境の屋敷の門をくぐった瞬間、
燈夜の足がふっと止まった。
「……っ」
そのまま膝が落ち、
抱えられていた深月の視界がゆっくりと傾く。
「燈夜……?」
返事をするより早く、
二人とも地面に倒れ込んだ。
屋敷の奥から足音が近づき、
複数の影が静かに二人を抱え上げた。
声はない。
けれど手つきは慣れていて、迷いがなかった。
(……誰……?)
問いかける間もなく、
深月の意識はそこで途切れた。
深月が目を覚ましたのは、柔らかい布団の上だった。
天井には古い梁が走り、障子の向こうで夜風が桜を揺らしているのが影でわかる。
微かな光が花びらを透かし、普通の桜なのに、深月の知らない気配が混ざって見えた。
「……ここ……」
起き上がろうとすると、布団のそばに置かれた湯気の立つ椀に気づく。
屋敷の者が置いてくれたものだろう。
(……燈夜は?)
胸がざわりと波立つ。
障子が音もなく開いた。
「起きたのか」
燈夜が立っていた。
浅く息をし、まだ胸の傷は痛むようだが、顔色は先ほどよりずっと戻っていた。
「燈夜……怪我……」
「もう大丈夫だ。家の者が手当てしてくれた」
燈夜はゆっくり深月のそばに歩み寄り、深月が動かなくてもいいように、
布団の横に膝をついた。
「無理しなくていい。起き上がらないほうが楽だろ」
深月は首を横に振った。
「外……桜の匂いがする……」
燈夜は一瞬、微笑んだ。
「……じゃあ、少しだけ見にいくか。庭だったら座って話せる」
庭に出ると、夜の桜が静かに揺れていた。
“普通の桜”のはずなのに、
燈夜が近づくと、花びらの色がほんの少しだけ変わったように見えた。
淡い光が花弁の奥で揺れ、人の目では掴めない何かが一瞬だけかすめる。
深月は息を呑んだ。
「……きれい……」
「ここは、俺の“境”だからな。
地上の桜と、向こうの桜が、少しだけ混ざる」
二人は並んで桜の根元に座った。
深月は布団から持ってきた薄掛けを肩にかけ、
燈夜はその隣で背中を少し幹に預けるように座る。
自然に話せる距離。
触れようと思えば触れられる距離。
深月は燈夜の腕にそっと手を伸ばした。
「……深月。聞きたいこと、あるだろ」
深月は燈夜の服を掴んだまま、小さく頷いた。
「燈夜って……ほんとは何者なんだ。今日の“あれ”は……どういう……」
燈夜は短く息を吐き、
自分の胸の傷を気にするそぶりも見せずに、ゆっくりと言葉を選んだ。
「俺は……向こう側のものだ。
“人間”の枠とは、ちょっと違う」
深月は息を呑んだが、怖れてはいなかった。
「……棟梁って、影が呼んでた」
燈夜は目を伏せ、苦笑いのような表情を浮かべる。
燈夜は桜を見上げてから、ゆっくり深月へ視線を戻した。
「……深月。
俺、自分の正体を……ちゃんと言うべきだと思ってる」
深月は小さく息を呑んだ。
燈夜は、すぐには続きを言わず、
桜の花びらが落ちるのを目で追ってから口を開いた。
「俺の一族は、向こうでは“鬼”って呼ばれることがあるんだ」
深月が目を見開く。
「鬼……?」
燈夜は軽く首を振った。
「だが、深月が想像するような、童話に出てくる鬼じゃない。
あれは人間が恐れた影を物語にしただけだ。俺らとは別ものだ」
深月は少し肩の力を抜く。
燈夜は、指先で深月の手の甲をそっと撫でながら続けた。
「俺の先祖は“夜叉王”と呼ばれていた。その名が強すぎて……
いつの間にか一族ごと“鬼”って呼ばれるようになっただけだ」
「つまり……燈夜自身が鬼ってわけじゃない?」
「ああ、違う。俺たちは“境”を守る一族の血だ。
光と影がぐらつかないように、間を調える役目を持っている。
人を喰ったり、荒ぶったり……そんな力は一つもない」
燈夜は深月の指をそっと握る。
その目は、怖がらせたくない気持ちが滲んでいた。
「ただ……身体がちょっと強かったり、時の流れが人より遅かったり……
そういう“向こうの血”が混ざってるのは確かだ」
深月は燈夜の瞳を見つめ、言葉を選ぶようにゆっくり言った。
「……つまり、燈夜は……
“鬼って呼ばれることがある人”なんだな」
燈夜はその言い方に小さく笑い、安心したように頷いた。
「そうだ。呼ばれるだけで、俺自身は怪物でもなんでもない
ただ、人にはない力があるのも確かだ」
深月の胸がすっと軽くなる。
燈夜は、もう一歩だけ踏み込むように静かに言った。
「深月が知っている俺と……なにも変わらない。
ただ、名前のせいで“鬼って言われる”だけだ」
深月は微笑んで言った。
「……燈夜は燈夜だ。鬼とか、そんな言葉どうでもいい」
その言葉に、燈夜の胸がわずかに震えた。
桜の花びらがふたりのあいだに落ち、夜風が静かに通り抜けていった。
「向こうには、光とか影とか……役目が多いんだ。
だけど――俺は、ああいう場所が性に合わなかった」
「……性に、合わない?」
「窮屈で、冷たい。力がどうとか、立場がどうとか……そんな話ばっかりだ。
だから……春になったら勝手にこっちに降りてきてた。
桜が好きなんだ。あの匂いだけは、向こうにはない」
深月は胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。
(……そんな理由で……)
燈夜は続けた。
「で、ある年の春に……偶然、まだ子供だった深月を見かけたんだ」
深月は瞬きをした。
「……子供の頃?」
「ああ。村の神-夜叉王-と縁ある家の子って聞いて……
向こうの“匂い”を感じとるのも、まあ普通だと思った。でもな……」
燈夜は深月の髪をゆっくり撫でた。
「子供が向こうの記憶なんか、覚えていられるはずがない。
会っても、すぐに忘れると思ってた」
深月の胸がちくりと痛んだ。
「……覚えてない。
でも……なにか……桜の匂いで目が覚めた日が……あった気がする」
燈夜は、少しだけ嬉しそうに目を細めた。
「だろ。あれ、俺がやった」
深月の呼吸が止まりかける。
燈夜の声は穏やかで、でもどこか切なかった。
「別に、特別な縁じゃない。夜叉王を挟んで繋がりがあるだけだ。
