温厚柔和な若旦那さまは愛のためなら喧嘩上等!

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 晩秋の晴れた空の下、茜は人力車に乗ろうとしていた。横から手を支えてくれるのは徹だ。
 並んで座席に腰をおろすと、二人の脚がまとめて膝掛けにくるまれる。かじ棒をゆっくり持ち上げ、車夫は威勢よく走り出した。

「あらよっと!」

 藤ヶ森家の門がどんどん遠ざかる。風を感じて胸もとで肩掛けを押さえると、徹がすかさずささやいた。

「寒いですか?」
「いえ……」

 寒くはないが、驚いてはいる。再び徹とお出かけすることになるなんて。
 しかも今日はパーティーでなく――二人だけでブラブラするのだ。まるで逢引みたいで、茜はそわそわしてしまう。



 行き先は日本橋の百貨店だと言われている。同業の呉服商があちこちに出店しているが、そのうちの一つを視察したいのだとか。
「女性の目で気になるところ、良いところを教えてほしいんです」
 そう頼まれたのだが、茜などで役に立つのだろうか。

(いけない、また「私など」なんて考えてしまったわ)

 茜は、茜らしく生きたいと願っている。みずからの力で身を立てたいと。なのに自分を卑下する癖がなかなか抜けなかった。
 小さくため息を噛み殺す。すると徹が笑いかけてきた。

「華やかな着物もお似合いです」
「……こんなに良いものを貸していただいて、なんとお礼をすればいいのか」
「僕の我がままに付き合わせているのだから当然ですよ」

 茜が身に着けているのは徹とヨネが選んだ着物だ。大胆に椿を描いた柄が季節を先取りしている。また靴ずれしてはいけない、と和装をすすめられたのだった。
 何故こんな着物が離れにあるのか茜は不思議に思った。暮らしているのは徹ひとりなのに。だが徹は微笑むばかりで答えなかった――これは徹の亡き母の形見のひとつだ。


 屋敷や寺の築地塀(ついじべい)がだんだん少なくなり、煉瓦造りの建物が増える。馬車が何台も往来し人々のざわめきが耳に入るようになった。ここは東京市の中心街。
 人力車を乗りつけた百貨店は石造り三階建てだった。ごった返すほどではないが客が途切れず出入りしている。

「さあ茜さん」

 うながされた茜は、そっと徹に手を伸ばしかけ慌てて引っ込めた。ずっと腕を組む練習をしていたから癖になっている。徹の瞳にいたずらな色が踊った。

「つかまって下さい。迷子にならなくていい」
「……意地悪おっしゃらないでくださいませ」
「ははは。ほら、顔を上げて歩くんじゃないんですか」

 恥ずかしそうにしながらも言い返してきた茜に、徹はひそかな満足をおぼえた。少しずつ、距離が縮まっているのではなかろうか。


「――まあ!」

 店内に足を踏み入れた茜は感嘆の吐息をもらした。
 広いフロアにガラスのショーケースが並び、舶来の貴重な品々がおさめられている。棚にも同じく、花瓶だの人形だの服に仕立てられる前の布だのが美しく並んでいた。楽しいことには天井にまで色とりどりの手ぬぐいがぶら下がり、飾られているのだった。

「なんでも好きな物をながめていいんですよ」
「でも私……目移りしてしまいます」

 電灯が煌びやかに照らし出す品々。茜は浮き浮きと店内を見渡した。すると徹にそっと背を押される。帯の上からとはいえ触れられて、体の近さに鼓動が速まった。
 徹が導いた先は女性用の装飾品売り場だ。帯締め、帯揚げ、替え鼻緒などの和装小物や、櫛に簪。錦で作られた香り袋や練り香もある。

