月下の花雲

山と山のあいだに、光が溜まる場所がある。
谷を抜ける風が音を変え、外の世界と隔たる。
そこが深月の生まれた村だった。

地図には名がある。けれど、訪ね方を知る人はいない。
四方を山に囲まれ、冬は雪で閉ざされ、春は遅れてやってくる。
人が住んでいるのが不思議なくらいの盆地。
それでも、ひとつの社(やしろ)を中心に、小さな家々が肩を寄せ合っていた。

その社の奥に祀られているのは“夜叉王”。
神に仕える鬼神で、かつてこの土地を守った存在。
村ではその名を口にすることを避け、“上の神さま”と呼んでいた。

深月家は、古くからその“神さま”に仕える巫の家だった。
神と人のあいだに立ち、祈りと捧げ物を通して村の安寧を保ってきた。
代々、直系には女子が必ず生まれ、その女子が家を保ってきた。
けれど、いつしか“生贄を出す家”と呼ばれるようになり、
信仰は畏れと歪みを孕んでいった。
時代が変わり儀式は途絶えたが、村人の心のどこかに
「深月の血は穢れと恩を併せ持つ」という古い感情だけが残った。

ある時、深月の母が身重の身でひとりで村に戻ってきた。
お腹の子の父親は知られていない。
祖母からの手紙に導かれて、
「その子はここで産まれねばならぬ」と言われたのだという。
理由はわからない。けれど、深月の母は従った。
そして、深月は直系の家に初めて生まれた男子だった。

深月が生まれた年、村に子どもは他にいなかった。
若い者は皆、町へ下り、
残ったのは年寄りばかり。
深月は“村の最後の子ども”として、奇異の目で見られた。
可哀想だと言う者も、関わるなと言う者も、同じ距離で立ち止まった。

学校へは、山を越えた町の分校に通うはずだった。
けれど冬は雪崩で道が閉ざされ、春は雨で崩れる。
通える日は少なく、深月は祖母から字と数を習い、
母の留守中に本を読んで過ごした。
勉強は好きだったが、人と話すのは苦手だった。

母は働き者で、祖母は祈りの人だった。
家の神棚には、夜叉王を象った古い木像がある。
祖母は毎朝、それに手を合わせ、祝詞を唱えた。
深月もその横で真似をした。

祖母が祝詞をあげていると、戸口の外に人影が立つことがあった。
挨拶もせず、ただ中を覗き、目が合うと静かに去っていく。
深月はその視線の意味を知らなかったが、
祖母の背筋がわずかに強張るのを見て、
自分の家が“普通ではない”ことだけは理解していた。
祈りの言葉の意味はわからなかった。
けれど、その響きだけが、
外から向けられる視線よりもずっと、深月の心を静かにした。

春になると、深月は桜の階段の上に座り、盆地を見下ろした。
桜が咲くたびに、空が狭く見える。
その狭さが、なぜか安心だった。

(この村は、小さいけど……息をしてる)

9歳の春は、風が柔らかかった。
山の雪が解けるより早く、桜が咲いた。
祖母は「上の神さまが急ぎすぎてる」と笑った。

夜、深月は夢を見た。
花が散る音がして、誰かの声がした。
言葉ではなく、音のような声。
それが胸の奥に落ちて、目が覚めた。

風鈴が一度だけ鳴って止まる。
家の中は静かで、母も祖母も寝ている。
深月は布団を抜け出し、縁側に出た。
夜の空気が冷たく、足の裏が少し痛い。

見上げた空の向こう、山の稜線にある社の灯籠が見えた。
その光が、ふっと消えた。
桜が風もないのに、ひとひら落ちた。

胸の奥がざわめく。
それは恐怖ではなかった。
どこかで“待たれている”ような気がした。

翌朝、村は騒がしかった。
「社の灯が落ちた」「深月の家は何かしたのか」
誰も確かめに行かないのに、噂だけが広がっていく。

深月は何も言わなかった。
昨夜聞いた声を話せば、母が困る。
祖母の祈りが足りないと言われるかもしれない。
黙ることが、この村での生き方だった。

(あの声、なんだったんだろ)

机に向かい、祖母から借りた古い書をめくる。
そこには、「神の気は桜に宿り、春ごとに人を呼ぶ」と書かれていた。
呼ばれた者は、戻れなくなる——
深月はその一文を指でなぞった。

(戻れなくなるって、どこへ?)