たまたま桜の下にいて、たまたま深月がいた。ただ……それだけだ」
深月の胸はまたきゅっと締めつけられた。
「……でも、今日……俺を守ってくれた」
燈夜は首を横に振る。
「守ったんじゃない。3年前深月が“呼んだ”から、俺はここにいるだけだ」
その声は、誰よりも静かで、嘘のない音だった。
燈夜は夜風を吸い込み、桜の香りの中でゆっくり言葉を選んだ。
「深月の光のことだけどな。……前から気になってたことがある」
深月は目を向ける。
燈夜は深月の手をそっと揺らした。
その手のひらの奥が、まだ微かに暖かい。
「深月の家系は“巫女”の家だ。
本来は……代々ずっと女の子が、神さまに祈りを捧げる役目を継いできた。
祈って、守ってもらう側だ」
深月は黙って聞いていた。
燈夜は続ける。
「だけど、深月は男の子だった。本来“祈るための光”のはずが……
自分で大事なものを守ろうとしてしまう。だから光が“前へ出る”んだと思う」
深月の呼吸が震えた。
「……守ろうとしたら、勝手に光が……?」
「そうだ。あれは巫女の光とはちょっと違う。
深月の光は……“誰かを守りたい”が先に走る」
桜の花びらがひらりと落ち、深月の膝に触れた。
燈夜は静かに目を細めた。
「今日、俺が刺されかけた瞬間……深月の光は、自分の意思より先に動いた。
あれが深月の力だ」
夜風が二人のあいだを撫でる。
深月は小さく唇を噛んだ。
「……燈夜のこと、守りたいと思った。怖かったけど……それより……」
燈夜の目が、さっきよりずっと柔らかくなる。
「……ありがとう。深月に、そう思われたなら……
俺はもう十分だ」
花びらがひとつ、二人の間に落ちた。
夜風が、桜の花びらをふわりと揺らした。
燈夜と深月は並んで座ったまま、しばし互いの呼吸を聞いていた。
影との戦いの余韻で、体の奥がまだじんと重い。
深月が小さく肩を震わせるのに気づき、燈夜は横目でそっと様子をうかがった。
「……深月。ほんとに、無理してないか」
「ううん……大丈夫。ここ、落ち着くから……」
深月は桜を見上げた。
その視線は静かなのに、どこか不安が残っている。
燈夜は一度、深く息を吸った。それから、やわらかい声で言う。
「……しばらく、ここにいるか」
深月が顔を向けた。
「え……?」
「深月も、俺も……体が限界だ。
光の反動もあるし……深月はあれだけ使ったら、すぐ街に戻るのは危ない」
深月は唇を結んで、静かに息を呑んだ。
燈夜は桜の方へ視線を向けて続ける。
「それに……ここだったら、影は近づけない。俺の“境”だからな。
外よりも守りやすい」
言いながら、燈夜は深月の手をそっと包んだ。
その手付きは、痛みを隠してるのに優しさだけが溢れていた。
「深月……俺、今はまだ離れたくないんだ。
今日、ほんとうに……怖かったから。深月を失うんじゃないかって。」
そのひと言に、深月の胸が一気に熱くなる。
「燈夜が……そんなこと言うなんて……」
燈夜は少しだけ視線を伏せ、でも、逃げるような弱さじゃなくて、
“本音を伝えるための躊躇い”だけがそこにあった。
「お前いなかったら……俺、多分このまま戻れなかった。
深月の光が……俺を強くしてくれたから。だから……ここで、お前と一緒に傷を治したい」
深月は堪えきれず、燈夜の袖を掴んだ。
「……燈夜、うん……ここにいよう。戻りたくない……俺も」
燈夜はゆっくり笑った。苦しいのに、あたたかい笑顔だった。
「じゃあ、決まりだな」
桜の花びらがひとつ、深月の肩に落ちる。
燈夜はそっとその花びらを摘み、深月の指先に乗せた。
「ここで休んだら……元気になったら……また家に帰ればいい」
深月は花びらを見つめながら、心の奥で静かに感じていた。
(燈夜に“必要だ”って言われた……)
胸がじんわりと熱くなる。
燈夜は深月の指をそっと握った。
「深月。……ここからが、休息の時間だ。
お前と一緒に、ちゃんと息ができる場所で……ゆっくりしたい」
深月は頷く。
「燈夜……一緒にいて」
「ずっといる」
夜の桜が静かに揺れ、二人の影がゆっくり寄り添うように重なった。
桜の下での話が終わると、燈夜は深月の肩にかけていた薄掛けをそっと直した。
「深月、風冷たいだろ。中に入ろうか」
「……うん。でも……もう少しだけここにいたい」
燈夜は目を細めた。
「じゃあ、俺が温めてやる」
それだけ言うと、燈夜はゆっくり深月の背に腕を回した。
深月は驚いて身体をこわばらせたが、すぐに胸の奥がゆっくり緩む。
「燈夜……近い……」
「さっき“離れたくない”って言ったのは、深月だろ」
深月は頬が熱くなったまま、燈夜の肩にそっと頭を預けた。
(……落ち着く……)
燈夜の指が、深月の後頭部をやわらかく撫でる。
まるで弱ってるのを見透かされてるような、でもそれが嫌じゃない触れ方だった。
「深月、手が……冷たいな」
燈夜はその手を包み込むように握った。跡が残りそうなほど強くは握らない。
でも、離す気がないのだけは伝わった。
「……燈夜が温いだけだろ」
「ずっとこうしてようか」
「……うん」
答えた瞬間、燈夜の体温がふっと近くなる。
深月の肩が燈夜の胸に触れ、息の音が耳元で落ちてくる。
「深月。怖かったら、ちゃんと言えよ」
「いまは……怖くない。燈夜がいるし」
燈夜は短く息を吐き、深月の髪に軽く唇を触れさせた。
ちゅ、と微かな音。深月の心臓が跳ねる。
「……っ、燈夜……!」
「今のは……ご褒美だ」
小さく笑う燈夜の横顔が、桜の光に照らされていた。
あんなに怖かった影が嘘みたいに消えて、胸がゆっくり温かく満たされていく。
燈夜は深月の肩を抱き寄せたまま囁いた。
「深月。今夜はゆっくり休もう。俺がずっと横にいるから」
「……うん」
夜の桜が、ふたりの上に静かに降り注いだ。
低い声が耳元に触れる。燈夜の指が首筋をゆっくりなぞり、
深月の呼吸を確かめるように肩を抱き寄せた。
「燈夜……近い……って……」
「近くにいないと、落ち着かない」
