朝餉の部屋を出たあとも、
屋敷の廊下は相変わらず騒がしかった。
「姫様、こちらへ」「姫様、お召し物を」
「姫様、お茶をお持ちしました!」
「なんで全員“姫様”で呼びに来るんだよ!!」
深月が叫ぶ横で、燈夜は肩を震わせて笑っていた。
「……深月、人気者すぎるな」
「笑いごとじゃない……!」
怒りながらも、
深月の声にはまだ昨夜の余韻があった。
燈夜の腕の中で眠って、朝もあんなに甘くて、
不安なんか一つもなかったのに――。
廊下を歩いていると、ふいに燈夜の足が止まった。
「……どうした?」
燈夜は笑顔のまま答えた。
「なんでもない。ちょっと疲れただけだ」
けれど、ほんの一瞬だけ。
その笑顔の奥が、いつもの燈夜と違っていた。
(……燈夜……なにか隠してる?でも……聞いていいのか……?)
深月の胸が、ちり、と小さく疼いた。
燈夜は気づかないふりをして、深月の手をそっと取る。
「深月。庭の桜、もう一回見ようか。風が強くなる前に」
手は優しいのに、握る指に、ほんの少しだけ力が入っていた。
その違和感だけが、深月の胸の奥で、静かに溶けずに残った。
庭へ向かう廊下は、朝の光が差し込んで淡い桜色に満ちていた。
燈夜は深月の手を軽く握ったまま歩いている。
いつもと同じように見えるのに、深月には——握る指の圧が、少しだけ強い気がした。
(……燈夜。どうしてそんな顔をするんだ……)
燈夜が「風が強くなる前に」と言ったけれど、
声の奥に、ひっそりとした影みたいなものが残っていた。
庭へ続く縁側に出ると、昨夜見た桜が朝の光を受けて揺れていた。
「……やっぱり、きれいだな」
深月が言うと、燈夜は微笑んだ。
「深月がそう言ってくれると……嬉しいよ」
その笑顔は優しい。けど——どこか“飲み込んでるものがある”笑顔。
深月は胸の奥がざわりと揺れた。
「……燈夜?」
燈夜は桜の方へ視線をそらし、小さく息を吐いた。
「……深月。昨日の……影のこととか、
お前の光のこととか……考えてた」
その言い方が、昨夜の甘さとはまったく違う。
深月は思わず一歩近づいた。
「考えてたって……悪いほうじゃないよな?」
燈夜の肩が一瞬だけこわばった。でもすぐに笑顔を作ってみせる。
「悪いってわけじゃない。ただ……」
言いかけて、言葉を切る。
(“ただ”って……何だよ……?言えないことなのか……?)
深月の胸が、じん……と重くなる。
燈夜が言いたそうで言わないときは、深月のことを一番に考えているとき。
それがわかっているからこそ、深月は余計に怖かった。
「燈夜。……隠してるなら、言って」
深月がそう言うと、燈夜の指がわずかに震えた。
「……後で言う。
深月の顔を見たら……今は言えない」
その声は本気で苦しそうだった。
深月は喉の奥がぎゅっと締めつけられるようで、それ以上追い詰めたらいけない気もした。
「……わかった。後でいい」
そう答えたけれど——胸のざわつきは消えなかった。
燈夜は深月の手をそっと包んだ。
「深月……いまは一緒に桜を見よう」
その言い方が、
まるで“これが最後の穏やかな時間”みたいに聞こえてしまって、
深月の心臓が小さく跳ねた。
(……なんで、そんな顔をするんだ……?
燈夜……言えないって……何……?)
桜は静かに揺れているのに、
二人の胸の中には——小さな影がほんの少しだけ、落ち始めていた。
燈夜が言いかけた「ただ……」の続き。それが落ちてこないまま桜を見つめていると、
深月の胸はじんじん痛くなっていった。
(……言えないって……俺、怖いのか……?)
燈夜は深月の手を包んだまま、本当に優しい顔をしている。
それが、逆につらい。
(また……まただ……燈夜は俺に隠して守ろうとする……
でも、知らないほうが怖いんだ……)
喉の奥がひりつく。
優しい顔のまま、何も言わない。
それがいちばん、怖い。
「……燈夜。ほんとに、大丈夫なのか?」
深月が声を絞り出した瞬間、燈夜は一瞬だけ、目をそらした。
「……大丈夫だ。心配しなくていい」
その答えは嘘じゃない。でも——全部でもない。
(また……まただ……燈夜は俺に隠して守ろうとする……
でも、知らないほうが怖いんだ……)
胸がぎゅうっと締めつけられ、呼吸がうまく入らなくなる。
「……燈夜、俺……」
言いかけて、喉が詰まって声にならない。
燈夜が心配そうに手を伸ばす。
「深月?」
触れられたら泣いてしまう。そう思った。
気づいたら——
深月はふっと燈夜から距離をとっていた。
「ちょ……ちょっと、……一人になりたい。少しだけ……」
燈夜の手が空をつかむ。
「深月……」
呼び止める声が優しすぎて、その優しさが胸に刺さった。
(優しくされたら……余計に苦しい……逃げてしまう……)
深月は答えず、ふらふらと桜の陰を離れた。
走らなくても、“逃げてる”って自覚はあった。
障子をまわり込むようにして、屋敷の奥へと姿を消す。
深月の姿が見えなくなるまで見送って、燈夜はゆっくり手を下ろした。
(……追いかけたい。けれど……今の深月に触れたら……ほんとに壊してしまう)
桜の下に一人残されると、胸の奥に溜めていた“言えないもの”が
一気に顔を出す。
燈夜は桜の幹に手をつき、深く呼吸を吐いた。
(深月は……知らないほうが幸せだ。
巻き込んだらいけない世界なんだ……)
“悠久の時”
“寿命の流れが違う”
爺やの無邪気な言葉が、刃みたいに胸に残っていた。
(俺と一緒にいる未来なんか……深月の人生、削ってしまうだけだ)
深月は人間。
普通に歳を重ねて、普通に未来を選べる。
(それを奪うなんて——許されない
けれど……離れるなんて……考えるだけで息ができない……)
桜の花びらが燈夜の肩に落ちる。
それだけで胸が締めつけられて、どこにも逃げ場がなかった。
燈夜は、握った手を額に当てる。
(深月の涙も、不安も……ぜんぶ、俺が作った)
それが事実だった。燈夜は小さく呟いた。
「……深月……ごめん……俺……どうしたら……いいんだ……」
深月は誰もいない畳の間に入り、膝を抱えてうずくまった。
静かなはずの空間なのに、胸のざわつきは収まる気配がなかった。
(……燈夜。なにかを隠してる。いつもみたいに“心配させないように”だと思う。
でも今日は……それだけじゃない)
言ってくれない。それが苦しい。
けど胸を締めつけているのは、もっと深いところにあるものだった。
(……悠久の時……)
爺やの言葉が耳に残る。
“伴侶となれば、若様と同じ時を生きる”
“寿命の流れも異なる”
それはつまり、燈夜を選べば——
自分も人間の時間ではなくなる。深月はその意味を理解している。
理解した上で、胸の奥がじくじく痛んだ。
(……燈夜と一緒に生きるってことは、俺も“向こう側の時間”に踏み込むってことだ。
それは……決して軽い選択じゃない)
もし選んだら、もう戻れない。人間としての未来を全部置いていくことになる。
それでも——
燈夜と生きたい気持ちは消えない。
ただ、その覚悟が本当に“燈夜を喜ばせる未来”になるのか、
その答えがわからなくて怖かった。
(俺が選んだら……燈夜がまた背負うんじゃないのか。
俺のせいで何かを失わせてしまうんじゃないか……そう思ったら……足がすくむ)
そして、一番怖いのは——
(燈夜、自分から“俺を守るために”離れようとしてるんじゃないか……)
あの時の燈夜の一瞬だけ沈んだ目。
優しいのに、どこか決意してるような目。
胸がぎゅっと縮んだ。
深月はたまらず畳に手をつき、俯いた。
「……燈夜……俺と一緒にいたら……だめだって……言う気なのか……?」
声は震えていた。
涙が出るわけでもないのに、胸の奥が熱くて苦しい。
(俺は……燈夜と生きたいのに。
一緒にいたいって……言っていいのかな……選んでいいのかな……)
そんな不安が喉の奥までせり上がってくる。
深月は顔を両手で覆った。
「……燈夜……怖いよ……どうして何も言ってくれないの……」
畳に落ちた声は、小さく震えていた。
深月が姿を消して、
燈夜は桜の下で静かに息を吐いた。
(……あれを“今日気づいたこと”のように思うのは違う。ほんとは……ずっと胸の奥にあった)
桜の幹に手を置き、燈夜はゆっくり目を閉じた。
(3年前、深月と暮らし始めたとき……
“いつか別れを選ぶ日が来る”そんなこと、一度も考えたことなかった)
それは嘘でも逃げでもない。
その瞬間だけは自分でも驚くほど正直だった。
(ただ……一緒にいたかった。守りたいって。それだけしか考えてなかった)
“寿命の違い”なんて概念は、深月と暮らす日々の中で、
どんどん“どうでもよく”なっていった。
コーヒーを淹れる深月の横顔。夜、同じ部屋で眠る安心感。
ささいな喧嘩。くだらない話で笑いあった日。
それら全部が、本物の時間で。
(……一緒に暮らし始めたら、そんなこと考えられなかった。
深月がいる毎日が、当たり前になって……
“いつか離れるかも”なんて、怖すぎて向き合えなかった)
桜の花びらが肩に落ちる。燈夜はぎゅっと拳を握った。
(爺やの言葉で初めて気づいた……違う。
“ちゃんと直視しないと”って思っただけだ。本当はずっと……怖かったんだ)
気づかないふりをしていただけ。
気づいた瞬間、深月との時間が終わる気がして怖かった。
(俺は……深月といるのが、当たり前だと思ってしまってた。
この3年間……ずっと。別れなんて、考えられるわけないだろう)
燈夜は静かに息を吸った。
(もし最初から別れを決めてたのなら……あんなふうに触れない。
あんなふうに“好き”になるもんか)
その言い方は、苦しいのにどこか誇りすらあった。
(深月抱きしめたとき、キスしたとき、守ろうと思ったとき……俺は一度も、
“終わり”を考えたことなんかない)
桜の下に影が落ちる。
(爺やが言った“悠久の時”……そんな言葉より前に、俺は深月を選んでたんだ)
燈夜は拳を開き、小さく呟いた。
「……最初から離れる気なんか……なかった。
そんな気持ちで……深月を抱くはずないだろ……」
その声は桜の根元で静かに落ちた。
畳の上でしばらくうずくまっていた深月は、
いよいよ胸の痛みにじっとしていられなくなった。
(……ここにいたら……息ができない……)
頭の中がぐちゃぐちゃで、この部屋の空気すら重く感じる。
深月はふらりと立ち上がり、障子を開けて廊下へ出た。
どこへ向かうつもりもない。
ただこの胸のざわつきから逃げ出したかった。
廊下の曲がり角を曲がった途端、深月の足が止まった。
胸の奥で何かがずっとざわついている。落ち着かない。
体のどこも痛くないのに、心だけが締めつけられる。
(……燈夜、どうして何も言ってくれないんだ)
爺やに言われた“悠久の時”の言葉。
それに合わせて、燈夜の一瞬だけ沈んだ目。
全部が胸の中で絡まって、逃がしてくれない。
(俺が……一緒にいたいって思ったら……だめなのか?
それとも……燈夜は……)
“俺とは違う時間で、生きていくつもりなのか?”
そんな考えが頭に浮かんだ瞬間、喉がきゅっと締まった。
「っ……」
深月は思わず壁に手をついた。
呼吸が荒くなる。涙は出ないのに、胸だけが熱くて苦しい。
(好きなのに……離れたくないのに……なんでこんな怖いんだ……)
燈夜が隠してることがある。それを責めたいんじゃない。
責めるなんて、考えられない。
でも——
(俺のこと……本気で好きなんだろ?なら……なんで言ってくれないんだ……
俺が聞けないからか?)
声にならない叫びが胸の奥に刺さる。
(燈夜が……俺と生きる未来を“選べない”って思ってるから?
俺が……重荷になるから?人間で、弱いから?向こうの世界のこと知らないから?)
