月下の花雲

窓の外に、薄桃の粒が流れていく。
ビルの谷間を渡る風に乗って、花びらがいくつも舞い込んだ。
深月は書類の角をそろえ、ふっと息を吐く。
机の端に置いたマグカップからは、冷めたコーヒーの匂いがした。
燈夜がソファの背にもたれて、携帯を転がすように指で弄んでいる。

「……今日はたくさん舞っているな」
「満開のピークを超えたんだろ。風強いし」

深月はカーテンを少しだけ開けて、ベランダ越しに空を見た。

(散るなら散るで、なんでこんなに綺麗なんだろ)

胸の内に、説明のつかない懐かしさがゆっくり広がる。

(春になると、時々こうやって胸が温くなる。
 痛いわけでも嬉しいわけでもない、空っぽの奥が、柔らかく満たされる感じ)

ドアチャイムが鳴った。燈夜が顔だけ上げる。

「来客」
「出るよ」

ドアを開けると、青いファイルを抱えた若い職員が立っていた。
肩口に市のマーク。

「深月探偵事務所さんで合ってますか?」
「合ってます。どうぞ」

応接の椅子に通すと、職員は名刺を差し出し、ぎこちない笑みを貼り付けた。

「観光課の出石です。ちょっと町内の公園の件で……桜が、少し」
「少し?」

燈夜が首をかしげる。

「散らないんです。一本だけ。祠の横の桜です。満開のまま、三週間ずっとです」

深月はファイルを受け取り、写真をめくった。
昼の光の下で、花の房が重たく垂れている。枝々が、まるで白昼夢のように濃い。

「管理は?」
「公園管理の委託先が見てますが、原因がわからなくて。
 で、噂が広まって、土日になると写真を撮りに人が押し寄せて……。
 それだけならまだいいんですけど、近所で中学生が一人、下校中に行方不明になって」

燈夜の視線が深月へ流れる。

「いつから?」
「四日前。最後に目撃されたのが、その祠の前で」

深月は写真をもう一度見た。欄干の低い石段、苔の色。
桜の根が、祠の基壇を抱くように張っている。

(根っこが石を割ることはある。けど、これは)

「そこに、案内してもらえますか?」
「はい、すぐにでも」

出石が慌てて立ち上がる。燈夜はコートを肩にかけ、視線だけで深月に問いかけた。

「行こう、深月」
「了解」


公園は事務所からそう遠くなかった。平日なのに、
花の下に三脚とレフ板を立てたアマチュアカメラマンが何人もいる。
風が動くたび、花は音もなくふわりと揺れた。香りが濃い。
出石がロープの張られた一角の前で足を止める。

「祠はこちらです。立入禁止区域にはしてますが、見物の方が……」

深月はロープの内側を覗き込む。低い祠。
奉納の札が風に鳴り、鈴のような音を立てた。
足元の土が、ところどころ盛り上がっている。
燈夜がしゃがみ込んで、指で土をつまんだ。

「乾いてる。ここだけ風が止まってるみたいだ」
「空気が重いな」

(嫌な重さじゃない。……懐かしい)
 
喉の奥に、春先にだけ現れる甘さがにじむ。深月は目を細め、
祠の基壇と根の境目を探った。
石の合わせ目に、髪の毛ほどの隙間が走っている。
そこから、何かがかすかに漏れていた。

(光?)

燈夜が顔を上げる。

「深月、ちょっと離れて」
「どうして」
「刺す感じがする。ここ」

深月は掌を見た。
燈夜の指先は空を撫でるだけで、そこに触れていない。
(違う。これは、俺のほうが近い。祠と、根と、石と。重なってる。ほどけてない)

「俺が見てみる」

出石が不安げに口を開く。

「あの……危ないんでしょうか」
「危なくはない。ただ、ちょっとややこしいかな」

深月は答え、しゃがみ込んだ。指先を、隙間の前にかざす。
ひやりとした空気の筋が触れる。

(冷たい。けど、痛くない。……見たことがある)

まぶたの裏に、ぼんやりとした金色が揺れた。
春の夜気みたいな、やわらかい光。

「深月」

燈夜の声が低く、近い。肩越しに影が重なる。

「無理はするな」
「大丈夫。……たぶん、封が緩んでるだけ」
「封?」
「昔の祠って、祈祷と石と木の根で、境目を押さえることがある。
 ここは……根が大きくなって、綻んだのかも。整え方は、知ってる。祖母に教わった」

出石がメモに走り書きしながら問う。

「封って、その……何を?」
「薄いところ。人が、うっかり踏み外さないように」

出石の顔色が変わる。

「じゃあ、行方不明の子は」
「ここをくぐった。……かもしれない」

深月は立ち上がり、ロープの中に一歩踏み込んだ。
燈夜の手が袖を軽く掴む。

「ひっかかる感じがする。間違っても中には入るな」
「入らないよ。覗くだけ」

深月は、祠の扉に軽く手を添えた。
かすかな振動。耳の奥で、花びらが落ちるみたいな音がした。

(封が開いてる。春のあいだだけ)

指先がほんの少し温くなる。

「……祈りの残響がある」

燈夜の視線が細くなる。

「聞こえる?」
「聞こえない。けど、手が覚えてるみたいな」

燈夜は立ち上がり、出石へ向き直る。

「今日のうちは、ロープもう一段下げてもらえますか?
 夜に祠を触ろうとする人もいるかもしれませんから」
「わ、わかりました。警備にも言っておきます」

燈夜は軽く礼をして、深月に目だけで合図した。

「一回戻るか。道具、いるだろ」
「うん」

◇ ◇ ◇

事務所に戻ると、夕陽が床を斜めに切っていた。
深月は本棚の一段を引き出し、
古い祈祷の手順をメモしたノートと、鈴、榊の束を取り出した。
台所では燈夜が魔法瓶に湯を満たし、紙コップと塩を袋に詰めている。

