昼下がりの陽射しが、道の白線をやわらかく滲ませていた。
深月は依頼帰りの足をそのまま駅へ向けていたが、路地の角でふと歩を止めた。
風の流れに逆らって、花の香りが胸に滑り込んできたのだ。
(春の匂い……濃い。けど、風はあっちに流れてるのに)
香りの来る方へ曲がると、古民家を改装した小さな花屋があった。
白木の引き戸に手描きで〈花暦〉とある。店先には桜の切り枝、ラナンキュラス、スズラン。
陽を受けた花弁が、水の面みたいに明るい。
深月が一歩、敷居を跨いだ瞬間、音がわずかに遠のいた。
通りの車の音が薄い膜の向こう側に行ってしまったような、静けさ。
店の奥で鈴が転がる音がした気がしたが、戸口にはその音は届かない。
「いらっしゃい」
女が現れた。淡く染まった桜色の髪が肩でほどけ、瞳は春霞のように薄桃。
桜羅は微笑んだ。
「いい風ね。春は、昔のことまで連れてくる」
「……春は、だいたい、眠くなるだけだね」
深月が苦笑すると、桜羅は花台の陰でほどけた花弁を指先で直した。
細い指が一輪に触れた瞬間、その花だけ影が薄くなったように見え、すぐまた何事もなかった顔に戻る。
「眠気も記憶のしわざよ。ねえ、あなた、夢を見るでしょう? ——桜の夢」
(また、か)
深月は呼吸を浅くした。言葉にするほど明確ではない、けれど確かに胸の奥を撫でていく懐かしさ。
唇が、勝手に答えを形づくる。
「……匂いが、似てる。夢の中の」
「夢は、記憶の花。散っても、また咲く」
桜羅は枝の桜を一輪、深月に手渡した。白い花弁の中心にごくかすかな金が灯る。
その金色が妙に気になった深月は頷いて、会計を済ませた。
「また、どうぞ。春は長いから」
店を出ると、風がふいに勢いを増し、香りが背中から追いかけてきた。
通りの音が戻ってくる。深月は手の花を見て、肩で息をついた。
(夢で嗅いだ匂い。けど、夢の中の人は誰なんだろう——)
家に帰ると、燈夜がいつもの場所に座っていた。
「おかえり。」
低くて落ち着いた声が迎えてくれる。
「ただいま。ちょっと寄り道して花を買ってきた」
深月は桜の枝を見せた。
燈夜は一瞬、視線を落としてそれを見た。
表情に変化がないため深月は見落としたが、燈夜の指先が止まった。
「きれいだな。春の枝か」
「うん。たまには花を飾るのもいいだろ。」
深月は花瓶を出してくると、枝を花瓶に挿して、お茶を淹れる。
「お茶、入れるわ。コーヒーよりその方がいいだろ?」
そう言って枝の先の花弁をつつくと、キッチンに歩いていく。
燈夜は返事もせずに、花の枝を見つめていた。
その枝の花の中心に金の光をみつけると、僅かに眉をひそめた。
(この気……)
数日後、深月はもう一度〈花暦〉を覗いた。
仕事のついで、という理由を自分に与えながら。
懐かしいと感じてしまうのが何故なのか知りたかったのだ。
「また来てくれたのね」
桜羅は嬉しそうに目を細め、花台の脇に小さな椅子を勧めた。
店内はやわらかい日陰の匂いがする。遠くで鈴が鳴った。
けれど出入口の鈴は、揺れていない。
「今日は、香りが少し濃い気がする」
むせかえる、とまでは思わないが身体にまとわりつくような気がする。
「春が深まってるから。思い出も、少し重たくなる」
桜羅の表情は見えない。声だけが風に運ばれて来るようだ。
「私はこの店の主人、桜羅よ。」
突然の自己紹介、しかも下の名前だけだったことに戸惑うが、
深月は律儀に立ち上がり答えていた。
「守宮深月です。」
いつもの癖で名刺を出しかけたが、そこまでする必要はないだろうと思い止めた。
