時をかけた騎士と紅蓮の館の白き魔女

 彼が現れたのは、ある初夏の昼さがりの出来事だった。

 シャロンが十歳になったころ、紅蓮の館はウィアット地方にある小領地、ラゴンのリュージュの森の奥にいた。
 建物に対しているいないなどの表現はおかしなものだろう。だが、鳥が翼を広げたような形のその館は生きていて、ひとところに定住することはない。国を超え、時を超え、世界中のあちこちに気まぐれに滞在しては移動している。
 そんな旅人のような館は、別名“魔女の図書館”とも呼ばれていた。各地で英知を求めるものが彼の館を探しては見つけられず、選ばれたものしかたどり着けない場所だと考えられていたのだ。

 その館にシャロンは住んでいた。
 彼女は幼いころに一人さまよっていたところを、偶然移動中だった館に拾われたそうだ。自分の誕生日さえも覚えていなかったシャロンは、自分の正確な年齢を知らない。館の精霊(ミネルバ)が言うには、当時三歳になるかならないかぐらいだったとそうだ。

 館に守られすくすくと育ったシャロンは館の本を読み、魔法を使い、平和にひっそりと暮らしていた。
 館の左翼屋上に菜園を持ち、自分が食べる分の野菜を作っているのだが、その一部を時折街の市場でほかの生活必需品と交換してもらったり売ったりして、最低限の生活をしている。

 そんなシャロンだったが、不思議なことに「大人だった記憶の残骸」というものがあった。
 前世の記憶と言えるほどのものではない。
 ただ成長するにつれて、ぼんやりと「大人だった自分」という感覚と微かな記憶が自分の中にあることに気づき、それが彼女の生活を支えになっていたのだ。

 事実普通の子どもでしかなかったら、館の力があったとしても、幼子が一人で生き延びることが出来たかはかなり微妙なところだろう。時々外で自分よりも年上のふりをしなければいけない場面があったシャロンには、それが大いに役に立ったのだ。
 不思議なことではあるが、それは彼女が魔女の館に住んでいるからなのか、もしくはシャロンを哀れに思った気まぐれな神からのギフトなのだろう。
 役に立っているので、気にするだけ無駄である。

「シャロンのその潔さが私は好きですよ」
 ミネルバはそう言って穏やかに微笑む。
 彼女はこの館そのものだ。だがシャロンのために人の形を取り、話し相手にもなってくれる。精霊なので性別はないそうだが、シャロンが女の子なので女性の姿をとっているらしい。
「もし望むなら、男の姿でもいいですけどね?」
 その美しい笑顔は、きっと男性の姿でも魅力的だろう。
「私は別にどっちでもいいわ。どちらのミネルバも、きっと素敵だもの」

 養い親で、教育係でもあるミネルバ。
 シャロンの唯一の家族ではあるが、所詮は精霊。姿を現せるのは水晶の中だけだ。
 屋敷の中でなら、館内の「腕」を使うこともでき、なにかと世話を焼いてくれる。だが館そのものである彼女が人の姿で外に出ることはできないため、外に用事があるときはシャロンがそれをしなくてはいけない。
 魔法で姿を変え大人のふりをすることで、滞在先の市場でも人の印象に残らないようにする。シャロンは十歳までそうやって生きてきたのだ。
 ミネルバと世界を回りながら、この館の中で一人で生き、一生を終えるんだと信じていた。

   ◆

 それはちょうど、シャロンが作っていた大鍋のスープが完成した時のことだ。
「これを食べたら、町まで行ってくるね。今日から三日間市が出てるらしいから、香辛料とボタンを少し買ってくるよ」
 生活に不便のない館でも、不足するものはある。
 香辛料はその一つだし、綺麗なリボンやボタンを集めるのはシャロンの趣味だった。ほかにも新しい町に行けば、その土地の珍しいものを見たり買ったりするのも楽しい。この森に来てまだ二か月なので、まだまだ目新しいものがたくさんだったのだ。

 そのとき、前触れもなくバタンと大きな音を立てて扉が開いた。
 逆光で影になったその姿は、背の高い立派な騎士のようだ。誰だと思う間もなく、彼は扉を開けるな否や、
「見つけたぞ、シャロン。君は僕のものだ!」
 と、嬉しそうに叫んだ。いや、叫んだように聞こえた。

 だが傲岸不遜なセリフをのたまったその人物を見て、シャロンはことりと首をかしげる。ゆっくりまばたきをしたシャロンの前にすでに騎士の姿はなく、代わりに立っていたのは子どもだったからだ。

 今のは太陽が見せた幻だったのだろうか?
 水晶を振り返ると、ミネルバは姿を隠したらしい。つまり危険はないということだ。

 だが、なぜ見知らぬ少年(・・)が自分の所有権を主張しているのだろう?

 彼が身に着けているものはどれも上等な仕立てで、供も連れずに歩き回れるような身分には見えない。だが彼の周りに人の気配はなく、昼の明るい光を受けた顔は自信に満ち溢れているように見えた。

 だがその姿にシャロンは、「ああ、迷子?」とつぶやく。
 無理もない。ここは町から少し離れた森の中。一番近所のアボットさんの家までだって、徒歩で一時間はかかるのだ。だが彼の家の子どもたちはとっくに自立していると聞いたし、近所に男の子はいない。
 となれば町のどこぞのボンボンが迷子になって、偶然ここにやってきたのだと思うほうが自然だろう。彼はどう見てもシャロンと同じくらいの年か、少しだけ年上にしか見えないのだから。

 ――さっき聞こえた言葉も、“やっと人を見つけた”とか言ったのを聞き違えたにちがいないわ。

 だが、一人納得をしているシャロンのつぶやきがしっかり聞こえたらしい少年は、顔を真っ赤にし、なぜかフルフルと震えている。初夏の陽気だ、寒いわけではないだろう。
 そのとき、自分のものではない腹の虫がなるのを耳にし、彼女は肩をすくめた。

 ――仕方がないわね。

 迷った動物は保護する主義のシャロンは、この男の子も保護することに決めたのだった。