❖ ❖ ❖
近道のせいでひどい目にあった茜だが、なんとか藤ヶ森家にたどり着いた。
広壮な屋敷は勝手門ですら小さな屋根付き。敷地内には重厚な日本家屋の母屋のほかに和洋折衷の離れまであり、茜は目を白黒させた。
「こんなにご立派なお屋敷にお勤めするなんて……私にできるでしょうか」
一日目から帰りたくなってしまい、茜は弱音をもらした。案内してくれている梅子という先輩が肩をすくめる。
「何を言うの。茅原さまと言えば高井銀行のお偉いさんでしょう?」
「……はい」
小さくうなずく。
しかし父が暮らす本邸に、茜は足を踏み入れたことなどなかった。十九歳になった今まで、一度もだ。そこは本妻とその子らのための場所で、茜には縁のない家。
言葉少ない茜を無視し、梅子はペラペラと説明してくれた。
「私たちの仕事はご家族の身の回りのお世話ぐらいよ。といってもお着物やお荷物のご用意をお手伝いして、たまにお話のお相手をするだけ。あとはお客さまの取り次ぎとご案内、お茶のおもてなしかしらね」
「せいいっぱい勤めます」
「――どうせあなたもご結婚前の箔付けにいらしたんでしょう? ふふ。でしたらね、徹さまにはお気をつけなさいな」
「ええと……徹、さま?」
「藤ヶ森の次男坊でいらっしゃる方よ。といっても奥さまのお子さまではないのだけど」
「あ……」
茜は我知らず吐息をもらした。自分と同じ、妾腹の人がここにもいるのか。おずおずと尋ねてみる。
「その徹さまは……良くない御方なのですか」
「いやだ、違うわ。見目麗しい男性だけど懸想しては駄目、ってこと。使用人にも優しくて、それと昨年はヨーロッパに洋行されていて洗練された方なの。でも……」
梅子は声を低くしてささやく。
「真面目なお仕事よりも社交に熱心でね。遊び人として名を馳せていらっしゃるから。かまわれても本気にしたら傷つくだけと噂よ」
そうなのか。
ならばあまり近づかないように気をつけよう、と茜は思った。
大身の男性に茜が嫁ぐのが父の目論見。しかし縁を求めるだけなら本妻になれなくてもいいと言いそうな気がする。でも――。
茜が明るい場所で生きることを、母は望んでいると思う。
「おや」
母屋の玄関先に茜たちが戻った時だった。戸が開いて、男性が入ってくる。ピシリと洋装を着こなす若い人だった。
背が高く、物静かな雰囲気。ととのった顔立ちはやや色白で、白皙の美青年とはこのような人のことを言うのかもしれない。
だがその麗しいかんばせに茜は目を疑った。
(――朝、助けてくれた人に似ている?)
まじまじと見つめて動けなくなる。だけどそんなはずは――。
顔立ちはそっくりな気がした。
でもあの人は銀鼠の着流し姿、この男性は洋装。
凄みがあり喧嘩慣れした身のこなしだったあちらに比べ、この人の物腰柔らかなことといったら。
「――そちらは新しく来た方ですね。よろしく」
「徹さまですよ」
梅子がそっとささやいてくれた。茜はハッとする。この方が。
「おや梅子さん、僕のことを何か吹き込んだんですか」
「とんでもございません。徹さまはとてもお優しいと伝えてあるだけですわ」
「本当かな? こちらの人は身構えたようですが」
「……失礼いたしました。本当に気さくにお声がけくださるので驚いただけなのです。お許しください」
茜は慌てて言い訳する。クスクス笑う徹は、細めた目で茜のことを見つめた。
「そういうことにしておきましょうか。あなたの名は?」
「……茅原、茜と申します」
父の姓、茅原を名乗るのはまだ慣れない。ぎこちなく一礼する茜に、徹は軽くうなずいた。
「では茜さん、これからよろしく」
奥へ向かう徹が脱いだ靴を、梅子がサッとそろえる。そういうのも女中の仕事のうちだ。
徹を見送って、茜は奇妙な胸の高鳴りを感じた。
――これまでとはまったく違う生活が、この藤ヶ森の家で始まるのだ。
❖ ❖ ❖
ひっそり生きて来た茜だが、基本的な行儀作法なら身についている。習字、三味線、華道などもひと通り母に仕込まれた。芸者だった母は話術もたくみだ。
だが娘の茜は情けないことに、たくさんの人に挨拶しただけで疲れ果ててしまった。これまで人と対面する機会が少なかったせいだろうか。
「――あらまあ。上手なことのひとつも言えないようでは、良いところへ嫁ぐなんて難しいのではなくて?」
