鷺沼side
あの日から、ずっとまるで夢を見ているようだ。
初めて見るはずなのにとても懐かしくて、温かくて、夜空に輝く星のようにきらめいている。星に向かって手を伸ばす。いつまでも手を伸ばし続けている。そんなことも知らない君の笑顔は少し見るだけで、俺の世界に色彩を持たせてモノクロな世界は色付いていく。価値観までも簡単に変えていく。いつまでも見つめていたい。いや、見惚れていたい。
でも、そんな時間は花が散るようにあっという間に過ぎてしまう。
永遠なんてないと分かりきっているのに、永遠を求めてしまう。
ならば、もう思い切って自分のものにしていつまでも隣に居たいと思ってしまう。祈ることしかできないでいる。ただの、人間だ。
高校に入学したばかりの四月。桜はもう散りきって、湿った花びらが地面を彩っていた。
高校には入学したが、どうしても行く気にはなれなかった。
学校という場所が、俺にとっては学ぶ場所からお見合い会場になっているみたいだった。また、あの俺に対する媚び売り合戦が始まると思うと憂鬱で仕方ない。もちろんこんなことは誰にも相談できず、最上たちにすら話せないでいた。迷惑をかけると分かりきっているからだ。
そんなある日に思いがけない光を見た。
夜に家から少し離れた公園のベンチで夜空に輝く星を眺めていた時、ひとりの青年が話しかけて来た。
ただ一言
「笑ってよ」
とただそれだけ。
そこには、流星のように輝く笑顔があった。その時、頬に伝う冷たい感覚が涙だと初めて気が付いた。自覚した途端、目から見る見るうちに涙が溢れだし、これはきっと自分が我慢してきた気持ちが形になったのだと思った。
その青年は、俺の隣に腰を下ろし悲しみに震える俺の背中を優しく撫ででくれた。
「大丈夫。元気出して。悩んでいたのはきっと大事だからなんだよね」
――そうなんだ。
大事だから悩むんだ。傷つけたくないし、迷惑かけたくないから。こんなに素直に自分の声に耳を傾けられたのはいつ以来だろう。この青年の前では、取り繕う必要もない。すべてを見透かされているようで嘘なんてすぐに見抜かれてしまう気がする。
いつもは、周りの人たちに嫌われたくなくて、あるいは少しでも好意を向けてくる相手を落胆させたくなくて、無意識のうちに“いい自分”を演じてしまう。それはきっと、自分に関わった人たちには幸せになってほしいと思っているからなのだろう。自分の手の届く範囲の人くらいは守りたい。そう心のどこかで思っているから。
「ご、ごめん。何も知らない部外者からこんなこと言われたらいやだよね」
と少し落ち込んだ様子で言った。
そんなことない。むしろ部外者だからいいんじゃないか。誰かに肩入れした意見ではなく、客観的に見れるのだから。
この人になら話せるかもしれないと直感的に思った。そう思った瞬間には、もう俺の口は語り始めていた。
「人のことが信じられないんだ。もう何が本当で、何が嘘なのか。分からない」
自然と声は震え、言葉を吐き出すのが億劫になっていた。心の奥底にしまい込んで見えないふりをしていた本音が青年の力を借りてようやく吐き出されたようだった。
「小手先の言葉に誠実さなんてないんだと思う。自分にというか自分の声に耳を傾けて素直になればいいと僕は思うよ」
青年はまっすぐこちらを見つめながら言った。風が吹けば飛んで行ってしまうような軽い慰めの言葉ではなく、何日も考え込んでもたどり着けなかった問いの答えに出会えた気がした。やはり話してよかったと思った。今、欲しい言葉を、欲しい答えをくれた救世主。青年の言葉ひとつひとつが五臓六腑に、心に、脳に染み渡る。そうだったのかと腑に落ちる。命を救ってくれたと言っても過言ではない。命の恩人だ。
「素直、か」
やっとたどり着いた答えを繰り返し呟く。
――素直。
それは、簡単なことのようですごく難しい。決して一朝一夕でできることではない。
難しいと思い悩んでいると
「僕たちは、ただの人間なんだ。寿命なんて八十年くらいしかないし、超能力者でもないから人の心の本当なんて分からない。神様でもないから一秒先の未来だって分からない。分からないからこそ、今の自分が感じていることを大切にすればいい。自分の目と耳を澄ませて。自分に、自分だけには嘘をつかないでいてほしい」
