、目をキラキラと輝かせる白雨に拍子抜けして、和咲は思わず微笑んだ。

「とりあえず、この家で暮らしていろいろ考えてみるといい。なにかやりたいことはあるか?」

 和咲は春弥の問いに彼を見つめた。学もなく、みすぼらしいと真清に言われたのならば――学があれば、少しはなにかが変わるかもしれない、と。

 自身の考えを伝えると、春弥は一瞬目を丸くし、すぐにうなずいた。

 その日から、和咲の生活は一変する。

 まだ薄暗い早朝に起きることも、ご飯を抜かされることも、冷たいまなざしを浴びることもない、ただただ平穏な日々が続いた。

 春弥が雇った家庭教師は、和咲が想像以上に優秀なことに喜んで、嬉々として彼に報告したら、『だろうな』と艶やかに笑う姿を目にした。

 藤堂家では真清の勉強中、和咲も同じ部屋にいて、真清が問題を間違えるたびに短鞭で罰を与えられていた。

「お嬢さまの声は、どんな声なんでしょうねぇ」

 そんな生活が三ヶ月ほど続き、春弥が仕事に行くことを伝えて神尾家から出勤したあと、白雨は和咲の顔をじっくりと眺めながらニコニコと笑う。

 三ヶ月のあいだ、春弥は和咲のそばから離れなかった。部下らしき人がきて、職場に来るように懇願していても、だ。

『今は俺の婚約者の体調が優先だ』

 ぎゅっと抱きしめられると、春弥の少し体温が感じられて、なぜか心地がよかった。

 人肌に触れることがなくなったから? と自分の気持ちを考えてみたが、答えはまだ見つけられない。

 春弥に甘やかされていることは、理解している。

 食事の際も親鳥がヒナに食事を与えるように、手ずから食べさせたほどだ。

 寝るときも添い寝だと言って、和咲が眠りに落ちるまで温もりを与えていた。

 神尾家で暮らしていると、藤堂家の人たちに投げつけられた言葉で傷んだ心が、少しずつ癒されていくのを自分でも実感している。

 この温かい場所にずっといたい。もっと、話がしたい。

 そんな願望が、和咲の中で芽生え始めた。

 少し、気持ちに余裕が出てきたのだろう。それもすべて、春弥たちのおかげだ。

 春弥が帰宅したのは、日が暮れてからだった。帰ってくるなり和咲を抱きしめて、今日はどんなふうに過ごしていたかを尋ね、和咲は今日のことを話す。声にならない言葉でも、彼はしっかりと読み取ってくれる。

 そんな平穏な日々が、ずっと続くと信じていた。