月下の花雲

朝の光が川面でほどけて、桜はまだ三分咲き。
喫茶「月灯舎」の窓際で、深月はコーヒーを口に運んだ。
トーストの匂いと、磨かれたカウンターの木の匂いがゆっくり混ざる。

「……寝癖、ついてる」
「え?」
「ほら」

燈夜が指先で深月の前髪を整える。
焦げ茶色に見える瞳が、朝の光を柔らかく吸う。

「起こすときに直せよ」
「寝顔が可愛かった」
「朝から何言ってんだよ」

深月はふいに笑って、新聞をたたんだ。
窓の外、川沿いの枝に風が触れる。花びらが一枚、ガラスに貼りついた。

「今日の依頼、十時から」
燈夜はカップを置いた。
「どういう依頼だ?」
「亡くなった恋人の声がするらしい」
「……春だ」

燈夜は湯気の向こうを眺め、紅茶をひと口。
深月はためらいながら言う。

「最近、変な夢を見るんだ。満開の桜の下で、誰かが笑ってる」
「夢は境が緩む。……特に、深月は」
「境?」
「あとで」

燈夜がガラス越しの花びらを指でなぞる。
ほんの短い瞬間、淡い金の光が指先に灯って、すぐ消えた。
深月は息をのみ、視線だけを落とす。

(また、光った)

二人で暮らすようになって、もう三年になる。
探偵事務所を始めたのは、燈夜の思いつきだった。
深月は最初、冗談だと思っていたけれど、気づけば依頼の電話が鳴る毎日になっていた。
仕事の段取りも家事の分担も、何も言わずとも自然に噛み合う。
ただ、どこかでいつも、燈夜の背中に“人間ではない影”を感じる瞬間がある。
それでも――深月は彼といると、世界の輪郭が少しやわらかくなる気がしていた。

モーニングを終えると、階段を上がって二階の住居兼事務所へ。
古いビルの踊り場には、いつも通り、珈琲と古本の匂いが漂っている。ドアには控えめな真鍮のプレート。
カウンター奥で、燈夜がポットに湯を落とし、深月は応接のソファに書類を並べる。
鈴の音が、風もないのに小さく鳴った。

チャイムが鳴った。
依頼人は二十代後半の女性、橘麻衣だった。
手の中の小箱を大事そうに抱えている。
深月と燈夜が渡した名刺には、肩書のない「守宮探偵事務所」と、
結城燈夜(ゆうきとうや)守宮深月(もりみやみずき)の名前だけが印刷されていた。

「はじめまして。……どこから話せばいいのか、変な話だと思うんですけど」
「変かどうかは、話を聞かせてもらってから。座って」

深月は温かい緑茶を出して、呼吸の浅さと目の下の色を確かめる。
指先が小刻みに震えている。

「半年前に、恋人が事故で亡くなって。それから夜になると、
 誰かに呼ばれる気がして。最近は夢も……桜の花びらが散って、名前を呼ばれて」
「名前を?」
「“麻衣”って。声だけははっきりしてて……ときどき、彼の香水の匂いがする気もして」
「部屋で、何か物が動くとかは?」
「鏡が曇るんです。拭いても、また」

小箱の蓋が震えながら開き、桜木で彫られた小さなペンダントが現れる。
薄い花弁の彫り込み。

「それ、恋人の?」
「はい。春に渡されたものです。……ずっと捨てられなくて」

麻衣の声が震える。

「見ると苦しいのに、離すのが怖くて。これだけは置いておきたくて……
 でも最近、このペンダントを枕元に置いた夜だけ、彼の声が聞こえるんです」

麻衣は胸の奥を押さえながら、微笑もうとして失敗した。

「怖いというより……呼ばれてる気がして。だから、ここに来ました」

深月の視界に、淡い影が咲いた。桜の枝の形をした、声にならない声。
燈夜が黙って小さく頷く。深月は微笑んだ。

「じゃあ、部屋を見せてください」

◇ ◇ ◇

麻衣のワンルームには、春の色が少しだけ残っていた。
ベランダの鉢植えの土は乾き、カーテンの裾に細い糸のほこり。
鏡台の前に立つと、曇りがゆっくり広がって、中心に輪ができる。

「ここがよく曇るんですね?」
「はい。とくに夜」
「電気、消していいですか?」
「どうぞ」

部屋の明るさが落ちる。深月は目を閉じ、鏡の前で息を整えた。
 
(……呼んでる。手を放して、って)

燈夜が一歩、鏡に近づく。指先が曇りに触れる。
燈夜の気配がわずかに揺れ、曇りは音もなくほどけた。

「燈夜」
「大丈夫。見えてない」

麻衣はただ、不思議そうに首を傾げている。
深月は鏡台のスツールを引き、麻衣を座らせた。

「麻衣さん。ちょっと、目を閉じて」
「……はい」

深月はペンダントを両手で包む。
木肌がぬくもりを返し、遠い風鈴の音が耳の奥で転がった。
燈夜のほうから、薄い気配が寄ってくる。金色が、影の端で静かに揺れた。

「誰かを思うのは、罪じゃない。だけど、手を離すのも、愛だ」

燈夜は麻衣をまっすぐに見た。

「……手を、離す」

深月が続ける。

「春は別れの季節だけど、始まりの季節でもある。声が呼ぶのは、
 麻衣さんがちゃんと覚えてるからだ。忘れろって言われてるんじゃない。
 前に、進んでいいよって言われてる」