通りいっぺんの挨拶だけして黙ってしまった茜のことを値踏みするように見たのは、藤ヶ森家の娘、伊都子だった。
この伊都子は本妻の産んだ子だ。藤ヶ森家が営む呉服屋、藤之屋は江戸時代から続く呉服の大店。そこのお嬢さまとあって蝶よ花よと育った伊都子は良い着物をまとっている。
艶やかな絹の長い袖をヒラヒラとさせ、伊都子は口に手を添えて笑った。
「ふうん。あなたは茅原さまのお宅の――でもおかしいわねえ、銀行家の茅原さまのお嬢さまなら、わたくし女学校で存じておりましたけど。あの方は今年お嫁にいらっしゃったと聞いたような。お姉さまなのかしら。ご結婚おめでたいことでしたわね」
「……お気づかい恐れ入ります」
茜は頬がこわばるのをこらえて頭を下げた。
そうか、本家の娘はどこぞに嫁いで――そのせいで父は、もう一枚茜という手札があるのを思い出したのだろう。
「あなたは女学校に行っていないのねえ? そういう扱いの身の上ということ? まあせいぜい、うちで頑張ることだわ」
ほほほ、と楽しそうにして伊都子は手をシッシと振る。下がりなさいということだ。茜はそっと顔を伏せたまま部屋を出た。
「――茜さん」
やや冷たい梅子の声がする。視線を上げると、眉を寄せた梅子は疑うような目をしていた。
「茅原さまのお嬢さんだと名乗っておいて――脇の腹か何かなの? なんだ、じゃあ私の方がよほど上じゃない。損したわ」
いきなりぞんざいな態度になって、梅子は行ってしまう。
たぶん梅子は、茅原の縁につながる機会を求めて茜に親切にしてくれていたのだ。茜には取り入る価値がないとわかり、離れただけ。
「梅子さん……」
友人になれるかと思った相手の冷たい本心に、茜の胸はつぶれそうだった。
近道のせいでひどい目にあった茜だが、なんとか藤ヶ森家にたどり着いた。
広壮な屋敷は勝手門ですら小さな屋根付き。敷地内には重厚な日本家屋の母屋のほかに和洋折衷の離れまであり、茜は目を白黒させた。
「こんなにご立派なお屋敷にお勤めするなんて……私にできるでしょうか」
一日目から帰りたくなってしまい、茜は弱音をもらした。案内してくれている梅子という先輩が肩をすくめる。
「何を言うの。茅原さまと言えば高井銀行のお偉いさんでしょう?」
「……はい」
小さくうなずく。
しかし父が暮らす本邸に、茜は足を踏み入れたことなどなかった。十九歳になった今まで、一度もだ。そこは本妻とその子らのための場所で、茜には縁のない家。
言葉少ない茜を無視し、梅子はペラペラと説明してくれた。
「私たちの仕事はご家族の身の回りのお世話ぐらいよ。といってもお着物やお荷物のご用意をお手伝いして、たまにお話のお相手をするだけ。あとはお客さまの取り次ぎとご案内、お茶のおもてなしかしらね」
「せいいっぱい勤めます」
「――どうせあなたもご結婚前の箔付けにいらしたんでしょう? ふふ。でしたらね、徹さまにはお気をつけなさいな」
「ええと……徹、さま?」
「藤ヶ森の次男坊でいらっしゃる方よ。といっても奥さまのお子さまではないのだけど」
「あ……」
茜は我知らず吐息をもらした。自分と同じ、妾腹の人がここにもいるのか。おずおずと尋ねてみる。
「その徹さまは……良くない御方なのですか」
「いやだ、違うわ。見目麗しい男性だけど懸想しては駄目、ってこと。使用人にも優しくて、それと昨年はヨーロッパに洋行されていて洗練された方なの。でも……」
梅子は声を低くしてささやく。
「真面目なお仕事よりも社交に熱心でね。遊び人として名を馳せていらっしゃるから。かまわれても本気にしたら傷つくだけと噂よ」
そうなのか。
ならばあまり近づかないように気をつけよう、と茜は思った。
大身の男性に茜が嫁ぐのが父の目論見。しかし縁を求めるだけなら本妻になれなくてもいいと言いそうな気がする。でも――。
茜が明るい場所で生きることを、母は望んでいると思う。
「おや」
母屋の玄関先に茜たちが戻った時だった。戸が開いて、男性が入ってくる。ピシリと洋装を着こなす若い人だった。
背が高く、物静かな雰囲気。ととのった顔立ちはやや色白で、白皙の美青年とはこのような人のことを言うのかもしれない。
だがその麗しいかんばせに茜は目を疑った。
(――朝、助けてくれた人に似ている?)
