❖ ❖ ❖
夜会の次の日から、茜は離れ専属の女中ということになった。徹の指示だ。自分の気持ちを認めた徹は、茜を手に入れることにしたのだ。
といっても無理やり婚約したり身請けのように結婚したりする気はない。妾になどもっての外だ。それでは徹や茜の父と同じになってしまうから。
徹はごく真っ当に、茜の心を落とそうと思っている。
愛し愛されて隣にいてくれる茜でなければ、手に入れる意味などない。
❖
「梅子さん……」
母屋の台所に顔を出した茜は、ばったり梅子に出くわした。藤ヶ森家へ来た日に案内してくれた先輩だ。
しかし梅子は本物のご令嬢ではなかった茜に愛想を尽かしているはず。茜はそっと頭を下げて通り過ぎようとした。それを呼びとめたのは梅子の方だ。
「あの、茜さん」
「……はい」
ちょっとビクビクしてしまった茜に、梅子はバツの悪そうな顔を向ける。
「離れでは上手くやってる? 徹さまは無理をおっしゃっていないかしら」
「は――はい」
突然軟化した梅子の態度に面食らった。
しかし訊かれた離れの居心地は良い。元々徹が使っていた女中は老女のヨネだけだ。下男下女は別にいるとはいえ手が足りていなかったらしく、茜は重宝されている。
そう聞いた梅子は小さく笑い、茜をねぎらってくれた。
「良かったわ。母屋に用事がある時は遠慮なく相談してちょうだいな」
「ありがとうございます……?」
行ってしまう梅子を見送り、茜は首をかしげる。
実を言うと、茜が夜会に連れていかれたこと、離れに引き抜かれたことは母屋の女中たちの間でちょっとしたセンセーションを巻き起こしていた。
もしや徹は茜に本気なのではないか、と。
妾腹の次男坊ではあるが、徹は藤ヶ森家の息子として堂々と政財界に顔を出している身だ。
そして茜は日陰者とはいえ銀行家の茅原につながる人物。
二人が結婚でもすれば、それなりの組み合わせになる。今のうちに取り入っておかねば、というわけだ。でも茜にはそんな裏の計算がわからない。
「なんだったのかしら……」
つぶやいて、奥に向かう。お客様お気に入りの茶菓子を受け取りにきたのだ。
「すみません。汐路屋のカステラを買ってくるようお願いしていたのですが」
「はいはい、こちらにございます」
今日の客は小白波太一郎。彼はここのカステラが好きだと徹に教わった。二人のために美味しい茶を淹れよう、と茜は微笑んだ。
茜の出した茶を一口飲み、太一郎は満足げ。
「茜さんの茶は美味いな」
「まあ、ありがとうございます。でもヨネさんが拗ねてしまいますよ?」
「それは困る。ヨネさんには大変世話になってるからね。冬になったらヨネさんの汁粉が食べたいと伝えてくれるかい」
「かしこまりました」
そっと下がっていく茜がドアを閉めるのを待って、太一郎はニヤリとした。
「なんだよ徹、やっぱり茜さんを嫁にする気になったのか。離れに居させてるとは驚いたぞ」
「……母屋で伊都子が嫌がらせをするんだ。夜会に連れていった手前、放っておくわけにもいかない」
猫かぶりをやめた徹は吐き捨てるように言う。素直に恋心を白状できなくて言い訳したのだが、いちおう事実だった。夜会で成功をおさめた噂は届いているだろうに、伊都子はますます茜のことを敵視している。
「まったく何が気に入らないんだか……」
伊都子にしてみれば、下に見ていた女中が社交界でチヤホヤされれば気に入らなくて当然だ。苛々もする。しかし徹にも太一郎にも女心の機微はわからなかった。
「仕方ないな。で、事業計画は詰めたか」
「ああなんとか。これで銀行に融資を取りに行こう。見てくれ」
徹が出した書類に目を通しながら、太一郎は確認する。
「高井銀行でいいんだな? となるとやはり窓口は茅原氏……茜さんを夜会に同伴したことは、きっとあっちの耳にも入ってるだろ」
「それは……まだ考えてる」
徹は煮え切らなかった。
まだ茜と徹の間柄はどうにもなっていない。もし茅原から「娘と結婚するつもりか」などと問い詰められたらどう答えればいい。
本人の了解を取らずに外堀を埋めるような真似、徹はしたくないのだ。
太一郎が離れから出た時だ。門の前で人力車を降りる伊都子がいた。花材を抱えているところを見ると、お華の帰りだろうか。門をくぐって太一郎をみとめると笑顔になる。
