❖ ❖ ❖
それから数日、茜はどうにも女中らしいことをできずに過ごしていた。
内向きの仕事は先輩女中がこなしてしまう。主人家族の世話も決まった人が受け持っていて手出し無用だ。使用人は余っているようで、来客のために玄関近く控える隙もない。
たぶん人手不足だったのではなく、父が茜のことを藤ヶ森家へねじ込んだのだろう。手駒のひとつとして。
仕方なく茜は、ほうきを手に表に出ていた。何かして働かないと落ち着かない。
女中としてのお仕着せは海老茶で落ち着いた色合いだ。しかし上等な品で、本当は埃にしたくない。真っ白な前掛けはしているが汚したら怒られるだろうか。
「やあこんにちは。徹に取り次いでくれるかな」
門を入ってきた男性に声を掛けられて、茜はピキンと直立した。
これまでの来客は掃除する茜など無視して玄関へ向かい、取り次ぎを頼まれることはなかったのだ。しかも面会相手は、遊び人の徹か。
でも茜は平静をよそおって一礼した。相手は徹と同じように洋装の、若い人。友人か何かだろうか。
「いらっしゃいませ。お名前とご用向きをお伺いしてもよろしいでしょうか」
「ああ、君はまだ勤めて日が浅いのか。僕は小白波太一郎。徹とは学友でね、ただ遊びに来ただけだ」
「小白波さまですね。失礼いたしました、今後は覚えるようにいたしますのでご容赦くださいませ」
茜は謝罪しながら思い起こす。徹は外出していないはずだ。
さすがに本妻が嫌がるのか、徹は離れに起居していた。直接そちらへ通せばいいだろうか。
「徹さまはご在宅です。ご案内いたします」
「丁寧にありがとう。君の名は?」
「茅原 茜と申します」
「茜さんか……着ているものは内仕事の人のようだけど、どうして外の掃除を?」
「あっ」
いたずらな顔で質問されて、茜は口ごもった。なんとなく女中たちと馴染めずにいるなど、情けなくて話せない。
「あの、私」
もごもごしていると、太一郎は明るく大笑いした。
「いいんだ、女の争いは怖いものだからね」
「そんな……」
「はは、君が控えめな人だということはよくわかった。いや頑張って生きてくれ」
歩いていった太一郎は勝手に離れの玄関を開け、奥へ呼ばわる。
「おーい、徹! 訪ねてきてやったぞ! さっさと出て来ないと勝手に上がる!」
いちおう付き従っていた茜は目を丸くした。かなり気心の知れた間柄のようだ。しばらくして奥からあらわれた徹は苦笑いしていた。
「やあ太一郎。君が来ると一気に家の中がにぎやかになるね」
「おう、にぎやかしなら任せてくれ」
「ええと……これはいちおう嫌みのつもりで言ってみたんだが」
「やんわり言われても通じんな」
軽口を言い合って上がり込む太一郎の靴を、茜はそっとそろえた。徹が気づいて微笑んでくれる。
「ご苦労さま、茜さん。こちらはもういいから戻っておくれ」
「はい。どうぞごゆっくり」
茜はそっと礼をして戸を閉めた。
ドキドキする。やはり徹は優しくて気づかいに満ちていた。いちど挨拶したきりの茜のことをちゃんと覚えていて、名を呼んでくれるなんて。
「徹さま……」
ぽろ、と名が口からこぼれた。
いけない。あの人は誰にでも優しいのだから。
女中仲間や伊都子お嬢さまが冷ややかだといっても、徹に絆されてしまえば遊ばれ捨てられるだけかもしれない。それは母の望むことではなかった。
「……違うわ。そういうんじゃないの」
茜は自分に言い訳をした。
「ただ少し、似た境遇なのかもって思ってしまっただけ。それだけなんだから」
徹のことが気になる理由といえば、それしかない。
この大きな屋敷の中で、家族に分け隔てされ暮らすのは――妾宅に囲われるより嫌ではないかと気づき、茜は身ぶるいした。
❖
「今の子、茅原と名乗っていたけど。銀行家の茅原の娘か?」
離れにある徹の部屋に通されて、太一郎はどっかとソファに腰をおろしながら訊いた。徹も向かい合って座る。
「ああ――馬鹿らしい。うちに来る金持ちの誰かに見初められてこいとでも言われたんだろ」
徹の口調はぞんざいだった。鼻で嗤う調子も先ほど茜の前に出た時とはまったく違う。ガラの悪さに当てられて、太一郎はがっくりとソファに沈み込んだ。
「ほんと別人。おまえね、いいかげん猫かぶるのやめれば? 自分ちの中だろうが」
「無理だね」
徹は言下に否定する。
実をいえば、こちらが徹の素の姿。その鋭い視線は――茜を助けたあの男にそっくりだった。
「いい子ちゃんで優しくてフラフラ社交的なお坊ちゃんだから、俺はこの家でチヤホヤしてもらえるんだ」
徹の実母は亡くなっている。そのため十歳の時、この本邸に引き取られた。
