月下の花雲

昼下がりの陽射しが、道の白線をやわらかく滲ませていた。
深月は依頼帰りの足をそのまま駅へ向けていたが、路地の角でふと歩を止めた。
風の流れに逆らって、花の香りが胸に滑り込んできたのだ。

(春の匂い……濃い。けど、風はあっちに流れてるのに)

香りの来る方へ曲がると、古民家を改装した小さな花屋があった。
白木の引き戸に手描きで〈花暦〉とある。店先には桜の切り枝、ラナンキュラス、スズラン。
陽を受けた花弁が、水の面みたいに明るい。

深月が一歩、敷居を跨いだ瞬間、音がわずかに遠のいた。
通りの車の音が薄い膜の向こう側に行ってしまったような、静けさ。
店の奥で鈴が転がる音がした気がしたが、戸口にはその音は届かない。

「いらっしゃい」

女が現れた。淡く染まった桜色の髪が肩でほどけ、瞳は春霞のように薄桃。
桜羅は微笑んだ。

「いい風ね。春は、昔のことまで連れてくる」
「……春は、だいたい、眠くなるだけだね」

深月が苦笑すると、桜羅は花台の陰でほどけた花弁を指先で直した。
細い指が一輪に触れた瞬間、その花だけ影が薄くなったように見え、すぐまた何事もなかった顔に戻る。

「眠気も記憶のしわざよ。ねえ、あなた、夢を見るでしょう? ——桜の夢」

(また、か)

深月は呼吸を浅くした。言葉にするほど明確ではない、けれど確かに胸の奥を撫でていく懐かしさ。
唇が、勝手に答えを形づくる。

「……匂いが、似てる。夢の中の」
「夢は、記憶の花。散っても、また咲く」

桜羅は枝の桜を一輪、深月に手渡した。白い花弁の中心にごくかすかな金が灯る。
その金色が妙に気になった深月は頷いて、会計を済ませた。

「また、どうぞ。春は長いから」

店を出ると、風がふいに勢いを増し、香りが背中から追いかけてきた。
通りの音が戻ってくる。深月は手の花を見て、肩で息をついた。

(夢で嗅いだ匂い。けど、夢の中の人は誰なんだろう——)

家に帰ると、燈夜がいつもの場所に座っていた。
 
 「おかえり。」
 
低くて落ち着いた声が迎えてくれる。
 
「ただいま。ちょっと寄り道して花を買ってきた」
 
深月は桜の枝を見せた。
燈夜は一瞬、視線を落としてそれを見た。
表情に変化がないため深月は見落としたが、燈夜の指先が止まった。

「きれいだな。春の枝か」
「うん。たまには花を飾るのもいいだろ。」

深月は花瓶を出してくると、枝を花瓶に挿して、お茶を淹れる。
 
「お茶、入れるわ。コーヒーよりその方がいいだろ?」

そう言って枝の先の花弁をつつくと、キッチンに歩いていく。
燈夜は返事もせずに、花の枝を見つめていた。
その枝の花の中心に金の光をみつけると、僅かに眉をひそめた。

(この気……)



数日後、深月はもう一度〈花暦〉を覗いた。
仕事のついで、という理由を自分に与えながら。
懐かしいと感じてしまうのが何故なのか知りたかったのだ。

「また来てくれたのね」

桜羅は嬉しそうに目を細め、花台の脇に小さな椅子を勧めた。
店内はやわらかい日陰の匂いがする。遠くで鈴が鳴った。
けれど出入口の鈴は、揺れていない。

「今日は、香りが少し濃い気がする」
 
むせかえる、とまでは思わないが身体にまとわりつくような気がする。

「春が深まってるから。思い出も、少し重たくなる」
 
桜羅の表情は見えない。声だけが風に運ばれて来るようだ。

「私はこの店の主人、桜羅よ。」

突然の自己紹介、しかも下の名前だけだったことに戸惑うが、
深月は律儀に立ち上がり答えていた。
 
「守宮深月です。」

いつもの癖で名刺を出しかけたが、そこまでする必要はないだろうと思い止めた。
桜羅は嬉しそうに笑っている。

(綺麗な人だな。)

深月は普段の自分ならおよそありえないほど、桜羅と親し気に話をした。
桜羅が語る昔話に時間を忘れて応じていた。

「気がつくと一人ぼっちなの。一人が嫌いなのにね、
 春は風が色んな事を運んでくるのよ。」
「思い出したくないことまで、風が運んでくるなら……春は不親切だね」

桜羅の悲しみが深月に伝染ったかのように胸が締め付けられる。

「でも、忘れたふりをしてる方が、寂しいときもあるの」

深月は言葉を失った。桜羅の声は優しい。
それでいて、その奥でかすかに軋む音がする。
 笑っているのに、泣いているような気配。

「あなたの中の春は、終わらないわ。ずっと、同じ場所で咲いてる」

深月は目を伏せた。花の影が自分の膝に落ちる。
外から吹いた風は左から右へ。けれど香りは、右から左へと頬を撫でていった。

(春は、夢の匂い。思い出したいのか、思い出したくないのか——)