桜羅は嬉しそうに笑っている。
(綺麗な人だな。)
深月は普段の自分ならおよそありえないほど、桜羅と親し気に話をした。
桜羅が語る昔話に時間を忘れて応じていた。
「気がつくと一人ぼっちなの。一人が嫌いなのにね、
春は風が色んな事を運んでくるのよ。」
「思い出したくないことまで、風が運んでくるなら……春は不親切だね」
桜羅の悲しみが深月に伝染ったかのように胸が締め付けられる。
「でも、忘れたふりをしてる方が、寂しいときもあるの」
深月は言葉を失った。桜羅の声は優しい。
それでいて、その奥でかすかに軋む音がする。
笑っているのに、泣いているような気配。
「あなたの中の春は、終わらないわ。ずっと、同じ場所で咲いてる」
深月は目を伏せた。花の影が自分の膝に落ちる。
外から吹いた風は左から右へ。けれど香りは、右から左へと頬を撫でていった。
(春は、夢の匂い。思い出したいのか、思い出したくないのか——)
ふと我に返った深月は枝を一本買い、会釈して店を後にした。
店の奥に戻りながら、桜羅は花弁に指を滑らせた。
「……また、春が誰かを連れてきたのね」
白い花の中に宿った金の光が、微かに脈打つ。
「今度の春は、優しい匂い。——あの子なら、もう別れを経験せずにすむかもしれない」
外の風が、店の中の花を揺らした。
桜羅は静かに微笑む。
「ずっと、ここに咲かせておけたらいいのに」
その夜、燈夜は深月の帰宅を待っていた。
深月はいつも通りに鍵を回し、いつも通りに靴を揃え、いつも通りに笑う。
「ただいま」
「おかえり」
燈夜はソファから立ち上がり、軽い抱擁で迎えた。深月の髪に、春の香りが残っている。
花と、風と、ほのかな霊気。燈夜の喉の奥で、音もなく何かが逆立つ。
「花、買ってきた」
花の枝を見つめる深月の目は嬉しそうに細められている。
「きれいだな」
燈夜の声はいつも通りに低く穏やかだ。
「いつもの店。……春は長い、って言われた」
深月は顔をあげ燈夜を見るが、その視線は燈夜を通り越し他の何かを見ているようだ。
「そうだな」
会話はそこまでだ。燈夜はそれ以上、何も問わない。
夜更け、深月が眠りについたあと、燈夜は立ち上がった。指先にわずかに蒼い熱がにじむ。
(あの香り。花の眷属の気だ。……ここに、来てる)
屋上に出る。風が高層の端を巡り、桜の花びらがひとひら、燈夜の足もとで止まった。
指先で拾い上げる。花弁が、かすかな光に変わってはぜた。
瞳が金に、音のない稲妻のように明滅する。
背中に薄い紋様が浮かび、蒼い炎が皮膚の下から呼吸のたびに漏れた。
空が、刃物のような光に裂ける。コンクリートが、蜘蛛の巣状にひびを吐いた。
春の風が、ざわりと逆巻いた。
花弁が空を舞う。その中心に、桜羅がいた。
長い髪が淡い光を含み、周囲の花びらごと金色に染まっていく。
「……桜羅」
燈夜の声は低く、硬い。
桜羅は微笑みを浮かべたまま、振り返る。
「燈夜、あなたもまだ天界に昇らずにここにいるのね。
——夜叉王様が待っているのに。」
桜色の薄絹を身にまとい、
金の花びらに包まれているその姿は、花の精のように美しい。
だが天空を裂く雷光が、その美を現実へと引き戻す。
それは燈夜の怒りゆえに、無意識に放たれた光だった。
「深月に、何をした」
燈夜の瞳が金に染まる。
「此花咲夜の眷属が、人界で花を囲うな」
桜羅が微笑む。
「囲ってる? いいえ。終わらせないだけ」
「花の鬼が、散る理を歪めるな」
燈夜の低い声はいつもの穏やかさではなく、冷気をまとっている。
「少し、夢を見せただけ。春の気に触れたら、
