❖ ❖ ❖
茜は少しずつ屋敷の中に居場所を作りつつある。しかしそれはただ、人の少ない仕事場を見つけただけだ。来客の下足の埃を払ったり、窓の桟を拭いて回ったりといった下女のようなことばかりしている。
(このままではきっと、お客様の目に留まって求婚されることもないわね……)
そう思ったが、茜はなんだか清々していた。こうして働いて給金をもらう身になれれば、それでいいかもしれない。
母は茜に楽な暮らしをと願ったのだろう。
だが夫の顔色をうかがいながら仕えて過ごすのは――幸せなのだろうか。
金銭的に困ることがないにしても、夫がよそに女を作ったり、それとも自分がよその女の側になったりする。ならばみずから働いて稼ぐ方が気が楽だ。
「――ああら、茜じゃないの」
ひっそりと階段の手すりを拭いていた茜のことを、帰宅した伊都子が呼びとめた。茜は「お帰りなさいませ」と頭を下げる。
「わたくしね、聞いてしまいましたのよ」
伊都子はいつになく機嫌がよかった。微笑みながら階段を上がり、茜のそばにやってくる。ニイッと横に引いた唇が嗜虐的だ。
「茜は苦労してきたのねぇ」
「……なんのことでございましょう」
「とぼけなくていいわ。知ってるのよ、茅原さまのお宅の事情」
意図してなのか、伊都子の声が高くなった。一階にも二階にも通る、澄んだ声。
「茜のお母さまは――芸者でいらしたのね」
おほほ、と笑われて茜は言葉を返せなかった。
芸事に身をやつした――母がそう言われる立場なのはわかっている。
見世物、芝居、芸人。それは身分低い者がやること。教養を身につけた芸者とて、しょせんは売り物にすぎない。
母は座敷で芸を売り、そして身を買われた。その末に生まれたのが、茜だ。
でも茜は茜。母はそう言ってくれた。
茅原でも笹野でもなんでもなく――茜が己のままに生きたいと願うのは、笑われるほどの罪なのだろうか。
❖ ❖ ❖
フランス商人が催す夜会に招かれたと徹に告げたのは、藤ヶ森家の当主。徹の父親だった。
藤ヶ森が営む藤之屋は呉服商だ。一見すると西洋の商社などと関わりがないようにも思う。しかし舶来生地で仕立てた帯や半襟は人気だし、宝石は帯留めや簪に使える。今回招待してきたのもそんな取り引きの相手だ。
徹は父の部屋が好きではなかった。完全な和室で、父は書類仕事をするにも文机を使う。いつも洋装で過ごす徹にとっては非常に居づらい。膝が伸びてしまうから。
だがそんなことはおくびにも出さず、徹はいつもの柔和な笑みで父に対していた。
「夜会、ですか」
そんな会にはフランス語に堪能な徹が出ればいいと父は言った。守旧派にもほどが、と徹はため息をつく。
「わかりました。僕が行きますが、お父さんもご一緒にいかがです」
「私は……連中が好かん。濃い髭ヅラも、甘ったるい匂いも、何もかも苦手だ」
髭をはやし香水を振りかけた西洋人に会いたくない。藤之屋が西洋化する世界に乗り遅れている理由はそれだった。
父とて時流はわからないでもない。だが江戸伝統の商売にこだわりもあるし、それを変えるのは自分の後からでもよかろうと逃げていた。徹をヨーロッパへ遊学させたのは、父親なりにギリギリの譲歩なのだ。
「ああら、わたくしは楽しいわ。キラキラしたホールは美しいし、音楽も素敵でしてよ? まあダンスはごめんですけれど」
徹の隣でのたまったのは伊都子だった。
西洋式の夜会ならば男女で参加するのが筋というもの。徹に決まった相手はいないので伊都子を連れていけと父は言う。
だが徹は伊都子が嫌いだった。妾腹の徹を、ことあるごとに見下してくるからだ。なので困ったように告げてみる。
「僕は出席するならダンスを外したくないですね」
「まあ徹さんたら。なら踊りたい女性を会場で見つくろえばいいでしょう? 徹さんになら皆さま群がっていらっしゃるわ」
伊都子は徹のことを兄とは呼ばない。父親の子ではあるが、兄妹とは認めていないのだ。顔が良くて女に人気がある徹のことを「さすが妾の子」と罵っていることを、徹は知っていた。