「まあ小白波さま。ご機嫌よろしゅう」
「お帰りなさい、伊都子さん。お稽古ですか」
こうしていると伊都子は天真爛漫なお嬢さんだった。
太一郎は小白波運輸の長男で、着々と実業家の道を歩いている男。なので伊都子も憎からずの振る舞いをする。
「今日はお華に参りましてよ」
「いいですね。お父上の床の間にでも飾って差し上げるのでしょうか」
「まあ。ではそういたしますわ」
伊都子は太一郎の言葉に従ってみせた。
徹と親交がある太一郎なのだから、親同士で話がつけば縁談が持ち上がる可能性もあると伊都子は考えていた。自分は大店の娘。太一郎の相手として不足はないはずだ。
だが徹から聞いた話で太一郎は伊都子の本性を知っている。親に認められてはいないが志乃の存在もあった。太一郎としては伊都子のことなど眼中にない。なので伊都子に茜のことを取りなそうとした。
「先日の夜会に僕も足を運んだのですが。徹の連れていたドレスの女性に今日は茶を淹れていただいてしまいました」
「あら……まあ。そうですの」
伊都子は愛想笑いをした。嫁に行ってもいいと勝手に考えている太一郎から他の女の話、しかも芸者あがりな妾の娘ごときのことを聞くなんて面白くない。
「いやあ恐縮でしたよ。洋装を凛と着こなしフランス語や英語で挨拶していた人ですからね。藤ヶ森にいらっしゃる方々は皆さん教養がおありなのでしょう。伊都子さんもお稽古事を欠かさない方ですし」
いちおう伊都子を持ち上げる形で着地した話だったが、伊都子の笑みは硬かった。
「それは……もちろんですわ。わたくし、藤之屋の娘として恥ずかしくないよう常に心掛けておりますもの」
「ご立派ですね。では僕はこれで失礼を」
意気揚々と去っていく太一郎を見送りながら、伊都子はギリ、と歯ぎしりした。
家に入ってからも花を投げつけるように放り出し「さっさと片づけて」と高飛車に言いつける。八つ当たりされた女中の梅子は、わけがわからずムッとしながら掃除をするはめになった。
夜会の次の日から、茜は離れ専属の女中ということになった。徹の指示だ。自分の気持ちを認めた徹は、茜を手に入れることにしたのだ。
といっても無理やり婚約したり身請けのように結婚したりする気はない。妾になどもっての外だ。それでは徹や茜の父と同じになってしまうから。
徹はごく真っ当に、茜の心を落とそうと思っている。
愛し愛されて隣にいてくれる茜でなければ、手に入れる意味などない。
❖
「梅子さん……」
母屋の台所に顔を出した茜は、ばったり梅子に出くわした。藤ヶ森家へ来た日に案内してくれた先輩だ。
しかし梅子は本物のご令嬢ではなかった茜に愛想を尽かしているはず。茜はそっと頭を下げて通り過ぎようとした。それを呼びとめたのは梅子の方だ。
「あの、茜さん」
「……はい」
ちょっとビクビクしてしまった茜に、梅子はバツの悪そうな顔を向ける。
「離れでは上手くやってる? 徹さまは無理をおっしゃっていないかしら」
「は――はい」
突然軟化した梅子の態度に面食らった。
しかし訊かれた離れの居心地は良い。元々徹が使っていた女中は老女のヨネだけだ。下男下女は別にいるとはいえ手が足りていなかったらしく、茜は重宝されている。
そう聞いた梅子は小さく笑い、茜をねぎらってくれた。
「良かったわ。母屋に用事がある時は遠慮なく相談してちょうだいな」
「ありがとうございます……?」
行ってしまう梅子を見送り、茜は首をかしげる。
実を言うと、茜が夜会に連れていかれたこと、離れに引き抜かれたことは母屋の女中たちの間でちょっとしたセンセーションを巻き起こしていた。
もしや徹は茜に本気なのではないか、と。
妾腹の次男坊ではあるが、徹は藤ヶ森家の息子として堂々と政財界に顔を出している身だ。
そして茜は日陰者とはいえ銀行家の茅原につながる人物。
二人が結婚でもすれば、それなりの組み合わせになる。今のうちに取り入っておかねば、というわけだ。でも茜にはそんな裏の計算がわからない。
「なんだったのかしら……」
つぶやいて、奥に向かう。お客様お気に入りの茶菓子を受け取りにきたのだ。