誰だって現世(うつしよ)を忘れるものよ。」
桜羅の指先が揺れるたび、花が咲き、風が流れ、空気が柔らかく歪む。
「私は木花咲耶の眷属。春を護る花の鬼——桜羅。
あの方の庭が人界に溶けるとき、花を結ぶためにここへ降りる。
……でもね、春はすぐ終わる。人はもっと早く散る。」
桜羅の薄桃の瞳が哀しみに染まる。
「それが、深月を巻き込む理由になるのか。」
燈夜の瞳は完全に金色になっている。
「彼の中の“春”は強いの。
——あの子なら、散らずに済むと思ったのよ。」
燈夜の周囲に、青白い光が走る。
風が震え、雷の音が地の底から響いた。
「春は——流れてこそ、春だ。」
桜羅は寂しそうに笑った。
「散るのが怖いのよ。愛した人が、また消えてしまうのが。」
「……だから、“囲う”のか。」
「違うわ。“終わらせない”だけ。」
次の瞬間、花びらが一斉に裂け、雷光が夜空を割った。
燈夜の手から迸る光が、春の色を押し返していく。
桜羅の微笑みが薄れていく。
「あなたも同じ。愛に囚われてしまうのよ——人も、鬼も。」
風の底に、笑い声が混じった。花びらが渦を巻く。
燈夜は拳を握り、蒼炎と金の雷火を、胸の内で押しとどめた。
花の香りだけが、まだ春の形をして漂っていた。
夜が更けても、深月は目を覚まさなかった。
燈夜はソファに腰を下ろし、息の音を数える。
花瓶の桜が、微かに音を立てて揺れた。
金の花粉のような光が、花弁の隙間で瞬く。
(まだ、繋がってる……)
燈夜は深月の頬を撫でた。
その指先に、春の気がかすかにまとわりついた。
花瓶の桜が、またひとひら、音もなく散った。
その瞬間、部屋の空気がふっと薄くなる。
——桜の匂いが、夢の方へ流れ込んでいく。
深月は眠っていた。夢の中で桜の階段を上っている。
花弁が足首に絡み、ひんやりした手が指を取る。
「あなたの春は、終わらせない」
桜羅の声が、やさしく耳の奥に降る。
現実の深月は静かに布団を払い、裸足で廊下を歩いた。
玄関の鍵が音もなく回り、夜気が頬を撫でる。花の道が、路地の真ん中に現れていた。
目は開いているのに、焦点はどこにも合っていない。
路地の行き止まりで、桜羅が待っていた。
花の衣が風にほどけ、影がときどき花弁へ変わる。
「ほら、こっちへ」
深月の肩に、花びらが触れるたび、神気がかすかに削れていく。
そのとき、空が裂けた。
金の閃光が無音で世界を二つに割り、蒼い炎がその亀裂を縫った。
燈夜が現れる。瞳は金、指は雷を握り、背の紋がゆっくりと呼吸する。
「——離れろ」
声は低く、雷を孕んだ。
桜羅は笑った。美しい声で、けれど笑い方は壊れている。
「あら……夜叉王の血まで呼び起こして?人のために天の力を振るうなんて、ずいぶん堕ちたのね」
燈夜は応えない。深月へ伸びる花の糸を見据え、足を一歩、前へ。
桜羅は続ける。笑いの端に涙が混じる。
「あなたも私と同じ。愛に溺れて、永遠を欲しがる。
——でもね、あなたの“春”は散るの。どれほど雷を鳴らしても、桜は止まらない」
花びらが嵐のように舞い、深月の身体がその中心へ吸い込まれていく。
燈夜は一瞬、足を止めた。
桜羅の気が渦を巻き、手を伸ばせば、自分まで引きずり込まれかねない。
(……駄目だ。深月を離したら終わりだ)
次の瞬間、燈夜は風を裂いた。
掌から青白い光が弾け、雷鳴のような音が夜空を裂く。
その一閃が花の渦を貫き、桜羅の身体を正面から撃った。
桜羅が声を上げる。金の花びらが霧のように散った。
胸に手を当て、息を吐く。
「どうしてそんなに、壊さずに愛せるの……