「いけませんよ、伊都子さん。ファーストダンスは連れていったパートナーと踊る決まりです」
「……わたくしは、嫌です」
表情を硬くして伊都子は拒否した。徹の思う壺だ。
「そうですか……まあダンスをちゃんと踊るなら、女性にも洋装していただきたいところですし。伊都子さんはお嫌いでしたよね」
「洋装? そんなもの私は好きませんことよ!」
伊都子は鼻息荒く断りを入れる。徹は内心ほくそ笑んだ。
――鹿鳴館という洋館が造られたのは、もう二十五年ほども前になる。
そこではドレスをまといダンスをし、西洋の賓客をもてなす会が盛んに開かれた。その頃から洋装はある程度広まっている。
だがその後、西洋化への反動が起こった。パーティーに出席するにしても華やかな和装がよい、というのが今の風潮。そもそも脚が見えそうなドレスを着て踊るなど日本女性の美徳に反する。
またダンスへの忌避感は男性にも強かった。妻や娘がよその男と抱き合って踊るなど許せないと考えるのが普通なのだ。
「本当に徹さんは西洋かぶれですこと! 付き合いきれませんわ」
「そうですか……では伊都子さんと出席するのは諦めましょう」
「徹」
父は困惑気味だ。独りで行くというのか。
「今どき良家の娘は着物で当然だ。我がままは言うな」
「あら、わたくし良いことを思いつきましたわ!」
怒って出て行きそうになっていた伊都子が振り返った。にんまり笑う。
「芸者にでもやらせればよろしいのよ」
「何を言う、伊都子」
伊都子の提案に父は再び困惑させられる。
人前で唄い、舞うことを身につけた芸者衆ならば西洋式のダンスができる者もいるだろう。だが藤ヶ森家にそんな人材の心当たりはない――と思ったら伊都子はあっけらかんと言い放った。
「だから茜にお命じなさいませ。あれは芸者みたいなものでしてよ? だって母親がそうなんですもの!」
得意げに笑う伊都子のことを、父と徹はそれぞれに見つめて沈黙した。
茜は少しずつ屋敷の中に居場所を作りつつある。しかしそれはただ、人の少ない仕事場を見つけただけだ。来客の下足の埃を払ったり、窓の桟を拭いて回ったりといった下女のようなことばかりしている。
(このままではきっと、お客様の目に留まって求婚されることもないわね……)
そう思ったが、茜はなんだか清々していた。こうして働いて給金をもらう身になれれば、それでいいかもしれない。
母は茜に楽な暮らしをと願ったのだろう。
だが夫の顔色をうかがいながら仕えて過ごすのは――幸せなのだろうか。
金銭的に困ることがないにしても、夫がよそに女を作ったり、それとも自分がよその女の側になったりする。ならばみずから働いて稼ぐ方が気が楽だ。
「――ああら、茜じゃないの」
ひっそりと階段の手すりを拭いていた茜のことを、帰宅した伊都子が呼びとめた。茜は「お帰りなさいませ」と頭を下げる。
「わたくしね、聞いてしまいましたのよ」
伊都子はいつになく機嫌がよかった。微笑みながら階段を上がり、茜のそばにやってくる。ニイッと横に引いた唇が嗜虐的だ。
「茜は苦労してきたのねぇ」
「……なんのことでございましょう」
「とぼけなくていいわ。知ってるのよ、茅原さまのお宅の事情」
意図してなのか、伊都子の声が高くなった。一階にも二階にも通る、澄んだ声。
「茜のお母さまは――芸者でいらしたのね」
おほほ、と笑われて茜は言葉を返せなかった。
芸事に身をやつした――母がそう言われる立場なのはわかっている。
見世物、芝居、芸人。それは身分低い者がやること。教養を身につけた芸者とて、しょせんは売り物にすぎない。
母は座敷で芸を売り、そして身を買われた。その末に生まれたのが、茜だ。
でも茜は茜。母はそう言ってくれた。
茅原でも笹野でもなんでもなく――茜が己のままに生きたいと願うのは、笑われるほどの罪なのだろうか。
❖ ❖ ❖
フランス商人が催す夜会に招かれたと徹に告げたのは、藤ヶ森家の当主。徹の父親だった。