「すみません。汐路屋のカステラを買ってくるようお願いしていたのですが」
「はいはい、こちらにございます」
今日の客は小白波太一郎。彼はここのカステラが好きだと徹に教わった。二人のために美味しい茶を淹れよう、と茜は微笑んだ。
茜の出した茶を一口飲み、太一郎は満足げ。
「茜さんの茶は美味いな」
「まあ、ありがとうございます。でもヨネさんが拗ねてしまいますよ?」
「それは困る。ヨネさんには大変世話になってるからね。冬になったらヨネさんの汁粉が食べたいと伝えてくれるかい」
「かしこまりました」
そっと下がっていく茜がドアを閉めるのを待って、太一郎はニヤリとした。
「なんだよ徹、やっぱり茜さんを嫁にする気になったのか。離れに居させてるとは驚いたぞ」
「……母屋で伊都子が嫌がらせをするんだ。夜会に連れていった手前、放っておくわけにもいかない」
猫かぶりをやめた徹は吐き捨てるように言う。素直に恋心を白状できなくて言い訳したのだが、いちおう事実だった。夜会で成功をおさめた噂は届いているだろうに、伊都子はますます茜のことを敵視している。
「まったく何が気に入らないんだか……」
伊都子にしてみれば、下に見ていた女中が社交界でチヤホヤされれば気に入らなくて当然だ。苛々もする。しかし徹にも太一郎にも女心の機微はわからなかった。
「仕方ないな。で、事業計画は詰めたか」
「ああなんとか。これで銀行に融資を取りに行こう。見てくれ」
徹が出した書類に目を通しながら、太一郎は確認する。
「高井銀行でいいんだな? となるとやはり窓口は茅原氏……茜さんを夜会に同伴したことは、きっとあっちの耳にも入ってるだろ」
「それは……まだ考えてる」
徹は煮え切らなかった。
まだ茜と徹の間柄はどうにもなっていない。もし茅原から「娘と結婚するつもりか」などと問い詰められたらどう答えればいい。
本人の了解を取らずに外堀を埋めるような真似、徹はしたくないのだ。
太一郎が離れから出た時だ。門の前で人力車を降りる伊都子がいた。花材を抱えているところを見ると、お華の帰りだろうか。門をくぐって太一郎をみとめると笑顔になる。
「まあ小白波さま。ご機嫌よろしゅう」
「お帰りなさい、伊都子さん。お稽古ですか」
こうしていると伊都子は天真爛漫なお嬢さんだった。
太一郎は小白波運輸の長男で、着々と実業家の道を歩いている男。なので伊都子も憎からずの振る舞いをする。
「今日はお華に参りましてよ」
「いいですね。お父上の床の間にでも飾って差し上げるのでしょうか」
「まあ。ではそういたしますわ」
伊都子は太一郎の言葉に従ってみせた。
徹と親交がある太一郎なのだから、親同士で話がつけば縁談が持ち上がる可能性もあると伊都子は考えていた。自分は大店の娘。太一郎の相手として不足はないはずだ。
だが徹から聞いた話で太一郎は伊都子の本性を知っている。親に認められてはいないが志乃の存在もあった。太一郎としては伊都子のことなど眼中にない。なので伊都子に茜のことを取りなそうとした。
「先日の夜会に僕も足を運んだのですが。徹の連れていたドレスの女性に今日は茶を淹れていただいてしまいました」
「あら……まあ。そうですの」
伊都子は愛想笑いをした。嫁に行ってもいいと勝手に考えている太一郎から他の女の話、しかも芸者あがりな妾の娘ごときのことを聞くなんて面白くない。
「いやあ恐縮でしたよ。洋装を凛と着こなしフランス語や英語で挨拶していた人ですからね。藤ヶ森にいらっしゃる方々は皆さん教養がおありなのでしょう。伊都子さんもお稽古事を欠かさない方ですし」
いちおう伊都子を持ち上げる形で着地した話だったが、伊都子の笑みは硬かった。
「それは……もちろんですわ。わたくし、藤之屋の娘として恥ずかしくないよう常に心掛けておりますもの」
「ご立派ですね。では僕はこれで失礼を」
意気揚々と去っていく太一郎を見送りながら、伊都子はギリ、と歯ぎしりした。
家に入ってからも花を投げつけるように放り出し「さっさと片づけて」と高飛車に言いつける。八つ当たりされた女中の梅子は、わけがわからずムッとしながら掃除をするはめになった。