ページの上で、桜の花びらが一枚、音もなく落ちた。

夕暮れの光が山に沈み、村の上に薄い金の影が落ちていた。
深月は、桜の階段のいちばん上に座っていた。
風が止まり、花びらが音もなく肩に降る。
遠くから鳥の帰る声が聞こえるほか、何も動かない。

母はまだ畑、祖母は社に祈りに行っている。
家には誰もいない。
春の終わりの空気は、少し甘くて、寂しかった。

そのとき、風の向きが変わった。
谷から吹く風が、反対側から戻ってくる。
空気がざわりと揺れて、光がひとすじ、階段の下に差した。

そこに、人のかたちをした“何か”がいた。
黒い髪が月の光を吸い、動くたびに影がゆれる。
肌は白く、闇よりも淡い。
額には、細く尖った角がひとつ。
それは枝の花よりも繊細に光っていた。

金色の瞳。
瞳孔が縦に細く、星を閉じ込めたように輝く。
その目がこちらを向いた瞬間、胸の奥が温かくなった。

(……きれい)

恐怖はなかった。
その瞬間、胸の奥で何かが鳴った。
懐かしいというより、思い出してはいけないものに触れたような感覚。
祖母の祝詞の響きと同じ振動が、血の中でゆっくりと広がっていく。
むしろ、長い間探していた何かに出会ったような感覚。
血の奥が静かに鳴った。
心臓が自分ではない場所で動き出すような――そんな不思議な感覚。

影は一瞬、息を止めた。
まるで“待っていたもの”を見つけたかのように。
影は、ゆっくりと階段を上ってきた。
一段ごとに花びらが逆に舞い上がり、空に還っていく。
風が、世界を巻き戻しているみたいだった。

「……おまえ、人か?」

声は低く、柔らかかった。
深月は瞬きをして、うなずいた。

「人やと思う」

影が少し笑ったように見えた。
その笑いは、あたたかいのに、どこか哀しい。

(この子……神の匂いがする)

影は足を止めた。
目の前の小さな身体から、淡い光がにじんでいた。
神気――けれど天のものではない。
もっと地に近い、柔らかな光。

天界に昇るたびに感じた神々の光とは、まるで違っていた。
息をするように自然で、土の匂いを帯びている。

「おまえ、名前は?」
「……深月。深いに月って書く」

「深月。」
「うん」

影は小さく頷いた。
興味が、胸の奥で静かに芽を出した。

風がまた吹いた。
桜の花びらが二人のあいだを通り抜け、
その一枚が影の指先に触れて消えた。

深月は思わず笑った。
影はその笑みに一瞬、何かを思い出したように目を細める。
けれど何も言わず、ただ桜を見上げた。

「……この花、好き」
「俺もだ」

それだけ言って、影の姿は風にほどけた。
残ったのは、淡い金の残光と、深月の胸の鼓動。

(夢みたいだった……でも)

胸に手をあてると、まだ熱い。

(ほんとうに、きれいだった)

山の向こうで、最後の光が沈む。
夜のはじまりといっしょに、春の匂いだけが残った。

◇ ◇ ◇

深月は小さく息を吐いて、天井を見上げた。
外では風が吹き、桜が散る音がした。
それと同時に、隣の部屋から足音がする。
柔らかく床をきしませる、聞き慣れた重み。

「……また夢を見てたのか?」

低い声。
深月は振り向かず、少し笑った。

「あまり覚えてない。変なのは春の匂いがして」

沈黙のあと、肩に温もりが寄る。
燈夜が、無言で隣に腰を下ろしていた。
その体温が近いのに、どこか遠い。

「桜の夢か?」
「……たぶん」

燈夜は黙って深月の指先に触れた。
その瞬間、空気がわずかに震え、
深月のまぶたの裏に金色の残光が走る。
けれど燈夜は何も言わない。
ただ、確かめるように指を絡めただけだった。