ふと我に返った深月は枝を一本買い、会釈して店を後にした。
店の奥に戻りながら、桜羅は花弁に指を滑らせた。
 
「……また、春が誰かを連れてきたのね」
 
白い花の中に宿った金の光が、微かに脈打つ。
 
「今度の春は、優しい匂い。——あの子なら、もう別れを経験せずにすむかもしれない」
 
外の風が、店の中の花を揺らした。
桜羅は静かに微笑む。
 
「ずっと、ここに咲かせておけたらいいのに」



その夜、燈夜は深月の帰宅を待っていた。
深月はいつも通りに鍵を回し、いつも通りに靴を揃え、いつも通りに笑う。

「ただいま」
「おかえり」

燈夜はソファから立ち上がり、軽い抱擁で迎えた。深月の髪に、春の香りが残っている。
花と、風と、ほのかな霊気。燈夜の喉の奥で、音もなく何かが逆立つ。

「花、買ってきた」
 
花の枝を見つめる深月の目は嬉しそうに細められている。

「きれいだな」
 
燈夜の声はいつも通りに低く穏やかだ。

「いつもの店。……春は長い、って言われた」

深月は顔をあげ燈夜を見るが、その視線は燈夜を通り越し他の何かを見ているようだ。

「そうだな」

会話はそこまでだ。燈夜はそれ以上、何も問わない。
夜更け、深月が眠りについたあと、燈夜は立ち上がった。指先にわずかに蒼い熱がにじむ。

(あの香り。花の眷属の気だ。……ここに、来てる)

屋上に出る。風が高層の端を巡り、桜の花びらがひとひら、燈夜の足もとで止まった。
指先で拾い上げる。花弁が、かすかな光に変わってはぜた。

瞳が金に、音のない稲妻のように明滅する。
背中に薄い紋様が浮かび、蒼い炎が皮膚の下から呼吸のたびに漏れた。
空が、刃物のような光に裂ける。コンクリートが、蜘蛛の巣状にひびを吐いた。

春の風が、ざわりと逆巻いた。
花弁が空を舞う。その中心に、桜羅がいた。
長い髪が淡い光を含み、周囲の花びらごと金色に染まっていく。

「……桜羅」

燈夜の声は低く、硬い。
桜羅は微笑みを浮かべたまま、振り返る。

「燈夜、あなたもまだ天界に昇らずにここにいるのね。
 ——夜叉王様が待っているのに。」
 
桜色の薄絹を身にまとい、
金の花びらに包まれているその姿は、花の精のように美しい。
だが天空を裂く雷光が、その美を現実へと引き戻す。
それは燈夜の怒りゆえに、無意識に放たれた光だった。

「深月に、何をした」

燈夜の瞳が金に染まる。

「此花咲夜の眷属が、人界で花を囲うな」

桜羅が微笑む。

「囲ってる? いいえ。終わらせないだけ」

「花の鬼が、散る理を歪めるな」

燈夜の低い声はいつもの穏やかさではなく、冷気をまとっている。

「少し、夢を見せただけ。春の気に触れたら、
 誰だって現世(うつしよ)を忘れるものよ。」
 
桜羅の指先が揺れるたび、花が咲き、風が流れ、空気が柔らかく歪む。

「私は木花咲耶の眷属。春を護る花の鬼——桜羅。
 あの方の庭が人界に溶けるとき、花を結ぶためにここへ降りる。
 ……でもね、春はすぐ終わる。人はもっと早く散る。」

桜羅の薄桃の瞳が哀しみに染まる。

「それが、深月を巻き込む理由になるのか。」
 
燈夜の瞳は完全に金色になっている。

「彼の中の“春”は強いの。
 ——あの子なら、散らずに済むと思ったのよ。」

燈夜の周囲に、青白い光が走る。
風が震え、雷の音が地の底から響いた。

「春は——流れてこそ、春だ。」

桜羅は寂しそうに笑った。
 
「散るのが怖いのよ。愛した人が、また消えてしまうのが。」

「……だから、“囲う”のか。」
「違うわ。“終わらせない”だけ。」

次の瞬間、花びらが一斉に裂け、雷光が夜空を割った。
燈夜の手から迸る光が、春の色を押し返していく。
桜羅の微笑みが薄れていく。

「あなたも同じ。愛に囚われてしまうのよ——人も、鬼も。」

風の底に、笑い声が混じった。花びらが渦を巻く。
燈夜は拳を握り、蒼炎と金の雷火を、胸の内で押しとどめた。
花の香りだけが、まだ春の形をして漂っていた。


夜が更けても、深月は目を覚まさなかった。
燈夜はソファに腰を下ろし、息の音を数える。
花瓶の桜が、微かに音を立てて揺れた。
金の花粉のような光が、花弁の隙間で瞬く。
 
