月下の花雲

--3年前


深月はスーパーのレジに立ちながら、客の差し出すポイントカードを受け取った。
笑顔も、言葉も、ほとんど形だけ。
誰もが通りすぎる街の音に溶けていく。

休憩時間、裏口の喫煙所の前でペットボトルの水を飲む。
遠くの空が少し白んで、夕焼けと夜の境い目みたいな色をしていた。
 
(今日も同じだな)
 
それでも、帰る場所がある。母と祖母の遺影が並ぶ、小さな部屋。

母を亡くしたのは中学生のときだった。
あの日、祖母は深月の肩を抱いて言った。
――無理に人と同じになることはない。深月は深月のままで、いればいい。
その言葉が、長いあいだ心の奥で灯のように残っている。

高校は山を越えた寮制で、誰とも深くは関われなかった。
けれど、困っている人がいれば、つい手を差しのべてしまう。
 
(見える、感じる、そんなもんに囚われても仕方がない)
 
祖母が教えてくれた“感じる力”は、使い方さえ忘れるほど穏やかに眠っていた。

卒業前、祖母が亡くなった。
残されたのは古びた木箱と、わずかな貯金。
深月はその金を握りしめて上京し、いまの街で暮らし始めた。
気づけば季節は三度めの春を迎えている。

帰り道、小雨が降り出していた。
街灯の下を通るたび、光が滲んで見える。
 
(あれ……)
 
ふと立ち止まる。視界の端、電柱の影がゆらめいた。
風の向きが変わる。何かが、こちらを見ているような気配。

(気のせいだ)
 
そう思った瞬間、背中に重みが走る。
足がもつれ、地面に手をつく。
――その時だった。

腕をつかまれ、ぐっと引き寄せられる。
目の前に、ひとりの男。
雨の粒を弾くように、空気が一瞬で澄む。

「危なかったな」
 
低い声。見上げた先の男は、街灯の光を背負って立っていた。
黒いコートの裾が濡れて、夜の匂いがする。
その輪郭が、わずかに光を帯びて見えた。

(光ってる……?)
 
瞬きをした瞬間には、もう普通の影になっている。
深月が何か言おうとした時、男は静かに言った。

「もう大丈夫だ」

そのまま、夜の奥へ消えていった。
男が消えた方向を見つめたまま、深月は昔のことを思い出した。

(こういう“気配の乱れ”を見るたびに、思い出す)

高校の頃、影をまとった同級生がいた。深月にはそれが見えた。見なかったことにもできたのに、放っておけなかった。
近づいて、肩のあたりに手をかざした。掌の周りに淡い光がにじんだ気がして、次の瞬間、影はほどけるように消えた。
彼は深月に気づかないまま友人と走り去った。
以来、同じ気配を見かけるたび、深月は確かめるように手を伸ばしてきた。良いことか悪いことかは分からない。ただ、見えてしまったから。
けれど、昨夜の“それ”は違う。あれは、触れたら呑まれる。背中の奥に、遅れて冷たさが流れた。
祖母は一度だけ言ったことがある。
――深月の力は、守宮のそれとは少し違う。光に似ているが、同じではない。
意味は教えてくれなかった。ただ「無理に使うな」とだけ言われた。

(見ないほうがいい。……でも、どうしたらいい?)

男の顔がふと浮かんだ。
あの一瞬だけ、胸のざわつきが消えた気がした。
その問いに答えるものは当然いなかった。

翌日、家に閉じこもっているわけにもいかず、重い足をひきずるようにして出勤した。
仕事が始まれば、忙しさにまぎれて忘れる事も出来たが、
帰る時間になるとそうもいかない。
かといって店に居続けるわけにもいかず、深月は覚悟を決めて家路へと歩き出した。
 
(昨日は雨が降ってた。今日は晴れてる。きっと大丈夫だ。)
 
根拠のない、昨日と違うことを列挙しいくつかの街灯を通り過ぎていく。
やがて、昨日の場所に差し掛かる。
そこにいたのは、昨日の男だった。
街角の自販機の明かりの前。缶コーヒーを片手に。