私は、終わらせられなかっただけなのに」
その瞳に、涙とも光ともつかぬものが滲んだ。
次の瞬間、風が吹き抜け、花の粒が空へ還っていった。
ただ一枚だけ、淡い花弁が燈夜の足もとに残った。
風は吹いているのに、それだけが動かない。
燈夜はそれを拾わず、ただ見つめた。
やがて花弁は、音もなく金の粉になってほどけた。
燈夜は全身の力を込めて、深月をその腕の中へ引き戻した。
蒼い炎がふたりを包み、花の渦が一瞬で霧散する。
春の嵐が止んだあと、花の香りだけが静かに残った。
夜は明けかけていた。月の白さがまだ空の隅に残り、カーテン越しの光は灰がかった金色。
燈夜はベッドの端に腰を掛け、深月の呼吸を見守っている。
時計の針の音が、やけに大きい。部屋の空気にはまだ夜の冷気が残る。外の風だけが春。
深月が目を開けた。ぼんやりと燈夜を見る。
「……起きてたのか?」
「眠れなかっただけだ」
小さな間。深月は、笑うともため息ともつかない息を漏らす。
「変な夢を見た気がする。誰かが笑ってて……
泣いてるみたいなのに、笑ってて。——風の匂いがしてた」
目を覚ましても、夢の端がまだ現実に残っている気がした。
部屋の隅で花の香りがゆるく揺れている。
燈夜は目を伏せ、指先で深月の髪を梳いた。
金が一瞬、指の節で光り、すぐ消える。
「そうか」
「春の夢だった」
二人のあいだを、柔らかな沈黙が通り抜けた。
それは、夜と朝の境目みたいに穏やかだった。
深月は目を閉じ、もう一度深く息を吸った。
掌の上で、金色の花びらが光の粒になって、ゆっくりと散った。
燈夜はその残光を見つめて、胸の奥で静かに言葉を結ぶ。
(側にいる。どんな形になっても)
街はまだ静かだ。遠くでカラスが鳴く。
光が少しずつ強くなり、二人の影が重なった。春は、続いている。
深月は依頼帰りの足をそのまま駅へ向けていたが、路地の角でふと歩を止めた。
風の流れに逆らって、花の香りが胸に滑り込んできたのだ。
(春の匂い……濃い。けど、風はあっちに流れてるのに)
香りの来る方へ曲がると、古民家を改装した小さな花屋があった。
白木の引き戸に手描きで〈花暦〉とある。店先には桜の切り枝、ラナンキュラス、スズラン。
陽を受けた花弁が、水の面みたいに明るい。
深月が一歩、敷居を跨いだ瞬間、音がわずかに遠のいた。
通りの車の音が薄い膜の向こう側に行ってしまったような、静けさ。
店の奥で鈴が転がる音がした気がしたが、戸口にはその音は届かない。
「いらっしゃい」
女が現れた。淡く染まった桜色の髪が肩でほどけ、瞳は春霞のように薄桃。
桜羅は微笑んだ。
「いい風ね。春は、昔のことまで連れてくる」
「……春は、だいたい、眠くなるだけだね」
深月が苦笑すると、桜羅は花台の陰でほどけた花弁を指先で直した。
細い指が一輪に触れた瞬間、その花だけ影が薄くなったように見え、すぐまた何事もなかった顔に戻る。
「眠気も記憶のしわざよ。ねえ、あなた、夢を見るでしょう? ——桜の夢」
(また、か)
深月は呼吸を浅くした。言葉にするほど明確ではない、けれど確かに胸の奥を撫でていく懐かしさ。
唇が、勝手に答えを形づくる。
「……匂いが、似てる。夢の中の」
「夢は、記憶の花。散っても、また咲く」
桜羅は枝の桜を一輪、深月に手渡した。白い花弁の中心にごくかすかな金が灯る。
その金色が妙に気になった深月は頷いて、会計を済ませた。
「また、どうぞ。春は長いから」
店を出ると、風がふいに勢いを増し、香りが背中から追いかけてきた。
通りの音が戻ってくる。深月は手の花を見て、肩で息をついた。