それは、まるで闇を割く光のようだった。それが青年の願いなら、叶えてみせる。守ってみせる。
「そんなふうに言われたの、初めてだよ」
そう言うと、青年は嬉しそうに微笑み
「約束だよ」
と言った。
「あのさ、」
と言いかけた時、
「やばい時間。もう帰らないと。また、会おうね!」
と言いながら小走りで去って行ってしまった。
時間も忘れて、俺の話を聞いてくれていたのかと思うとなんだか愛おしい。
名前だけでも聞きたかった。欲を言えば、まだここに居てもっと話していたかった。
また、この公園に来れば会えるだろうか。この感情が伝わってしまったらいいのになんて思いながら夜空に輝く星をまた眺め始めた。
それから、また会えるかもしれないという淡い期待を胸に膨らませながらあの公園に通ってみたが翌る日も翌る日も会えず、自分が都合のいいように作り出した幻覚だったのかと思うほど煙のように跡形もなく消えてしまった。
公園に通い始めてからもう半年が経ち、季節も春から秋に移り変わっていた。もう何回再会する夢を見ただろう。何回眠れない夜を超えて来ただろう。もう二度と会えないのだろうと公園に通うのをやめた次の日。
俺は、保健室登校をしていた。親が折角入学したのだから少しだけでも行ってみたらと学校の先生に相談し、保健室登校を許可してくれたのだ。
その日の昼休み、保健室に1人の生徒が来た。どうやら微熱らしい。先生がベットに誘導した。そのあとに俺に声をかけて来た。
「先生これから緊急の職員会議に行ってくるから鵠沼くんのことよろしくね」
「え、先生ちょっと、」
その声は先生まで届かず、静かな保健室に響いた。
少し時間が経った後、ベットからひどく咳込む音が聞こえた。
何か飲み物を持っていこうと思い、学校の中の自動販売機で水を買い持って行った。
ベットのカーテンを開けると、そこには半年も通い続けた公園で会えるのを待っていたあの青年がいた。
俺は、あっけにとられてその場で固まってしまった。半年も会いたいと願い続けた人がこんなに近くにいたのだ。
同じ学校に通っていたなんて運命か?とも思った。大切なものは意外と近くにあって気づかないものなんだと思っていると
「み、ず」
という青年の声で我に返った。確か名前は、くげぬま。俺のさぎぬまと似ている苗字だなんて思いながら、半年ぶりに会話をした。
「水買ってきたよ。体起こそうか?」
そう言うと、目を少し開けて、小さく頷いた。
少し火照った体を優しく起こし、水を飲ませると
「ありがとう」
と消えそうな声で礼を言った。
「じゃあ、」
とベットのカーテンを開け出て行こうとすると不意に手首を掴まれた。
「まって、まだここに居て」
と言ってきた。
俺は驚きのあまり返事をするのを忘れ、少しの間静寂な時間が流れた。
「ご、ごめん。迷惑だったよね」
と握った手の力が徐々に消えていくのに耐えられず
「いや、少しびっくりしただけ」
と言ってベットの隣にある椅子の腰かけた。
「優しいね」
と鵠沼は呟いた。
「優しくなんかないよ」
と返すと柔らかく微笑み、
「本当だよ」
と言った。そんなこと言わなくても本当だって分かっているよ。鵠沼が素直になれって言ったのだから。
「よる、」
「ん?」
「最近、寒くなっているのに気づかないで、夜に薄着で出かけてしまったのが間違いだったのかも」
「どこに出かけたの?」
「家の近くの公園に」
「公園、」
思わず、呟いてしまった。
「四月くらいにその公園で相談に乗った人、今どうしているか急に気になって、行ったら会えるかと思ったんだ」
覚えていてくれたんだと嬉しくて泣きそうになった。鵠沼がどんな風に思っていたのか気になり、当事者であることを隠して話を聞いた。
「会えたの?」
「しばらく待ったけど、会えなかったよ。もう、忘れられてしまったかも」
忘れるはずなんてない。今でもはっきり覚えている。もし、俺がその時に公園に行っていたら、何かが変わったのだろうか。もっと、話をしてお互いのことを知って、仲良くなれていたのだろうか。