「……また会いましたね」
 
他人に自分から声をかけるなど、普段の深月にはあり得ないことだった。
しかし、今はそんなことを言っていられない。
おそらく生きるか死ぬかの問題なのだ。
声をかけると、男はゆるく笑った。

「縁だな」
「昨日は、助けてくれてありがとう」

まずは、男が昨日のアレを認識していたのかを確かめなければならない。
 
(これで否定されたら……もう打つ手がない)
 
「昨日、助けてくれたとき、何か見えましたか?」
 
男は缶コーヒーを傾けたまま、しばらく黙っていた。
逃げるでもなく、誤魔化すでもなく。
ただ、まっすぐに深月を見ていた。

「……見えた」

その一言に、深月は息を呑んだ。
その言い方が、どこか“こちら側”じゃないと分かった。
けれど怖いより先に、妙な安心があった。

「やっぱり、何か……」
「お前の背中に、黒いモノが伸びてた」

男は淡々とした声で言う。
それなのに、その内容は背筋が寒くなるほど現実的だった。

「近づいたら、影がざわついた。あれは――“呑み込む前”の動きだ」
 
(呑み込む?……)
 
理解出来なくても、それが深月の消滅を意味するものだと震える指を握りしめた。
男は缶コーヒーを置き、ゆっくり深月に近づいてきた。
コートが風に揺れ、街灯の光を受けた瞬間――
昨日と同じ、淡い光がふっと男の輪郭を包んだ。

(……光った)

深月は一歩下がりかけて、踏みとどまった。
男が静かに言う。
 
「名前、聞いてなかったな。俺は、結城燈夜」
「守宮深月。……深月でいいです」
 
深月の自己紹介に結城燈夜と名乗った男は頷いた。

「昨日のアレは、お前を狙って現れたわけじゃない。けれど、お前を見つけてしまった。
 “見えるやつ”は、向こうからもよく見えるんだ。」
「……」
「だから、お前は歩き方ひとつで死ぬ」
 
結城は片手を上げ、空中をなぞるように指を動かした。
その指先が、微かな光を帯びた。
淡々と言いながら、結城は深月の肩に手をそっと置いた。
その瞬間――胸の奥に宿っていたざわめきが、すうっと静まった。

(何だ……これ)

結城は深月の反応を確認しながら言う。
 
「一つだけ、言えることがある」
「え?」
「昨日も、今日も。お前の気配が、妙に“呼んでる”」
「呼んでる……?」
「そうだ。聞こえるんだ。“助けて”って声が」
 
深月の心臓が跳ねた。
 
(そんな声、出してないのに)
 
「発してない声が、いちばんよく響くんだ」
 
結城はほんの僅か、笑った。
 
「お前の周り、気配が荒れている。このまま放置していたら……いつか呑まれる」

深月は小さく息を呑む。
 
「じゃあ……どうすれば……」
「簡単だ」
 
結城は深月の手首を掴んだ。
冷たいのに、どこか心地いい。
皮膚の奥で脈がわずかに揺れる。

「俺が守る」
 
その言葉が、深月の胸の真ん中に落ちた。
 
(なんで……こんなにも真っ直ぐに)

結城は続きを言った。
 
「昨日助けたのも、“縁”だ。お前が呼んだんだと思う」
「呼んだ?」
「そうだ。あれほどはっきりと声が聞こえたのは初めてだった。」

(聞こえた……?)
 
