――不幸はたたみかけるように重なるものだ。
有馬和咲がそのことを知ったのは、わずか五歳のときだった。
「あら、まだ終わっていなかったの、疫病神」
屈んでごしごしと廊下を磨いていた和咲に投げかけられたのは、嘲笑交じりの言葉で、彼女は顔を上げる。
視界に入ったのは、藤堂家の一人娘である真清だ。ややくすんだ明るい茶色の髪をまとめ、深紅の瞳は確実に和咲を軽蔑していた。
「あんたのご主人の娘になにも言わないつもり? ああ、まだ話せないのね。本当に迷惑なヤツね、疫病神は」
「お嬢さまったら、こんな疫病神に声をかけるなんて、なんてお優しいのでしょう」
「本当に。両親を死に追いやった恐ろしい娘になんて、誰も関わりたくないでしょうにねぇ」
彼女たちの言葉が、和咲の胸に突き刺さる。
あの日から、和咲の声は出なくなってしまった。
――そう、あの日。和咲の両親が不慮の事故で亡くなり、思い出したくもない罵詈雑言を浴びせられた日から、彼女の心はずっと閉じたままだった。
和咲が五歳の頃、両親は仕事で彼女を家に残して出張へ行った。
一週間ほどの予定で、四日目に寂しくなった和咲が、有馬家の使用人に頼んで両親に『はやくあいたいよ』と電話で伝えたため、ふたりは仕事を早めに切り上げて帰ろうとした。――しかし、その帰り道で事故にあってしまったのだ。
有馬家には和咲しか子どもがいない。
和咲は親戚たちに『こんな小さい子を養う余裕なんてない』、『いっそ施設に入れたほうがいいのではないか』、『いや、それだと有馬家の財産がもったいないだろう』という話し合いを聞いてしまい、唇を噛み締めた。
話し合いがどんなふうに終わったのかは、知らない。
気づけば和咲は、遠縁の藤堂家に使用人として雇われることになったのだ。
とはいえ、まだ幼い和咲ができることは限られていて、似た年齢の真清の遊び相手として過ごしていた。
真清は和咲を連れ回し、自分が花瓶を壊したときや、家庭教師に渡された宿題をなくしてしまったとき、真清が受けるお仕置きを和咲が代わりに受けていた。
なので、和咲のふくらはぎには傷痕が残っている。
叩かれるときに使われた短鞭を見るだけで、身体が震えてしまうようになった和咲を、真清は『あら、あんなものが怖いの?』と嘲笑った。
その頃には和咲の声が出ないことも、藤堂家の人たちは気づいていたが、病院に連れていくことはなく、和咲はただ藤堂家の人たちの氷の視線に晒されていた。
そんな生活が十一年続き、和咲は十六歳になり、掃除や洗濯という仕事を押しつけられるようになった。和咲はなにも言わず、ただ黙々と自分の役目を果たしている。
「まったく、子どもの頃から役に立たない子ね」
呆れたような真清の声が降ってきて、和咲はハッとして目線を彼女に定めた。
「まぁ、仕方ないわよね。なんせ、あなたは学もないんだから」
口元に手を添えて、真清は横目で和咲を見る。
そのまなざしを受けて和咲は、自分の心臓がきゅっと握られたように痛くなった。
いったいいつまでこの生活が続くのか、和咲にはわからない。
ただわかるのは――藤堂家にいる限り、この状態が続くだろうということ。
「……ふん。ああ、そうだ。今日はとても高貴なお客さまが来るの。あなたのようなみすぼらしい人がいるなんて知られたくないわ。だから、今日はあの一番古い倉庫の掃除をしてちょうだい」
それだけ言い残すと、真清は踵を返して去っていった。彼女のそばにいた使用人たちも、和咲を一瞥すると真清を追いかけた。
和咲はその後ろ姿をじっと見つめて、唇を噛み締める。
(……あ……)
あまりにも強く噛み締めてしまったため、血がにじみ鉄の味が口内に広がった。それを自嘲するように和咲は笑う。
(……知っているわ。学がなくて、みすぼらしいことなんて)
真清の白魚のような肌はきめ細かく、ひび割れなど知らない手だ。
藤堂家の両親に蝶よ花よと大事にされている。傷ひとつない、真清の身体に対して自分は――と考えたところで和咲は頭を振った。
自分は、自分のやれることをきっちりやればいいのだ。一度深呼吸をして、廊下の掃除を再開した。ここの掃除を中途半端にしたら、責められることは今までの経験で理解している。
しっかりと廊下を磨き上げ、汚れた雑巾と水の入ったバケツを持って、誰にも会わないように気をつけながら、掃除道具を置いている倉庫へ駆け足で向かう。
雑巾とバケツを綺麗に洗い、別の掃除道具を手にして倉庫へ足を運ぶ。
この倉庫は一番古く、老朽化しているため誰も近寄らない。
和咲は静かに扉を開けて、中に入る。この倉庫を開けることはめったにないから、ふわっと舞い上がった埃が彼女を襲った。
ケホコホと咳をしながら、はたきで埃を落とす。
埃を落としていると、窓から差し込む光に反射しているものに気づいた。なにがあるのだろう、と倉庫の奥へ移動して、おざなりに置かれていた金色ロケットペンダントを視界に入れた。
(――お父さまのペンダントと似ている……?)