そんなことを思っていると鵠沼が言った。
「この世界のどこかにいてくれてたらいいな。この世界のことを嫌いにならないでほしい。もっと、もっと素敵なことがあるんだって、世界は広いんだって伝えたいな」
いるよ。この世界のこと恨んで嫌いになったけど、鵠沼に出会ってそんな世界も変わったんだ。鵠沼がこの世界は素敵なんだって証明してくれたんだ。鵠沼が居れば何にも要らないほど。その瞬間この気持ちが恋なのかと思った。
「いると思うよ。きっと伝わっているよ」
そう返すと、よかった。と言って安心したようだった。段々と頬が赤く染まっていくのが見てわかる。熱が上がってきたのか声をかけても反応が鈍くなっていた。すぐに額に熱を冷ますシートを張っておやすみと小さく呟いた。
それから、鵠沼の親が迎えに来て早退していった。
そのあとに鵠沼のことを保健室の先生に聞いた。
「あの、先生。さっきの鵠沼ってどこのクラスなんですか?」
「あー鵠沼周くんは一年三組よ」
「三組ですか」
俺は一組だから隣の隣のクラスだ。下の名前は、あまねって言うんだ。かわいい名前だな。
その日から、鵠沼のことが気になって仕方なくなった。
教室でどんな風に授業を受けているのか。休み時間は何をして過ごしているのか。体育は得意なのか。先生に質問されたらどんな声色で答えるのか。クラスが違うからこそクラスでのことが知りたい。クラス以外の場所はというと、今日廊下で何回鵠沼とすれ違えるか運試ししたり、学校に早く登校して、朝、登校してくる鵠沼を教室の窓から覗いたり、だいたい何時くらいの電車で登下校しているのかわざわざ駅まで行って確認したりとほぼストーカーまがいなことをしていた。
そんな時、結城に
「きもいからやめな」
とストレートに言われてしまった。
なんでそんなことをしているのか問いただされ、鵠沼のことをすべて結城に話すと、応援すると言ってくれた。相手が男であることで否定されると思っていたが、誰かを好きになるのに性別なんて関係ない。とはっきり言ってくれた。
それから、結城が鵠沼と同じクラスであることを利用し、教室での鵠沼の様子を報告してもらったり、結城に会う口実でクラスに行き、休み時間の鵠沼を観察したり、昼休みにお弁当を食べる時もクラスに行き結城と一緒に食べるふりをして鵠沼が友達と話しているのを盗み聞きしたりして、鵠沼の交友関係を探り、特に親しい友人はいるのか、今好きな人はいないのか、付き合っている人はいないのか調べていた。こんなに綿密に調べるわけは、初めて自分から好きになった人を絶対に自分のものにしたいからだ。失敗したくない。人を好きになることってこんなにも臆病になるものなんだ。こんな世界に出会えたのも鵠沼に出会えたからだ。あの日、あの場所のあの時間に居なかったらと思うと怖くなる。こんな気持ちを知らずに生きていくなんて折角の人生半分というか全部損しているのと同義だ。
来年のクラス替えで鵠沼と同じクラスになるために有名な神社に何回もお参りに行き、お守りもたくさん買い、絵馬まで書いた。
そして、運命のクラス替えの日。
朝いつもより早くに登校し、掲示板に張り出されたクラス替えの紙を見て、神様って本当にいるんだと心の底から思った。
念願叶って同じクラスになれたのだ。しかも、名簿が前後だった。そうすると、席順は前後だ。
ただ同じクラスになれればよかったのに、願ってもないことまで叶ってしまった。もうこれはこの泡沫の夢を叶えるしかないと思った。
そう決心しているところに最上と結城と森丘が登校してきた。
掲示板の前に立った最上が紙を見た瞬間にぱっと顔を明るくして
「やったー俺たち全員同じクラスだ!」
と森丘の肩に腕を回した。
その勢いに乗っかり、森丘も
「本当ですね」
と嬉しそうに笑った。
最上と森丘が騒ぐ中で結城そっと距離を詰めてきて、俺だけに聞こえる声で言った。
「同じクラスになれてよかったな。鵠沼と」
願い続けていたことがやっと現実になった、その実感が結城に言われてようやく形を持った気がした。
「よかった。本当によかった」
そう返すと、まるで分ってるよと言わんばかりに小さく笑った。
「本番はここからだよ」
