温厚柔和な若旦那さまは愛のためなら喧嘩上等!

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 その夜は煌びやかに輝いていた。
 電気を使った外灯がいくつも燈る重厚な洋館。そこが今日、フランス商社が夜会を催した場所だった。車寄せには次々と馬車が入ってくる。
 うちの一台から姿を見せたのは燕尾服に身を包んだ徹だ。男性の洋装は珍しいものではないのだが、背の高さと貴公子然とした面差しのせいで人々の目を惹いた。

「――さあ、茜さん」

 その徹が優しく名を呼び、車内へと手を差し出した。遊び人と噂の藤ヶ森徹がどんな女性を連れてきたのかと耳目が集まる。

「はい――」

 そっと手を取られ馬車を降りたのは、もちろん茜だ。
 今日の茜は髪を夜会巻きに結っていた。ほんのりと差した紅が楚々とした顔立ちを華やかに見せる。
 晩秋となり冷え込む夜。ふわりとケープコートをまとい歩く茜の姿は、月の光を集めるようだった。

 入り口の石段を軽やかにのぼる。
 徹に手伝われてコートを脱ぐと、あらわれたのは薔薇色の夜会服だ。
 ゴテゴテした鹿鳴館風ドレスではないそのしつらえに会場がざわめいた。すかさず徹がささやく。

「見られていますが、気にせずに。好意的な視線ですよ」
「……はい」

 茜は顔を伏せなかった。ホールの人々に会釈して徹の隣をしずしず歩く。
 誰にどう見られようと、もう大丈夫。茜は茜だ。

 茜のドレスと共布のチーフが徹の胸ポケットにはあしらわれていた。志乃のいたずらだ。
 そんな恋人めいたこと――と徹はいちおう抗議したが、本当は悪い気がしなかったのはどういうわけだろう。

 徹は主催者の元へ行く。髭をたくわえ貫禄のあるフランス人は、洋装の茜に目を細めた。徹と二人、茜にはわからない言葉で何事か話す。
 と、腕に添えていた茜の手を徹の指がトントンとつついた。茜は控えめに微笑み、口を開く。

「Merci beau coup, Monsieur」

 茜が口にしたのはフランス語――らしい。お礼の言葉だそうだ。徹が合図したら言うように指示されていた。聞いた相手はニッコリと笑んでくれる。
 本当は会話の流れをわかっていない茜だが、どうやら立派に徹のパートナーを務められたようでホッと安堵した。



「完璧でしたよ茜さん」

 ホールの壁際に移動して、徹は楽しそうだった。
 他にも列席のイギリス人や日本人数人に声を掛けて回った後だ。日本人とはさすがに茜も話さないわけにいかなかったのだが、そこは徹もかばってくれた。
「今日のこの人は僕がお連れしているんですからね」
 と肩で隠すようにされ、茜はなんだかくすぐったかった。

 徹が給仕から飲み物をもらい茜に渡してくれる。本当はとても緊張していた茜は、甘い果汁を混ぜた軽い酒を一口含んだ。ほぐれていく。

 茜に寄せられる目は称賛一色だ。
 新しい形のドレスも、凛としたたたずまいも。徹が仕込んでおいたフランス語や英語での挨拶も驚きを誘った。
 あれはどこのご令嬢だ? というささやきが幾つか耳に入る。それほど今夜の茜は美しかった。

 だが徹がエスコートしているので誰も近寄れない。若い男も、嫁を見つくろいたい親たちもだ。
 声を掛けさせないのは茜の将来を狭める行動なのかもしれない。そうは思ったが徹は今、茜を独占したかった。

「――やあ、お似合いの二人だね」

 そこへ果敢に突撃してきたのは太一郎だった。華麗な茜の姿に目を細める。

「うん、志乃のドレスはやはり最高だ」
「……小白波さまは、お志乃さんをご存じなのですか」
「お志乃は太一郎と恋仲なのですよ」

 徹がこそっと教えてくれる。笑い含みの声に親しさがにじんでいた。

「まあ。それは失礼いたしました」
「いいや。志乃に僕たちの洋装を手掛けてもらううち、そんな感じに」
「そうなんですか……」

 照れくさそうにする太一郎からは、そこにいない志乃への気持ちがあふれている。手に職を持ちながら、それを認め愛してくれる男性に巡り合えた志乃のことが茜はうらやましくなった。