既視感を覚え、そのペンダントを手にし、中身を確認する。両親と自分の幼い頃の写真だった。
なぜ、このペンダントがこんなところに? という疑問を抱きつつも、和咲はその写真に見入っていた。記憶から失いつつあった両親の顔が、写真のおかげで鮮明に思い出せて、じわりと目の前がにじむ。
その刹那、背後から声をかけられた。
「あら、こんなところで休憩中?」
大きく肩を跳ねさせて、和咲は勢いよく振り返った。藤堂家の使用人の中でも、真清から可愛がられている松本だ。いつも真清を褒め称えているので、気に入られているのだろう。
「……なにか持っているようね。ついに窃盗まで?」
くすっと歪んだ笑顔を浮かべながら、松本は一歩ずつ和咲に近づいていく。
和咲はぎゅっとペンダントを握りしめ、じりじりと後退った。
だが、壁に背がついてしまった。松本の手が伸びて、無理矢理ペンダントを取り上げられた。
(返して!)
和咲は勢いよく手を伸ばしたが、松本はあっさりとよけた。転んで四つん這いになった彼女を見下ろして、ペンダントに視線を移す。
「……ああ、これはあんたの『幸せだった頃』のものなのね」
氷のように冷たい声が降り注ぎ、和咲はキッとまなざしを鋭くさせる。松本は自身の足元にペンダントを投げ落とし、拾おうとした和咲よりも素早くペンダントを力強く踏みつけた。
「あんたは『藤堂家のもの』なんだから、有馬家のものなんて要らないでしょう? じゃあ、掃除をしっかりしなさいね」
顔面を蒼白にした和咲を目にして、松本はにっこりと笑い、足を上げた。砕けたペンダントを軽く蹴り、倉庫から出ていく。
バタンッと大きな音が響き、和咲は身体を震わせる。
(どうして? どうしてこんなことができるの? 私がなにをしたというの?)
涙がこぼれないように歯を食いしばりながら、和咲はペンダントの欠片を必死にかき集めた。
写真さえボロボロになってしまった。せっかく、三人で笑い合っている写真を見つけたのに。
地面をじっと見つめていた和咲は、振動によってぐらりと落ちてきた壺に気づかなかった。
――ガシャンッ
有馬和咲がそのことを知ったのは、わずか五歳のときだった。
「あら、まだ終わっていなかったの、疫病神」
屈んでごしごしと廊下を磨いていた和咲に投げかけられたのは、嘲笑交じりの言葉で、彼女は顔を上げる。
視界に入ったのは、藤堂家の一人娘である真清だ。ややくすんだ明るい茶色の髪をまとめ、深紅の瞳は確実に和咲を軽蔑していた。
「あんたのご主人の娘になにも言わないつもり? ああ、まだ話せないのね。本当に迷惑なヤツね、疫病神は」
「お嬢さまったら、こんな疫病神に声をかけるなんて、なんてお優しいのでしょう」
「本当に。両親を死に追いやった恐ろしい娘になんて、誰も関わりたくないでしょうにねぇ」
彼女たちの言葉が、和咲の胸に突き刺さる。
あの日から、和咲の声は出なくなってしまった。
――そう、あの日。和咲の両親が不慮の事故で亡くなり、思い出したくもない罵詈雑言を浴びせられた日から、彼女の心はずっと閉じたままだった。
和咲が五歳の頃、両親は仕事で彼女を家に残して出張へ行った。
一週間ほどの予定で、四日目に寂しくなった和咲が、有馬家の使用人に頼んで両親に『はやくあいたいよ』と電話で伝えたため、ふたりは仕事を早めに切り上げて帰ろうとした。――しかし、その帰り道で事故にあってしまったのだ。
有馬家には和咲しか子どもがいない。
和咲は親戚たちに『こんな小さい子を養う余裕なんてない』、『いっそ施設に入れたほうがいいのではないか』、『いや、それだと有馬家の財産がもったいないだろう』という話し合いを聞いてしまい、唇を噛み締めた。
話し合いがどんなふうに終わったのかは、知らない。
気づけば和咲は、遠縁の藤堂家に使用人として雇われることになったのだ。
とはいえ、まだ幼い和咲ができることは限られていて、似た年齢の真清の遊び相手として過ごしていた。
真清は和咲を連れ回し、自分が花瓶を壊したときや、家庭教師に渡された宿題をなくしてしまったとき、真清が受けるお仕置きを和咲が代わりに受けていた。
なので、和咲のふくらはぎには傷痕が残っている。
叩かれるときに使われた短鞭を見るだけで、身体が震えてしまうようになった和咲を、真清は『あら、あんなものが怖いの?』と嘲笑った。
その頃には和咲の声が出ないことも、藤堂家の人たちは気づいていたが、病院に連れていくことはなく、和咲はただ藤堂家の人たちの氷の視線に晒されていた。