本妻にうとまれる徹の立場。藤ヶ森の家で生きるには、愛想がよく従順で父の役に立つ少年になるしかなかった。
そして何より重要なのは、本妻の長男の地位を脅かさないこと。
父の跡継ぎなど狙っていないと行動で示すのが肝要――遊び人という仮面は、この家で暮らす徹の生存戦略だ。
「あの茜って子さあ、徹が引き取ったらどうだ」
「はん?」
太一郎がいきなり言って、徹は眉根を寄せた。
「どういうことだ」
「あの子、母屋でいじめられてるんじゃないか? さっき外で掃除してたんで声を掛けたんだが」
それは徹も気づいていた。
茜はこの数日ウロウロと所在なげにしている。初対面の日から何かと鈍くさくて、気になる女ではあった。
「離れに人はいらん。ヨネがいてくれる」
「ばあやは大事だけどさ、あれは茅原の娘だろ」
「――待て。嫁にしろってことか?」
「ああ。つながれば融資を受けやすい。おまえ、そろそろ仕掛けるつもりなんだろ?」
徹は片眉を上げる。それは彼が独自に計画する事業のことだった。
藤ヶ森は呉服商。昔ながらの座売りでお得意さまへ着物を売っている。
だが最近は百貨店なるものが現れた。同じく呉服商を営む大店が、陳列販売を始めたのだ。しかもその業態に次々と参入が始まっている。
時代は変わっていく。これからは伝統と格式だけではやっていけないと徹は考えた。なのに藤之屋は動きが鈍い。
父の経営に愛想を尽かした徹は、独立するつもりで準備を続けていた。
「嫁の実家なんか、当てにしてない」
「まあおまえの計画ならいけると踏んでるが」
「いや、太一郎の力も込みでの事業だからな。小白波運輸の経営はどうだ」
「順風だよ。なんといっても日本はロシアを破った極東の神秘の島国だ。ヨーロッパともアメリカとも取引は増えていくと思う。今は政治も安定してるし、勝負時だと思う」
ニヤリと笑い合う。
彼らは学友であり、ヨーロッパへの洋行仲間でもあった。
つるんで遊んでいた時に盛り場で巻き込まれた喧嘩。つい鮮やかに相手を伸してしまった徹に太一郎が仰天し――それが素顔での付き合いのきっかけだ。
服飾繊維業に詳しい徹。
船舶運輸業界に身を置く太一郎。
双方のメリットになる仕事を作り出すべく、この二人は知恵を絞っているところだった。
それから数日、茜はどうにも女中らしいことをできずに過ごしていた。
内向きの仕事は先輩女中がこなしてしまう。主人家族の世話も決まった人が受け持っていて手出し無用だ。使用人は余っているようで、来客のために玄関近く控える隙もない。
たぶん人手不足だったのではなく、父が茜のことを藤ヶ森家へねじ込んだのだろう。手駒のひとつとして。
仕方なく茜は、ほうきを手に表に出ていた。何かして働かないと落ち着かない。
女中としてのお仕着せは海老茶で落ち着いた色合いだ。しかし上等な品で、本当は埃にしたくない。真っ白な前掛けはしているが汚したら怒られるだろうか。
「やあこんにちは。徹に取り次いでくれるかな」
門を入ってきた男性に声を掛けられて、茜はピキンと直立した。
これまでの来客は掃除する茜など無視して玄関へ向かい、取り次ぎを頼まれることはなかったのだ。しかも面会相手は、遊び人の徹か。
でも茜は平静をよそおって一礼した。相手は徹と同じように洋装の、若い人。友人か何かだろうか。
「いらっしゃいませ。お名前とご用向きをお伺いしてもよろしいでしょうか」
「ああ、君はまだ勤めて日が浅いのか。僕は小白波太一郎。徹とは学友でね、ただ遊びに来ただけだ」
「小白波さまですね。失礼いたしました、今後は覚えるようにいたしますのでご容赦くださいませ」
茜は謝罪しながら思い起こす。徹は外出していないはずだ。
さすがに本妻が嫌がるのか、徹は離れに起居していた。直接そちらへ通せばいいだろうか。
「徹さまはご在宅です。ご案内いたします」
「丁寧にありがとう。君の名は?」
「茅原 茜と申します」
「茜さんか……着ているものは内仕事の人のようだけど、どうして外の掃除を?」
「あっ」
いたずらな顔で質問されて、茜は口ごもった。なんとなく女中たちと馴染めずにいるなど、情けなくて話せない。
「あの、私」
もごもごしていると、太一郎は明るく大笑いした。
「いいんだ、女の争いは怖いものだからね」
「そんな……」
「はは、君が控えめな人だということはよくわかった。いや頑張って生きてくれ」
歩いていった太一郎は勝手に離れの玄関を開け、奥へ呼ばわる。
「おーい、徹! 訪ねてきてやったぞ! さっさと出て来ないと勝手に上がる!」