「そうだな」
言葉を交わした瞬間、新しい世界への第一歩を踏み出せた気がした。
同じクラスになって初めての授業は理科だった。折角同じクラスになったのだから鵠沼の言動は一分一秒も見逃せない。常に視界には鵠沼を入れていた。
そして、同じクラスになって初めて交わした会話が理科のノートを回収するときだった。
授業が終わってすぐにひとりひとりのところに回収に行く鵠沼をずっと見ていた。ひとりひとり丁寧に回収するなんてと感動していたら、提出するノートをどこに入れたのか忘れて探し始めたところに鵠沼がノートを回収しに来た。
「ノート回収します」
と俯きながら言った鵠沼に見惚れていたら
「早く出して。そんなにひとりひとりに時間割いてらんないから」
と言われて、すぐに探し出して回収してもらった。
今までは、一軍だからとかいうどうでもいい理由で、あとででいいよ。とか、待ってるよ。とか言われていたけど、こんな待遇は初めてで別世界を見せてもらった。かっこいいからとか一軍だからとかいう外見からくる贔屓は一切なくみんなと平等に接してくれたのが嬉しくて、やはり鵠沼を選んで間違いないと思った。
それから、同じクラスになっても鵠沼の観察を続けた。度が過ぎるとよく結城に怒られていた。
「そんなに気になるなら、もう話しかければいいじゃん」
と言われたが、
「まだ、もうちょっと」
と、話すのを先延ばしにしていた。
そもそも、男の俺が鵠沼のことを好きになって迷惑じゃないかとか、男と付き合うことに嫌悪感を抱いていないかとか。考えうる問題は何百とある。鵠沼の嫌なことはしなくない。迷惑になりたくない。鵠沼が俺を受け入れられるという確証が欲しい。
でも、この時の判断は間違っていなかった。
夏ぐらいから、俺が鵠沼に向ける視線より、鵠沼が俺に向ける視線の方が多くなった気がしていた。
視線だけではなく、距離感が前より遠くなって俺の近くを通らなくなったり、廊下ですれ違っても、わざと気づかないふりをしているようなよそよそしい素振りになった。
俺にプリントを回すときも振り返らずに机に置き、手も触れないように配慮していた。
最初は、俺のストーカーまがいな行動に気づかれてしまって、気味悪がられて避けられたのかと思って落ち込んでいた。
でも、違った。
ある日、鵠沼と俺とのお互いの視線が交差した瞬間、すぐに目を逸らして耳まで真っ赤に染まった鵠沼の顔を見てすべてが反転した。
あれは、嫌っている人がする反応じゃない。
むしろ、俺がずっと鵠沼にやってきたことと同じことだった。
それに気づいた途端、
鵠沼の不自然な距離も、ぎこちない態度も、全部俺のことを意識しているからだと分かってしまった。
分かってしまったら、もうだめだった。
鵠沼の一挙手一投足が、俺の中で意味を持ち始めた。
そして、気づく。
――俺だけが、鵠沼を好いていたわけじゃなかった。
鵠沼は俺のことが好きかもしれないと思った。
その事実が、どうしようもなく嬉しかった。
だが、結城にあることを言われた。
「推し活っぽくね」
推し活。つまり、俺のことを推しとして見ているということ。
どこからそう思ったのか聞くと、鵠沼が隣のクラスの友達に
「推しなんだよねー」
と話しているのを結城が聞いていたらしい。
推しということに少し残念な気持ちを抱きながらも、推しとして認知してくれているだけで嬉しかった。
でも、鵠沼にとっての推しである俺に、鵠沼は恋愛感情を持っているのだろうか。あくまで、推しという立場なのか。
その境界線がどこにあるのか分からなくて、考えれば考えるほど分からなくなっていく。
鵠沼の俺に対する気持ちは恋なのか、それともただの推しへの気持ちなのか。
それの違いが観察だけでは分からない。分からないからこそ期待してしまう。
もし――
もし、鵠沼が俺のことを推し以上の存在として見てくれているのなら。
恋愛対象として見てくれているなら。
その可能性を考えるだけで、
世界が少しだけ明るくなる気がした。
それから、結城に相談するまでもなく鵠沼を手中に落とす作戦を練り始めた。