深月の脳裏に、昨日の“光る輪郭”がよみがえる。
結城は深月の手首を放し、夜空を見上げた。

「このままではお前の周りは静かにならない。ほっとけない」

その横顔は、不思議なほど綺麗だった。
街灯の下なのに、影よりも光が似合う。

(……この人、何者なんだ)

尋ねようとしたとき――。
結城がわずかに目を細めた。

「……来た」

空気が変わる。
昨日と同じ、ざらりとした“影”が足元をかすめた。
結城は深月の手首を再び掴んだ。

「動くな。離れるな」

低い声に、深月の喉が鳴る。

(……この人の横にいたら、怖くない)

影が街灯の端を揺らした瞬間――
結城は深月を引き寄せた。

「逃げ方も知らないんだろ」

その声は、雨上がりの風みたいに静かで強かった。

「なら、俺が教える。
 今日から――お前はひとりじゃない」

その声が落ちた瞬間。
足元の影が一気に広がり、空気がざらりと逆流した。

(昨日のと……違う)

昨日の影はただ“襲いかかるもの”だった。
だが今日のそれは、まるで“意思”を持っているように見えた。
黒い塊が揺れ、輪郭もないまま膨れあがる。

「下がって」

結城は深月を背に押しやり、前へ踏み込んだ。
光の粒が、結城の輪郭をふわりと縁取る。

(また……光った)

昨日と同じ光。
けれど今日は、はっきりと強い。
影が縦に裂け、鋭い棘のような形で結城に飛びかかった。

「っ……!」

結城の肩をかすめて、赤いものが散る。

「結城さん!」

自分の声とは思えないほど強く呼びかけていた。
結城は振り返らない。
ただ、淡く笑って言った。

「大丈夫だ。これくらい」

影がふたたび襲いかかる。
深月は胸の奥がざわつき、呼吸が浅くなる。

(昨日より……怖い)

足元がすべりそうになる。
その瞬間――腕を引かれ、ぐっと抱き寄せられた。

「離れるな」

低い声。
結城の体温が近い。
そのときだった。
胸の奥が熱くなり、両手の先にじわりと光が集まる。

(……え)

光が深月の手のひらからふっとこぼれ、
影の触手に触れた瞬間――
じゅ、と音を立てて弾け飛んだ。

「……光を出した?」

結城がはじめて深月をまともに見た。
驚きというより、息を呑むようなまなざし。
 
「お前……」

言葉は途中で切れる。
その瞳には“見失ってた何かを取り戻したような”色が宿っていた。
深月自身は状況を理解できていない。

(なぜ……光が。
 高校生の時に同級生を助けたときみたいに……)

影が焦ったように揺れ、今度は深月の足元から跳ね上がる。

「危ない!」

深月は反射的に手を伸ばした。
結城より早く。
手のひらから出た光が、影を大きく弾き飛ばした。
結城はそれを見て、ほんの一瞬だけ息を呑んだ。

「……きれいだな」

その声は、戦いの最中とは思えないほど静かで、深かった。

 「え?」
 「お前の光……澄んでいる」

影が形を変え、再び襲おうとしたとき、結城が前へ出た。

「ここで終わらせる」

結城の光が強まる。
深月の光と混じり合うように、ふわりと揺れた。
影が悲鳴のように揺れ、
最後の一撃が結城の胸元に向かって伸びる。

「っ……!」

深月は咄嗟に結城の腕を掴み、両手に光を集めた。
その光が影を裂くように弾けた。
夜の空気が一瞬だけ白む。
そして――影は、跡形もなく消えた。
深月は肩で息をしていた。
結城も同じく荒い呼吸をしている。

「……終わった、んだな」
「ああ。今日はこれで」

結城の肩口が赤く濡れているのに気づいて、深月は眉をひそめた。

「血が出てる!」
「これくらい――」
「これくらいじゃない!うちに来て!
 絶対そのまま帰す気ないから!」

珍しく語気を強めると、結城はわずかに目を瞬いた。
その様子は、深月の優しさをそのまま映したみたいに見えた。
結城はたった一瞬、言葉をなくした。

「……仕方ないな。一晩だけ世話になる」
「一晩だけって、言うけどね」
「なんだ」
「怪我してるのに放っとくほうが怖いよ」

結城は小さく笑って、深月の肩に手を置いた。

「お前の光、よく見えてた」
「光って……俺、そんなの知らなかった」
「知らなくていい。けれど――惹かれるな。
 ああいう光はなかなか見られない」

深月は言葉を失い、うまく息ができなかった。

(惹かれる……?)