藤ヶ森が営む藤之屋は呉服商だ。一見すると西洋の商社などと関わりがないようにも思う。しかし舶来生地で仕立てた帯や半襟は人気だし、宝石は帯留めや簪に使える。今回招待してきたのもそんな取り引きの相手だ。
徹は父の部屋が好きではなかった。完全な和室で、父は書類仕事をするにも文机を使う。いつも洋装で過ごす徹にとっては非常に居づらい。膝が伸びてしまうから。
だがそんなことはおくびにも出さず、徹はいつもの柔和な笑みで父に対していた。
「夜会、ですか」
そんな会にはフランス語に堪能な徹が出ればいいと父は言った。守旧派にもほどが、と徹はため息をつく。
「わかりました。僕が行きますが、お父さんもご一緒にいかがです」
「私は……連中が好かん。濃い髭ヅラも、甘ったるい匂いも、何もかも苦手だ」
髭をはやし香水を振りかけた西洋人に会いたくない。藤之屋が西洋化する世界に乗り遅れている理由はそれだった。
父とて時流はわからないでもない。だが江戸伝統の商売にこだわりもあるし、それを変えるのは自分の後からでもよかろうと逃げていた。徹をヨーロッパへ遊学させたのは、父親なりにギリギリの譲歩なのだ。
「ああら、わたくしは楽しいわ。キラキラしたホールは美しいし、音楽も素敵でしてよ? まあダンスはごめんですけれど」
徹の隣でのたまったのは伊都子だった。
西洋式の夜会ならば男女で参加するのが筋というもの。徹に決まった相手はいないので伊都子を連れていけと父は言う。
だが徹は伊都子が嫌いだった。妾腹の徹を、ことあるごとに見下してくるからだ。なので困ったように告げてみる。
「僕は出席するならダンスを外したくないですね」
「まあ徹さんたら。なら踊りたい女性を会場で見つくろえばいいでしょう? 徹さんになら皆さま群がっていらっしゃるわ」
伊都子は徹のことを兄とは呼ばない。父親の子ではあるが、兄妹とは認めていないのだ。顔が良くて女に人気がある徹のことを「さすが妾の子」と罵っていることを、徹は知っていた。
「いけませんよ、伊都子さん。ファーストダンスは連れていったパートナーと踊る決まりです」
「……わたくしは、嫌です」
表情を硬くして伊都子は拒否した。徹の思う壺だ。
「そうですか……まあダンスをちゃんと踊るなら、女性にも洋装していただきたいところですし。伊都子さんはお嫌いでしたよね」
「洋装? そんなもの私は好きませんことよ!」
伊都子は鼻息荒く断りを入れる。徹は内心ほくそ笑んだ。
――鹿鳴館という洋館が造られたのは、もう二十五年ほども前になる。
そこではドレスをまといダンスをし、西洋の賓客をもてなす会が盛んに開かれた。その頃から洋装はある程度広まっている。
だがその後、西洋化への反動が起こった。パーティーに出席するにしても華やかな和装がよい、というのが今の風潮。そもそも脚が見えそうなドレスを着て踊るなど日本女性の美徳に反する。
またダンスへの忌避感は男性にも強かった。妻や娘がよその男と抱き合って踊るなど許せないと考えるのが普通なのだ。
「本当に徹さんは西洋かぶれですこと! 付き合いきれませんわ」
「そうですか……では伊都子さんと出席するのは諦めましょう」
「徹」
父は困惑気味だ。独りで行くというのか。
「今どき良家の娘は着物で当然だ。我がままは言うな」
「あら、わたくし良いことを思いつきましたわ!」
怒って出て行きそうになっていた伊都子が振り返った。にんまり笑う。
「芸者にでもやらせればよろしいのよ」
「何を言う、伊都子」
伊都子の提案に父は再び困惑させられる。
人前で唄い、舞うことを身につけた芸者衆ならば西洋式のダンスができる者もいるだろう。だが藤ヶ森家にそんな人材の心当たりはない――と思ったら伊都子はあっけらかんと言い放った。
「だから茜にお命じなさいませ。あれは芸者みたいなものでしてよ? だって母親がそうなんですもの!」
得意げに笑う伊都子のことを、父と徹はそれぞれに見つめて沈黙した。