そして、初めてお互いを意識して話すきっかけを生み出すためにしたことが返却されたノートをわざと入れ替え、取り違いに見せかけて向こうから話しかけてくるのを待つことだった。
こっちから話しかけても、避けられるのは目に見えていたし、クラスではみんなの注目を集めてしまう。そうすれば、鵠沼にも迷惑がかかる。それだけは避けたかった。
あの日から、ずっとまるで夢を見ているようだ。
初めて見るはずなのにとても懐かしくて、温かくて、夜空に輝く星のようにきらめいている。星に向かって手を伸ばす。いつまでも手を伸ばし続けている。そんなことも知らない君の笑顔は少し見るだけで、俺の世界に色彩を持たせてモノクロな世界は色付いていく。価値観までも簡単に変えていく。いつまでも見つめていたい。いや、見惚れていたい。
でも、そんな時間は花が散るようにあっという間に過ぎてしまう。
永遠なんてないと分かりきっているのに、永遠を求めてしまう。
ならば、もう思い切って自分のものにしていつまでも隣に居たいと思ってしまう。祈ることしかできないでいる。ただの、人間だ。
高校に入学したばかりの四月。桜はもう散りきって、湿った花びらが地面を彩っていた。
高校には入学したが、どうしても行く気にはなれなかった。
学校という場所が、俺にとっては学ぶ場所からお見合い会場になっているみたいだった。また、あの俺に対する媚び売り合戦が始まると思うと憂鬱で仕方ない。もちろんこんなことは誰にも相談できず、最上たちにすら話せないでいた。迷惑をかけると分かりきっているからだ。
そんなある日に思いがけない光を見た。
夜に家から少し離れた公園のベンチで夜空に輝く星を眺めていた時、ひとりの青年が話しかけて来た。
ただ一言
「笑ってよ」
とただそれだけ。
そこには、流星のように輝く笑顔があった。その時、頬に伝う冷たい感覚が涙だと初めて気が付いた。自覚した途端、目から見る見るうちに涙が溢れだし、これはきっと自分が我慢してきた気持ちが形になったのだと思った。
その青年は、俺の隣に腰を下ろし悲しみに震える俺の背中を優しく撫ででくれた。
「大丈夫。元気出して。悩んでいたのはきっと大事だからなんだよね」
――そうなんだ。
大事だから悩むんだ。傷つけたくないし、迷惑かけたくないから。こんなに素直に自分の声に耳を傾けられたのはいつ以来だろう。この青年の前では、取り繕う必要もない。すべてを見透かされているようで嘘なんてすぐに見抜かれてしまう気がする。
いつもは、周りの人たちに嫌われたくなくて、あるいは少しでも好意を向けてくる相手を落胆させたくなくて、無意識のうちに“いい自分”を演じてしまう。それはきっと、自分に関わった人たちには幸せになってほしいと思っているからなのだろう。自分の手の届く範囲の人くらいは守りたい。そう心のどこかで思っているから。
「ご、ごめん。何も知らない部外者からこんなこと言われたらいやだよね」
と少し落ち込んだ様子で言った。
そんなことない。むしろ部外者だからいいんじゃないか。誰かに肩入れした意見ではなく、客観的に見れるのだから。
この人になら話せるかもしれないと直感的に思った。そう思った瞬間には、もう俺の口は語り始めていた。
「人のことが信じられないんだ。もう何が本当で、何が嘘なのか。分からない」
自然と声は震え、言葉を吐き出すのが億劫になっていた。心の奥底にしまい込んで見えないふりをしていた本音が青年の力を借りてようやく吐き出されたようだった。
「小手先の言葉に誠実さなんてないんだと思う。自分にというか自分の声に耳を傾けて素直になればいいと僕は思うよ」
青年はまっすぐこちらを見つめながら言った。風が吹けば飛んで行ってしまうような軽い慰めの言葉ではなく、何日も考え込んでもたどり着けなかった問いの答えに出会えた気がした。やはり話してよかったと思った。今、欲しい言葉を、欲しい答えをくれた救世主。青年の言葉ひとつひとつが五臓六腑に、心に、脳に染み渡る。そうだったのかと腑に落ちる。命を救ってくれたと言っても過言ではない。命の恩人だ。
「素直、か」
やっとたどり着いた答えを繰り返し呟く。
――素直。
それは、簡単なことのようですごく難しい。決して一朝一夕でできることではない。