そんな生活が十一年続き、和咲は十六歳になり、掃除や洗濯という仕事を押しつけられるようになった。和咲はなにも言わず、ただ黙々と自分の役目を果たしている。
「まったく、子どもの頃から役に立たない子ね」
呆れたような真清の声が降ってきて、和咲はハッとして目線を彼女に定めた。
「まぁ、仕方ないわよね。なんせ、あなたは学もないんだから」
口元に手を添えて、真清は横目で和咲を見る。
そのまなざしを受けて和咲は、自分の心臓がきゅっと握られたように痛くなった。
いったいいつまでこの生活が続くのか、和咲にはわからない。
ただわかるのは――藤堂家にいる限り、この状態が続くだろうということ。
「……ふん。ああ、そうだ。今日はとても高貴なお客さまが来るの。あなたのようなみすぼらしい人がいるなんて知られたくないわ。だから、今日はあの一番古い倉庫の掃除をしてちょうだい」
それだけ言い残すと、真清は踵を返して去っていった。彼女のそばにいた使用人たちも、和咲を一瞥すると真清を追いかけた。
和咲はその後ろ姿をじっと見つめて、唇を噛み締める。
(……あ……)
あまりにも強く噛み締めてしまったため、血がにじみ鉄の味が口内に広がった。それを自嘲するように和咲は笑う。
(……知っているわ。学がなくて、みすぼらしいことなんて)
真清の白魚のような肌はきめ細かく、ひび割れなど知らない手だ。
藤堂家の両親に蝶よ花よと大事にされている。傷ひとつない、真清の身体に対して自分は――と考えたところで和咲は頭を振った。
自分は、自分のやれることをきっちりやればいいのだ。一度深呼吸をして、廊下の掃除を再開した。ここの掃除を中途半端にしたら、責められることは今までの経験で理解している。
しっかりと廊下を磨き上げ、汚れた雑巾と水の入ったバケツを持って、誰にも会わないように気をつけながら、掃除道具を置いている倉庫へ駆け足で向かう。
雑巾とバケツを綺麗に洗い、別の掃除道具を手にして倉庫へ足を運ぶ。
この倉庫は一番古く、老朽化しているため誰も近寄らない。
和咲は静かに扉を開けて、中に入る。この倉庫を開けることはめったにないから、ふわっと舞い上がった埃が彼女を襲った。
ケホコホと咳をしながら、はたきで埃を落とす。
埃を落としていると、窓から差し込む光に反射しているものに気づいた。なにがあるのだろう、と倉庫の奥へ移動して、おざなりに置かれていた金色ロケットペンダントを視界に入れた。
(――お父さまのペンダントと似ている……?)
既視感を覚え、そのペンダントを手にし、中身を確認する。両親と自分の幼い頃の写真だった。
なぜ、このペンダントがこんなところに? という疑問を抱きつつも、和咲はその写真に見入っていた。記憶から失いつつあった両親の顔が、写真のおかげで鮮明に思い出せて、じわりと目の前がにじむ。
その刹那、背後から声をかけられた。
「あら、こんなところで休憩中?」
大きく肩を跳ねさせて、和咲は勢いよく振り返った。藤堂家の使用人の中でも、真清から可愛がられている松本だ。いつも真清を褒め称えているので、気に入られているのだろう。
「……なにか持っているようね。ついに窃盗まで?」
くすっと歪んだ笑顔を浮かべながら、松本は一歩ずつ和咲に近づいていく。
和咲はぎゅっとペンダントを握りしめ、じりじりと後退った。
だが、壁に背がついてしまった。松本の手が伸びて、無理矢理ペンダントを取り上げられた。
(返して!)
和咲は勢いよく手を伸ばしたが、松本はあっさりとよけた。転んで四つん這いになった彼女を見下ろして、ペンダントに視線を移す。
「……ああ、これはあんたの『幸せだった頃』のものなのね」
氷のように冷たい声が降り注ぎ、和咲はキッとまなざしを鋭くさせる。松本は自身の足元にペンダントを投げ落とし、拾おうとした和咲よりも素早くペンダントを力強く踏みつけた。
「あんたは『藤堂家のもの』なんだから、有馬家のものなんて要らないでしょう? じゃあ、掃除をしっかりしなさいね」
顔面を蒼白にした和咲を目にして、松本はにっこりと笑い、足を上げた。砕けたペンダントを軽く蹴り、倉庫から出ていく。
バタンッと大きな音が響き、和咲は身体を震わせる。
(どうして? どうしてこんなことができるの? 私がなにをしたというの?)
涙がこぼれないように歯を食いしばりながら、和咲はペンダントの欠片を必死にかき集めた。
写真さえボロボロになってしまった。せっかく、三人で笑い合っている写真を見つけたのに。
地面をじっと見つめていた和咲は、振動によってぐらりと落ちてきた壺に気づかなかった。
――ガシャンッ