「準備、早いな」
「毎年なんだかんだで春は忙しいし」
「……毎年」

深月は言葉を飲み込んだ。

(今年は、少し違う気がする)

喉の奥で春の味が広がる。

「深月、顔色」
「大丈夫。ちょっと眠いだけ」
「夜まで少し寝ろ」
「寝たら夢見そう」

燈夜が笑った。

「春の夢なら、悪くないだろ」

(春の夢。……懐かしい)

深月は肩をすくめ、椅子の背にコートをかけ直した。

「時間になったら起こして」
「起こす。ちゃんと」

ソファに横になった深月は、掌を胸に乗せて目を閉じた。
遠くで、桜の枝が鳴る。

(おちつけ。呼吸)

息を数えるうち、意識は薄くほどけ、光の粒へ沈んだ。

夢の底で、金色の花が開く。
夜のように静かな光。
そこに立つ影は、怖くなかった。

(きれい)

指先が花びらに触れたとき、名前を呼ばれた気がして、深月は目を開けた。

「起きようか、深月」

燈夜が低く囁く。

「時間だ」
「……もう夜?」
「もう夜。行こう」
「うん」


夜の公園は、昼の喧騒が嘘みたいに静かだった。
ロープの向こう側に、人が数人。警備員と、
出石と、その上司らしい年配の男性。

「すみません、夜分に」
「いや。助かる」

深月はランタンの明かりを低く絞り、祠の基壇を照らした。
昼間よりも、隙間からの光ははっきりしている。
金とも白ともつかない微かな色が、揺れては消えた。

(まぶしくない。目が慣れる)

深月は紙を敷き、榊と鈴を置いた。

「燈夜、塩」
「ああ」

燈夜が塩の包みを開き、深月の手に落とす。
指先に塩の粒が重みを移す。

(思い出す。順番は、体が覚えてる)
 
深月は静かに息を吸い、吐いた。

鈴を鳴らす。
音が、春の空気をやさしく震わせる。
祠の前に一礼し、榊を祠の脇に立てかける。
塩を、基壇の四隅へ落とす。
最後に、隙間の前へ掌を向けた。

(ここ)

掌の中心に、温いものが灯る。



その瞬間、ふっと祖母の声が耳の奥で揺れた。
春の日差しの下、小さな祠の前。
まだ少年だった自分の手を、祖母が後ろから包んでいる。
皺の刻まれた掌は柔らかく、指先から草の匂いがした。

「いいかい、深月。祈りは言葉じゃない。思いを向けることだ」
「……男でも、できるの?」
「血が続いている限り、できる。声も手も、お前のものだ。神さまは形など気にしない」
 
穏やかな笑い声。
その光景は、今日の春と同じ色だった。

深月は目を閉じ、掌にそのぬくもりを重ねた。

(忘れてない。おばあちゃんに教わったこと。ずっと覚えてる)

言葉ではなく、ただ心の奥で祈る。
燈夜の指先がそっと土を押さえた。
空気が一度沈み、そしてやさしくほどけていく。

(これで、いい)

祠の鈴が風もないのに微かに鳴る。
金の光が細く伸び、花びら一枚ほどの薄さになって、すっと隙間の奥へ消えた。
その瞬間、ロープの外から抑えた声が上がる。

「——女の子!」

出石が振り返った。
ロープの外、桜の幹の陰から、制服のスカートが現れる。
少女が、夢から醒めたみたいにぼんやりと目を瞬かせた。
警備員が慌てて駆け寄り、肩を支える。

「大丈夫? 名前言える?」

少女はゆっくり頷いた。

「うん……あの、私、帰ってもいい?」

出石の目に涙がにじむ。

「よかった……」

深月は力が抜けるのを感じて、膝に手をついた。
燈夜がすぐに肩を支える。

「座るか」
「平気。ちょっと、頭が軽いだけ」

燈夜が笑う。

「軽くなったならいいな」

深月も笑った。

(軽い。春の匂いなのに、苦しくない)



帰り道、川沿いの遊歩道を歩く。
街灯に照らされた桜は、昼とは別の顔でそこにいた。
夜気の中に、金色の粉がほんのわずか漂っている気がする。

(気のせいかな。……きれい)
 
深月は掌をひらき、空中の何もないところを受け止めるみたいに手を差し出した。

「深月」
「うん?」
「さっき、手順、よく出てきたな」
「……出てきたな」

深月は笑い、すぐに伏せる。

「ばあちゃんに習ったやり方だけど、昔より自然にできた気がする」
「自然?」
「うん。なんでかな。春だからかな」
「春だから、かもな」

風がひときわ強く吹いた。
枝全体が震え、花びらが雨みたいに降る。
月が滲んで、両手を広げたみたいに見えた。
掌に、花がいくつも落ちる。
そのうちの一枚が、ほんの一瞬だけ金色に光って、消えた。

(見間違い)

そう思うより先に、声が口をついて出た。

「……この光、昔にも見た気がする」

燈夜が、肩越しに笑う。

「夢の話だろ」
「そうだな。……でも、懐かしい」
「懐かしい夢なら、いいだろ」

燈夜の手が、コート越しに深月の肩に軽く触れる。
指の温度は、夜気より少しだけ高い。
それだけのことが、胸の奥の空白をそっと撫でた。

(懐かしい。今、そう思えるのは、きっと——)

深月はその先を言葉にしない。
桜の下で、足を止める。
川の流れの音と、遠くの車のタイヤの音。
街はいつも通りで、ただ今夜だけ、春が濃かった。