難しいと思い悩んでいると
「僕たちは、ただの人間なんだ。寿命なんて八十年くらいしかないし、超能力者でもないから人の心の本当なんて分からない。神様でもないから一秒先の未来だって分からない。分からないからこそ、今の自分が感じていることを大切にすればいい。自分の目と耳を澄ませて。自分に、自分だけには嘘をつかないでいてほしい」
それは、まるで闇を割く光のようだった。それが青年の願いなら、叶えてみせる。守ってみせる。
「そんなふうに言われたの、初めてだよ」
そう言うと、青年は嬉しそうに微笑み
「約束だよ」
と言った。
「あのさ、」
と言いかけた時、
「やばい時間。もう帰らないと。また、会おうね!」
と言いながら小走りで去って行ってしまった。
時間も忘れて、俺の話を聞いてくれていたのかと思うとなんだか愛おしい。
名前だけでも聞きたかった。欲を言えば、まだここに居てもっと話していたかった。
また、この公園に来れば会えるだろうか。この感情が伝わってしまったらいいのになんて思いながら夜空に輝く星をまた眺め始めた。
それから、また会えるかもしれないという淡い期待を胸に膨らませながらあの公園に通ってみたが翌る日も翌る日も会えず、自分が都合のいいように作り出した幻覚だったのかと思うほど煙のように跡形もなく消えてしまった。
公園に通い始めてからもう半年が経ち、季節も春から秋に移り変わっていた。もう何回再会する夢を見ただろう。何回眠れない夜を超えて来ただろう。もう二度と会えないのだろうと公園に通うのをやめた次の日。
俺は、保健室登校をしていた。親が折角入学したのだから少しだけでも行ってみたらと学校の先生に相談し、保健室登校を許可してくれたのだ。
その日の昼休み、保健室に1人の生徒が来た。どうやら微熱らしい。先生がベットに誘導した。そのあとに俺に声をかけて来た。
「先生これから緊急の職員会議に行ってくるから鵠沼くんのことよろしくね」
「え、先生ちょっと、」
その声は先生まで届かず、静かな保健室に響いた。
少し時間が経った後、ベットからひどく咳込む音が聞こえた。
何か飲み物を持っていこうと思い、学校の中の自動販売機で水を買い持って行った。
ベットのカーテンを開けると、そこには半年も通い続けた公園で会えるのを待っていたあの青年がいた。
俺は、あっけにとられてその場で固まってしまった。半年も会いたいと願い続けた人がこんなに近くにいたのだ。
同じ学校に通っていたなんて運命か?とも思った。大切なものは意外と近くにあって気づかないものなんだと思っていると
「み、ず」
という青年の声で我に返った。確か名前は、くげぬま。俺のさぎぬまと似ている苗字だなんて思いながら、半年ぶりに会話をした。
「水買ってきたよ。体起こそうか?」
そう言うと、目を少し開けて、小さく頷いた。
少し火照った体を優しく起こし、水を飲ませると
「ありがとう」
と消えそうな声で礼を言った。
「じゃあ、」
とベットのカーテンを開け出て行こうとすると不意に手首を掴まれた。
「まって、まだここに居て」
と言ってきた。
俺は驚きのあまり返事をするのを忘れ、少しの間静寂な時間が流れた。
「ご、ごめん。迷惑だったよね」
と握った手の力が徐々に消えていくのに耐えられず
「いや、少しびっくりしただけ」
と言ってベットの隣にある椅子の腰かけた。
「優しいね」
と鵠沼は呟いた。
「優しくなんかないよ」
と返すと柔らかく微笑み、
「本当だよ」
と言った。そんなこと言わなくても本当だって分かっているよ。鵠沼が素直になれって言ったのだから。
「よる、」
「ん?」
「最近、寒くなっているのに気づかないで、夜に薄着で出かけてしまったのが間違いだったのかも」
「どこに出かけたの?」
「家の近くの公園に」
「公園、」
思わず、呟いてしまった。
「四月くらいにその公園で相談に乗った人、今どうしているか急に気になって、行ったら会えるかと思ったんだ」
覚えていてくれたんだと嬉しくて泣きそうになった。鵠沼がどんな風に思っていたのか気になり、当事者であることを隠して話を聞いた。
「会えたの?」