いちおう付き従っていた茜は目を丸くした。かなり気心の知れた間柄のようだ。しばらくして奥からあらわれた徹は苦笑いしていた。
「やあ太一郎。君が来ると一気に家の中がにぎやかになるね」
「おう、にぎやかしなら任せてくれ」
「ええと……これはいちおう嫌みのつもりで言ってみたんだが」
「やんわり言われても通じんな」
軽口を言い合って上がり込む太一郎の靴を、茜はそっとそろえた。徹が気づいて微笑んでくれる。
「ご苦労さま、茜さん。こちらはもういいから戻っておくれ」
「はい。どうぞごゆっくり」
茜はそっと礼をして戸を閉めた。
ドキドキする。やはり徹は優しくて気づかいに満ちていた。いちど挨拶したきりの茜のことをちゃんと覚えていて、名を呼んでくれるなんて。
「徹さま……」
ぽろ、と名が口からこぼれた。
いけない。あの人は誰にでも優しいのだから。
女中仲間や伊都子お嬢さまが冷ややかだといっても、徹に絆されてしまえば遊ばれ捨てられるだけかもしれない。それは母の望むことではなかった。
「……違うわ。そういうんじゃないの」
茜は自分に言い訳をした。
「ただ少し、似た境遇なのかもって思ってしまっただけ。それだけなんだから」
徹のことが気になる理由といえば、それしかない。
この大きな屋敷の中で、家族に分け隔てされ暮らすのは――妾宅に囲われるより嫌ではないかと気づき、茜は身ぶるいした。
❖
「今の子、茅原と名乗っていたけど。銀行家の茅原の娘か?」
離れにある徹の部屋に通されて、太一郎はどっかとソファに腰をおろしながら訊いた。徹も向かい合って座る。
「ああ――馬鹿らしい。うちに来る金持ちの誰かに見初められてこいとでも言われたんだろ」
徹の口調はぞんざいだった。鼻で嗤う調子も先ほど茜の前に出た時とはまったく違う。ガラの悪さに当てられて、太一郎はがっくりとソファに沈み込んだ。
「ほんと別人。おまえね、いいかげん猫かぶるのやめれば? 自分ちの中だろうが」
「無理だね」
徹は言下に否定する。
実をいえば、こちらが徹の素の姿。その鋭い視線は――茜を助けたあの男にそっくりだった。
「いい子ちゃんで優しくてフラフラ社交的なお坊ちゃんだから、俺はこの家でチヤホヤしてもらえるんだ」
徹の実母は亡くなっている。そのため十歳の時、この本邸に引き取られた。
本妻にうとまれる徹の立場。藤ヶ森の家で生きるには、愛想がよく従順で父の役に立つ少年になるしかなかった。
そして何より重要なのは、本妻の長男の地位を脅かさないこと。
父の跡継ぎなど狙っていないと行動で示すのが肝要――遊び人という仮面は、この家で暮らす徹の生存戦略だ。
「あの茜って子さあ、徹が引き取ったらどうだ」
「はん?」
太一郎がいきなり言って、徹は眉根を寄せた。
「どういうことだ」
「あの子、母屋でいじめられてるんじゃないか? さっき外で掃除してたんで声を掛けたんだが」
それは徹も気づいていた。
茜はこの数日ウロウロと所在なげにしている。初対面の日から何かと鈍くさくて、気になる女ではあった。
「離れに人はいらん。ヨネがいてくれる」
「ばあやは大事だけどさ、あれは茅原の娘だろ」
「――待て。嫁にしろってことか?」
「ああ。つながれば融資を受けやすい。おまえ、そろそろ仕掛けるつもりなんだろ?」
徹は片眉を上げる。それは彼が独自に計画する事業のことだった。
藤ヶ森は呉服商。昔ながらの座売りでお得意さまへ着物を売っている。
だが最近は百貨店なるものが現れた。同じく呉服商を営む大店が、陳列販売を始めたのだ。しかもその業態に次々と参入が始まっている。
時代は変わっていく。これからは伝統と格式だけではやっていけないと徹は考えた。なのに藤之屋は動きが鈍い。
父の経営に愛想を尽かした徹は、独立するつもりで準備を続けていた。
「嫁の実家なんか、当てにしてない」
「まあおまえの計画ならいけると踏んでるが」
「いや、太一郎の力も込みでの事業だからな。小白波運輸の経営はどうだ」
「順風だよ。なんといっても日本はロシアを破った極東の神秘の島国だ。ヨーロッパともアメリカとも取引は増えていくと思う。今は政治も安定してるし、勝負時だと思う」
ニヤリと笑い合う。
彼らは学友であり、ヨーロッパへの洋行仲間でもあった。
つるんで遊んでいた時に盛り場で巻き込まれた喧嘩。つい鮮やかに相手を伸してしまった徹に太一郎が仰天し――それが素顔での付き合いのきっかけだ。
服飾繊維業に詳しい徹。
船舶運輸業界に身を置く太一郎。
双方のメリットになる仕事を作り出すべく、この二人は知恵を絞っているところだった。



