月下の花雲

午前十時。
喫茶「月灯舎」の窓から、春の光がさらさらと射し込んでいた。
深月は新聞を片手に、ミルク多めのコーヒーを飲んでいる。
向かいでは、燈夜がコーヒーに砂糖を三杯入れて、プリンをつついていた。

「……朝から甘すぎだろ」

深月が呆れたように言う。

「糖分を取らないと頭が回らない」

燈夜は平然とプリンをすくう。

「寝不足なだけだろ」
「誰のせいだ」

燈夜がスプーンを止めた。

「お前がゲームに誘ったんだ」

深月が睨む。

「でも勝ったのは俺だ」

燈夜が飄々と笑い、深月は小さくため息をついた。

(……まあ、朝からこの調子だと、今日も平和だな)

カウンターの奥から、エプロン姿の結衣――この店の主人――が声をかけてきた。

「深月くん、燈夜くん。ちょっといい?」
「どうしました?」
「この前の依頼、ちゃんと解決したんでしょ?」

深月がわずかに視線を上げる。

「ええ、まあ」
「それでね、昨日いらした常連さんが言ってたの。
 “あの探偵さんたち、ちょっと普通じゃないよね”って」

燈夜がプリンのスプーンを止めた。

「褒め言葉か?」
「たぶんね。で、その人が街でうちの猫を見かけたって言うのよ。
 うちの子ね、前のマスターの代からいるの」


深月が新聞を畳いた。

「行方不明なんですか」
「三日ほど帰ってこないの。黒くて小さい子」

少しだけ、声が揺れる。

「それで、もしよかったら……探してもらえないかなって」

深月が燈夜を見る。

「動物は専門外だろ」
「でも気配は分かるはずだ」

燈夜は立ち上がった。

「猫、探せばいいんだな」
「ちょ、待て」

結衣は目を丸くして、それから笑った。

「無理しないでいいからね?」
「任された」
「勝手に決めるなよ」

深月は肩を竦める。

(もう止まらないだろうな、こうなったら)
 
◇ ◇ ◇

「……俺、何してるんだろ」

印刷された紙を揃えながら、ふと隣を見る。
マグカップだけが残っている。

「……まさか」

胸の奥がざわつく。

(勝手に動いてるな)

 ◇

そのころ。
燈夜は駅前の通りで、猫の写真を掲げていた。

「この猫、見たことありますか?」

最初に足を止めたのは若い女性だった。
写真を見るより先に、燈夜の顔を見て、目を瞬かせる。

「あ……すみません。えっと、猫ですよね?」

周囲の人が気づき、少しずつ集まる。
写真を覗き込むふりをしながら、視線は燈夜に向いている。

「探偵さんなんですか?」
「はい、依頼で」
「本当にいるんだ……」

スマホが向けられる。

「写真、いいですか?」
「猫だけなら」
「一緒に入ってもらえませんか?」

燈夜は困ったように笑う。

「主役は猫なので」

それでもシャッター音は鳴りやまない。
通りの空気が、妙に華やぐ。

その端で、小さな男の子が駆け寄った。

「お兄ちゃん、猫見たよ! あっちの公園!」

燈夜がしゃがみ、目線を合わせる。

「ほんとに? ありがとう」

その自然な笑顔に、周囲から小さなため息が漏れる。

「やっぱり本物だ……」
「何が?」
「なんか、こう……」

言葉は曖昧なまま、空気だけが甘く揺れる。

 ◇

「燈夜!」

通りを裂く声。
深月が駆けてくる。
視線が一斉にそちらへ向く。
燈夜は振り返る。

「猫、あっちの公園らしい」
「……何してる」

周囲の女性たちがひそひそと笑う。

「友達?」
「雰囲気、近いよね」

深月は無言で燈夜の腕を掴む。

「行くぞ」
「心配した?」
「してない」

視線がまだ燈夜に絡みついている。
深月はわずかに距離を詰める。

「勝手に消えるな」

燈夜が静かに目を細める。

「……悪かった」

その一言で、ざわめきが少し引いた。

 ◇

夕方。
ふたりは商店街裏の倉庫の前にいた。
風の抜け道。扉の隙間から、かすかな鳴き声がする。

「ここだ」
「……間違いないな」

深月が扉を押すと、古い木の匂いがした。
埃っぽい箱の隙間に、小さな黒い影。
深月がしゃがんで手を伸ばすと、影がかすかに動いた。

「生きてる……」
 
胸の奥がふっと熱くなる。

「よく頑張ったな」

燈夜が脱いだ上着を差し出した。

「包んで」
「借りる」
 
温もりを移すように抱き上げる。
猫は小さく鳴いて、深月の胸元に顔を押しつけた。

 ◇

月灯舎の戸を開けると、結衣が待っていた。

「うちの子!」

猫を抱き上げ、泣き笑いの顔で言う。

「倉庫ね、まだ片付けきれてなくて。前のマスターの道具が残ってるの」

結衣は苦く笑う。

「あの子、よくあそこに入り込むから……」
「帰る場所が分かってたんだな」
「そうだな。もう大丈夫」

深月が微笑み、燈夜も頷く。

「ほんとうにありがとう。……代金、ちゃんと払わせてね」
「はい、請求書出します」

深月は結衣に抱かれている猫の頭を撫でた。

 
 ◇

夜。

ベランダに出ると、川沿いの風が少し冷たい。
深月は欄干に手を置き、街の灯りを見下ろす。

「今日の騒ぎ、楽しそうだったな」
「楽しかった」
「祭りみたいだっただけだろ」
「深月、焼いてる?」
「焼いてない」
「顔が赤い」
「夜風だ」

燈夜が背後から腕を回す。

「俺は、深月だけ見てた」

耳元に息が触れる。
そのまま、耳に軽く口づける。

「……そういうとこだぞ」
「どこ?」
「全部だ」

深月は振り払わない。
燈夜の笑い声が風に混じる。

月の光が、静かに揺れていた。