深月は結城の視線を避けるように俯いた。



深月の部屋は、古い木造アパートの二階だった。
鍵を開けて靴を脱ぐと、結城は無言で中を見渡した。

「……綺麗にしてるんだな」
「狭いから散らかったら気になってしまうんだよ」

結城は靴をそろえて上がり、肩を押さえた。
深月はすぐに救急箱を持ってきて、結城の前にしゃがみ込む。

「じっとして」
「言われなくても」

結城のコートをそっと脱がせる。
肩口の裂けた布の下、赤く滲んだ傷が見えた。

「……痛そうだな」

深月は息を飲んだ。

「お前が言うほどじゃない」

涼しい顔で言うが、傷は深い。
深月は迷わずガーゼをあて、消毒を染み込ませた。

「しみるよ」
「ああ」

ガーゼを軽く押すと、結城の喉がわずかに揺れた。

(我慢してる……)

胸がぎゅっとなる。
昨日今日で突然現れた男に、ここまで気を使わされる理由なんてないのに。

「……なんで、助けてくれたの?」

不意に、深月は聞いていた。
結城の肩に触れた指先が震えていた。
結城は、しばらく黙っていた。
視線は深月の横顔を静かに追っている。

「……呼ばれた気がした」
「昨日の“助けて”のことだろ?」
「それもある。けれどそれだけじゃない」

深月は手を止めた。
結城は視線を落として、低く続けた。

「お前……今日の光、気づかないまま出してただろ」
「え?」
「怖いのに、他人守るために手を伸ばす。
 そんなやつ、放っとけるわけないだろ」

胸の奥が熱くなる。
優しいとか、清らかとか、そんな言葉を直接言われたわけじゃない。
けど、その言い方は……まっすぐすぎた。

「……そんな理由で、命懸けて守られたら困るよ」

深月が照れ隠しのように言うと、
結城はわずかに笑い、深月の手の甲に触れた。

「困られても、もう遅いな」

その指先は冷たいのに、触れられたところだけ熱かった。
手当てを終えると、深月はタオルを絞って、結城の額の汗を拭いた。

「しばらく安静にして」
「深月に言われなくても、今日は動く気しないな」

結城はソファに背を預け、深く息を吐いた。
深月はそばに座り込む。
沈黙が落ちる。
外の風の音だけが、窓ガラスを震わせている。

「……怖かった?」

突然の問いに、深月はうつむいた。

「怖かったよ。でも……結城さんがいたから死なないで済んだ」

その言葉は嘘じゃない。
むしろ、口にして初めて自覚した。
結城は、深月を見る目をほんの少し柔らかくした。

「……それで十分だ」
「十分って?」

深月は胸の奥に何かが落ちる感覚を覚えた。
その“理由”が何を指すのか、深く考えたら動けなくなりそうだった。
やがて、深月が立ち上がろうとすると、
結城が無意識に腕を掴んだ。

「……どこに行く?」
「いや、水を持ってこようと……」

掴んだことに気付いた結城が、慌てて手を離した。

「すまない。
 ちょっと……まだ、お前から離れたくない」

その言葉はあまりにも自然で、深月は返事ができなかった。

(離れたくない……って)

胸が、ゆっくり、確実に熱を帯びていく。
結城の横に座り直し、そっと背中に手を添えた。

「俺も……今は結城さんのそばにいたい」

声に出してから、顔が熱くなった。
結城はその言葉に、浅く息を呑んだ。
痛みでも驚きでもなく、“惹かれた”とわかる呼吸だった。

「……深月。
 そう言われたら……守りたくなるに決まってるだろ」

その声音は、深月の胸にまっすぐ響いた。
静かな部屋の中で、
ふたりの距離だけが確実に縮まっていく。



朝の光が、薄いカーテン越しに部屋を照らしていた。
深月は目を覚まして、ぼんやり天井を見上げた。

(……昨日、寝落ちしたのか)