(夢で嗅いだ匂い。けど、夢の中の人は誰なんだろう——)
家に帰ると、燈夜がいつもの場所に座っていた。
「おかえり。」
低くて落ち着いた声が迎えてくれる。
「ただいま。ちょっと寄り道して花を買ってきた」
深月は桜の枝を見せた。
燈夜は一瞬、視線を落としてそれを見た。
表情に変化がないため深月は見落としたが、燈夜の指先が止まった。
「きれいだな。春の枝か」
「うん。たまには花を飾るのもいいだろ。」
深月は花瓶を出してくると、枝を花瓶に挿して、お茶を淹れる。
「お茶、入れるわ。コーヒーよりその方がいいだろ?」
そう言って枝の先の花弁をつつくと、キッチンに歩いていく。
燈夜は返事もせずに、花の枝を見つめていた。
その枝の花の中心に金の光をみつけると、僅かに眉をひそめた。
(この気……)
数日後、深月はもう一度〈花暦〉を覗いた。
仕事のついで、という理由を自分に与えながら。
懐かしいと感じてしまうのが何故なのか知りたかったのだ。
「また来てくれたのね」
桜羅は嬉しそうに目を細め、花台の脇に小さな椅子を勧めた。
店内はやわらかい日陰の匂いがする。遠くで鈴が鳴った。
けれど出入口の鈴は、揺れていない。
「今日は、香りが少し濃い気がする」
むせかえる、とまでは思わないが身体にまとわりつくような気がする。
「春が深まってるから。思い出も、少し重たくなる」
桜羅の表情は見えない。声だけが風に運ばれて来るようだ。
「私はこの店の主人、桜羅よ。」
突然の自己紹介、しかも下の名前だけだったことに戸惑うが、
深月は律儀に立ち上がり答えていた。
「守宮深月です。」
いつもの癖で名刺を出しかけたが、そこまでする必要はないだろうと思い止めた。
桜羅は嬉しそうに笑っている。
(綺麗な人だな。)
深月は普段の自分ならおよそありえないほど、桜羅と親し気に話をした。
桜羅が語る昔話に時間を忘れて応じていた。
「気がつくと一人ぼっちなの。一人が嫌いなのにね、
春は風が色んな事を運んでくるのよ。」
「思い出したくないことまで、風が運んでくるなら……春は不親切だね」
桜羅の悲しみが深月に伝染ったかのように胸が締め付けられる。
「でも、忘れたふりをしてる方が、寂しいときもあるの」
深月は言葉を失った。桜羅の声は優しい。
それでいて、その奥でかすかに軋む音がする。
笑っているのに、泣いているような気配。
「あなたの中の春は、終わらないわ。ずっと、同じ場所で咲いてる」
深月は目を伏せた。花の影が自分の膝に落ちる。
外から吹いた風は左から右へ。けれど香りは、右から左へと頬を撫でていった。
(春は、夢の匂い。思い出したいのか、思い出したくないのか——)
ふと我に返った深月は枝を一本買い、会釈して店を後にした。
店の奥に戻りながら、桜羅は花弁に指を滑らせた。
「……また、春が誰かを連れてきたのね」
白い花の中に宿った金の光が、微かに脈打つ。
「今度の春は、優しい匂い。——あの子なら、もう別れを経験せずにすむかもしれない」
外の風が、店の中の花を揺らした。
桜羅は静かに微笑む。
「ずっと、ここに咲かせておけたらいいのに」
その夜、燈夜は深月の帰宅を待っていた。
深月はいつも通りに鍵を回し、いつも通りに靴を揃え、いつも通りに笑う。
「ただいま」
「おかえり」
燈夜はソファから立ち上がり、軽い抱擁で迎えた。深月の髪に、春の香りが残っている。
花と、風と、ほのかな霊気。燈夜の喉の奥で、音もなく何かが逆立つ。
「花、買ってきた」
花の枝を見つめる深月の目は嬉しそうに細められている。