まじまじと見つめて動けなくなる。だけどそんなはずは――。
顔立ちはそっくりな気がした。
でもあの人は銀鼠の着流し姿、この男性は洋装。
凄みがあり喧嘩慣れした身のこなしだったあちらに比べ、この人の物腰柔らかなことといったら。
「――そちらは新しく来た方ですね。よろしく」
「徹さまですよ」
梅子がそっとささやいてくれた。茜はハッとする。この方が。
「おや梅子さん、僕のことを何か吹き込んだんですか」
「とんでもございません。徹さまはとてもお優しいと伝えてあるだけですわ」
「本当かな? こちらの人は身構えたようですが」
「……失礼いたしました。本当に気さくにお声がけくださるので驚いただけなのです。お許しください」
茜は慌てて言い訳する。クスクス笑う徹は、細めた目で茜のことを見つめた。
「そういうことにしておきましょうか。あなたの名は?」
「……茅原、茜と申します」
父の姓、茅原を名乗るのはまだ慣れない。ぎこちなく一礼する茜に、徹は軽くうなずいた。
「では茜さん、これからよろしく」
奥へ向かう徹が脱いだ靴を、梅子がサッとそろえる。そういうのも女中の仕事のうちだ。
徹を見送って、茜は奇妙な胸の高鳴りを感じた。
――これまでとはまったく違う生活が、この藤ヶ森の家で始まるのだ。
❖ ❖ ❖
ひっそり生きて来た茜だが、基本的な行儀作法なら身についている。習字、三味線、華道などもひと通り母に仕込まれた。芸者だった母は話術もたくみだ。
だが娘の茜は情けないことに、たくさんの人に挨拶しただけで疲れ果ててしまった。これまで人と対面する機会が少なかったせいだろうか。
「――あらまあ。上手なことのひとつも言えないようでは、良いところへ嫁ぐなんて難しいのではなくて?」
通りいっぺんの挨拶だけして黙ってしまった茜のことを値踏みするように見たのは、藤ヶ森家の娘、伊都子だった。
この伊都子は本妻の産んだ子だ。藤ヶ森家が営む呉服屋、藤之屋は江戸時代から続く呉服の大店。そこのお嬢さまとあって蝶よ花よと育った伊都子は良い着物をまとっている。
艶やかな絹の長い袖をヒラヒラとさせ、伊都子は口に手を添えて笑った。
「ふうん。あなたは茅原さまのお宅の――でもおかしいわねえ、銀行家の茅原さまのお嬢さまなら、わたくし女学校で存じておりましたけど。あの方は今年お嫁にいらっしゃったと聞いたような。お姉さまなのかしら。ご結婚おめでたいことでしたわね」
「……お気づかい恐れ入ります」
茜は頬がこわばるのをこらえて頭を下げた。
そうか、本家の娘はどこぞに嫁いで――そのせいで父は、もう一枚茜という手札があるのを思い出したのだろう。
「あなたは女学校に行っていないのねえ? そういう扱いの身の上ということ? まあせいぜい、うちで頑張ることだわ」
ほほほ、と楽しそうにして伊都子は手をシッシと振る。下がりなさいということだ。茜はそっと顔を伏せたまま部屋を出た。
「――茜さん」
やや冷たい梅子の声がする。視線を上げると、眉を寄せた梅子は疑うような目をしていた。
「茅原さまのお嬢さんだと名乗っておいて――脇の腹か何かなの? なんだ、じゃあ私の方がよほど上じゃない。損したわ」
いきなりぞんざいな態度になって、梅子は行ってしまう。
たぶん梅子は、茅原の縁につながる機会を求めて茜に親切にしてくれていたのだ。茜には取り入る価値がないとわかり、離れただけ。
「梅子さん……」
友人になれるかと思った相手の冷たい本心に、茜の胸はつぶれそうだった。