「私も……自立してみたいです」

 ついそんな言葉をもらしてしまう。ハッとなった。それはこの場にふさわしくない発言だ。徹の隣で微笑むのが、今の茜の仕事。だが太一郎は声をあげて笑う。

「これは頼もしい女性だ。徹、やっぱり逃がす手はないぞ」
「うるさいな太一郎」

 なんの話なのか、ややムッとしながら言い返す徹はいつもの柔和な雰囲気とは少し違った。
 志乃の前でもそうだったが、徹も親しい友人たちといる時にだけ見せる本音というものがあるのだろう。

 ――そういう相手がいることも、茜には羨望の的だった。


  ❖


 やや早めに呼んだ帰りの馬車で、徹は茜の横顔を盗み見た。
 座席に沈むようにもたれる茜は先ほどまでの気高さが鳴りをひそめ、ひっそりした雰囲気に戻っている。
 どちらの茜が本当の茜なのだろう。知りたい、と徹は思った。

「――茜さん」

 静かに呼びかけた。顔を向ける茜は、ドアの外に下がったランプのほんのりした灯りを浴び妙になまめかしい。柄にもなくうろたえた徹は視線を外した。

「今日のあなたはとても凛々しかった。いつも自信なげにしているので心配していましたが、杞憂でしたね」
「……今夜だけは、貴婦人のごとく振る舞おうと決めていましたから」

 茜の返答はよくわからないものだった。

「ふうん? 決めて、そうできるのですか」
「母がよく言っていたのです。立ち居振る舞いには、その人の生き方が出ると。歩き方だけでも人となりが見透かされるものだと」

 母は芸を売る女だった。生まれは下町だったが、客の前では上品にも色っぽくもよそおうことが出来たそう。その場に合わせ振る舞うのはお座敷では必須のことだ。徹はふむ、とうなずいた。

「正しいかもしれません」
「私の卑しさが見抜かれてしまっては徹さまに御迷惑になります。だから……ずっと練習を」
「茜さん」

 茜が影でも努力をしていたことに驚いたが、徹は別のところに引っかかった。「卑しい」と自虐されては放っておけない。

「あなたは卑しくなどない。芸者の血すじがいけないと言うのなら、母上を妾にした男の方はどうなんです。それに僕の母だって似たようなものだ。芸者ではなかったが蔑まれて生きた人ですよ。ならば僕も卑しい人間ですか」
「……いえ、徹さまは」
「茜さんだって同じです。あなたは僕のやらせた無茶に応え、凛として隣にいてくれた。茜さんを罵る者がいたら、この僕が許さない」

 いつになく激しい口調で徹は言い切った。茜が呆気に取られているが、かまわないと思った。

 ――茜が欲しい。
 明確にそう感じた。

 徹が遊び人と噂されているのは偽りだ。
 親をあざむき兄に警戒されないため、そして新事業の準備に飛び回る時間を捻出するためにそんな風をよそおった。女など鼻も引っかけてこなかった。

 だがどうしたことだろう、茜のことは手に入れたくてどうしようもない。
 可憐でひたむきで凛と天を指す、薔薇のつぼみのような茜を手にしたい。
 でもどうやって――。


 ガタン、と馬車が停まり、黙りこくっていた徹は茜をうながした。藤ヶ森家に到着したのだ。まんじりともせず座っていた茜はホッと立ち上がる。

「――ッ!」
「どうしました茜さん」

 息を呑んで顔をしかめた茜に、徹は身を乗り出す。茜が痛そうにしたのは足だ。

「靴ずれ――どうして我慢していたんです」
「気を張っていたので痛くなかったのです。すみません」
「謝るのは僕です。気づかなくて申し訳ない」

 徹は「失敬」と断ってから茜の腕を支え、外に出る。そして――ふわり。

「きゃ! あ、あの。徹さま」

 徹に横抱きに抱き上げられ、茜は悲鳴をあげた。綺麗な顔がすぐそこにある。チラリと茜を見おろした徹は小声だ。

「静かに。こんなところ、人に見られたくないでしょう?」

 ひそかな脅し。でも反論できない。
 茜を黙らせた徹の笑みは少しいたずら。そして、なんだか満足げだった。