麻衣の肩が、ふっと落ちた。
燈夜が片手を上げる。花弁一枚ほどの、
淡い金の光が、ペンダントの縁に咲いて、静かに溶けた。

部屋の空気が一度だけ、春の冷たさで満ちる。
鏡の曇りは跡形もなく消え、窓の外を風が渡った。

「……あ」

麻衣は胸に手を当てた。
さっきまで張りつめていた空気が、ふっと緩む。
部屋の隅に感じていた温度の揺らぎが消えて、風の音が戻ってくる。

「……もう、いない。声も、匂いも」
「ああ。行った」

燈夜が小さく頷いた。

麻衣は泣き笑いになって、何度も礼を言った。
深月は差し出された封筒を受け取り、軽く会釈した。

「ご依頼、確かに完了です」

手早く鞄にしまう仕草の奥に、ほんの一瞬、柔らかい表情が滲んだ。
燈夜はそんな深月を、黙って見ていた。
窓の外では、春の風が新しい匂いを運んでいた。



帰り道、川沿い。
夕方の光が水に降り、枝の先で花がひらく。
深月はポケットに両手を入れたまま歩き、燈夜は隣でゆっくり歩調を合わせていた。
川風が通るたび、桜の花びらが足もとを転がる。

「派手にやりすぎ」
「見えてない。深月にしか」
「それが厄介なんだ」
「厄介?」
「なんでもない」

深月は立ち止まり、川面を見た。
花びらがひとひら、風に乗って足元へ。拾い上げると、
指先に冷たい香りが移る。
 
(この匂い、知ってる。いつから?)

「夢の桜、また見た?」

隣を歩く燈夜が、ふいに口を開いた。

「……麻衣さんが事務所にきたとき、一瞬」
「ふーん」

それ以上は聞かず、燈夜は川面に視線を落とす。
夕陽が金の瞳をかすめ、深月は一瞬、言葉を失った。

「なあ」
「ん?」
「俺、あの夢の続き、気になってる」
「そのうち、思い出す」

言いながら、燈夜は深月の指先からそっと花びらを取った。
花びらは指のあいだで光って――ほんの一瞬、金色が瞳に揺れた。

深月は息を詰め、笑ってごまかす。

(また、光った)

「夕飯、どうする」
「オムライス」
「子どもだな」
「深月が作るのがいちばんうまい」

深月は肩をすくめ、歩き出す。
川の風がふたりのあいだを抜け、どこからか、鈴の音がした。

◇ ◇ ◇

夜。二階の部屋。
キッチンで卵を巻きながら、深月は換気扇の音に紛れて言う。

「なあ、燈夜」
「ん」
「“境が緩む”って、今朝言ってたやつ」
「夢は、向こうからの手紙みたいなものだ。開けっぱなしは、良くない」
「俺、開けっぱなし?」
「ときどき」

フライパンの向こう、燈夜は窓辺で護符に筆を走らせている。
細い線が、月の形を描いた。
皿にオムライスを滑らせ、テーブルに置くと、ふわりと湯気が立つ。
燈夜がこちらに来て椅子を引いた。

「いただきます」 
「どうぞ」

一口目で、燈夜の目尻がほんの少し下がる。

「うまい」
「毎回それ言う」
「ほんとだから」

食後、ベランダへ。夜の川は黒く、遠くの街の灯りが点々と繋がっている。
深月は手すりに肘を置き、下を行く風を聞く。

(桜の匂い。まだ三分咲きなのに)

「深月」
「ん」
「今日は、悪くなかった」
「依頼、無事に終わったしな」
「それもある」

燈夜の視線が、どこか遠い。
深月が振り向いたとき、瞳の中で金色がまた、かすかに灯った。

「なに光ってんだよ」
「内緒」

燈夜は笑って、深月の背中に腕を回した。
静かに、けれど逃がさない強さで引き寄せる。
肩越しに息がかかる距離。深月の心音が、指先に触れる。
その手の温もりは、人のものより少しだけ熱い。

「……なに?」
「寒いから」
「嘘だろ。燈夜のほうが熱いくせに」
「だから、こうしてたらちょうどいい」

小さく笑って、深月は抵抗せずに目を閉じた。
燈夜の腕の中で、夜の風が背を撫でていく。
燈夜はそのまま、深月の唇に触れた。
短く、けれど迷いのないキスだった。

鈴の音が、耳の奥でまた鳴る。
春の夜気は冷たいのに、体温は不思議と落ちない。

(桜の夢。続きがあるのか?)

深月は深く息を吸い、瞼の裏に浮かぶ光を見た。
どこかで、花びらがひとひら、見えない手にすくい上げられる気配がした。
まだ誰も知らない、昔の祠の匂いが、ほんの少しだけ混じっていた。漢字(かんじ)漢字(かんじ)漢字(かんじ)