「しばらく待ったけど、会えなかったよ。もう、忘れられてしまったかも」
忘れるはずなんてない。今でもはっきり覚えている。もし、俺がその時に公園に行っていたら、何かが変わったのだろうか。もっと、話をしてお互いのことを知って、仲良くなれていたのだろうか。
そんなことを思っていると鵠沼が言った。
「この世界のどこかにいてくれてたらいいな。この世界のことを嫌いにならないでほしい。もっと、もっと素敵なことがあるんだって、世界は広いんだって伝えたいな」
いるよ。この世界のこと恨んで嫌いになったけど、鵠沼に出会ってそんな世界も変わったんだ。鵠沼がこの世界は素敵なんだって証明してくれたんだ。鵠沼が居れば何にも要らないほど。その瞬間この気持ちが恋なのかと思った。
「いると思うよ。きっと伝わっているよ」
そう返すと、よかった。と言って安心したようだった。段々と頬が赤く染まっていくのが見てわかる。熱が上がってきたのか声をかけても反応が鈍くなっていた。すぐに額に熱を冷ますシートを張っておやすみと小さく呟いた。
それから、鵠沼の親が迎えに来て早退していった。
そのあとに鵠沼のことを保健室の先生に聞いた。
「あの、先生。さっきの鵠沼ってどこのクラスなんですか?」
「あー鵠沼周くんは一年三組よ」
「三組ですか」
俺は一組だから隣の隣のクラスだ。下の名前は、あまねって言うんだ。かわいい名前だな。
その日から、鵠沼のことが気になって仕方なくなった。
教室でどんな風に授業を受けているのか。休み時間は何をして過ごしているのか。体育は得意なのか。先生に質問されたらどんな声色で答えるのか。クラスが違うからこそクラスでのことが知りたい。クラス以外の場所はというと、今日廊下で何回鵠沼とすれ違えるか運試ししたり、学校に早く登校して、朝、登校してくる鵠沼を教室の窓から覗いたり、だいたい何時くらいの電車で登下校しているのかわざわざ駅まで行って確認したりとほぼストーカーまがいなことをしていた。
そんな時、結城に
「きもいからやめな」
とストレートに言われてしまった。
なんでそんなことをしているのか問いただされ、鵠沼のことをすべて結城に話すと、応援すると言ってくれた。相手が男であることで否定されると思っていたが、誰かを好きになるのに性別なんて関係ない。とはっきり言ってくれた。
それから、結城が鵠沼と同じクラスであることを利用し、教室での鵠沼の様子を報告してもらったり、結城に会う口実でクラスに行き、休み時間の鵠沼を観察したり、昼休みにお弁当を食べる時もクラスに行き結城と一緒に食べるふりをして鵠沼が友達と話しているのを盗み聞きしたりして、鵠沼の交友関係を探り、特に親しい友人はいるのか、今好きな人はいないのか、付き合っている人はいないのか調べていた。こんなに綿密に調べるわけは、初めて自分から好きになった人を絶対に自分のものにしたいからだ。失敗したくない。人を好きになることってこんなにも臆病になるものなんだ。こんな世界に出会えたのも鵠沼に出会えたからだ。あの日、あの場所のあの時間に居なかったらと思うと怖くなる。こんな気持ちを知らずに生きていくなんて折角の人生半分というか全部損しているのと同義だ。
来年のクラス替えで鵠沼と同じクラスになるために有名な神社に何回もお参りに行き、お守りもたくさん買い、絵馬まで書いた。
そして、運命のクラス替えの日。
朝いつもより早くに登校し、掲示板に張り出されたクラス替えの紙を見て、神様って本当にいるんだと心の底から思った。
念願叶って同じクラスになれたのだ。しかも、名簿が前後だった。そうすると、席順は前後だ。
ただ同じクラスになれればよかったのに、願ってもないことまで叶ってしまった。もうこれはこの泡沫の夢を叶えるしかないと思った。
そう決心しているところに最上と結城と森丘が登校してきた。
掲示板の前に立った最上が紙を見た瞬間にぱっと顔を明るくして
「やったー俺たち全員同じクラスだ!」
と森丘の肩に腕を回した。
その勢いに乗っかり、森丘も
「本当ですね」
と嬉しそうに笑った。
最上と森丘が騒ぐ中で結城そっと距離を詰めてきて、俺だけに聞こえる声で言った。