囁き声が、身体の奥にまで染みてくる。
燈夜は深月の頬を指で掬い、視線を合わせたまま顔を寄せる。
触れるか触れないかの距離。なのに、息が絡まるほど近い。
「深月……怖くないんだったら……ちょっとだけ、欲張ってもいいか」
深月の喉が鳴った。
「……うん……」
返事を聞き終える前に、燈夜の唇が静かに重なった。
最初は、確かめるように。けれど次の瞬間、
燈夜の指が深月の後頭部にまわり、角度をそっと変えて深く引き寄せてくる。
「……っ、ん……」
深月の声が漏れる。燈夜の胸に手を置いたら、
その鼓動がじんわり伝わってきた。
「深月、震えてる」
「……燈夜が、近いから……」
深月の言葉に笑みの形のまま燈夜の唇が、深月の耳のすぐ下に降りた。
首筋をゆっくり辿り、敏感なところだけを確かめるみたいに触れていく。
「ここ……弱いな」
「っ……や……っ」
燈夜の指先が腰に触れ、布越しにそっと引き寄せる。
息が絡み合って、距離の感覚が溶けていく。
「深月。今日俺……」
燈夜の声が、さっきの強さとはまるで違う熱で震えてた。
「生きててくれて……俺のそばにいてくれて……
……離したくなくなった」
深月の胸にその言葉が真っ直ぐ落ちる。
「燈夜……離れないよ。俺も、ずっと一緒がいい」
燈夜は深月を両腕で抱き寄せ、額を重ねて息を整えながら囁いた。
「……じゃあ今日は、深月の温度、全部感じさせて」
燈夜は深月を抱き上げると、部屋へ向かった。
夜風がそっと二人を包み、桜の花びらが静かに舞い落ちた。
薄い布団の中、
深月は深い眠りの中にいるはずなのに——
燈夜の胸に頬を寄せたまま、そっと指先で燈夜の服をつまんでいた。
まるで、離したら不安になるみたいに。
その仕草があまりにも可愛くて、燈夜は胸がきゅう、と鳴るのを堪えられなかった。
(……深月。寝てても……そんな甘いことするんじゃない)
深月の呼吸はゆっくりで、燈夜の胸にふわりとあたるたびに、
体温が静かに伝わってくる。
唇の端に残るほんのりした赤み、肩に寄り添うように触れてくる体……
全部が、さっきまで一緒に過ごしていた時間を物語っていた。
燈夜はその髪を指で梳きながら、そっと深月の額に額を寄せる。
触れた瞬間、深月が小さくもぞっと身じろぎした。
それだけで、燈夜の喉が熱くなる。
(……可愛すぎるだろ。こんなの、離れられるわけないだろ)
深月のまつげがふるふる震え、燈夜の胸元にもっと寄りかかってくる。
無意識のくせに、燈夜を欲しがるみたいに安心しきって眠るその姿が、
胸の奥をどうしようもなく甘く締めつけた。
燈夜は深月をしっかり抱き寄せ、寝息が落ち着くまでゆっくり背を撫でた。
「……深月。今夜も……俺を溶かす気だな」
返事はないけれど——深月は燈夜の腕の中で幸せそうに眠っていた。
深月の呼吸が深くなったのを感じて、燈夜は静かに身体を落ち着かせた。
胸に預けられた深月の頭は、さっきより重くて、完全に眠りに落ちているのが分かる。
燈夜はそっと深月の髪を撫でた。
「……ほんとうに……怖かったのによく頑張ったな、深月」
返事はない。だから燈夜は、今だけはと言わんばかりに本音を漏らした。
「お前の光……守りたいって思ったときに出るんだろ。
……それ、今日は俺のために出たんだな」
指がゆっくりと深月の耳の後ろを撫でる。眠っている深月の表情が、
少しだけ緩んだ。
「……ありがとう。お前がいなかったら……
俺、今日はほんとに折れてたかもしれない」
燈夜は深月の肩をそっと抱き寄せ、鼻先を深月の髪に埋める。
「明日も……明後日も……ずっと、そばにいてほしい。
言ったらだめだと思っていたけど……もう無理だ」
深月の指が、夢の中で燈夜の服をきゅっと掴む。
燈夜の胸が跳ねた。
「……聞こえてるのか?いや、寝てるな。……だけど……」
燈夜は深月の額に、
眠りを妨げない程度の軽いキスを落とした。
「深月。……好きだ」
障子越しの桜の影が揺れる中、
ふたりは同じ布団の中で静かに眠りへ落ちていった。
桜の影が障子に淡く揺れ、境の屋敷に静かな朝が落ちていた。
深月は、胸の奥にあった温かい鼓動に導かれるように、ゆっくり目を開けた。
(……あれ……近い……)
視界いっぱいに広がったのは、
自分のすぐ前で眠っている燈夜の横顔だった。
自分の手は、燈夜の寝巻を軽くつまんだまま。
昨夜、無意識に掴んだ指先がまだ離れていない。
「……燈夜……?」
呼んだ声は、自分でも驚くほど甘く掠れていた。
燈夜はゆっくり目を開け、まだ夢の余韻をまとった声で囁いた。
「……おはよう、深月」
その響きだけで、深月の胸が一瞬で熱くなる。
「昨日のまま……寝てしまったな」
「うん……」
深月はそっと燈夜の胸に額を寄せた。
「燈夜の……腕、あったかすぎて……離れられなかった」
燈夜は眠気の残る微笑で、
深月の腰に回していた腕をぐっと抱き寄せる。
「離すわけないって言っただろ。……深月が、この腕からいなくなったら……
俺、朝でも夜でも眠れない」
耳が一瞬で真っ赤になる。
「……そんなこと……朝から言わなくていいよ……」
「朝だから言いたいんだ。
深月の寝起きの声がいちばん甘いから」
「……っ!」
深月は反射的に布団を引き寄せようとしたが、
燈夜が腕をほどかない。
「逃げんなよ。
起きていちばんに触れられるの……俺の特権だろ」
そう言って、胸元にいる深月の髪に口づける。
「……ん……っ……燈夜……」
深月の身体がわずかに震える。
燈夜はその反応を、ゆっくり大切に受けとめるように抱きしめた。
「深月……
朝でも夜でも……隣においてれたら、それでいい」
そんな甘さが満ちていく中――
――その時だった。
コン、コン、と控えめなノックがし、障子がゆっくりと開いた。
「若様。朝餉の支度が――」
そこに立っていたのは、白髪をぴしっとまとめた老人。
まるで時代劇から抜け出してきたような古風な身なり。
そして――
深月を見た瞬間に、目を丸くした。
「……っ姫様!?