「きれいだな」
燈夜の声はいつも通りに低く穏やかだ。
「いつもの店。……春は長い、って言われた」
深月は顔をあげ燈夜を見るが、その視線は燈夜を通り越し他の何かを見ているようだ。
「そうだな」
会話はそこまでだ。燈夜はそれ以上、何も問わない。
夜更け、深月が眠りについたあと、燈夜は立ち上がった。指先にわずかに蒼い熱がにじむ。
(あの香り。花の眷属の気だ。……ここに、来てる)
屋上に出る。風が高層の端を巡り、桜の花びらがひとひら、燈夜の足もとで止まった。
指先で拾い上げる。花弁が、かすかな光に変わってはぜた。
瞳が金に、音のない稲妻のように明滅する。
背中に薄い紋様が浮かび、蒼い炎が皮膚の下から呼吸のたびに漏れた。
空が、刃物のような光に裂ける。コンクリートが、蜘蛛の巣状にひびを吐いた。
春の風が、ざわりと逆巻いた。
花弁が空を舞う。その中心に、桜羅がいた。
長い髪が淡い光を含み、周囲の花びらごと金色に染まっていく。
「……桜羅」
燈夜の声は低く、硬い。
桜羅は微笑みを浮かべたまま、振り返る。
「燈夜、あなたもまだ天界に昇らずにここにいるのね。
——夜叉王様が待っているのに。」
桜色の薄絹を身にまとい、
金の花びらに包まれているその姿は、花の精のように美しい。
だが天空を裂く雷光が、その美を現実へと引き戻す。
それは燈夜の怒りゆえに、無意識に放たれた光だった。
「深月に、何をした」
燈夜の瞳が金に染まる。
「此花咲夜の眷属が、人界で花を囲うな」
桜羅が微笑む。
「囲ってる? いいえ。終わらせないだけ」
「花の鬼が、散る理を歪めるな」
燈夜の低い声はいつもの穏やかさではなく、冷気をまとっている。
「少し、夢を見せただけ。春の気に触れたら、
誰だって現世(うつしよ)を忘れるものよ。」
桜羅の指先が揺れるたび、花が咲き、風が流れ、空気が柔らかく歪む。
「私は木花咲耶の眷属。春を護る花の鬼——桜羅。
あの方の庭が人界に溶けるとき、花を結ぶためにここへ降りる。
……でもね、春はすぐ終わる。人はもっと早く散る。」
桜羅の薄桃の瞳が哀しみに染まる。
「それが、深月を巻き込む理由になるのか。」
燈夜の瞳は完全に金色になっている。
「彼の中の“春”は強いの。
——あの子なら、散らずに済むと思ったのよ。」
燈夜の周囲に、青白い光が走る。
風が震え、雷の音が地の底から響いた。
「春は——流れてこそ、春だ。」
桜羅は寂しそうに笑った。
「散るのが怖いのよ。愛した人が、また消えてしまうのが。」
「……だから、“囲う”のか。」
「違うわ。“終わらせない”だけ。」
次の瞬間、花びらが一斉に裂け、雷光が夜空を割った。
燈夜の手から迸る光が、春の色を押し返していく。
桜羅の微笑みが薄れていく。
「あなたも同じ。愛に囚われてしまうのよ——人も、鬼も。」
風の底に、笑い声が混じった。花びらが渦を巻く。
燈夜は拳を握り、蒼炎と金の雷火を、胸の内で押しとどめた。
花の香りだけが、まだ春の形をして漂っていた。
夜が更けても、深月は目を覚まさなかった。
燈夜はソファに腰を下ろし、息の音を数える。
花瓶の桜が、微かに音を立てて揺れた。
金の花粉のような光が、花弁の隙間で瞬く。
(まだ、繋がってる……)
燈夜は深月の頬を撫でた。
その指先に、春の気がかすかにまとわりついた。
花瓶の桜が、またひとひら、音もなく散った。
その瞬間、部屋の空気がふっと薄くなる。
——桜の匂いが、夢の方へ流れ込んでいく。
深月は眠っていた。夢の中で桜の階段を上っている。
花弁が足首に絡み、ひんやりした手が指を取る。