自分の弱さがすべて悪い気がして、胸がきゅうっと痛む。
どちらも悪くないのに、苦しさだけが勝手に積もっていく。
(……ほんとは……俺は燈夜が笑ってたらそれで良かったんだ。
それで充分だったのに……なんで今は……“一緒に生きたい”って思ってしまうんだ……)
その瞬間、深月の目がまた潤みそうになる。
(俺のせいで……燈夜が悩んでるんだったら……
俺……どうしたらいいんだ……)
誰にも聞けない。
誰にも言えない。
燈夜ひとりだけを、どこまでも想い続けた3年間。
それが今、深月の胸の中で形を変えはじめていた。
(……好きなのに……なんでこんなに苦しい……)
深月は袖で目を覆い、その場にしゃがみ込んだ。
涙は出ない。でも喉が詰まって息が苦しい。
気づけば庭へ続く広縁に出ていた。風が冷たくて、肌が少し震える。
(ここにいても苦しい……戻っても苦しい……
どこに行っても逃げられない……)
深月は広縁の柱に手をつき、額を押しあてた。
肩がかすかに震える。声にならない呼吸だけが乱れる。
(……燈夜……捨てられたくない……ほんとは……ずっと一緒にいたいのに……
その“願い”が重荷になるんじゃないかって……それが、怖い……)
その瞬間だった。
そっと風が動く気配がした。
深月が顔を上げたとき――
燈夜が立っていた。
ほんの数歩先。影から出てきたところで、
深月の震える背中を見て、燈夜の表情が一瞬で固まった。
目の奥が、痛みに似た光で揺れる。
「……深月……」
いつもより低い声だった。驚きと、心配と、胸の奥の痛み。
全部が混ざったような声。
深月は反射的に視線を逸らした。
見られたくなかった。強がりも、泣きそうな顔も、
全部、燈夜には見せたくなかったのに。
けれど、その逃げる横顔を見た瞬間——
燈夜はたまらず一歩踏み出した。
深月が顔を上げたとき——
目の前で燈夜の表情をみて息を呑んだまま動けなくなる。
燈夜は、痛むように眉を寄せて言った。
「……深月。 そんな苦しい顔……ひとりでしないでくれ」
その声は問いじゃない。責めでもない。
“気づいてなかったわけじゃない。
本当はずっと気づいてた。
でも胸が痛くなるほど怖かった。”
そんな燈夜の本音がそのまま滲む、一言。
深月は燈夜の声を聞いた瞬間、肩がびくりと揺れた。
“逃げようとしたわけじゃない。
ただ——胸が痛くなるほど怖かった。
胸の奥が痛すぎて、どう顔を向ければいいかわからなかった。”
燈夜はそっと距離を詰める。けれど触れない。
触れたら深月が壊れそうなのが分かっていたから。
「……深月。こっちを向いてくれ……」
静かで、必死で。そんな声だった。
深月はゆっくり振り返った。涙はこぼれていないのに、
どこにも逃がせない苦しさが目に溜まっている。
燈夜の胸がぎゅっと鳴った。
「……ごめん。ひとりにしてしまったみたいだな」
深月はかぶりを振る。
「違う……燈夜のせいじゃない。
ただ……俺……どうしたらいいか、分からなくなって……」
言葉が途中で詰まった。燈夜は息をのみ、一歩だけ踏み出す。
「深月……“悠久の時”のこと……考えてたのか?」
その問いかけは、責めでも察しでもない。
深月の胸の痛みに触れようとする、燈夜の優しさそのものだった。
深月の喉が震える。
「……燈夜と一緒にいたい。それはほんとにそう思ってる。でも……燈夜だけが全部背負ってきて……
俺だけ何も知らないまま楽しく隣にいたのかって……そう思ったら……苦しくなって……」
燈夜は息を詰まらせた。
深月が燈夜を責めるわけではなく、
“自分を責めて苦しんでいる”のが、痛いほど分かった。
広縁に夜の風がそっと流れ込む。
燈夜は、ようやくその手に触れた。強く握りしめず、逃げ道を塞がず。
ただ、“ここにいる”と伝える触れ方で。
「……深月。
そんなふうに思わせてしまったのなら……俺のほうこそ、ごめん」
深月は驚いて顔を上げる。
燈夜の瞳は、苦しさと優しさで濡れていた。
「俺は……守ることばっかり考えて、大事なこと……深月に言えてなかった。
言えばお前を迷わせると思って……手を伸ばす資格がないじゃないかって……怖かったんだ」
深月の胸がきゅっと締め付けられた。
(……燈夜も、怖かったんだ……)
二人の影が、広縁の淡い桜の光の中で揺れる。
深月が額を燈夜の胸に押しつけてきた瞬間、
燈夜の指先が、ほんのわずかに震えた。
——本当は。この手を、離したくなんかない。
けれど桜の木の下で決めた。
深月の未来を奪わないために、
自分が“手放す側”になると。
その覚悟は揺らいでいない。
だからこそ、いまの深月の苦しむ顔が胸に刺さる。
燈夜は深月の肩に手を添え、
そっと距離を作らないまま言った。
「……深月。そんな顔、見せなくてもいいんだ」
その声は優しいのに、どこか痛みを噛み殺している。
深月は涙を堪えながら顔を上げた。
「……燈夜、怖かったんだろ……?俺が……巻き込まれるのが」
燈夜は答えない。答えたら、決意が揺らぐから。
代わりに燈夜は、
深月の頬に触れた親指を、一度だけやわらかく滑らせた。
「深月が……笑って生きられる未来なら……なんでもいいんだ」
それは“残る”側の言葉ではない。
“去る側”の覚悟をした人間の声。
深月はその違和感を胸で感じ取ったのか、指が燈夜の袖をきゅっとつまんだ。
「燈夜……なにか……怖いこと思ってる?」
痛いほど鋭い。だから、燈夜は少しだけ笑った。
「深月、ほんとに……よく見てるな」
その笑顔が優しすぎて、逆に深月の不安が大きくなる。
「……燈夜……ほんとに……俺と……一緒にいてくれる……?」
胸が、ひりつく。燈夜は、答えられない。
“今だけは嘘をつけないから”。
代わりに、深月の手を包むだけ。その指先には、
“これが最後の温度になるかもしれない”
という痛いほどの切なさがあった。
「……深月。お前を大事に思わない日は……一日もなかった」
その一言で、深月の表情が大きく揺れた。
燈夜の胸も同じように揺れている。でも覚悟は揺らがない。
深月を守るための“痛い選択”は、もう桜の木の下で決めてしまったから。
燈夜の一言が落ちた瞬間、胸の奥の“何か”がきしりと鳴った。
——嫌だ。
理由も形も言葉もまだ出てこないのに、ただその感情だけが、
深月の身体を内側からぎゅっと締めつけた。
深月は燈夜の袖を掴んだまま、声にならない息を漏らす。
「……どうして、そんな……言い方するんだよ……」
燈夜は目を細めた。哀しいとか後ろめたいとか、そういう表情じゃない。
ただ静かに——
“覚悟を隠して微笑む人間”の顔だった。
「深月の未来は……深月自身のものだ。俺が決めていいことじゃない」
その言葉の優しさが、逆に深月の胸をざわつかせる。
(……優しすぎる。こんなの……“別れの前”みたいだ……)
燈夜は深月の手をそっと離した。
強引にじゃなく、丁寧に、痛くないように。
その触れ方が余計に怖い。
「……深月。辛い思いをこれ以上させたくない」
(やめて……そんな言い方……)
喉が熱くなるのに、声だけが出てこない。燈夜の言葉は優しいのに、
その優しさが“距離”の形をしている。
燈夜が、立ち去ろうとした。
その瞬間——
深月の身体が反射で動いた。
「燈夜……待って……!」
声が震えていた。でも深月は止まらない。
「……嫌だ……」
言葉にすればたったそれだけ。でも、その一言には
“置いていかれる気配”
“未来を一人に戻される恐怖”
“自分だけ知らないところで何かを決められている痛み”
全部が詰まっていた。
燈夜はゆっくり振り返る。
その顔に浮かんだのは——燈夜自身を責めるような哀しさ。
「……深月。そんな顔をさせたくないから……いまだけは……」
深月の胸がぎゅうっと痛む。
(“いまだけ”って……なんだよ……どういう意味だよ……)
問いが喉に上るのに、声にできない。
怖いから。聞いたら、終わりが来てしまいそうで。
燈夜は、そんな深月の沈黙を痛いほど理解して、
そっと目を閉じた。
「——ごめんな、深月」
その言葉に、深月の呼吸が止まった。
その言葉の響きが、広縁の空気を一瞬で冷やした。
深月の心臓が、ぎゅっと掴まれたみたいに痛んだ。
「……え……なんで“ごめん”なんだ……?」
声が震えてる。でも深月はもう泣いていない。
代わりに——
“なにかが崩れそうな予感”だけが胸を走っていた。
燈夜は、深月の正面に立ち、ゆっくりと目を伏せた。
「……これ以上俺の側にいたら、深月の……人生が変わってしまう」
その声は優しいのに、
深月の未来を自分ひとりで勝手に決めようとする残酷さを孕んでいた。
「……燈夜……?」
燈夜は息を吸い、決めてしまった覚悟を、
深月の前で形にしようとしている。
「深月。お前は本来、“人間の時間”で生きる人だ。
普通の……あたたかい……人の世界で……誰かと出会って、笑って……幸せになるんだ」
その言葉が胸を刺した。
(どうしてそんな……
まるで……“燈夜の隣では幸せになれない”みたいに……)
深月が胸を押さえたまま息を切る。燈夜は続ける。
「俺の世界は……光も影も、役目も、“境”もあって……
深月を巻き込むには……重すぎる」
燈夜は深月に触れようと手を伸ばしかけて——
その手を、自分で引っ込めた。
「だから……もう一緒にいたらだめだ」
深月の視界が揺れる。
(……え?
どうして……そんな……一番言ったらいけない言葉……言うんだよ……)
燈夜は続ける。
「——深月。お前は帰らないといけない。俺の世界じゃないところへ」
その言葉は、
深月の全てを否定する“別れ”そのものだった。
燈夜の言葉が終わった瞬間、深月の中の時間だけが止まった。
音も、桜の揺れる気配も、ぜんぶ遠のいて——
ただ胸の奥だけが、じくじくと痛んでいた。
「……嘘、だ……」
声は小さくて、震えていた。
涙が一粒だけ、ぽたりと落ちた。泣き崩れるでもなく、ただ静かに落ちる涙。
燈夜が一歩踏み出そうとすると、深月はかすかに首を振り、距離を取った。
「……俺、なにかした……?」
声は弱いのに、必死に堪えてるのがわかる。燈夜の胸が痛む。
「深月のせいじゃない」
「じゃあ……なんで……そんな……ひとりで全部決めるんだよ……?」
また涙が落ちる。でも、泣きじゃくりはしない。
静かに、ただ痛みだけが落ちていく。
そして——涙が止まった。
胸の奥から、別の熱がゆっくりあがってくる。
深月は顔を上げた。赤い目のまま、じっと燈夜を見つめる。
「なぁ、燈夜」
声がかすれているのに、芯ははっきりしている。
「“だめだ”って…… 勝手に決めていいのか……?俺の人生……俺のものだろ……?」
燈夜が息を呑んだ瞬間、深月は一歩踏み出した。
「勝手に“戻れ”とか……勝手に“離れろ”とか……
お前……なんだよ……?」
静かな怒りが、声の奥にじわり広がる。
「……一緒にいたいって……俺は言っただろ。
どうして……燈夜だけが決めるんだよ……?」
燈夜は言葉を失う。深月はさらに踏み込んだ。
「俺が“隣にいたい”って言ったの……俺の気持ちだぞ……
どうして無かったことにするんだよ……!」
声が震え、怒りとも悲しみともつかない
熱があふれる。
「勝手に選ぶな、燈夜!!勝手に“別れ”なんか言うな!!
そんなもの……認めない!!」
広縁に深月の声が響いた。
「……置いていくな……俺は……燈夜と生きたいんだ……」
その言葉は、
燈夜の覚悟ごと胸に突き刺さる。
深月の怒りの声が、広縁にまだ残っていた。
なのに——
燈夜の表情は動かない。
冷たいわけでも、怒っているわけでもない。
ただ、必死に“何かをこらえている顔”だった。
「……燈夜……なんとか言えよ……」
深月が絞り出した声は、もう怒りより痛みに近かった。
燈夜は唇をきつく閉じ、目を逸らさず、でも言葉を返さない。
胸の奥で、なにかが軋んでいた。
(……言ったら……離れたくないって……
深月が生きるはずの未来から……引き離してまう……)
自分の気持ちを言葉にした瞬間、
“深月を巻き込む決定”になる。
——だから、言えない。
でも、深月にはそれが
“無視されてる” ようにしか見えなかった。
「……黙って立ってるだけって……それが答えなのか……?」
声が震える。
「俺がどれだけ……怖かったと思ってるんだよ……一人で“別れ”なんか言われて……
なんで燈夜は何も言わないんだ……?」
燈夜は、拳を握った。
そして、
ほんの一瞬だけ——揺れた。
けれどすぐに飲み込み、首を横に振った。
「……だめだ。言ったら……もう止まらない……」
絞り出した声は、
逆に深月の胸を切り裂いた。
「……燈夜……」
深月の言葉が途切れたあと、
広縁の空気が張りつめたまま沈黙した。
燈夜は、拳を握ったまま動かない。
(……深月は……本気で“分かって”言ってるんだろうか……)
胸が痛いのに、言葉を飲み込めばさらに深月を泣かせるだけ。
だから——
燈夜は、ほんの少しだけ視線をそらし、声の温度を落とした。
冷たい、けれど震えている声で。
「お前……わかってるのか?何千年——いや、それ以上だ。
俺たちの時間に踏み込むってことが、どういう意味か……ほんとにわかってるのか?」
深月の心臓がずきっと跳ねた。
燈夜は、深月を見ない。見たら言えなくなるから。
「街も、人も、季節も……全部変わっていく。
お前だけが変わらない時間を、生きるんだ」
燈夜の声が低く沈む。
「……それを簡単に言う深月を、 “本当に分かってる”とは言えない」
燈夜の言葉が落ちた瞬間——
深月の胸の奥で、何かが音もなく折れた。
怒ることもできない。泣くこともできない。
声を出したら、全部が崩れてしまいそうで。
ただ、そこに立ったまま——
茫然と、視線を宙に漂わせるしかなかった。
(……俺……何も……分かってなかった……?)