(まだ、繋がってる……)
 
燈夜は深月の頬を撫でた。
その指先に、春の気がかすかにまとわりついた。
花瓶の桜が、またひとひら、音もなく散った。
その瞬間、部屋の空気がふっと薄くなる。
 
——桜の匂いが、夢の方へ流れ込んでいく。
 
深月は眠っていた。夢の中で桜の階段を上っている。
花弁が足首に絡み、ひんやりした手が指を取る。

「あなたの春は、終わらせない」

桜羅の声が、やさしく耳の奥に降る。
現実の深月は静かに布団を払い、裸足で廊下を歩いた。
玄関の鍵が音もなく回り、夜気が頬を撫でる。花の道が、路地の真ん中に現れていた。
目は開いているのに、焦点はどこにも合っていない。
路地の行き止まりで、桜羅が待っていた。
花の衣が風にほどけ、影がときどき花弁へ変わる。

「ほら、こっちへ」

深月の肩に、花びらが触れるたび、神気がかすかに削れていく。

そのとき、空が裂けた。
金の閃光が無音で世界を二つに割り、蒼い炎がその亀裂を縫った。
燈夜が現れる。瞳は金、指は雷を握り、背の紋がゆっくりと呼吸する。

「——離れろ」

声は低く、雷を孕んだ。
桜羅は笑った。美しい声で、けれど笑い方は壊れている。

「あら……夜叉王の血まで呼び起こして?人のために天の力を振るうなんて、ずいぶん堕ちたのね」

燈夜は応えない。深月へ伸びる花の糸を見据え、足を一歩、前へ。
桜羅は続ける。笑いの端に涙が混じる。

「あなたも私と同じ。愛に溺れて、永遠を欲しがる。
 ——でもね、あなたの“春”は散るの。どれほど雷を鳴らしても、桜は止まらない」

花びらが嵐のように舞い、深月の身体がその中心へ吸い込まれていく。
燈夜は一瞬、足を止めた。
桜羅の気が渦を巻き、手を伸ばせば、自分まで引きずり込まれかねない。

(……駄目だ。深月を離したら終わりだ)

次の瞬間、燈夜は風を裂いた。
掌から青白い光が弾け、雷鳴のような音が夜空を裂く。
その一閃が花の渦を貫き、桜羅の身体を正面から撃った。

桜羅が声を上げる。金の花びらが霧のように散った。
胸に手を当て、息を吐く。
 
「どうしてそんなに、壊さずに愛せるの……
 私は、終わらせられなかっただけなのに」
 
その瞳に、涙とも光ともつかぬものが滲んだ。
次の瞬間、風が吹き抜け、花の粒が空へ還っていった。
ただ一枚だけ、淡い花弁が燈夜の足もとに残った。
風は吹いているのに、それだけが動かない。

燈夜はそれを拾わず、ただ見つめた。
やがて花弁は、音もなく金の粉になってほどけた。
 
燈夜は全身の力を込めて、深月をその腕の中へ引き戻した。
蒼い炎がふたりを包み、花の渦が一瞬で霧散する。
春の嵐が止んだあと、花の香りだけが静かに残った。



夜は明けかけていた。月の白さがまだ空の隅に残り、カーテン越しの光は灰がかった金色。

燈夜はベッドの端に腰を掛け、深月の呼吸を見守っている。
時計の針の音が、やけに大きい。部屋の空気にはまだ夜の冷気が残る。外の風だけが春。
深月が目を開けた。ぼんやりと燈夜を見る。

「……起きてたのか?」

「眠れなかっただけだ」

小さな間。深月は、笑うともため息ともつかない息を漏らす。

「変な夢を見た気がする。誰かが笑ってて……
 泣いてるみたいなのに、笑ってて。——風の匂いがしてた」

目を覚ましても、夢の端がまだ現実に残っている気がした。
部屋の隅で花の香りがゆるく揺れている。
燈夜は目を伏せ、指先で深月の髪を梳いた。
金が一瞬、指の節で光り、すぐ消える。

「そうか」
「春の夢だった」

二人のあいだを、柔らかな沈黙が通り抜けた。
それは、夜と朝の境目みたいに穏やかだった。

深月は目を閉じ、もう一度深く息を吸った。
掌の上で、金色の花びらが光の粒になって、ゆっくりと散った。
燈夜はその残光を見つめて、胸の奥で静かに言葉を結ぶ。

(側にいる。どんな形になっても)

街はまだ静かだ。遠くでカラスが鳴く。
光が少しずつ強くなり、二人の影が重なった。春は、続いている。