「あなたの春は、終わらせない」
桜羅の声が、やさしく耳の奥に降る。
現実の深月は静かに布団を払い、裸足で廊下を歩いた。
玄関の鍵が音もなく回り、夜気が頬を撫でる。花の道が、路地の真ん中に現れていた。
目は開いているのに、焦点はどこにも合っていない。
路地の行き止まりで、桜羅が待っていた。
花の衣が風にほどけ、影がときどき花弁へ変わる。
「ほら、こっちへ」
深月の肩に、花びらが触れるたび、神気がかすかに削れていく。
そのとき、空が裂けた。
金の閃光が無音で世界を二つに割り、蒼い炎がその亀裂を縫った。
燈夜が現れる。瞳は金、指は雷を握り、背の紋がゆっくりと呼吸する。
「——離れろ」
声は低く、雷を孕んだ。
桜羅は笑った。美しい声で、けれど笑い方は壊れている。
「あら……夜叉王の血まで呼び起こして?人のために天の力を振るうなんて、ずいぶん堕ちたのね」
燈夜は応えない。深月へ伸びる花の糸を見据え、足を一歩、前へ。
桜羅は続ける。笑いの端に涙が混じる。
「あなたも私と同じ。愛に溺れて、永遠を欲しがる。
——でもね、あなたの“春”は散るの。どれほど雷を鳴らしても、桜は止まらない」
花びらが嵐のように舞い、深月の身体がその中心へ吸い込まれていく。
燈夜は一瞬、足を止めた。
桜羅の気が渦を巻き、手を伸ばせば、自分まで引きずり込まれかねない。
(……駄目だ。深月を離したら終わりだ)
次の瞬間、燈夜は風を裂いた。
掌から青白い光が弾け、雷鳴のような音が夜空を裂く。
その一閃が花の渦を貫き、桜羅の身体を正面から撃った。
桜羅が声を上げる。金の花びらが霧のように散った。
胸に手を当て、息を吐く。
「どうしてそんなに、壊さずに愛せるの……
私は、終わらせられなかっただけなのに」
その瞳に、涙とも光ともつかぬものが滲んだ。
次の瞬間、風が吹き抜け、花の粒が空へ還っていった。
ただ一枚だけ、淡い花弁が燈夜の足もとに残った。
風は吹いているのに、それだけが動かない。
燈夜はそれを拾わず、ただ見つめた。
やがて花弁は、音もなく金の粉になってほどけた。
燈夜は全身の力を込めて、深月をその腕の中へ引き戻した。
蒼い炎がふたりを包み、花の渦が一瞬で霧散する。
春の嵐が止んだあと、花の香りだけが静かに残った。
夜は明けかけていた。月の白さがまだ空の隅に残り、カーテン越しの光は灰がかった金色。
燈夜はベッドの端に腰を掛け、深月の呼吸を見守っている。
時計の針の音が、やけに大きい。部屋の空気にはまだ夜の冷気が残る。外の風だけが春。
深月が目を開けた。ぼんやりと燈夜を見る。
「……起きてたのか?」
「眠れなかっただけだ」
小さな間。深月は、笑うともため息ともつかない息を漏らす。
「変な夢を見た気がする。誰かが笑ってて……
泣いてるみたいなのに、笑ってて。——風の匂いがしてた」
目を覚ましても、夢の端がまだ現実に残っている気がした。
部屋の隅で花の香りがゆるく揺れている。
燈夜は目を伏せ、指先で深月の髪を梳いた。
金が一瞬、指の節で光り、すぐ消える。
「そうか」
「春の夢だった」
二人のあいだを、柔らかな沈黙が通り抜けた。
それは、夜と朝の境目みたいに穏やかだった。
深月は目を閉じ、もう一度深く息を吸った。
掌の上で、金色の花びらが光の粒になって、ゆっくりと散った。
燈夜はその残光を見つめて、胸の奥で静かに言葉を結ぶ。
(側にいる。どんな形になっても)
街はまだ静かだ。遠くでカラスが鳴く。
光が少しずつ強くなり、二人の影が重なった。春は、続いている。