まあまあ!姫様が若様のお隣に……!」
部屋に響くほど大きな声だった。
深月は布団の中で固まり、燈夜も一拍置いてから目を細めた。
「……爺。起こすの早いぞ」
「若様! お加減が戻られたのなら結構なこと。
そして姫様もご無事で……!」
深月は慌てて起き上がる。
「ま、待って!俺、男です!」
爺やは一切動じなかった。
むしろ「何を当たり前のことを」という顔をしていた。
「はい、承知しておりますとも。ですが 若様の伴侶 であらせられる以上、
お呼びするのは“姫様”が筋でございます」
「伴侶!?!?」
深月の声が裏返った。
燈夜は額を押さえながら、ため息まじりに言った。
「爺、勝手に話を進めるな。」
「まぁ……まだでございましたか。しかしながら、
神の縁に繋がるお方であれば――姫巫女様 とお呼びするのが正式かと!」
深月の脳が一瞬止まった。
「いやいやいやいやッ!?なんでそうなるですか!?
俺ほんとに男だし、巫女とか無理だし!」
爺やは胸に手を当て、
「何を仰いますやら」という顔で静かに告げた。
「姫様。性別は関係ございません。
この世は“縁”と“力”がすべてでございますゆえ」
深月は「だめだ、この人強い……!」と絶句した。 燈夜は隣で肩を震わせて笑いをこらえていた。
「爺や、そねんでやめとけ。深月が困ってる」
「はっ。では姫様、朝餉の準備が整いましたらお呼びいたします」
「呼ばなくていい!!」
爺やは何事も無かったかのように一礼し、静かに障子を閉めた。
――残されたふたり。
「……なあ燈夜」
「ん?」
「……姫様って呼ばれるのは、無理だ」
燈夜は笑いを噛み殺しきれず、ついに吹き出した。
「無理でも呼ばれる。
爺や相手に勝てるやつ、いないからな」
深月は布団の上で盛大に項垂れた。
「……ここにいる間だけ……?」
燈夜は深月の頭をぽんと撫でた。
「だから、ここにいる間だけな。姫様」
「言うな!!」
部屋に桜の影と笑い声が広がった。
爺やが去って、障子の向こうが静かになった瞬間。
深月はふう、と大きく息を吐いた。
燈夜はまだ笑いを噛み殺している。
「爺や、ああ見えて礼儀はちゃんとしてるんやで」
「姫様呼びしながら礼儀語る人いないだろ……」
ぼやきながらも、深月の声はどこか柔らかい。
昨夜の不安の残滓が燈夜の隣で少しずつ溶けていく。
燈夜は深月の肩にゆっくり手を置き、引き寄せた。
「深月。……あんなこと言われたら戸惑うよな」
「うん……戸惑う。
けど……燈夜がいるから、なんとかなる」
その言葉が胸に落ちた瞬間、燈夜は少しだけ真面目な表情に戻り、
深月の額にそっと口づけた。
ただ触れただけの軽いキスなのに、深月の体温が一気に上がる。
「深月の声を聞いたら……落ち着く」
「俺こそ……」
深月は言葉を途中でやめ、燈夜の肩にそっと額を寄せた。
「燈夜の匂い、好き……安心する」
燈夜の喉がわずかに震えた。
「深月……
そんな言い方されたら……朝から抱きしめたくなるだろ」
その言葉の熱が、
深月の胸の真ん中にじわりと染み込んでいった。
ふたりで廊下に出ると、爺やがすでに正座して待っていた。
「若様、姫様、こちらへどうぞ」
「だから姫様やめてって!」
爺やは困った顔で首を傾けた。
「しかしながら……若様の伴侶であらせられる以上、
姫様とお呼びするのが礼儀にございます」
「伴侶じゃないし!!」
燈夜はこっそり深月の肘をつつき、
「爺には勝てないって」と目で伝える。
深月はどうにも納得いかず、
朝餉の席で、もう一度だけ頼んだ。
「爺やさん……ほんとに無理だから。
せめて名前で呼んでくれませんか?」
爺やは本気で不思議そうに目を丸くした。
「姫様……
伴侶となられれば、若様とともに“悠久の時”を共に過ごされるのです。
慣れていただかねば、後々お困りになりましょう」
――その言葉が、
深月と燈夜の胸に同時に刺さった。
(……“悠久の時”? 一緒に……?)
燈夜の指が膝の上でピクリと動いた。
爺やは悪気なく続ける。
「神の縁に繋がる姫巫女様は、寿命の流れもまた特別。
若様の傍におられる限り、人の世とは時の進みが異なるもの。
ですから、姫様と――」
「ちょ、ちょっと待って!!
そんな重大な話さらっと言わないで!!」
燈夜は深月を見ることができなかった。
視線を落とし、拳を握る。
“悠久の時を共にする”
――その言葉は、
深月を巻き込む未来そのものだったから。
深月も唾を飲み込む。考え込むというより、胸がざわつく。
(……そんな……俺、燈夜と……ずっと……?でも……ほんとに……?)
爺やの一言で、空気がしんと変わる。
「さあ、姫様はこちらへ」
「姫様言うなーーー!!」
そこへ別の使用人たちがぞろぞろ現れ、
「姫様、お茶を――」
「姫様、お席の準備が――」
「姫様、お靴をお預かりします――」
「なんで全員が呼ぶんだよ!!?」
燈夜は横で顔を覆って笑いをこらえつつ、
胸だけは痛かった。
(……深月。“悠久の時”を一緒に……なんて……ほんとに言われたら……)
深月は深月で、
使用人たちに囲まれながら頭の中がぐちゃぐちゃだった。
(……俺、どうしたらいいんだ……でも……燈夜と……ずっと……?)