焦点が合わない。燈夜の顔を見ようとしても、
視界の中で形が揺れてまとまらない。
さっきまで胸の奥で暴れてた怒りも、痛みも、涙も、どこか遠くへ消えていく。
残っているのはただ——
“底の抜けた静けさ”。
燈夜が何か言おうと口を開いたのが見えた。
でも、深月にはその声が届かない。
(……俺……ほんとに……
何にもわかってない子どもみたいだ……)
深月はようやく燈夜のほうを見る。
けれど、その目にはもう感情が浮かんでいなかった。
「……俺……何も……わかってなかったんだな……」
自分でも驚くほど静かな声。
燈夜の胸が痛む。本気で、息が止まるほどに。
燈夜の言葉が胸に刺さったまま、深月はふらりと広縁を離れた。
怒るでも泣くでもない。ただ、心が空っぽになって……歩くしかなかった。
庭を抜け、建物の影を曲がる。
何も考えられない。考えたくても、思考が動かない。
(……俺……なにしてるんだ……何もわかってなかった……)
そんな空っぽの顔のまま、障子の前で立ち尽くしていた。
そこへ、静かな足音。
「……姫様」
爺やが目を丸くし、慌てて駆け寄った。
けれど深月の無表情を見た瞬間、何も言わず、そっと肩に手を添える。
「こちらでございます。まず……温まりましょう」
浴場に連れて行かれた深月は、
されるがままに服を脱がされ、湯へ入れられた。
湯の暖かさが、皮膚から、骨から、少しずつ浸透してくる。
ぼうっと湯の中に沈むと、
胸の奥の“止まっていた何か”が、ようやく動き始めた。
(……あったかい……)
その瞬間——
堰を切ったみたいに、意識が戻る。
震える息がこぼれた。
「姫様……」
爺やが柔らかい声で言った。
「どうか……少し……お話をさせてくださいませ
若様は、夜叉王の直系。その血を持って、生まれながらにお力も、美しさも、周囲の羨望も……
何もかもを授かったお方でした」
湯気の中、深月はまばたきをする。
爺やはゆっくり続ける。
「しかし……わたくしの目には、
若様はいつもつまらなさそうでございました。
何を見ても心が動かぬような……そんな瞳をしておられました」
深月の胸がきゅっと締めつけられる。
爺やは淡々と、しかし愛情深く語った。
「向こうの世界では……美女が列をなし、
どれほど言い寄られても、若様は一度も靡かれなかった。
感情を乱されたことなど、一度もありませんでした」
深月の心がざわりと揺れる。
「唯一、若様が心を寄せたのは……“桜”でございます」
桜、という言葉に深月の背筋が震えた。
「若様は、ただ桜のもとに立ち、
散る間際の儚い一瞬だけを見つめて……微かに笑うことがありました」
爺やは、昔を見るように目を細めた。
「もしかすれば……若様は桜の儚さを、
……羨んでおられたのかもしれませんな」
その言葉が、深月の胸の奥で、
ぱちん、と火花みたいに弾けた。
(……儚い?桜が……?儚いから……羨ましい?)
深月の心が一気に熱を帯びる。
爺やが静かに続ける。
「桜は短い命。人の人生も……若様から見れば同じでございましょう」
そこで、深月の全身が湯の中でぐらりと揺れた。
「……はああぁぁぁ!?!?」
湯気を割るほどの声。爺やが驚いて背筋を伸ばす。
深月は湯の中で勢いよく立ち上がった。
「桜の儚さ!? 人間の短さ!?それと“俺”をいっしょにするなぁぁぁ!!」
湯が跳ねた。
「……は、はぁ……?」
爺やは深月の豹変した姿に言葉が続かない。
深月はさらにヒートアップする。
湯気の中で拳を握りしめる。
「なめんなよ!!不老長寿なんぼのもんじゃい!!
むしろありがとうございますだろが!!俺が燈夜と人生過ごして何が悪いんだよ!!」
爺やはぽかんとしたあと……ゆっくり頷く。
「……さすが、姫様でございます」
「姫じゃない!!俺についてる立派なもんが目に入らないのか!!」
爺やは困惑しながらも、なぜか褒めた。
「……その“勢い”こそ……若様がお惚れになった理由でしょうな……」
深月は湯の中で拳を握り、
「見てろよ燈夜……!お前が桜を羨むんだったら、俺は……“桜より強く咲いて見せる!”」
湯気の中で瞳がぎらりと光った。
“燈夜を取り返しに行く男の顔”になっていた。
湯から上がった深月は、濡れた髪もそのまま、浴衣だけを肩にかけ、
ほとんど裸同然のまま廊下へ飛び出していた。
爺やが慌てて後ろから羽織を抱えて追いかける。
「姫様!!お召し物を——!!」
「姫じゃないって言ってるだろ!!いまはそれどころじゃない!!」
深月は濡れた足で廊下を駆け抜けた。木の床に滴る湯も気にしない。
胸の奥で、熱が燃えていた。
(……燈夜……お前のことで、
俺だけが傷ついてると思ったら……大間違いだからな……)
庭の桜が視界に入る。
広縁の向こう。燈夜がひとり座っていた。
背中越しに見ても分かる。強がってるだけの、どうしようもなく寂しい影。
深月は爺やに羽織を掛けられながら、そのまま広縁へ走った。
「燈夜!!」
燈夜の肩が、びくっと揺れた。
ゆっくり振り返る。
その目には、覚悟と諦めが同じだけ入り混じっている。
「……深月。戻ってきたらだめだ——」
深月は言葉を遮った。
「——お前はバカか!!?」
燈夜が目を丸くする。
深月は広縁に立ち、そのまま燈夜の前に膝をついて叫んだ。
「爺やさんに話、聞いた!!何千年どうこうだの、儚いだの、桜が短い命だの……
勝手に決めつけんな!!」
燈夜の目が揺れる。
深月は拳を握った。
「桜は毎年咲いて、生き続けてる!儚いどころか、めちゃくちゃ生命力がある!!
それを勝手に“短い命”だと思い込んで……俺まで同じ扱いするな!!」
燈夜の喉が震えた。
深月はさらに踏み込む。
「お前が桜を羨むのは勝手だ。けどな!俺は——
儚く散るつもりなんかない!!お前の隣に立つって決めたんだ!!
そのために……ここまで来たんだ!!」
燈夜の唇が震える。
「……深月……そんな簡単な話じゃない——」
深月はすぐに遮る。
「簡単じゃないから覚悟してんだよ!!
“人間やめる覚悟がわかってるのか”って言っただろ?」
燈夜は息を呑んだ。
深月は震える声で続けた。
「わかってないよ。不安もある、怖いよ……
お前と生きる未来がどんなものなのかも見えない」
燈夜の指がぎゅっと握られた。
深月の声は震えてるのに、言葉は一切揺れてなかった。
「……でも、
お前が“俺を巻き込む”って決めつけたのは腹が立つ」
燈夜の表情が、痛みに近い色を帯びる。
深月の胸の奥が熱くなった。
「俺は……“お前の隣にいたい”って自分で決めたんだ。
巻き込まれたんじゃない。自分で選んだんだ!!」
燈夜は息が止まったみたいに固まる。
深月はさらに言う。
「俺の人生だ。勝手に決めるな。」
桜の花びらがひとつ、静かに落ちた。
燈夜は目を伏せ、肩を震わせて、
そして——
ゆっくり深月を抱きしめた。
抱きしめられた瞬間、
燈夜の腕が震えていることに深月は気づいた。
「……どうして……」
燈夜の声が、喉の奥でかすれる。
「なんで……そんな言葉……迷いもなく言えるんだ……深月……お前……ほんと……」
言葉の続きが出てこない。
ただ、抱きしめる腕だけが、必死で、苦しいほど強かった。
深月はその胸に顔を埋めた。
「燈夜が……勝手に離れようとするからだ。
俺の人生なのに……俺の意思も聞かないで……
お前ひとりで背負おうとするから……腹が立つんだよ……」
燈夜の呼吸が、ひゅう、と震えた。
「……深月……
お前に……そんな顔をさせるくらいなら……
手を離したほうが……いいと思ったんだ……」
深月は勢いよく首を振った。
「そんなわけあるかよ!!」
震えた声が広縁に響いた。
「お前が離れたら……俺は二度と笑えない!」
燈夜の体がびくっと揺れた。
深月は、涙をこらえるように唇を噛んで続ける。
「……桜の儚さとか……人間の短い命とか……そんなことで“俺を見限る理由”にするな。
俺は……散るつもりなんかない。お前と並んで、生き続けたいんだ」
燈夜はしばらく動けなかった。
抱きしめたまま、深月の背中に額を落とし——
小さく、何かが崩れるみたいに息を吐いた。
「俺は……お前を巻き込むのが怖かったんだ。
お前が普通の“人の時間”で生きていくほうが……幸せなんだと思ってた」
深月の腕が、燈夜の背中をつかむ。
燈夜は震えた声で続けた。
深月はすぐに首を振る。
「勝手に決めるな。俺の幸せは……お前と生きることだ」
燈夜の喉が震えた。深月はさらに強く言う。
「俺、長生きしたいからとか、そんな理由で選んでない。
ただ、燈夜の隣がいいだけだ。それ以上も以下もない」
しばらく沈黙が流れた。深月は顔を上げる。
燈夜の目の端に、光るものがあった。
「……燈夜……泣いてる……?」
燈夜は顔を背けようとしたが、深月の手がそれを止めた。
「泣かせたくて言ったんじゃない……俺が言いたいのは……
“お前がいない未来なんか、考えてない”ってことだ」
燈夜の視線が揺れた。
深月はまっすぐに燈夜を見た。
「俺は……燈夜と生きたい。お前が桜を愛し続けたように……
俺は“お前”を選ぶ。お前の隣に立つって決めたんだ。
それが、俺の人生だ」
燈夜の唇が震えた。
「……そんな……そんなふうに言われたら……」
燈夜はぐっと深月を抱き寄せた。
「……もう離れられないだろ……深月……
俺……お前を手放すなんて……できない……」
深月は燈夜の胸に顔を埋め、ゆっくり目を閉じる。
「じゃあ……一緒にいこう。選ぶとか……覚悟とか……そんな言葉よりも
“お前の隣がいい”って気持ちだけで決めていいんだ」
燈夜は震えた息を吐き、深月の肩に額を押し当てた。
「……深月……お前、強すぎるだろ……俺よりずっと……」
「当たり前だろ。
お前が“俺のいない未来”を選ぼうとしたから、止めに来たんだ!」
燈夜はゆっくり、深月の頬に触れた。
「……ほんとに……俺の隣で生きたいのか」
「生きたい」
燈夜はその答えに、
胸の奥でずっと張りつめていたものが静かに落ちたのを感じた。
「……じゃあ……もう離れない」
燈夜の答えに深月は小さく息を吸った。
燈夜は思わず笑った。
その笑いは、泣きそうで、安堵に滲んで、
触れたらほどけてしまいそうな優しい息づかいだった。
燈夜は深月を抱きしめたまま、しばらく何も言えなかった。
腕の中にいる深月の体温が、さっきまでの苦しさを少しずつ溶かしていく。
やっと、燈夜が小さく息を吐いた。
「……深月。お前に……こんなこと言わせるほど追い詰めたの、俺だな」
深月は首を横に振った。
「追い詰めたんじゃない。言うべきを、言っただけだ」
燈夜は深月の頬に手を添え、視線をしっかり合わせた。
涙がもう一度、深月の目の端まで上がりかけた。
燈夜はその涙に気づき、そっと拭った。
「泣くな。泣かせるのは、もう嫌だ。これからは……笑わせたい」
深月は笑ってしまった。涙混じりの笑顔で。
「……そんなの……最初からだよ……」
燈夜の胸も、ずっと張りつめていた何かがやっと解けた。
ちょうど二人が抱き合ったまま静かに息を整えていたその時——
廊下の向こうから、信じられないタイミングで声が響く。
「若様ぁーーーっ!!