畳の冷たさを想像して、はっと身を起こす。
結城が、ソファで眠っていた。
コートは脱いだまま、傷のある肩に薄いブランケットを掛けている。
呼吸は深くて穏やかだった。

(痛くないのかな……)

そっと近づいて結城の額に手を伸ばした瞬間、
結城がゆっくり目を開けた。

「……おはよう、深月」

その声は、思っていたより柔らかかった。

「ご、ごめん。起こした?」

「いや、もとから眠りは浅いんだ。
 ……深月の気配が近かったしな」

その言い方に、深月の胸がじんとした。

「朝ごはん、作るよ。食べて」
「いいのか?」
「昨日のお礼だよ」

深月はキッチンに立ち、卵と味噌汁の簡単な朝食を用意した。
結城はまだ傷のある肩を押さえながら、静かに座って待っている。
テーブルに皿を置くと、結城が目を細めた。

「……あったかいな」
「早く食べないと冷めるよ」

ふたりで向かい合って食事をするのは初めてなのに、
妙に自然だった。

「昨日の……光のことだが」

深月が箸を置いた。

「怖いとかじゃなくてな。
 俺、自分が何してるのかもわからなかった」
「わからなくても、出たんだろ」
「うん」

結城はしばらく深月の目を見ると、静かに言った。

「深月の光は“優しさ”だ。それが向こうを弾いている」
「優しさって……」
「お前は怖いのに、他人に手を伸ばす。
 そういうやつの光は、ああいう影には一番効く」

深月は、顔が熱くなるのを止められなかった。
本心で言ってるとわかる声だった。
 
「今日も仕事があるんだ。」

誤魔化すように深月は話を変えた。
深月の言葉に、結城はコーヒーをひと口飲んで言った。

「送っていく」
「いや、昨日のこれ見てたら……」

深月が結城の傷を指して言うと、結城は逆に深月を見据えた。

「深月をひとりで歩かせるほうが、もっと無理だ」

言い方がまっすぐすぎて、深月は言葉を失った。
深月は思わず息を詰めた。

「……燈夜」

呼んでから、自分で驚いた。
結城が一瞬だけ目を見開く。

「……今、なんて?」

「……いや、なんでもない」

 深月は視線を逸らす。

 結城は、ふっと笑った。

「その呼び方、悪くない」

結城は笑みを引っ込め、目だけを細めた。

「昨日の影、あれで終わりじゃない。しばらくは寄ってくる」
「……俺のせいで?」
「お前の光のせいだ。あいつらは寄ってくる。しばらく続く」

深月は眉を寄せた。

「綺麗なのはいいことじゃないのか?」
「光るのはいいことだ。でも……深月の光は、人の“無意識”を呼ぶ。」

それは、褒め言葉に聞こえるはずなのに、
深月は少し怖かった。
結城は息を吐き、言った。

「今日も送る。で――帰りも迎えに行く」
「……そこまでしなくていいよ」
「する。深月をひとりにしたくない」

その一言に、深月の胸の奥が揺れた。


約束通り、結城は店の出口で待っていた。
二人で深月の家に向かう。
日が落ちきって、街灯がぽつぽつ灯っていた。
深月と結城は並んで歩いていたが、
さっきから結城が、ほんの少しだけ距離を詰めてくる。
肩と肩が触れるか触れないかのところ。
その近さに、深月の心臓が落ち着かなくなる。

(……なんだ、この感じ)