「姫様はこちらへ!」
「俺は男だって言ってるだろーー!」
屋敷が朝から賑やかに響き、桜の気配だけがふたりの胸に小さな影を落とした。
燈夜の足がふっと止まった。
「……っ」
そのまま膝が落ち、
抱えられていた深月の視界がゆっくりと傾く。
「燈夜……?」
返事をするより早く、
二人とも地面に倒れ込んだ。
屋敷の奥から足音が近づき、
複数の影が静かに二人を抱え上げた。
声はない。
けれど手つきは慣れていて、迷いがなかった。
(……誰……?)
問いかける間もなく、
深月の意識はそこで途切れた。
深月が目を覚ましたのは、柔らかい布団の上だった。
天井には古い梁が走り、障子の向こうで夜風が桜を揺らしているのが影でわかる。
微かな光が花びらを透かし、普通の桜なのに、深月の知らない気配が混ざって見えた。
「……ここ……」
起き上がろうとすると、布団のそばに置かれた湯気の立つ椀に気づく。
屋敷の者が置いてくれたものだろう。
(……燈夜は?)
胸がざわりと波立つ。
障子が音もなく開いた。
「起きたのか」
燈夜が立っていた。
浅く息をし、まだ胸の傷は痛むようだが、顔色は先ほどよりずっと戻っていた。
「燈夜……怪我……」
「もう大丈夫だ。家の者が手当てしてくれた」
燈夜はゆっくり深月のそばに歩み寄り、深月が動かなくてもいいように、
布団の横に膝をついた。
「無理しなくていい。起き上がらないほうが楽だろ」
深月は首を横に振った。
「外……桜の匂いがする……」
燈夜は一瞬、微笑んだ。
「……じゃあ、少しだけ見にいくか。庭だったら座って話せる」
庭に出ると、夜の桜が静かに揺れていた。
“普通の桜”のはずなのに、
燈夜が近づくと、花びらの色がほんの少しだけ変わったように見えた。
淡い光が花弁の奥で揺れ、人の目では掴めない何かが一瞬だけかすめる。
深月は息を呑んだ。
「……きれい……」
「ここは、俺の“境”だからな。
地上の桜と、向こうの桜が、少しだけ混ざる」
二人は並んで桜の根元に座った。
深月は布団から持ってきた薄掛けを肩にかけ、
燈夜はその隣で背中を少し幹に預けるように座る。
自然に話せる距離。
触れようと思えば触れられる距離。
深月は燈夜の腕にそっと手を伸ばした。
「……深月。聞きたいこと、あるだろ」
深月は燈夜の服を掴んだまま、小さく頷いた。
「燈夜って……ほんとは何者なんだ。今日の“あれ”は……どういう……」
燈夜は短く息を吐き、
自分の胸の傷を気にするそぶりも見せずに、ゆっくりと言葉を選んだ。
「俺は……向こう側のものだ。
“人間”の枠とは、ちょっと違う」
深月は息を呑んだが、怖れてはいなかった。
「……棟梁って、影が呼んでた」
燈夜は目を伏せ、苦笑いのような表情を浮かべる。
燈夜は桜を見上げてから、ゆっくり深月へ視線を戻した。
「……深月。
俺、自分の正体を……ちゃんと言うべきだと思ってる」
深月は小さく息を呑んだ。
燈夜は、すぐには続きを言わず、
桜の花びらが落ちるのを目で追ってから口を開いた。
「俺の一族は、向こうでは“鬼”って呼ばれることがあるんだ」
深月が目を見開く。
「鬼……?」
燈夜は軽く首を振った。
「だが、深月が想像するような、童話に出てくる鬼じゃない。
あれは人間が恐れた影を物語にしただけだ。俺らとは別ものだ」
深月は少し肩の力を抜く。
燈夜は、指先で深月の手の甲をそっと撫でながら続けた。
「俺の先祖は“夜叉王”と呼ばれていた。その名が強すぎて……
いつの間にか一族ごと“鬼”って呼ばれるようになっただけだ」
「つまり……燈夜自身が鬼ってわけじゃない?」
「ああ、違う。俺たちは“境”を守る一族の血だ。
光と影がぐらつかないように、間を調える役目を持っている。
人を喰ったり、荒ぶったり……そんな力は一つもない」
燈夜は深月の指をそっと握る。
その目は、怖がらせたくない気持ちが滲んでいた。
「ただ……身体がちょっと強かったり、時の流れが人より遅かったり……
そういう“向こうの血”が混ざってるのは確かだ」
深月は燈夜の瞳を見つめ、言葉を選ぶようにゆっくり言った。
「……つまり、燈夜は……
“鬼って呼ばれることがある人”なんだな」
燈夜はその言い方に小さく笑い、安心したように頷いた。
「そうだ。呼ばれるだけで、俺自身は怪物でもなんでもない
ただ、人にはない力があるのも確かだ」
深月の胸がすっと軽くなる。
燈夜は、もう一歩だけ踏み込むように静かに言った。
「深月が知っている俺と……なにも変わらない。
ただ、名前のせいで“鬼って言われる”だけだ」
深月は微笑んで言った。
「……燈夜は燈夜だ。鬼とか、そんな言葉どうでもいい」
その言葉に、燈夜の胸がわずかに震えた。
桜の花びらがふたりのあいだに落ち、夜風が静かに通り抜けていった。
「向こうには、光とか影とか……役目が多いんだ。
だけど――俺は、ああいう場所が性に合わなかった」
「……性に、合わない?」
「窮屈で、冷たい。力がどうとか、立場がどうとか……そんな話ばっかりだ。
だから……春になったら勝手にこっちに降りてきてた。
桜が好きなんだ。あの匂いだけは、向こうにはない」
深月は胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。
(……そんな理由で……)
燈夜は続けた。
「で、ある年の春に……偶然、まだ子供だった深月を見かけたんだ」
深月は瞬きをした。
「……子供の頃?」
「ああ。村の神-夜叉王-と縁ある家の子って聞いて……
向こうの“匂い”を感じとるのも、まあ普通だと思った。でもな……」
燈夜は深月の髪をゆっくり撫でた。
「子供が向こうの記憶なんか、覚えていられるはずがない。
会っても、すぐに忘れると思ってた」
深月の胸がちくりと痛んだ。
「……覚えてない。
でも……なにか……桜の匂いで目が覚めた日が……あった気がする」
燈夜は、少しだけ嬉しそうに目を細めた。
「だろ。あれ、俺がやった」
深月の呼吸が止まりかける。