「こういう売り場は楽しいですか?」
「……はい! いちどにたくさんの物を見比べられて、あれこれ欲しくなってしまいそう」
「それが百貨店の狙いですよ」

 茜は高揚した笑顔でほう、と棚を見つめる。やはりいつも遠慮して暮らしているのだと感じて、徹は申し出た。

「欲しい物があれば言って下さい先日のお礼に買って差し上げましょう」
「え……いえ、そんな」
「駄目ですよ茜さん。僕はそのつもりで来ているんですから」

 後ろを通る客のため、徹は一歩茜に近づき通路を空ける。ぶつかりそうでぶつからないスレスレに立つ徹から見おろされ、茜は呼吸が難しくなった。徹がかがんでささやく。

「今日は茜さんを甘やかす日だから。覚悟して下さい」

 ――そう、視察なんて嘘。
 これは徹が茜を落とすための騙し討ちデエトなのだった。


  ❖


 徹が茜に買ったのは、舶来のハンカチだけだった。それのみが茜の許せる値段だったのだ。
 高価な物を見せられて泣きそうになる茜が可愛かったので、徹はまあよしと引き下がる。そのかわりカフェーにも付き合わせているので上々といえよう。

 明るい光の入る店内にはテーブルと椅子が並び、紳士淑女がさんざめく。白い陶器の皿に盛られたサンドイッチと湯気の立つコーヒーを前に茜は緊張した面持ちだった。

「手づかみでいいんですよ、こんなものは」

 徹がひょいとつまんで食べてみせる。
 そういえば徹はヨーロッパ帰りなのだ。こういう食事が当たり前の旅をしてきた人だと思い出し、茜の気持ちがほぐれた。真似して食べると分厚いハムの旨味が口いっぱいに広がる。ニッコリする茜に徹が提案した。

「あんパンを買って帰りましょう。ヨネにも土産がないと」
「ヨネさんをとても大事になさっているのですね」
「そうですね。あの人は僕のばあやみたいなものだ」

 徹にとっては藤ヶ森の人々よりも家族といえるのがヨネだそう。そうして寂しく生きてきた徹なのに、こんなに強く明るく振る舞えることを茜は尊敬してしまう。
 ほろ苦いコーヒーに砂糖を混ぜて飲んだ茜は、店内で立ち働く女給たちのことを目で追う。

「皆さんテキパキなさって……私もこんなお仕事ができたらと思ってしまいます」
「おや。うちに勤めるのは嫌ですか?」
「そんなことは! こんなに良くしていただいているのに……でも私そのうち、どこかへ嫁げと父に言われますでしょう?」
「……結婚後も働けばいい。お志乃だって職業婦人ですよ。太一郎はそれでいいと。あと、先日の夜会に出るのだって立派な仕事ですね。西洋との付き合いに夫人の存在は欠かせない。茜さんならそういう立場もこなしていけそうだ」
「そう、でしょうか」
「……事業を起こそうと思っているんです」

 徹はゆったりと背もたれに身を預けた。

「呉服商は小売りの業態を変えていっている。でも僕は――製造の方に目をつけた。洋装の、です」
「せいぞう?」
「注文して仕立てる洋装ではなく、誰もが着られる服を作るんですよ。仕立ててある服がさっきの百貨店のような店に並んでいたら誰でも買いたくなるでしょう? 女学生だって動きやすい袴を好むようになっている。そこに西洋の服が食い込めるとにらみました」
「……すごい」

 急に言われたことが完全には腑に落ちていないが、茜は目をパチパチさせた。驚いたのだ。
 徹はふらふらと遊び歩いているように思われている。店の切り回しはしないが、代わりに社交で取引相手を引っぱって来る手腕でギリギリ許されているのだと。なのに新たな仕事を計画していたなんて。

「徹さまは、家業の先を見ていらっしゃるのですね」
「……まあいちおう。男として、独り立ちできないと妻も迎えられませんから」

 匂わせてみたが、茜は感心したようにコクリとするだけ。自分に関りがあるとは欠片も思っていない顔だ。

(今日はこんなものか――)

 徹だって本気の相手には慎重になる。いきなり求婚などできたものではなかった。
 茜からのまなざしに尊敬の色が見えただけでも徹はおおむね満足だった。