ただ隣にいるだけなのに、息が浅くなる。
結城は気づいてないような顔で前を見ていたが、
ふいに、言葉を落とした。

「……昨日、初めて見たとき」
「うん?」
「お前の光、綺麗すぎて……息が止まるかと思った」

深月は思わず足を止めた。

「な、なんだよそれ……言いすぎだろ」
「ほんとうだ」

結城は振り返り、深月のほうに一歩だけ近づく。
街灯の光が、結城の横顔を縁取った。
結城は少し目をそらし、照れくさそうに息を吐く。

「……こんな言い方、慣れてないんだけどな」
「……俺も、聞くの慣れてない」

二人のあいだに、ふっと甘い沈黙が落ちる。
結城は深月の手をそっと取った。
無理やりではない、優しい触れ方。
深月は肩をびくっとさせた。

「ごめん。勝手に触って」
「い、いいけど……」
「深月の手、あったかい」

結城は指を絡めることはしなかった。
ただ、ふわりと包むだけ。
それなのに、深月の胸は、影よりも強く揺さぶられていた。
結城の声が落ちる。

「……怖かったんだろ?」
「うん」
「でもな。俺は深月が光ったとき……綺麗だって思ってしまって、
怖さより、そっちのほうが勝ってしまった」

深月は息を呑んだ。

(綺麗って……そんな真っ直ぐに言われたら)

胸が、熱を持つようにじんとして痛い。
結城が、深月の手をそっと離した。

「……離したくないけど。
 触れすぎたら嫌がられるかと思って」
「嫌じゃない」

深月は小さく言った。
その瞬間、結城の表情がわずかに揺れた。

「……ほんとうに?」
「ほんとう。むしろ……安心する」

言ったあとで、恥ずかしくて顔を背けた。

(何言ってんだ、俺……!)

しかし結城は、そっと手を取り直した。
今度はしっかりと握る。

「じゃあ……もう離さない」

深月の心臓が跳ねた。

「燈夜……」

「昨日のせいじゃない。影のせいじゃない。
 深月がいるから、俺はここにいる」

その言い方は、告白に近かった。
深月の喉がきゅっと締まった。

「……俺も。燈夜がいたから、生きてる」
「深月」

結城がほんの少しだけ身を寄せた。
唇が触れそうで触れない距離。

「……怖がらせる気はないけど。好きになってしまうかもしれない」

深月の胸がどくんと揺れた。

「かも、じゃないだろ」
「……バレた?」
「バレるよ」

結城は小さく、恥ずかしそうに笑った。

「じゃあ……深月も、バレてる」
「えっ……」
「俺のこと、昨日からずっと見てる」
「み、見てない!」
「見てる」

言い切る声があまりにも優しくて、深月は顔を覆った。

「……うるさい」

結城はその手をそっと外した。

「うるさく言いたなるくらい……惹かれてるんだ」

その距離で言われたら、逃げられなかった。
深月は震える息で言った。

「……俺もだ」

結城の瞳が、ゆっくりと熱を帯びた。

「……そっか」

二人の影が、街灯の下でふわりと重なる。

 
その夜も結城は深月の部屋に泊まり、朝は深月を送っていった。
そしてその日の帰り道。
約束どおり、結城は店の前で深月を待っていた。

夕暮れの駅前。
街灯が灯り始める時間。

「お疲れ、深月」
「……今日も来てくれたんだな。」
「来るって言っただろ」

当たり前みたいに言うその顔が、昨日より少し近い気がした。
帰り道、深月がぽつりと聞いた。

「なあ、燈夜……あの影、また来る?」
「来る。深月の周りは、今いちばん匂いが濃い」
「なら……」

言いかけて、声が震えた。

(なら、どうすれば……?いつまでも燈夜に頼ったままなのか?)