燈夜の声は穏やかで、でもどこか切なかった。
「別に、特別な縁じゃない。夜叉王を挟んで繋がりがあるだけだ。
たまたま桜の下にいて、たまたま深月がいた。ただ……それだけだ」
深月の胸はまたきゅっと締めつけられた。
「……でも、今日……俺を守ってくれた」
燈夜は首を横に振る。
「守ったんじゃない。3年前深月が“呼んだ”から、俺はここにいるだけだ」
その声は、誰よりも静かで、嘘のない音だった。
燈夜は夜風を吸い込み、桜の香りの中でゆっくり言葉を選んだ。
「深月の光のことだけどな。……前から気になってたことがある」
深月は目を向ける。
燈夜は深月の手をそっと揺らした。
その手のひらの奥が、まだ微かに暖かい。
「深月の家系は“巫女”の家だ。
本来は……代々ずっと女の子が、神さまに祈りを捧げる役目を継いできた。
祈って、守ってもらう側だ」
深月は黙って聞いていた。
燈夜は続ける。
「だけど、深月は男の子だった。本来“祈るための光”のはずが……
自分で大事なものを守ろうとしてしまう。だから光が“前へ出る”んだと思う」
深月の呼吸が震えた。
「……守ろうとしたら、勝手に光が……?」
「そうだ。あれは巫女の光とはちょっと違う。
深月の光は……“誰かを守りたい”が先に走る」
桜の花びらがひらりと落ち、深月の膝に触れた。
燈夜は静かに目を細めた。
「今日、俺が刺されかけた瞬間……深月の光は、自分の意思より先に動いた。
あれが深月の力だ」
夜風が二人のあいだを撫でる。
深月は小さく唇を噛んだ。
「……燈夜のこと、守りたいと思った。怖かったけど……それより……」
燈夜の目が、さっきよりずっと柔らかくなる。
「……ありがとう。深月に、そう思われたなら……
俺はもう十分だ」
花びらがひとつ、二人の間に落ちた。
夜風が、桜の花びらをふわりと揺らした。
燈夜と深月は並んで座ったまま、しばし互いの呼吸を聞いていた。
影との戦いの余韻で、体の奥がまだじんと重い。
深月が小さく肩を震わせるのに気づき、燈夜は横目でそっと様子をうかがった。
「……深月。ほんとに、無理してないか」
「ううん……大丈夫。ここ、落ち着くから……」
深月は桜を見上げた。
その視線は静かなのに、どこか不安が残っている。
燈夜は一度、深く息を吸った。それから、やわらかい声で言う。
「……しばらく、ここにいるか」
深月が顔を向けた。
「え……?」
「深月も、俺も……体が限界だ。
光の反動もあるし……深月はあれだけ使ったら、すぐ街に戻るのは危ない」
深月は唇を結んで、静かに息を呑んだ。
燈夜は桜の方へ視線を向けて続ける。
「それに……ここだったら、影は近づけない。俺の“境”だからな。
外よりも守りやすい」
言いながら、燈夜は深月の手をそっと包んだ。
その手付きは、痛みを隠してるのに優しさだけが溢れていた。
「深月……俺、今はまだ離れたくないんだ。
今日、ほんとうに……怖かったから。深月を失うんじゃないかって。」
そのひと言に、深月の胸が一気に熱くなる。
「燈夜が……そんなこと言うなんて……」
燈夜は少しだけ視線を伏せ、でも、逃げるような弱さじゃなくて、
“本音を伝えるための躊躇い”だけがそこにあった。
「お前いなかったら……俺、多分このまま戻れなかった。
深月の光が……俺を強くしてくれたから。だから……ここで、お前と一緒に傷を治したい」
深月は堪えきれず、燈夜の袖を掴んだ。
「……燈夜、うん……ここにいよう。戻りたくない……俺も」
燈夜はゆっくり笑った。苦しいのに、あたたかい笑顔だった。
「じゃあ、決まりだな」
桜の花びらがひとつ、深月の肩に落ちる。
燈夜はそっとその花びらを摘み、深月の指先に乗せた。
「ここで休んだら……元気になったら……また家に帰ればいい」
深月は花びらを見つめながら、心の奥で静かに感じていた。
(燈夜に“必要だ”って言われた……)
胸がじんわりと熱くなる。
燈夜は深月の指をそっと握った。
「深月。……ここからが、休息の時間だ。
お前と一緒に、ちゃんと息ができる場所で……ゆっくりしたい」
深月は頷く。
「燈夜……一緒にいて」
「ずっといる」
夜の桜が静かに揺れ、二人の影がゆっくり寄り添うように重なった。
桜の下での話が終わると、燈夜は深月の肩にかけていた薄掛けをそっと直した。
「深月、風冷たいだろ。中に入ろうか」
「……うん。でも……もう少しだけここにいたい」
燈夜は目を細めた。
「じゃあ、俺が温めてやる」
それだけ言うと、燈夜はゆっくり深月の背に腕を回した。
深月は驚いて身体をこわばらせたが、すぐに胸の奥がゆっくり緩む。
「燈夜……近い……」
「さっき“離れたくない”って言ったのは、深月だろ」
深月は頬が熱くなったまま、燈夜の肩にそっと頭を預けた。
(……落ち着く……)
燈夜の指が、深月の後頭部をやわらかく撫でる。
まるで弱ってるのを見透かされてるような、でもそれが嫌じゃない触れ方だった。
「深月、手が……冷たいな」
燈夜はその手を包み込むように握った。跡が残りそうなほど強くは握らない。
でも、離す気がないのだけは伝わった。
「……燈夜が温いだけだろ」
「ずっとこうしてようか」
「……うん」
答えた瞬間、燈夜の体温がふっと近くなる。
深月の肩が燈夜の胸に触れ、息の音が耳元で落ちてくる。
「深月。怖かったら、ちゃんと言えよ」
「いまは……怖くない。燈夜がいるし」
燈夜は短く息を吐き、深月の髪に軽く唇を触れさせた。
ちゅ、と微かな音。深月の心臓が跳ねる。
「……っ、燈夜……!」
「今のは……ご褒美だ」
小さく笑う燈夜の横顔が、桜の光に照らされていた。
あんなに怖かった影が嘘みたいに消えて、胸がゆっくり温かく満たされていく。
燈夜は深月の肩を抱き寄せたまま囁いた。
「深月。今夜はゆっくり休もう。俺がずっと横にいるから」
「……うん」
夜の桜が、ふたりの上に静かに降り注いだ。
低い声が耳元に触れる。燈夜の指が首筋をゆっくりなぞり、
深月の呼吸を確かめるように肩を抱き寄せた。
「燈夜……近い……って……」