姫様のご入浴後の髪を乾かす儀式の準備が整いましたぞ!!」
「やめろって言っただろぉぉぉ!!!」
「……タイミング悪すぎだろ、爺……」
「姫様、御髪が濡れたままですと襟足が冷えてしまいますぞ!!」
「俺は男だっ!!布団に頭こすって乾かす!!」
燈夜は肩を震わせて笑い、
さっきまでの重い空気が一気に吹き飛んだ。
——けれど。
爺やの無邪気な声とは裏腹に、
ふたりとも胸の奥にある “選んだ未来の重さ” をしっかり抱えたまま、
ようやく並んで立てる場所にたどり着いていた。
そのまま、使用人に促されるまま広間へと通される。
しかし座らないわけにもいかず、
深月はむすっとしながら座布団に腰を下ろした。
(……この屋敷……ほんとに……落ち着かない……)
隣に燈夜が座る。
燈夜は茶を口にしながら言う。
「でも……こうして深月が隣にいるの、いいな」
深月は反射的に顔をそむけた。
「……急にそんなこと言うなよ……」
燈夜は小さく笑った。
「帰る前に……ちょっとくらい甘えさせてくれ」
深月の胸がじん、と温かくなる。
その瞬間、
使用人が湯気の立つ器を運んできた。
「姫様、召し上がりやすいよう、一口大に切ってございます」
「切るな!!俺は子供じゃない!!」
燈夜は口元を押さえて笑った。
なんとか食事を終え、ふたりは広間を後にした。
庭に出ると、
夜の名残を残した朝の光の中で、桜がそっと揺れていた。
深月は思わず見とれて立ち止まる。
燈夜は隣に立ち、ゆっくりと深月の肩に手を置いた。
「……ここが好きなんだ。向こうのものにも……人間のものにも染まらない。
ただ、毎年同じように咲くだけの桜だ」
深月は桜を見上げたまま呟く。
「……綺麗だな」
燈夜は少しだけ笑った。
「深月と出会ったのも……この桜の下だ」
深月はハッと燈夜を見る。
「……ほんとに、覚えてないのか?」
深月は唇を噛んだ。
「……覚えてない。でも……
桜の匂いで目が覚めた日があったのは……覚えている」
燈夜の目が柔らかく細くなる。
「それでいい。深月は深月の時間で……
俺は俺の時間で……それでもこうして同じ場所にいる」
深月は胸の奥がぎゅっとなった。
燈夜は深月の前に立ち、真剣な目でゆっくりと言う。
「……深月。俺と一緒に生きるって、
ここで改めて言ってもらっていいか?」
深月は燈夜をまっすぐ見返した。
「言っただろ。何回でも言うけど……
俺は、お前と生きたい。それ以外いらない」
燈夜の胸がわずかに震え、視線が温かく揺れた。
「……ありがとう。深月のその言葉だけで……
俺の全部が……救われる」
深月は照れながら呟く。
「俺もだ。お前に選んでもらえるって……こんなに……嬉しいと思わなかった」
燈夜は深月の頬にそっと触れた。
「帰ろうか、深月。俺たちの場所に」
深月は小さく笑った。
「うん。帰ろう、燈夜」
桜の花びらがふたりの肩に落ちる。
その瞬間——
ふたりの影が静かに寄り添うように重なった。
桜の下でお互いの気持ちを確かめ合った二人は、
屋敷の門へゆっくりと歩いていった。
燈夜は深月の手を握ったまま。深月も握り返したまま。
廊下を抜けて玄関に戻ると、爺やが静かに待っていた。
「若様、姫様。
……よいお時間をお過ごしになられましたかな」
「だから姫じゃないって言ってるだろ!最後まで!!」
爺やはまったく動じず、むしろ微笑んでいた。
「姫様が叫ぶ姿を見られるのも……
これでしばらくは最後かもしれませんな」
「なんでしばらくなんだよ!?二度と言わなくていいよ!」
燈夜は肩を震わせて笑っていた。
「爺や。深月困らせすぎだ」
「若様。困らせてはおりませぬ。
ただ…… “若様の隣に立つお方”に相応しい扱いをしているだけでございます」
深月は真っ赤になる。
「……っ!」
燈夜は小さく笑って言った。
「まあ……間違ってないけどな」
「燈夜まで何言ってんだよ!!」
爺やは最後に、静かに頭を下げた。
「姫様。若様は……ずっと孤独でございました。
どれだけ周りに人がいても、心を許せる相手はおりませなんだ」
深月は驚いて燈夜を見る。燈夜は目をそらした。
「……爺や、よせ」
「いえ、最後に一言だけ。どうか……若様をお願い致します」
深月の胸が、ぎゅっと熱くなった。
深月は小さく息を吸い、燈夜の手を強く握った。
「……任されない。“お願いされるまでもない”って思ってるから」
燈夜がびくっとした。
目がやわらかく揺れた。
爺やは満足そうに微笑んだ。
「……やはり姫様でございますな」
「もうええ加減にして!!」
「行こう、深月」
「もう一生言われそうで怖いよ!!」
「その可能性はあるな」
……そんなふたりの掛け合いに、
屋敷の者たちは温かく見送った。
門を出ると、
空気が一気に変わった。
向こうの匂いも、影のざわめきもない。
ただ、普通の朝の冷たい風。
深月は大きく息を吸った。
「……なんか、落ち着くな。こっち」
燈夜は深月の肩にそっと手を置く。
「深月が生きてきた場所だからな。俺も……ここがいい」
深月は燈夜の方を見て、ふっと笑った。
「じゃあ……帰ろ。俺たちの家に」
燈夜も笑い返した。
「ああ。帰ろう」
二人はゆっくり歩き出した。手は、ずっと離れなかった。
事務所のドアを開けると、いつもと同じ匂いがした。
コーヒーの残り香。古いソファ。
散らばった資料。
深月は胸がじんっとした。
(……帰ってきたんだ……)
燈夜は深月の背中をそっと押す。
「深月。おかえり」
深月は振り返って、笑った。
「……ただいま、燈夜」
燈夜は深月を抱き寄せた。
「ここからまた、一緒に生きような」
深月は燈夜の胸に額を押し当てて囁いた。
「うん……ずっと隣にいる」
桜の風も、影の気配もない。ただ静かな、ふたりの世界。
その小さな事務所が、これからの家であり、未来そのものになる。
◇ ◇ ◇
事務所の一番奥。
2人の寝室のドアが、ゆっくりと閉まる。
部屋に灯っているのは、小さなスタンドライトだけ。
薄い橙色の光が、深月の横顔を柔らかく照らす。
燈夜は静かにドアにもたれ、息を整えるように深月を見つめていた。
「……深月」
その呼び方だけで、胸がじん、と熱くなる。
深月はベッドに腰掛けたまま、燈夜に視線を向けた。
「……燈夜。こっち、来て」
燈夜が歩くたび、床板がゆっくり鳴る。
距離が縮まるにつれ、深月の胸が高鳴る。
燈夜は深月の前で立ち止まり、そっとその頬に触れた。
「……戻ってきたんだな。ここが……俺たちの家なんだな」
深月は燈夜の手に頬を預け、目を細めた。
「うん……やっと戻れた。燈夜と一緒に帰ってこれて……それだけで十分だ」
燈夜は深月を抱きしめたまま、そっと身体を深く寄せた。
その距離ではもう、呼吸ひとつが互いの胸に触れるほど近い。
「……深月、震えてる」
燈夜の低い声が、首筋にやわらかく触れた。
「……っ、燈夜が……近すぎて……」
深月の声は掠れていて、言葉の端が甘くほどけている。
燈夜はその震えを確かめるように、深月の背中へ手をまわし、
ゆっくりと指を滑らせた。
布越しの指の動きなのに、深月の身体がびくっと反応する。
「ここ……弱いんやろ」
燈夜は耳元で囁き、そのまま首筋に唇を寄せた。
押しつけるような強さじゃない。けれど逃げられないほど深い。
「……ん……っ……」
深月は耐えるように、燈夜のシャツをぎゅっと掴んだ。
「深月の声…… 聞きたかったんだ」
燈夜の声は、今まででいちばん熱を帯びていた。
唇が耳の後ろに触れた瞬間、深月の呼吸がふっと跳ねる。
「っ……そこ……」
「知ってる。深月の弱いとこも、
触れたら溶けるとこも……全部、俺が覚えてる」
燈夜は布団の中で、深月を自分の胸に押し寄せた。
胸に当たる深月の体温が、そのまま燈夜の熱を煽る。
「……燈夜……そんなふうに触られたら……」
燈夜は深月の頬を両手で包み、ゆっくりと顔を近づけた。
触れる直前の距離。息が絡んで逃げられない。
「……たまらない?」
「……っ……うん……」
返事をした瞬間、燈夜は深月の唇を再び深く奪った。
今度は浅くない。求めるままの熱で、
深月の腰に回した手でしっかりと抱き寄せる。
深月の唇が震える。呼吸が乱れて、指先が燈夜の胸を押してしまう。
離れた瞬間、燈夜はその指先にそっと口づけた。
「逃げようとするなよ。俺のとこおいで」
燈夜は深月の身体を軽く引き寄せ、胸の中にすっぽり収めた。
そのまま耳元へ唇を寄せて囁く。
「深月……離れないって言ったよな。
今夜くらい、全部預けていいから」
深月は息を吸うのも忘れたように、燈夜の肩にしがみつく。
「……預ける……ぜんぶ……離れないから……」
燈夜の腕が、
迷いなく深月の身体を抱きしめた。
腰を押し寄せるような深い抱擁。
「深月……俺ももう無理だ。
好きすぎて……せめて抱きしめていないと息ができない」
その言葉に、
深月の胸が甘く揺れた。
「……抱いて…………燈夜……」
燈夜の呼吸が一瞬止まり、次の瞬間、深月の肩へ
強すぎない力で腕がまわる。
「……そんな声で頼まれたら……離すわけないだろ……」
唇が額に、頬に、首元に——連続して触れていく。
そのたび深月は声を堪えるように身を震わせた。
「深月……今夜はずっと……
俺がそばにいる。寝ても、起きても……お前の隣だ」
深月は燈夜の胸に顔を埋め、掠れた声で囁いた。
「……好きだ……燈夜……お前しか、いない……」
燈夜は深月の後頭部をそっと撫で、胸に抱き寄せながら答えた。
「……俺もだ。深月の全部……愛してる」
ふたりの影は、寝室の柔らかな灯りの中で、
ひとつに溶けるように寄り添い続けた。
燈夜の腕の中で、
深月は胸に頬を寄せたまま息を震わせていた。
触れられるたびに身体が反応してしまう。
燈夜もそれに気づいていて、わざとゆっくりと、
逃げられないように触れてくる。
「……深月」
首筋に落ちる声が甘くて、耳の奥が痺れる。
「そんなとこ触られたら……無理……」
深月が押し返そうとした指先を、
燈夜はそっと絡めて自分の胸に押し当てた。
「無理じゃなくて……“気持ちいい”だろ」
「っ……!」
図星を刺されたみたいに深月の肩が揺れる。
燈夜は微笑んで、耳のすぐ後ろへ唇を落とした。
「ここ、弱いって言ってただろ。……可愛いな、深月」
その声が、胸の奥をとろけさせるように響く。
燈夜は深月の身体を引き寄せ、自分の膝の上に乗せるように抱え込んだ。
「燈夜っ……そんな……」
「いいやろ。可愛い声、近くで聞きたい。」
深月は燈夜の胸に両手を置いたまま、深く抱かれながら息を乱す。
燈夜の指は、深月の背中、腰へと迷いなく滑り、
触れられるだけで身体が熱を帯びていく。
「……声、我慢しなくていい」
「っ……燈夜のせいだろ……」
燈夜はその言葉に喉で笑い、深月の唇を甘く吸った。
軽いキスじゃない。
深くて、求めて、
離れたくなくなる触れ方。
唇が離れたあとは、
すぐに頬、耳、首筋へと連続して触れる。
深月は燈夜の肩にしがみつき、
逃げ場を失ったみたいに息を漏らした。
「……っ、ん……」
燈夜はその声に余計に熱を上げ、
深月の背をさらになぞった。
「深月……もっと近くに来い。俺の胸の中……全部預けて」
深月は震えた声で囁いた。
「預ける……もう全部……燈夜に」
燈夜の腕が強く抱き寄せた。優しさじゃ収まらないほど、
愛しさがあふれてる抱き方。
その温度に、深月は胸の奥がとろけるのを感じた。
どれくらい抱き合っていたのか、
時間の感覚がもう曖昧になる。
深月は燈夜の肩に顔を埋めたまま、
呼吸がゆっくりと落ち着き始めていた。
燈夜は深月の背を子どもをあやすみたいにやわらかく撫でている。
「……深月、眠たくなった?」
低い声が耳のすぐそばに触れる。
「……眠ったら、離れる?」
深月の不安を含んだ声に、燈夜は首を横に振った。
「離れない。この腕から絶対に。」
その言い方が、深月の胸を安心で満たした。
燈夜は深月をベッドにそっと横たえ、
自分もその隣に入り込むように抱き寄せた。
深月は燈夜の胸に手を置き、ゆっくり目を閉じた。
「……燈夜の心臓……聞こえる……」
「聞かせてるんだ。深月が眠っても安心できるように」
燈夜は深月の髪に指を通し、やわらかく梳いた。
深月はそのまま、燈夜の胸に頬をすりよせる。
「……好きだよ、燈夜……」
「俺もだ。深月の全部、大事にする」
燈夜はもう一度、深月を胸に引き寄せた。
深月はその腕に包まれながら、確かな温もりに頷いた。
屋敷の廊下は相変わらず騒がしかった。
「姫様、こちらへ」「姫様、お召し物を」
「姫様、お茶をお持ちしました!」
「なんで全員“姫様”で呼びに来るんだよ!!」
深月が叫ぶ横で、燈夜は肩を震わせて笑っていた。
「……深月、人気者すぎるな」
「笑いごとじゃない……!」
怒りながらも、
深月の声にはまだ昨夜の余韻があった。
燈夜の腕の中で眠って、朝もあんなに甘くて、
不安なんか一つもなかったのに――。
廊下を歩いていると、ふいに燈夜の足が止まった。
「……どうした?」
燈夜は笑顔のまま答えた。
「なんでもない。ちょっと疲れただけだ」
けれど、ほんの一瞬だけ。
その笑顔の奥が、いつもの燈夜と違っていた。
(……燈夜……なにか隠してる?でも……聞いていいのか……?)