結城がすぐ横で歩調を合わせながら言った。

「深月。ここで“ひとりで暮らす”のは危ない」
「……じゃあ、どうすれば?」

結城は迷わず言った。

「俺のところに来い」

深月は歩みを止めた。

「え……」

結城も立ち止まり、深月の方を向いた。

「お前が安全に暮らせる場所はそこしかない」
「一緒に……住むってこと?」
「そうだ」

しれっと言うその表情に、無理も遠慮もなかった。

「影が来た時、お前の背中に手を置いただろ」
「うん……」
「……やばかった。守りたくて、仕方がなかった」

深月は息を呑んだ。

「だから、これは……俺の都合かもしれないけど。来てほしい」

その言葉は、恋の告白みたいに響いた。

「……わかった」

深月はゆっくり息を吐いた。

「行くよ。燈夜のところに」

結城は、安堵したように目を伏せて微笑んだ。

「じゃあ決まりだ。明日から一緒だ」

今夜は深月の家に泊まり、向かっている途中で深月はふと思い出したように言った。

「なあ、燈夜……俺、昔から変なものが見えててさ」
「知ってる。あの影も見えてただろ」
「仕事、どうしよ……スーパー続けてても、迷惑かけそうだし」

結城は少し考えてから言った。

「迷惑じゃない。ただ……今のままだとお前が消耗する」

深月は立ち止まった。

「じゃあ、どうすればいい?」

結城は静かに答えた。

「逃げるんじゃなく、向き合う側に回る」
「向き合う……?」
「今日みたいな影に困ってるやつ、他にもいるはずだ」

深月は息を呑んだ。

(……俺が、そっち側に?)

「助ける側に立てば、飲み込まれにくくなる」

深月はしばらく黙ったまま歩いた。

「……それ、探偵みたいだな」

結城は小さく笑う。

「呼び方はなんでもいい」
「じゃあ、やるならちゃんとやりたい」

その声は思っていたより静かで、強かった。

結城は深月を見る。

「なら、俺も並ぶ」

その言葉は、守るではなく、並ぶという約束だった。


夕暮れの道で、ふたりの影が重なった。
二人は並んで歩き、深月のアパートにたどり着いた。
階段を上る途中、結城がそっと深月の背を支えた。

「ふらついてる」
「……燈夜のほうが怪我してるだろ」
「お互い様だな」

そう言って笑う顔が、昨日よりずっと近い。



部屋に入ると、ほっとする空気が広がった。
深月は電気をつけ、コップに水を注いで結城へ渡す。
結城はそれを飲んで、ゆっくり息を吐いた。

「……落ち着くな、ここ」 
 
結城がポツリと零す。
 
「古いけどね」
 
深月が笑うと、
 
「古いからいいんだろ」

妙に優しい言い方だった。
深月の胸の奥で、何かがそっと息を吸うみたいに膨らんだ。
結城はしばらく部屋を見回していたが、
急に真面目な顔になった。

「……深月。ひとつ、言わなければならないことがある」
「え? なに?」

結城は深月の目だけを見た。

「俺……本来は、この街に住んでないんだ」

深月の胸がざわついた。
結城は視線を逸らさずに言う。

「駅から外れた通りに古いビルがある。一階が喫茶店で、その上を仮の拠点にしている」

深月は瞬きをする。

「拠点……?じゃあ、毎日来たのは……」
「ほんとうに“引っ張られた”んだ。お前の助けて、って声にならない声に」

(……やっぱり)

深月は喉の奥がきゅっとした。

「ほんとは、ここに居続けるつもりもなかった。けれど……」

結城はゆっくり言葉を続けた。

「お前をひとりにしたら、死ぬ。」

静かな声だった。
優しさでもなく、脅しでもなく、ただの“事実”。

結城は少し黙ってから言った。

「本当は、遠くで見てるつもりだった」

「遠く?」

「人と境の者は、近づきすぎない方がいい」

深月は息を止めた。
その言葉の意味を正確には理解できなかった。
ただ、自分と同じ側ではないのだと、ぼんやり感じた。

「……でも、昨日。お前が光った瞬間、全部どうでもよくなった」

結城は視線を落とさない。

「側にいないと落ち着かない」

部屋が静まる。

「影はまた来る。俺の気配のそばなら、入りにくい。だから来い。守るために」

そして少しだけ、声が低くなる。

「それだけじゃないけどな」

その夜、
二人は離れたくない気持ちを隠すように、
並んでソファで眠った。

窓の外で風が桜の枝を揺らす。まだ蕾は固いけれど――
確かに、春が近づいていた。