「近くにいないと、落ち着かない」
囁き声が、身体の奥にまで染みてくる。
燈夜は深月の頬を指で掬い、視線を合わせたまま顔を寄せる。
触れるか触れないかの距離。なのに、息が絡まるほど近い。
「深月……怖くないんだったら……ちょっとだけ、欲張ってもいいか」
深月の喉が鳴った。
「……うん……」
返事を聞き終える前に、燈夜の唇が静かに重なった。
最初は、確かめるように。けれど次の瞬間、
燈夜の指が深月の後頭部にまわり、角度をそっと変えて深く引き寄せてくる。
「……っ、ん……」
深月の声が漏れる。燈夜の胸に手を置いたら、
その鼓動がじんわり伝わってきた。
「深月、震えてる」
「……燈夜が、近いから……」
深月の言葉に笑みの形のまま燈夜の唇が、深月の耳のすぐ下に降りた。
首筋をゆっくり辿り、敏感なところだけを確かめるみたいに触れていく。
「ここ……弱いな」
「っ……や……っ」
燈夜の指先が腰に触れ、布越しにそっと引き寄せる。
息が絡み合って、距離の感覚が溶けていく。
「深月。今日俺……」
燈夜の声が、さっきの強さとはまるで違う熱で震えてた。
「生きててくれて……俺のそばにいてくれて……
……離したくなくなった」
深月の胸にその言葉が真っ直ぐ落ちる。
「燈夜……離れないよ。俺も、ずっと一緒がいい」
燈夜は深月を両腕で抱き寄せ、額を重ねて息を整えながら囁いた。
「……じゃあ今日は、深月の温度、全部感じさせて」
燈夜は深月を抱き上げると、部屋へ向かった。
夜風がそっと二人を包み、桜の花びらが静かに舞い落ちた。
薄い布団の中、
深月は深い眠りの中にいるはずなのに——
燈夜の胸に頬を寄せたまま、そっと指先で燈夜の服をつまんでいた。
まるで、離したら不安になるみたいに。
その仕草があまりにも可愛くて、燈夜は胸がきゅう、と鳴るのを堪えられなかった。
(……深月。寝てても……そんな甘いことするんじゃない)
深月の呼吸はゆっくりで、燈夜の胸にふわりとあたるたびに、
体温が静かに伝わってくる。
唇の端に残るほんのりした赤み、肩に寄り添うように触れてくる体……
全部が、さっきまで一緒に過ごしていた時間を物語っていた。
燈夜はその髪を指で梳きながら、そっと深月の額に額を寄せる。
触れた瞬間、深月が小さくもぞっと身じろぎした。
それだけで、燈夜の喉が熱くなる。
(……可愛すぎるだろ。こんなの、離れられるわけないだろ)
深月のまつげがふるふる震え、燈夜の胸元にもっと寄りかかってくる。
無意識のくせに、燈夜を欲しがるみたいに安心しきって眠るその姿が、
胸の奥をどうしようもなく甘く締めつけた。
燈夜は深月をしっかり抱き寄せ、寝息が落ち着くまでゆっくり背を撫でた。
「……深月。今夜も……俺を溶かす気だな」
返事はないけれど——深月は燈夜の腕の中で幸せそうに眠っていた。
深月の呼吸が深くなったのを感じて、燈夜は静かに身体を落ち着かせた。
胸に預けられた深月の頭は、さっきより重くて、完全に眠りに落ちているのが分かる。
燈夜はそっと深月の髪を撫でた。
「……ほんとうに……怖かったのによく頑張ったな、深月」
返事はない。だから燈夜は、今だけはと言わんばかりに本音を漏らした。
「お前の光……守りたいって思ったときに出るんだろ。
……それ、今日は俺のために出たんだな」
指がゆっくりと深月の耳の後ろを撫でる。眠っている深月の表情が、
少しだけ緩んだ。
「……ありがとう。お前がいなかったら……
俺、今日はほんとに折れてたかもしれない」
燈夜は深月の肩をそっと抱き寄せ、鼻先を深月の髪に埋める。
「明日も……明後日も……ずっと、そばにいてほしい。
言ったらだめだと思っていたけど……もう無理だ」
深月の指が、夢の中で燈夜の服をきゅっと掴む。
燈夜の胸が跳ねた。
「……聞こえてるのか?いや、寝てるな。……だけど……」
燈夜は深月の額に、
眠りを妨げない程度の軽いキスを落とした。
「深月。……好きだ」
障子越しの桜の影が揺れる中、
ふたりは同じ布団の中で静かに眠りへ落ちていった。
桜の影が障子に淡く揺れ、境の屋敷に静かな朝が落ちていた。
深月は、胸の奥にあった温かい鼓動に導かれるように、ゆっくり目を開けた。
(……あれ……近い……)
視界いっぱいに広がったのは、
自分のすぐ前で眠っている燈夜の横顔だった。
自分の手は、燈夜の寝巻を軽くつまんだまま。
昨夜、無意識に掴んだ指先がまだ離れていない。
「……燈夜……?」
呼んだ声は、自分でも驚くほど甘く掠れていた。
燈夜はゆっくり目を開け、まだ夢の余韻をまとった声で囁いた。
「……おはよう、深月」
その響きだけで、深月の胸が一瞬で熱くなる。
「昨日のまま……寝てしまったな」
「うん……」
深月はそっと燈夜の胸に額を寄せた。
「燈夜の……腕、あったかすぎて……離れられなかった」
燈夜は眠気の残る微笑で、
深月の腰に回していた腕をぐっと抱き寄せる。
「離すわけないって言っただろ。……深月が、この腕からいなくなったら……
俺、朝でも夜でも眠れない」
耳が一瞬で真っ赤になる。
「……そんなこと……朝から言わなくていいよ……」
「朝だから言いたいんだ。
深月の寝起きの声がいちばん甘いから」
「……っ!」
深月は反射的に布団を引き寄せようとしたが、
燈夜が腕をほどかない。
「逃げんなよ。
起きていちばんに触れられるの……俺の特権だろ」
そう言って、胸元にいる深月の髪に口づける。
「……ん……っ……燈夜……」
深月の身体がわずかに震える。
燈夜はその反応を、ゆっくり大切に受けとめるように抱きしめた。
「深月……
朝でも夜でも……隣においてれたら、それでいい」
そんな甘さが満ちていく中――
――その時だった。
コン、コン、と控えめなノックがし、障子がゆっくりと開いた。
「若様。朝餉の支度が――」
そこに立っていたのは、白髪をぴしっとまとめた老人。
まるで時代劇から抜け出してきたような古風な身なり。
そして――
深月を見た瞬間に、目を丸くした。
「……っ姫様!?