深月の胸が、ちり、と小さく疼いた。
燈夜は気づかないふりをして、深月の手をそっと取る。
「深月。庭の桜、もう一回見ようか。風が強くなる前に」
手は優しいのに、握る指に、ほんの少しだけ力が入っていた。
その違和感だけが、深月の胸の奥で、静かに溶けずに残った。
庭へ向かう廊下は、朝の光が差し込んで淡い桜色に満ちていた。
燈夜は深月の手を軽く握ったまま歩いている。
いつもと同じように見えるのに、深月には——握る指の圧が、少しだけ強い気がした。
(……燈夜。どうしてそんな顔をするんだ……)
燈夜が「風が強くなる前に」と言ったけれど、
声の奥に、ひっそりとした影みたいなものが残っていた。
庭へ続く縁側に出ると、昨夜見た桜が朝の光を受けて揺れていた。
「……やっぱり、きれいだな」
深月が言うと、燈夜は微笑んだ。
「深月がそう言ってくれると……嬉しいよ」
その笑顔は優しい。けど——どこか“飲み込んでるものがある”笑顔。
深月は胸の奥がざわりと揺れた。
「……燈夜?」
燈夜は桜の方へ視線をそらし、小さく息を吐いた。
「……深月。昨日の……影のこととか、
お前の光のこととか……考えてた」
その言い方が、昨夜の甘さとはまったく違う。
深月は思わず一歩近づいた。
「考えてたって……悪いほうじゃないよな?」
燈夜の肩が一瞬だけこわばった。でもすぐに笑顔を作ってみせる。
「悪いってわけじゃない。ただ……」
言いかけて、言葉を切る。
(“ただ”って……何だよ……?言えないことなのか……?)
深月の胸が、じん……と重くなる。
燈夜が言いたそうで言わないときは、深月のことを一番に考えているとき。
それがわかっているからこそ、深月は余計に怖かった。
「燈夜。……隠してるなら、言って」
深月がそう言うと、燈夜の指がわずかに震えた。
「……後で言う。
深月の顔を見たら……今は言えない」
その声は本気で苦しそうだった。
深月は喉の奥がぎゅっと締めつけられるようで、それ以上追い詰めたらいけない気もした。
「……わかった。後でいい」
そう答えたけれど——胸のざわつきは消えなかった。
燈夜は深月の手をそっと包んだ。
「深月……いまは一緒に桜を見よう」
その言い方が、
まるで“これが最後の穏やかな時間”みたいに聞こえてしまって、
深月の心臓が小さく跳ねた。
(……なんで、そんな顔をするんだ……?
燈夜……言えないって……何……?)
桜は静かに揺れているのに、
二人の胸の中には——小さな影がほんの少しだけ、落ち始めていた。
燈夜が言いかけた「ただ……」の続き。それが落ちてこないまま桜を見つめていると、
深月の胸はじんじん痛くなっていった。
(……言えないって……俺、怖いのか……?)
燈夜は深月の手を包んだまま、本当に優しい顔をしている。
それが、逆につらい。
(また……まただ……燈夜は俺に隠して守ろうとする……
でも、知らないほうが怖いんだ……)
喉の奥がひりつく。
優しい顔のまま、何も言わない。
それがいちばん、怖い。
「……燈夜。ほんとに、大丈夫なのか?」
深月が声を絞り出した瞬間、燈夜は一瞬だけ、目をそらした。
「……大丈夫だ。心配しなくていい」
その答えは嘘じゃない。でも——全部でもない。
(また……まただ……燈夜は俺に隠して守ろうとする……
でも、知らないほうが怖いんだ……)
胸がぎゅうっと締めつけられ、呼吸がうまく入らなくなる。
「……燈夜、俺……」
言いかけて、喉が詰まって声にならない。
燈夜が心配そうに手を伸ばす。
「深月?」
触れられたら泣いてしまう。そう思った。
気づいたら——
深月はふっと燈夜から距離をとっていた。
「ちょ……ちょっと、……一人になりたい。少しだけ……」
燈夜の手が空をつかむ。
「深月……」
呼び止める声が優しすぎて、その優しさが胸に刺さった。
(優しくされたら……余計に苦しい……逃げてしまう……)
深月は答えず、ふらふらと桜の陰を離れた。
走らなくても、“逃げてる”って自覚はあった。
障子をまわり込むようにして、屋敷の奥へと姿を消す。
深月の姿が見えなくなるまで見送って、燈夜はゆっくり手を下ろした。
(……追いかけたい。けれど……今の深月に触れたら……ほんとに壊してしまう)
桜の下に一人残されると、胸の奥に溜めていた“言えないもの”が
一気に顔を出す。
燈夜は桜の幹に手をつき、深く呼吸を吐いた。
(深月は……知らないほうが幸せだ。
巻き込んだらいけない世界なんだ……)
“悠久の時”
“寿命の流れが違う”
爺やの無邪気な言葉が、刃みたいに胸に残っていた。
(俺と一緒にいる未来なんか……深月の人生、削ってしまうだけだ)
深月は人間。
普通に歳を重ねて、普通に未来を選べる。
(それを奪うなんて——許されない
けれど……離れるなんて……考えるだけで息ができない……)
桜の花びらが燈夜の肩に落ちる。
それだけで胸が締めつけられて、どこにも逃げ場がなかった。
燈夜は、握った手を額に当てる。
(深月の涙も、不安も……ぜんぶ、俺が作った)
それが事実だった。燈夜は小さく呟いた。
「……深月……ごめん……俺……どうしたら……いいんだ……」
深月は誰もいない畳の間に入り、膝を抱えてうずくまった。
静かなはずの空間なのに、胸のざわつきは収まる気配がなかった。
(……燈夜。なにかを隠してる。いつもみたいに“心配させないように”だと思う。
でも今日は……それだけじゃない)
言ってくれない。それが苦しい。
けど胸を締めつけているのは、もっと深いところにあるものだった。
(……悠久の時……)
爺やの言葉が耳に残る。
“伴侶となれば、若様と同じ時を生きる”
“寿命の流れも異なる”
それはつまり、燈夜を選べば——
自分も人間の時間ではなくなる。深月はその意味を理解している。
理解した上で、胸の奥がじくじく痛んだ。
(……燈夜と一緒に生きるってことは、俺も“向こう側の時間”に踏み込むってことだ。
それは……決して軽い選択じゃない)
もし選んだら、もう戻れない。人間としての未来を全部置いていくことになる。
それでも——
燈夜と生きたい気持ちは消えない。
ただ、その覚悟が本当に“燈夜を喜ばせる未来”になるのか、
その答えがわからなくて怖かった。
(俺が選んだら……燈夜がまた背負うんじゃないのか。
俺のせいで何かを失わせてしまうんじゃないか……そう思ったら……足がすくむ)
そして、一番怖いのは——
(燈夜、自分から“俺を守るために”離れようとしてるんじゃないか……)
あの時の燈夜の一瞬だけ沈んだ目。
優しいのに、どこか決意してるような目。
胸がぎゅっと縮んだ。
深月はたまらず畳に手をつき、俯いた。
「……燈夜……俺と一緒にいたら……だめだって……言う気なのか……?」
声は震えていた。
涙が出るわけでもないのに、胸の奥が熱くて苦しい。
(俺は……燈夜と生きたいのに。
一緒にいたいって……言っていいのかな……選んでいいのかな……)
そんな不安が喉の奥までせり上がってくる。
深月は顔を両手で覆った。
「……燈夜……怖いよ……どうして何も言ってくれないの……」
畳に落ちた声は、小さく震えていた。
深月が姿を消して、
燈夜は桜の下で静かに息を吐いた。
(……あれを“今日気づいたこと”のように思うのは違う。ほんとは……ずっと胸の奥にあった)
桜の幹に手を置き、燈夜はゆっくり目を閉じた。
(3年前、深月と暮らし始めたとき……
“いつか別れを選ぶ日が来る”そんなこと、一度も考えたことなかった)
それは嘘でも逃げでもない。
その瞬間だけは自分でも驚くほど正直だった。
(ただ……一緒にいたかった。守りたいって。それだけしか考えてなかった)
“寿命の違い”なんて概念は、深月と暮らす日々の中で、
どんどん“どうでもよく”なっていった。
コーヒーを淹れる深月の横顔。夜、同じ部屋で眠る安心感。
ささいな喧嘩。くだらない話で笑いあった日。
それら全部が、本物の時間で。
(……一緒に暮らし始めたら、そんなこと考えられなかった。
深月がいる毎日が、当たり前になって……
“いつか離れるかも”なんて、怖すぎて向き合えなかった)
桜の花びらが肩に落ちる。燈夜はぎゅっと拳を握った。
(爺やの言葉で初めて気づいた……違う。
“ちゃんと直視しないと”って思っただけだ。本当はずっと……怖かったんだ)
気づかないふりをしていただけ。
気づいた瞬間、深月との時間が終わる気がして怖かった。
(俺は……深月といるのが、当たり前だと思ってしまってた。
この3年間……ずっと。別れなんて、考えられるわけないだろう)
燈夜は静かに息を吸った。
(もし最初から別れを決めてたのなら……あんなふうに触れない。
あんなふうに“好き”になるもんか)
その言い方は、苦しいのにどこか誇りすらあった。
(深月抱きしめたとき、キスしたとき、守ろうと思ったとき……俺は一度も、
“終わり”を考えたことなんかない)
桜の下に影が落ちる。
(爺やが言った“悠久の時”……そんな言葉より前に、俺は深月を選んでたんだ)
燈夜は拳を開き、小さく呟いた。
「……最初から離れる気なんか……なかった。
そんな気持ちで……深月を抱くはずないだろ……」
その声は桜の根元で静かに落ちた。
畳の上でしばらくうずくまっていた深月は、
いよいよ胸の痛みにじっとしていられなくなった。
(……ここにいたら……息ができない……)
頭の中がぐちゃぐちゃで、この部屋の空気すら重く感じる。
深月はふらりと立ち上がり、障子を開けて廊下へ出た。
どこへ向かうつもりもない。
ただこの胸のざわつきから逃げ出したかった。
廊下の曲がり角を曲がった途端、深月の足が止まった。
胸の奥で何かがずっとざわついている。落ち着かない。
体のどこも痛くないのに、心だけが締めつけられる。
(……燈夜、どうして何も言ってくれないんだ)
爺やに言われた“悠久の時”の言葉。
それに合わせて、燈夜の一瞬だけ沈んだ目。
全部が胸の中で絡まって、逃がしてくれない。
(俺が……一緒にいたいって思ったら……だめなのか?
それとも……燈夜は……)
“俺とは違う時間で、生きていくつもりなのか?”
そんな考えが頭に浮かんだ瞬間、喉がきゅっと締まった。
「っ……」
深月は思わず壁に手をついた。
呼吸が荒くなる。涙は出ないのに、胸だけが熱くて苦しい。
(好きなのに……離れたくないのに……なんでこんな怖いんだ……)
燈夜が隠してることがある。それを責めたいんじゃない。
責めるなんて、考えられない。
でも——
(俺のこと……本気で好きなんだろ?なら……なんで言ってくれないんだ……
俺が聞けないからか?)
声にならない叫びが胸の奥に刺さる。
(燈夜が……俺と生きる未来を“選べない”って思ってるから?
俺が……重荷になるから?人間で、弱いから?向こうの世界のこと知らないから?)
自分の弱さがすべて悪い気がして、胸がきゅうっと痛む。
どちらも悪くないのに、苦しさだけが勝手に積もっていく。
(……ほんとは……俺は燈夜が笑ってたらそれで良かったんだ。
それで充分だったのに……なんで今は……“一緒に生きたい”って思ってしまうんだ……)
その瞬間、深月の目がまた潤みそうになる。
(俺のせいで……燈夜が悩んでるんだったら……
俺……どうしたらいいんだ……)
誰にも聞けない。
誰にも言えない。
燈夜ひとりだけを、どこまでも想い続けた3年間。
それが今、深月の胸の中で形を変えはじめていた。
(……好きなのに……なんでこんなに苦しい……)
深月は袖で目を覆い、その場にしゃがみ込んだ。
涙は出ない。でも喉が詰まって息が苦しい。
気づけば庭へ続く広縁に出ていた。風が冷たくて、肌が少し震える。
(ここにいても苦しい……戻っても苦しい……
どこに行っても逃げられない……)
深月は広縁の柱に手をつき、額を押しあてた。
肩がかすかに震える。声にならない呼吸だけが乱れる。
(……燈夜……捨てられたくない……ほんとは……ずっと一緒にいたいのに……
その“願い”が重荷になるんじゃないかって……それが、怖い……)
その瞬間だった。
そっと風が動く気配がした。
深月が顔を上げたとき――
燈夜が立っていた。
ほんの数歩先。影から出てきたところで、
深月の震える背中を見て、燈夜の表情が一瞬で固まった。
目の奥が、痛みに似た光で揺れる。
「……深月……」
いつもより低い声だった。驚きと、心配と、胸の奥の痛み。
全部が混ざったような声。
深月は反射的に視線を逸らした。
見られたくなかった。強がりも、泣きそうな顔も、
全部、燈夜には見せたくなかったのに。
けれど、その逃げる横顔を見た瞬間——
燈夜はたまらず一歩踏み出した。
深月が顔を上げたとき——
目の前で燈夜の表情をみて息を呑んだまま動けなくなる。
燈夜は、痛むように眉を寄せて言った。
「……深月。 そんな苦しい顔……ひとりでしないでくれ」
その声は問いじゃない。責めでもない。
“気づいてなかったわけじゃない。
本当はずっと気づいてた。
でも胸が痛くなるほど怖かった。”
そんな燈夜の本音がそのまま滲む、一言。
深月は燈夜の声を聞いた瞬間、肩がびくりと揺れた。
“逃げようとしたわけじゃない。
ただ——胸が痛くなるほど怖かった。
胸の奥が痛すぎて、どう顔を向ければいいかわからなかった。”
燈夜はそっと距離を詰める。けれど触れない。
触れたら深月が壊れそうなのが分かっていたから。
「……深月。こっちを向いてくれ……」
静かで、必死で。そんな声だった。
深月はゆっくり振り返った。涙はこぼれていないのに、
どこにも逃がせない苦しさが目に溜まっている。
燈夜の胸がぎゅっと鳴った。
「……ごめん。ひとりにしてしまったみたいだな」
深月はかぶりを振る。
「違う……燈夜のせいじゃない。
ただ……俺……どうしたらいいか、分からなくなって……」
言葉が途中で詰まった。燈夜は息をのみ、一歩だけ踏み出す。
「深月……“悠久の時”のこと……考えてたのか?」
その問いかけは、責めでも察しでもない。
深月の胸の痛みに触れようとする、燈夜の優しさそのものだった。
深月の喉が震える。
「……燈夜と一緒にいたい。それはほんとにそう思ってる。でも……燈夜だけが全部背負ってきて……
俺だけ何も知らないまま楽しく隣にいたのかって……そう思ったら……苦しくなって……」
燈夜は息を詰まらせた。
深月が燈夜を責めるわけではなく、
“自分を責めて苦しんでいる”のが、痛いほど分かった。
広縁に夜の風がそっと流れ込む。
燈夜は、ようやくその手に触れた。強く握りしめず、逃げ道を塞がず。
ただ、“ここにいる”と伝える触れ方で。
「……深月。
そんなふうに思わせてしまったのなら……俺のほうこそ、ごめん」
深月は驚いて顔を上げる。
燈夜の瞳は、苦しさと優しさで濡れていた。
「俺は……守ることばっかり考えて、大事なこと……深月に言えてなかった。
言えばお前を迷わせると思って……手を伸ばす資格がないじゃないかって……怖かったんだ」
深月の胸がきゅっと締め付けられた。
(……燈夜も、怖かったんだ……)
二人の影が、広縁の淡い桜の光の中で揺れる。
深月が額を燈夜の胸に押しつけてきた瞬間、
燈夜の指先が、ほんのわずかに震えた。
——本当は。この手を、離したくなんかない。
けれど桜の木の下で決めた。
深月の未来を奪わないために、
自分が“手放す側”になると。
その覚悟は揺らいでいない。
だからこそ、いまの深月の苦しむ顔が胸に刺さる。
燈夜は深月の肩に手を添え、
そっと距離を作らないまま言った。
「……深月。そんな顔、見せなくてもいいんだ」
その声は優しいのに、どこか痛みを噛み殺している。
深月は涙を堪えながら顔を上げた。
「……燈夜、怖かったんだろ……?俺が……巻き込まれるのが」
燈夜は答えない。答えたら、決意が揺らぐから。
代わりに燈夜は、
深月の頬に触れた親指を、一度だけやわらかく滑らせた。
「深月が……笑って生きられる未来なら……なんでもいいんだ」
それは“残る”側の言葉ではない。
“去る側”の覚悟をした人間の声。
深月はその違和感を胸で感じ取ったのか、指が燈夜の袖をきゅっとつまんだ。
「燈夜……なにか……怖いこと思ってる?」
痛いほど鋭い。だから、燈夜は少しだけ笑った。
「深月、ほんとに……よく見てるな」
その笑顔が優しすぎて、逆に深月の不安が大きくなる。
「……燈夜……ほんとに……俺と……一緒にいてくれる……?」
胸が、ひりつく。燈夜は、答えられない。
“今だけは嘘をつけないから”。
代わりに、深月の手を包むだけ。その指先には、
“これが最後の温度になるかもしれない”
という痛いほどの切なさがあった。
「……深月。お前を大事に思わない日は……一日もなかった」
その一言で、深月の表情が大きく揺れた。
燈夜の胸も同じように揺れている。でも覚悟は揺らがない。
深月を守るための“痛い選択”は、もう桜の木の下で決めてしまったから。
燈夜の一言が落ちた瞬間、胸の奥の“何か”がきしりと鳴った。
——嫌だ。
理由も形も言葉もまだ出てこないのに、ただその感情だけが、
深月の身体を内側からぎゅっと締めつけた。
深月は燈夜の袖を掴んだまま、声にならない息を漏らす。
「……どうして、そんな……言い方するんだよ……」
燈夜は目を細めた。哀しいとか後ろめたいとか、そういう表情じゃない。
ただ静かに——
“覚悟を隠して微笑む人間”の顔だった。
「深月の未来は……深月自身のものだ。俺が決めていいことじゃない」
その言葉の優しさが、逆に深月の胸をざわつかせる。
(……優しすぎる。こんなの……“別れの前”みたいだ……)
燈夜は深月の手をそっと離した。
強引にじゃなく、丁寧に、痛くないように。
その触れ方が余計に怖い。
「……深月。辛い思いをこれ以上させたくない」
(やめて……そんな言い方……)
喉が熱くなるのに、声だけが出てこない。燈夜の言葉は優しいのに、
その優しさが“距離”の形をしている。
燈夜が、立ち去ろうとした。
その瞬間——
深月の身体が反射で動いた。
「燈夜……待って……!」
声が震えていた。でも深月は止まらない。
「……嫌だ……」
言葉にすればたったそれだけ。でも、その一言には
“置いていかれる気配”
“未来を一人に戻される恐怖”
“自分だけ知らないところで何かを決められている痛み”
全部が詰まっていた。
燈夜はゆっくり振り返る。
その顔に浮かんだのは——燈夜自身を責めるような哀しさ。
「……深月。そんな顔をさせたくないから……いまだけは……」
深月の胸がぎゅうっと痛む。
(“いまだけ”って……なんだよ……どういう意味だよ……)
問いが喉に上るのに、声にできない。
怖いから。聞いたら、終わりが来てしまいそうで。
燈夜は、そんな深月の沈黙を痛いほど理解して、
そっと目を閉じた。
「——ごめんな、深月」
その言葉に、深月の呼吸が止まった。
その言葉の響きが、広縁の空気を一瞬で冷やした。
深月の心臓が、ぎゅっと掴まれたみたいに痛んだ。
「……え……なんで“ごめん”なんだ……?」
声が震えてる。でも深月はもう泣いていない。
代わりに——
“なにかが崩れそうな予感”だけが胸を走っていた。
燈夜は、深月の正面に立ち、ゆっくりと目を伏せた。
「……これ以上俺の側にいたら、深月の……人生が変わってしまう」
その声は優しいのに、
深月の未来を自分ひとりで勝手に決めようとする残酷さを孕んでいた。
「……燈夜……?」
燈夜は息を吸い、決めてしまった覚悟を、
深月の前で形にしようとしている。
「深月。お前は本来、“人間の時間”で生きる人だ。
普通の……あたたかい……人の世界で……誰かと出会って、笑って……幸せになるんだ」
その言葉が胸を刺した。
(どうしてそんな……
まるで……“燈夜の隣では幸せになれない”みたいに……)
深月が胸を押さえたまま息を切る。燈夜は続ける。
「俺の世界は……光も影も、役目も、“境”もあって……
深月を巻き込むには……重すぎる」
燈夜は深月に触れようと手を伸ばしかけて——
その手を、自分で引っ込めた。
「だから……もう一緒にいたらだめだ」
深月の視界が揺れる。
(……え?
どうして……そんな……一番言ったらいけない言葉……言うんだよ……)
燈夜は続ける。
「——深月。お前は帰らないといけない。俺の世界じゃないところへ」
その言葉は、
深月の全てを否定する“別れ”そのものだった。
燈夜の言葉が終わった瞬間、深月の中の時間だけが止まった。
音も、桜の揺れる気配も、ぜんぶ遠のいて——
ただ胸の奥だけが、じくじくと痛んでいた。
「……嘘、だ……」
声は小さくて、震えていた。
涙が一粒だけ、ぽたりと落ちた。泣き崩れるでもなく、ただ静かに落ちる涙。
燈夜が一歩踏み出そうとすると、深月はかすかに首を振り、距離を取った。
「……俺、なにかした……?」
声は弱いのに、必死に堪えてるのがわかる。燈夜の胸が痛む。
「深月のせいじゃない」
「じゃあ……なんで……そんな……ひとりで全部決めるんだよ……?」
また涙が落ちる。でも、泣きじゃくりはしない。
静かに、ただ痛みだけが落ちていく。
そして——涙が止まった。
胸の奥から、別の熱がゆっくりあがってくる。
深月は顔を上げた。赤い目のまま、じっと燈夜を見つめる。
「なぁ、燈夜」
声がかすれているのに、芯ははっきりしている。
「“だめだ”って…… 勝手に決めていいのか……?俺の人生……俺のものだろ……?」
燈夜が息を呑んだ瞬間、深月は一歩踏み出した。
「勝手に“戻れ”とか……勝手に“離れろ”とか……
お前……なんだよ……?」
静かな怒りが、声の奥にじわり広がる。
「……一緒にいたいって……俺は言っただろ。
どうして……燈夜だけが決めるんだよ……?」
燈夜は言葉を失う。深月はさらに踏み込んだ。
「俺が“隣にいたい”って言ったの……俺の気持ちだぞ……
どうして無かったことにするんだよ……!」
声が震え、怒りとも悲しみともつかない
熱があふれる。
「勝手に選ぶな、燈夜!!勝手に“別れ”なんか言うな!!
そんなもの……認めない!!」
広縁に深月の声が響いた。
「……置いていくな……俺は……燈夜と生きたいんだ……」
その言葉は、
燈夜の覚悟ごと胸に突き刺さる。
深月の怒りの声が、広縁にまだ残っていた。
なのに——
燈夜の表情は動かない。
冷たいわけでも、怒っているわけでもない。
ただ、必死に“何かをこらえている顔”だった。
「……燈夜……なんとか言えよ……」
深月が絞り出した声は、もう怒りより痛みに近かった。
燈夜は唇をきつく閉じ、目を逸らさず、でも言葉を返さない。
胸の奥で、なにかが軋んでいた。
(……言ったら……離れたくないって……
深月が生きるはずの未来から……引き離してまう……)
自分の気持ちを言葉にした瞬間、
“深月を巻き込む決定”になる。
——だから、言えない。
でも、深月にはそれが
“無視されてる” ようにしか見えなかった。
「……黙って立ってるだけって……それが答えなのか……?」
声が震える。
「俺がどれだけ……怖かったと思ってるんだよ……一人で“別れ”なんか言われて……
なんで燈夜は何も言わないんだ……?」
燈夜は、拳を握った。
そして、
ほんの一瞬だけ——揺れた。
けれどすぐに飲み込み、首を横に振った。
「……だめだ。言ったら……もう止まらない……」
絞り出した声は、
逆に深月の胸を切り裂いた。
「……燈夜……」
深月の言葉が途切れたあと、
広縁の空気が張りつめたまま沈黙した。
燈夜は、拳を握ったまま動かない。
(……深月は……本気で“分かって”言ってるんだろうか……)
胸が痛いのに、言葉を飲み込めばさらに深月を泣かせるだけ。
だから——
燈夜は、ほんの少しだけ視線をそらし、声の温度を落とした。
冷たい、けれど震えている声で。
「お前……わかってるのか?何千年——いや、それ以上だ。
俺たちの時間に踏み込むってことが、どういう意味か……ほんとにわかってるのか?」
深月の心臓がずきっと跳ねた。
燈夜は、深月を見ない。見たら言えなくなるから。
「街も、人も、季節も……全部変わっていく。
お前だけが変わらない時間を、生きるんだ」
燈夜の声が低く沈む。
「……それを簡単に言う深月を、 “本当に分かってる”とは言えない」
燈夜の言葉が落ちた瞬間——
深月の胸の奥で、何かが音もなく折れた。
怒ることもできない。泣くこともできない。
声を出したら、全部が崩れてしまいそうで。
ただ、そこに立ったまま——
茫然と、視線を宙に漂わせるしかなかった。
(……俺……何も……分かってなかった……?)