まあまあ!姫様が若様のお隣に……!」
部屋に響くほど大きな声だった。
深月は布団の中で固まり、燈夜も一拍置いてから目を細めた。
「……爺。起こすの早いぞ」
「若様! お加減が戻られたのなら結構なこと。
そして姫様もご無事で……!」
深月は慌てて起き上がる。
「ま、待って!俺、男です!」
爺やは一切動じなかった。
むしろ「何を当たり前のことを」という顔をしていた。
「はい、承知しておりますとも。ですが 若様の伴侶 であらせられる以上、
お呼びするのは“姫様”が筋でございます」
「伴侶!?!?」
深月の声が裏返った。
燈夜は額を押さえながら、ため息まじりに言った。
「爺、勝手に話を進めるな。」
「まぁ……まだでございましたか。しかしながら、
神の縁に繋がるお方であれば――姫巫女様 とお呼びするのが正式かと!」
深月の脳が一瞬止まった。
「いやいやいやいやッ!?なんでそうなるですか!?
俺ほんとに男だし、巫女とか無理だし!」
爺やは胸に手を当て、
「何を仰いますやら」という顔で静かに告げた。
「姫様。性別は関係ございません。
この世は“縁”と“力”がすべてでございますゆえ」
深月は「だめだ、この人強い……!」と絶句した。 燈夜は隣で肩を震わせて笑いをこらえていた。
「爺や、そねんでやめとけ。深月が困ってる」
「はっ。では姫様、朝餉の準備が整いましたらお呼びいたします」
「呼ばなくていい!!」
爺やは何事も無かったかのように一礼し、静かに障子を閉めた。
――残されたふたり。
「……なあ燈夜」
「ん?」
「……姫様って呼ばれるのは、無理だ」
燈夜は笑いを噛み殺しきれず、ついに吹き出した。
「無理でも呼ばれる。
爺や相手に勝てるやつ、いないからな」
深月は布団の上で盛大に項垂れた。
「……ここにいる間だけ……?」
燈夜は深月の頭をぽんと撫でた。
「だから、ここにいる間だけな。姫様」
「言うな!!」
部屋に桜の影と笑い声が広がった。
爺やが去って、障子の向こうが静かになった瞬間。
深月はふう、と大きく息を吐いた。
燈夜はまだ笑いを噛み殺している。
「爺や、ああ見えて礼儀はちゃんとしてるんやで」
「姫様呼びしながら礼儀語る人いないだろ……」
ぼやきながらも、深月の声はどこか柔らかい。
昨夜の不安の残滓が燈夜の隣で少しずつ溶けていく。
燈夜は深月の肩にゆっくり手を置き、引き寄せた。
「深月。……あんなこと言われたら戸惑うよな」
「うん……戸惑う。
けど……燈夜がいるから、なんとかなる」
その言葉が胸に落ちた瞬間、燈夜は少しだけ真面目な表情に戻り、
深月の額にそっと口づけた。
ただ触れただけの軽いキスなのに、深月の体温が一気に上がる。
「深月の声を聞いたら……落ち着く」
「俺こそ……」
深月は言葉を途中でやめ、燈夜の肩にそっと額を寄せた。
「燈夜の匂い、好き……安心する」
燈夜の喉がわずかに震えた。
「深月……
そんな言い方されたら……朝から抱きしめたくなるだろ」
その言葉の熱が、
深月の胸の真ん中にじわりと染み込んでいった。
ふたりで廊下に出ると、爺やがすでに正座して待っていた。
「若様、姫様、こちらへどうぞ」
「だから姫様やめてって!」
爺やは困った顔で首を傾けた。
「しかしながら……若様の伴侶であらせられる以上、
姫様とお呼びするのが礼儀にございます」
「伴侶じゃないし!!」
燈夜はこっそり深月の肘をつつき、
「爺には勝てないって」と目で伝える。
深月はどうにも納得いかず、
朝餉の席で、もう一度だけ頼んだ。
「爺やさん……ほんとに無理だから。
せめて名前で呼んでくれませんか?」
爺やは本気で不思議そうに目を丸くした。
「姫様……
伴侶となられれば、若様とともに“悠久の時”を共に過ごされるのです。
慣れていただかねば、後々お困りになりましょう」
――その言葉が、
深月と燈夜の胸に同時に刺さった。
(……“悠久の時”? 一緒に……?)
燈夜の指が膝の上でピクリと動いた。
爺やは悪気なく続ける。
「神の縁に繋がる姫巫女様は、寿命の流れもまた特別。
若様の傍におられる限り、人の世とは時の進みが異なるもの。
ですから、姫様と――」
「ちょ、ちょっと待って!!
そんな重大な話さらっと言わないで!!」
燈夜は深月を見ることができなかった。
視線を落とし、拳を握る。
“悠久の時を共にする”
――その言葉は、
深月を巻き込む未来そのものだったから。
深月も唾を飲み込む。考え込むというより、胸がざわつく。
(……そんな……俺、燈夜と……ずっと……?でも……ほんとに……?)
爺やの一言で、空気がしんと変わる。
「さあ、姫様はこちらへ」
「姫様言うなーーー!!」
そこへ別の使用人たちがぞろぞろ現れ、
「姫様、お茶を――」
「姫様、お席の準備が――」
「姫様、お靴をお預かりします――」
「なんで全員が呼ぶんだよ!!?」
燈夜は横で顔を覆って笑いをこらえつつ、
胸だけは痛かった。
(……深月。“悠久の時”を一緒に……なんて……ほんとに言われたら……)
深月は深月で、
使用人たちに囲まれながら頭の中がぐちゃぐちゃだった。
(……俺、どうしたらいいんだ……でも……燈夜と……ずっと……?)
「姫様はこちらへ!」
「俺は男だって言ってるだろーー!」
屋敷が朝から賑やかに響き、桜の気配だけがふたりの胸に小さな影を落とした。