焦点が合わない。燈夜の顔を見ようとしても、
視界の中で形が揺れてまとまらない。
さっきまで胸の奥で暴れてた怒りも、痛みも、涙も、どこか遠くへ消えていく。
残っているのはただ——
“底の抜けた静けさ”。
燈夜が何か言おうと口を開いたのが見えた。
でも、深月にはその声が届かない。
(……俺……ほんとに……
何にもわかってない子どもみたいだ……)
深月はようやく燈夜のほうを見る。
けれど、その目にはもう感情が浮かんでいなかった。
「……俺……何も……わかってなかったんだな……」
自分でも驚くほど静かな声。
燈夜の胸が痛む。本気で、息が止まるほどに。
燈夜の言葉が胸に刺さったまま、深月はふらりと広縁を離れた。
怒るでも泣くでもない。ただ、心が空っぽになって……歩くしかなかった。
庭を抜け、建物の影を曲がる。
何も考えられない。考えたくても、思考が動かない。
(……俺……なにしてるんだ……何もわかってなかった……)
そんな空っぽの顔のまま、障子の前で立ち尽くしていた。
そこへ、静かな足音。
「……姫様」
爺やが目を丸くし、慌てて駆け寄った。
けれど深月の無表情を見た瞬間、何も言わず、そっと肩に手を添える。
「こちらでございます。まず……温まりましょう」
浴場に連れて行かれた深月は、
されるがままに服を脱がされ、湯へ入れられた。
湯の暖かさが、皮膚から、骨から、少しずつ浸透してくる。
ぼうっと湯の中に沈むと、
胸の奥の“止まっていた何か”が、ようやく動き始めた。
(……あったかい……)
その瞬間——
堰を切ったみたいに、意識が戻る。
震える息がこぼれた。
「姫様……」
爺やが柔らかい声で言った。
「どうか……少し……お話をさせてくださいませ
若様は、夜叉王の直系。その血を持って、生まれながらにお力も、美しさも、周囲の羨望も……
何もかもを授かったお方でした」
湯気の中、深月はまばたきをする。
爺やはゆっくり続ける。
「しかし……わたくしの目には、
若様はいつもつまらなさそうでございました。
何を見ても心が動かぬような……そんな瞳をしておられました」
深月の胸がきゅっと締めつけられる。
爺やは淡々と、しかし愛情深く語った。
「向こうの世界では……美女が列をなし、
どれほど言い寄られても、若様は一度も靡かれなかった。
感情を乱されたことなど、一度もありませんでした」
深月の心がざわりと揺れる。
「唯一、若様が心を寄せたのは……“桜”でございます」
桜、という言葉に深月の背筋が震えた。
「若様は、ただ桜のもとに立ち、
散る間際の儚い一瞬だけを見つめて……微かに笑うことがありました」
爺やは、昔を見るように目を細めた。
「もしかすれば……若様は桜の儚さを、
……羨んでおられたのかもしれませんな」
その言葉が、深月の胸の奥で、
ぱちん、と火花みたいに弾けた。
(……儚い?桜が……?儚いから……羨ましい?)
深月の心が一気に熱を帯びる。
爺やが静かに続ける。
「桜は短い命。人の人生も……若様から見れば同じでございましょう」
そこで、深月の全身が湯の中でぐらりと揺れた。
「……はああぁぁぁ!?!?」
湯気を割るほどの声。爺やが驚いて背筋を伸ばす。
深月は湯の中で勢いよく立ち上がった。
「桜の儚さ!? 人間の短さ!?それと“俺”をいっしょにするなぁぁぁ!!」
湯が跳ねた。
「……は、はぁ……?」
爺やは深月の豹変した姿に言葉が続かない。
深月はさらにヒートアップする。
湯気の中で拳を握りしめる。
「なめんなよ!!不老長寿なんぼのもんじゃい!!
むしろありがとうございますだろが!!俺が燈夜と人生過ごして何が悪いんだよ!!」
爺やはぽかんとしたあと……ゆっくり頷く。
「……さすが、姫様でございます」
「姫じゃない!!俺についてる立派なもんが目に入らないのか!!」
爺やは困惑しながらも、なぜか褒めた。
「……その“勢い”こそ……若様がお惚れになった理由でしょうな……」
深月は湯の中で拳を握り、
「見てろよ燈夜……!お前が桜を羨むんだったら、俺は……“桜より強く咲いて見せる!”」
湯気の中で瞳がぎらりと光った。
“燈夜を取り返しに行く男の顔”になっていた。
湯から上がった深月は、濡れた髪もそのまま、浴衣だけを肩にかけ、
ほとんど裸同然のまま廊下へ飛び出していた。
爺やが慌てて後ろから羽織を抱えて追いかける。
「姫様!!お召し物を——!!」
「姫じゃないって言ってるだろ!!いまはそれどころじゃない!!」
深月は濡れた足で廊下を駆け抜けた。木の床に滴る湯も気にしない。
胸の奥で、熱が燃えていた。
(……燈夜……お前のことで、
俺だけが傷ついてると思ったら……大間違いだからな……)
庭の桜が視界に入る。
広縁の向こう。燈夜がひとり座っていた。
背中越しに見ても分かる。強がってるだけの、どうしようもなく寂しい影。
深月は爺やに羽織を掛けられながら、そのまま広縁へ走った。
「燈夜!!」
燈夜の肩が、びくっと揺れた。
ゆっくり振り返る。
その目には、覚悟と諦めが同じだけ入り混じっている。
「……深月。戻ってきたらだめだ——」
深月は言葉を遮った。
「——お前はバカか!!?」
燈夜が目を丸くする。
深月は広縁に立ち、そのまま燈夜の前に膝をついて叫んだ。
「爺やさんに話、聞いた!!何千年どうこうだの、儚いだの、桜が短い命だの……
勝手に決めつけんな!!」
燈夜の目が揺れる。
深月は拳を握った。
「桜は毎年咲いて、生き続けてる!儚いどころか、めちゃくちゃ生命力がある!!
それを勝手に“短い命”だと思い込んで……俺まで同じ扱いするな!!」
燈夜の喉が震えた。
深月はさらに踏み込む。
「お前が桜を羨むのは勝手だ。けどな!俺は——
儚く散るつもりなんかない!!お前の隣に立つって決めたんだ!!
そのために……ここまで来たんだ!!」
燈夜の唇が震える。
「……深月……そんな簡単な話じゃない——」
深月はすぐに遮る。
「簡単じゃないから覚悟してんだよ!!
“人間やめる覚悟がわかってるのか”って言っただろ?」
燈夜は息を呑んだ。
深月は震える声で続けた。
「わかってないよ。不安もある、怖いよ……
お前と生きる未来がどんなものなのかも見えない」
燈夜の指がぎゅっと握られた。
深月の声は震えてるのに、言葉は一切揺れてなかった。
「……でも、
お前が“俺を巻き込む”って決めつけたのは腹が立つ」
燈夜の表情が、痛みに近い色を帯びる。
深月の胸の奥が熱くなった。
「俺は……“お前の隣にいたい”って自分で決めたんだ。
巻き込まれたんじゃない。自分で選んだんだ!!」
燈夜は息が止まったみたいに固まる。
深月はさらに言う。
「俺の人生だ。勝手に決めるな。」
桜の花びらがひとつ、静かに落ちた。
燈夜は目を伏せ、肩を震わせて、
そして——
ゆっくり深月を抱きしめた。
抱きしめられた瞬間、
燈夜の腕が震えていることに深月は気づいた。
「……どうして……」
燈夜の声が、喉の奥でかすれる。
「なんで……そんな言葉……迷いもなく言えるんだ……深月……お前……ほんと……」
言葉の続きが出てこない。
ただ、抱きしめる腕だけが、必死で、苦しいほど強かった。
深月はその胸に顔を埋めた。
「燈夜が……勝手に離れようとするからだ。
俺の人生なのに……俺の意思も聞かないで……
お前ひとりで背負おうとするから……腹が立つんだよ……」
燈夜の呼吸が、ひゅう、と震えた。
「……深月……
お前に……そんな顔をさせるくらいなら……
手を離したほうが……いいと思ったんだ……」
深月は勢いよく首を振った。
「そんなわけあるかよ!!」
震えた声が広縁に響いた。
「お前が離れたら……俺は二度と笑えない!」
燈夜の体がびくっと揺れた。
深月は、涙をこらえるように唇を噛んで続ける。
「……桜の儚さとか……人間の短い命とか……そんなことで“俺を見限る理由”にするな。
俺は……散るつもりなんかない。お前と並んで、生き続けたいんだ」
燈夜はしばらく動けなかった。
抱きしめたまま、深月の背中に額を落とし——
小さく、何かが崩れるみたいに息を吐いた。
「俺は……お前を巻き込むのが怖かったんだ。
お前が普通の“人の時間”で生きていくほうが……幸せなんだと思ってた」
深月の腕が、燈夜の背中をつかむ。
燈夜は震えた声で続けた。
深月はすぐに首を振る。
「勝手に決めるな。俺の幸せは……お前と生きることだ」
燈夜の喉が震えた。深月はさらに強く言う。
「俺、長生きしたいからとか、そんな理由で選んでない。
ただ、燈夜の隣がいいだけだ。それ以上も以下もない」
しばらく沈黙が流れた。深月は顔を上げる。
燈夜の目の端に、光るものがあった。
「……燈夜……泣いてる……?」
燈夜は顔を背けようとしたが、深月の手がそれを止めた。
「泣かせたくて言ったんじゃない……俺が言いたいのは……
“お前がいない未来なんか、考えてない”ってことだ」
燈夜の視線が揺れた。
深月はまっすぐに燈夜を見た。
「俺は……燈夜と生きたい。お前が桜を愛し続けたように……
俺は“お前”を選ぶ。お前の隣に立つって決めたんだ。
それが、俺の人生だ」
燈夜の唇が震えた。
「……そんな……そんなふうに言われたら……」
燈夜はぐっと深月を抱き寄せた。
「……もう離れられないだろ……深月……
俺……お前を手放すなんて……できない……」
深月は燈夜の胸に顔を埋め、ゆっくり目を閉じる。
「じゃあ……一緒にいこう。選ぶとか……覚悟とか……そんな言葉よりも
“お前の隣がいい”って気持ちだけで決めていいんだ」
燈夜は震えた息を吐き、深月の肩に額を押し当てた。
「……深月……お前、強すぎるだろ……俺よりずっと……」
「当たり前だろ。
お前が“俺のいない未来”を選ぼうとしたから、止めに来たんだ!」
燈夜はゆっくり、深月の頬に触れた。
「……ほんとに……俺の隣で生きたいのか」
「生きたい」
燈夜はその答えに、
胸の奥でずっと張りつめていたものが静かに落ちたのを感じた。
「……じゃあ……もう離れない」
燈夜の答えに深月は小さく息を吸った。
燈夜は思わず笑った。
その笑いは、泣きそうで、安堵に滲んで、
触れたらほどけてしまいそうな優しい息づかいだった。
燈夜は深月を抱きしめたまま、しばらく何も言えなかった。
腕の中にいる深月の体温が、さっきまでの苦しさを少しずつ溶かしていく。
やっと、燈夜が小さく息を吐いた。
「……深月。お前に……こんなこと言わせるほど追い詰めたの、俺だな」
深月は首を横に振った。
「追い詰めたんじゃない。言うべきを、言っただけだ」
燈夜は深月の頬に手を添え、視線をしっかり合わせた。
涙がもう一度、深月の目の端まで上がりかけた。
燈夜はその涙に気づき、そっと拭った。
「泣くな。泣かせるのは、もう嫌だ。これからは……笑わせたい」
深月は笑ってしまった。涙混じりの笑顔で。
「……そんなの……最初からだよ……」
燈夜の胸も、ずっと張りつめていた何かがやっと解けた。
ちょうど二人が抱き合ったまま静かに息を整えていたその時——
廊下の向こうから、信じられないタイミングで声が響く。
「若様ぁーーーっ!!
姫様のご入浴後の髪を乾かす儀式の準備が整いましたぞ!!」
「やめろって言っただろぉぉぉ!!!」
「……タイミング悪すぎだろ、爺……」
「姫様、御髪が濡れたままですと襟足が冷えてしまいますぞ!!」
「俺は男だっ!!布団に頭こすって乾かす!!」
燈夜は肩を震わせて笑い、
さっきまでの重い空気が一気に吹き飛んだ。
——けれど。
爺やの無邪気な声とは裏腹に、
ふたりとも胸の奥にある “選んだ未来の重さ” をしっかり抱えたまま、
ようやく並んで立てる場所にたどり着いていた。
そのまま、使用人に促されるまま広間へと通される。
しかし座らないわけにもいかず、
深月はむすっとしながら座布団に腰を下ろした。
(……この屋敷……ほんとに……落ち着かない……)
隣に燈夜が座る。
燈夜は茶を口にしながら言う。
「でも……こうして深月が隣にいるの、いいな」
深月は反射的に顔をそむけた。
「……急にそんなこと言うなよ……」
燈夜は小さく笑った。
「帰る前に……ちょっとくらい甘えさせてくれ」
深月の胸がじん、と温かくなる。
その瞬間、
使用人が湯気の立つ器を運んできた。
「姫様、召し上がりやすいよう、一口大に切ってございます」
「切るな!!俺は子供じゃない!!」
燈夜は口元を押さえて笑った。
なんとか食事を終え、ふたりは広間を後にした。
庭に出ると、
夜の名残を残した朝の光の中で、桜がそっと揺れていた。
深月は思わず見とれて立ち止まる。
燈夜は隣に立ち、ゆっくりと深月の肩に手を置いた。
「……ここが好きなんだ。向こうのものにも……人間のものにも染まらない。
ただ、毎年同じように咲くだけの桜だ」
深月は桜を見上げたまま呟く。
「……綺麗だな」
燈夜は少しだけ笑った。
「深月と出会ったのも……この桜の下だ」
深月はハッと燈夜を見る。
「……ほんとに、覚えてないのか?」
深月は唇を噛んだ。
「……覚えてない。でも……
桜の匂いで目が覚めた日があったのは……覚えている」
燈夜の目が柔らかく細くなる。
「それでいい。深月は深月の時間で……
俺は俺の時間で……それでもこうして同じ場所にいる」
深月は胸の奥がぎゅっとなった。
燈夜は深月の前に立ち、真剣な目でゆっくりと言う。
「……深月。俺と一緒に生きるって、
ここで改めて言ってもらっていいか?」
深月は燈夜をまっすぐ見返した。
「言っただろ。何回でも言うけど……
俺は、お前と生きたい。それ以外いらない」
燈夜の胸がわずかに震え、視線が温かく揺れた。
「……ありがとう。深月のその言葉だけで……
俺の全部が……救われる」
深月は照れながら呟く。
「俺もだ。お前に選んでもらえるって……こんなに……嬉しいと思わなかった」
燈夜は深月の頬にそっと触れた。
「帰ろうか、深月。俺たちの場所に」
深月は小さく笑った。
「うん。帰ろう、燈夜」
桜の花びらがふたりの肩に落ちる。
その瞬間——
ふたりの影が静かに寄り添うように重なった。
桜の下でお互いの気持ちを確かめ合った二人は、
屋敷の門へゆっくりと歩いていった。
燈夜は深月の手を握ったまま。深月も握り返したまま。
廊下を抜けて玄関に戻ると、爺やが静かに待っていた。
「若様、姫様。
……よいお時間をお過ごしになられましたかな」
「だから姫じゃないって言ってるだろ!最後まで!!」
爺やはまったく動じず、むしろ微笑んでいた。
「姫様が叫ぶ姿を見られるのも……
これでしばらくは最後かもしれませんな」
「なんでしばらくなんだよ!?二度と言わなくていいよ!」
燈夜は肩を震わせて笑っていた。
「爺や。深月困らせすぎだ」
「若様。困らせてはおりませぬ。
ただ…… “若様の隣に立つお方”に相応しい扱いをしているだけでございます」
深月は真っ赤になる。
「……っ!」
燈夜は小さく笑って言った。
「まあ……間違ってないけどな」
「燈夜まで何言ってんだよ!!」
爺やは最後に、静かに頭を下げた。
「姫様。若様は……ずっと孤独でございました。
どれだけ周りに人がいても、心を許せる相手はおりませなんだ」
深月は驚いて燈夜を見る。燈夜は目をそらした。
「……爺や、よせ」
「いえ、最後に一言だけ。どうか……若様をお願い致します」
深月の胸が、ぎゅっと熱くなった。
深月は小さく息を吸い、燈夜の手を強く握った。
「……任されない。“お願いされるまでもない”って思ってるから」
燈夜がびくっとした。
目がやわらかく揺れた。
爺やは満足そうに微笑んだ。
「……やはり姫様でございますな」
「もうええ加減にして!!」
「行こう、深月」
「もう一生言われそうで怖いよ!!」
「その可能性はあるな」
……そんなふたりの掛け合いに、
屋敷の者たちは温かく見送った。
門を出ると、
空気が一気に変わった。
向こうの匂いも、影のざわめきもない。
ただ、普通の朝の冷たい風。
深月は大きく息を吸った。
「……なんか、落ち着くな。こっち」
燈夜は深月の肩にそっと手を置く。
「深月が生きてきた場所だからな。俺も……ここがいい」
深月は燈夜の方を見て、ふっと笑った。
「じゃあ……帰ろ。俺たちの家に」
燈夜も笑い返した。
「ああ。帰ろう」
二人はゆっくり歩き出した。手は、ずっと離れなかった。
事務所のドアを開けると、いつもと同じ匂いがした。
コーヒーの残り香。古いソファ。
散らばった資料。
深月は胸がじんっとした。
(……帰ってきたんだ……)
燈夜は深月の背中をそっと押す。
「深月。おかえり」
深月は振り返って、笑った。
「……ただいま、燈夜」
燈夜は深月を抱き寄せた。
「ここからまた、一緒に生きような」
深月は燈夜の胸に額を押し当てて囁いた。
「うん……ずっと隣にいる」
桜の風も、影の気配もない。ただ静かな、ふたりの世界。
その小さな事務所が、これからの家であり、未来そのものになる。
◇ ◇ ◇
事務所の一番奥。
2人の寝室のドアが、ゆっくりと閉まる。
部屋に灯っているのは、小さなスタンドライトだけ。
薄い橙色の光が、深月の横顔を柔らかく照らす。
燈夜は静かにドアにもたれ、息を整えるように深月を見つめていた。
「……深月」
その呼び方だけで、胸がじん、と熱くなる。
深月はベッドに腰掛けたまま、燈夜に視線を向けた。
「……燈夜。こっち、来て」
燈夜が歩くたび、床板がゆっくり鳴る。
距離が縮まるにつれ、深月の胸が高鳴る。
燈夜は深月の前で立ち止まり、そっとその頬に触れた。
「……戻ってきたんだな。ここが……俺たちの家なんだな」
深月は燈夜の手に頬を預け、目を細めた。
「うん……やっと戻れた。燈夜と一緒に帰ってこれて……それだけで十分だ」
燈夜は深月を抱きしめたまま、そっと身体を深く寄せた。
その距離ではもう、呼吸ひとつが互いの胸に触れるほど近い。
「……深月、震えてる」
燈夜の低い声が、首筋にやわらかく触れた。
「……っ、燈夜が……近すぎて……」
深月の声は掠れていて、言葉の端が甘くほどけている。
燈夜はその震えを確かめるように、深月の背中へ手をまわし、
ゆっくりと指を滑らせた。
布越しの指の動きなのに、深月の身体がびくっと反応する。
「ここ……弱いんやろ」
燈夜は耳元で囁き、そのまま首筋に唇を寄せた。
押しつけるような強さじゃない。けれど逃げられないほど深い。
「……ん……っ……」
深月は耐えるように、燈夜のシャツをぎゅっと掴んだ。
「深月の声…… 聞きたかったんだ」
燈夜の声は、今まででいちばん熱を帯びていた。
唇が耳の後ろに触れた瞬間、深月の呼吸がふっと跳ねる。
「っ……そこ……」
「知ってる。深月の弱いとこも、
触れたら溶けるとこも……全部、俺が覚えてる」
燈夜は布団の中で、深月を自分の胸に押し寄せた。
胸に当たる深月の体温が、そのまま燈夜の熱を煽る。
「……燈夜……そんなふうに触られたら……」
燈夜は深月の頬を両手で包み、ゆっくりと顔を近づけた。
触れる直前の距離。息が絡んで逃げられない。
「……たまらない?」
「……っ……うん……」
返事をした瞬間、燈夜は深月の唇を再び深く奪った。
今度は浅くない。求めるままの熱で、
深月の腰に回した手でしっかりと抱き寄せる。
深月の唇が震える。呼吸が乱れて、指先が燈夜の胸を押してしまう。
離れた瞬間、燈夜はその指先にそっと口づけた。
「逃げようとするなよ。俺のとこおいで」
燈夜は深月の身体を軽く引き寄せ、胸の中にすっぽり収めた。
そのまま耳元へ唇を寄せて囁く。
「深月……離れないって言ったよな。
今夜くらい、全部預けていいから」
深月は息を吸うのも忘れたように、燈夜の肩にしがみつく。
「……預ける……ぜんぶ……離れないから……」
燈夜の腕が、
迷いなく深月の身体を抱きしめた。
腰を押し寄せるような深い抱擁。
「深月……俺ももう無理だ。
好きすぎて……せめて抱きしめていないと息ができない」
その言葉に、
深月の胸が甘く揺れた。
「……抱いて…………燈夜……」
燈夜の呼吸が一瞬止まり、次の瞬間、深月の肩へ
強すぎない力で腕がまわる。
「……そんな声で頼まれたら……離すわけないだろ……」
唇が額に、頬に、首元に——連続して触れていく。
そのたび深月は声を堪えるように身を震わせた。
「深月……今夜はずっと……
俺がそばにいる。寝ても、起きても……お前の隣だ」
深月は燈夜の胸に顔を埋め、掠れた声で囁いた。
「……好きだ……燈夜……お前しか、いない……」
燈夜は深月の後頭部をそっと撫で、胸に抱き寄せながら答えた。
「……俺もだ。深月の全部……愛してる」
ふたりの影は、寝室の柔らかな灯りの中で、
ひとつに溶けるように寄り添い続けた。
燈夜の腕の中で、
深月は胸に頬を寄せたまま息を震わせていた。
触れられるたびに身体が反応してしまう。
燈夜もそれに気づいていて、わざとゆっくりと、
逃げられないように触れてくる。
「……深月」
首筋に落ちる声が甘くて、耳の奥が痺れる。
「そんなとこ触られたら……無理……」
深月が押し返そうとした指先を、
燈夜はそっと絡めて自分の胸に押し当てた。
「無理じゃなくて……“気持ちいい”だろ」
「っ……!」
図星を刺されたみたいに深月の肩が揺れる。
燈夜は微笑んで、耳のすぐ後ろへ唇を落とした。
「ここ、弱いって言ってただろ。……可愛いな、深月」
その声が、胸の奥をとろけさせるように響く。
燈夜は深月の身体を引き寄せ、自分の膝の上に乗せるように抱え込んだ。
「燈夜っ……そんな……」
「いいやろ。可愛い声、近くで聞きたい。」
深月は燈夜の胸に両手を置いたまま、深く抱かれながら息を乱す。
燈夜の指は、深月の背中、腰へと迷いなく滑り、
触れられるだけで身体が熱を帯びていく。
「……声、我慢しなくていい」
「っ……燈夜のせいだろ……」
燈夜はその言葉に喉で笑い、深月の唇を甘く吸った。
軽いキスじゃない。
深くて、求めて、
離れたくなくなる触れ方。
唇が離れたあとは、
すぐに頬、耳、首筋へと連続して触れる。
深月は燈夜の肩にしがみつき、
逃げ場を失ったみたいに息を漏らした。
「……っ、ん……」
燈夜はその声に余計に熱を上げ、
深月の背をさらになぞった。
「深月……もっと近くに来い。俺の胸の中……全部預けて」
深月は震えた声で囁いた。
「預ける……もう全部……燈夜に」
燈夜の腕が強く抱き寄せた。優しさじゃ収まらないほど、
愛しさがあふれてる抱き方。
その温度に、深月は胸の奥がとろけるのを感じた。
どれくらい抱き合っていたのか、
時間の感覚がもう曖昧になる。
深月は燈夜の肩に顔を埋めたまま、
呼吸がゆっくりと落ち着き始めていた。
燈夜は深月の背を子どもをあやすみたいにやわらかく撫でている。
「……深月、眠たくなった?」
低い声が耳のすぐそばに触れる。
「……眠ったら、離れる?」
深月の不安を含んだ声に、燈夜は首を横に振った。
「離れない。この腕から絶対に。」
その言い方が、深月の胸を安心で満たした。
燈夜は深月をベッドにそっと横たえ、
自分もその隣に入り込むように抱き寄せた。
深月は燈夜の胸に手を置き、ゆっくり目を閉じた。
「……燈夜の心臓……聞こえる……」
「聞かせてるんだ。深月が眠っても安心できるように」
燈夜は深月の髪に指を通し、やわらかく梳いた。
深月はそのまま、燈夜の胸に頬をすりよせる。
「……好きだよ、燈夜……」
「俺もだ。深月の全部、大事にする」
燈夜はもう一度、深月を胸に引き寄せた。
深月はその腕に包まれながら、確かな温もりに頷いた。