「同じクラスになれてよかったな。鵠沼と」
願い続けていたことがやっと現実になった、その実感が結城に言われてようやく形を持った気がした。
「よかった。本当によかった」
そう返すと、まるで分ってるよと言わんばかりに小さく笑った。
「本番はここからだよ」
「そうだな」
言葉を交わした瞬間、新しい世界への第一歩を踏み出せた気がした。
同じクラスになって初めての授業は理科だった。折角同じクラスになったのだから鵠沼の言動は一分一秒も見逃せない。常に視界には鵠沼を入れていた。
そして、同じクラスになって初めて交わした会話が理科のノートを回収するときだった。
授業が終わってすぐにひとりひとりのところに回収に行く鵠沼をずっと見ていた。ひとりひとり丁寧に回収するなんてと感動していたら、提出するノートをどこに入れたのか忘れて探し始めたところに鵠沼がノートを回収しに来た。
「ノート回収します」
と俯きながら言った鵠沼に見惚れていたら
「早く出して。そんなにひとりひとりに時間割いてらんないから」
と言われて、すぐに探し出して回収してもらった。
今までは、一軍だからとかいうどうでもいい理由で、あとででいいよ。とか、待ってるよ。とか言われていたけど、こんな待遇は初めてで別世界を見せてもらった。かっこいいからとか一軍だからとかいう外見からくる贔屓は一切なくみんなと平等に接してくれたのが嬉しくて、やはり鵠沼を選んで間違いないと思った。
それから、同じクラスになっても鵠沼の観察を続けた。度が過ぎるとよく結城に怒られていた。
「そんなに気になるなら、もう話しかければいいじゃん」
と言われたが、
「まだ、もうちょっと」
と、話すのを先延ばしにしていた。
そもそも、男の俺が鵠沼のことを好きになって迷惑じゃないかとか、男と付き合うことに嫌悪感を抱いていないかとか。考えうる問題は何百とある。鵠沼の嫌なことはしなくない。迷惑になりたくない。鵠沼が俺を受け入れられるという確証が欲しい。
でも、この時の判断は間違っていなかった。
夏ぐらいから、俺が鵠沼に向ける視線より、鵠沼が俺に向ける視線の方が多くなった気がしていた。
視線だけではなく、距離感が前より遠くなって俺の近くを通らなくなったり、廊下ですれ違っても、わざと気づかないふりをしているようなよそよそしい素振りになった。
俺にプリントを回すときも振り返らずに机に置き、手も触れないように配慮していた。
最初は、俺のストーカーまがいな行動に気づかれてしまって、気味悪がられて避けられたのかと思って落ち込んでいた。
でも、違った。
ある日、鵠沼と俺とのお互いの視線が交差した瞬間、すぐに目を逸らして耳まで真っ赤に染まった鵠沼の顔を見てすべてが反転した。
あれは、嫌っている人がする反応じゃない。
むしろ、俺がずっと鵠沼にやってきたことと同じことだった。
それに気づいた途端、
鵠沼の不自然な距離も、ぎこちない態度も、全部俺のことを意識しているからだと分かってしまった。
分かってしまったら、もうだめだった。
鵠沼の一挙手一投足が、俺の中で意味を持ち始めた。
そして、気づく。
――俺だけが、鵠沼を好いていたわけじゃなかった。
鵠沼は俺のことが好きかもしれないと思った。
その事実が、どうしようもなく嬉しかった。
だが、結城にあることを言われた。
「推し活っぽくね」
推し活。つまり、俺のことを推しとして見ているということ。
どこからそう思ったのか聞くと、鵠沼が隣のクラスの友達に
「推しなんだよねー」
と話しているのを結城が聞いていたらしい。
推しということに少し残念な気持ちを抱きながらも、推しとして認知してくれているだけで嬉しかった。
でも、鵠沼にとっての推しである俺に、鵠沼は恋愛感情を持っているのだろうか。あくまで、推しという立場なのか。
その境界線がどこにあるのか分からなくて、考えれば考えるほど分からなくなっていく。
鵠沼の俺に対する気持ちは恋なのか、それともただの推しへの気持ちなのか。
それの違いが観察だけでは分からない。分からないからこそ期待してしまう。
もし――
もし、鵠沼が俺のことを推し以上の存在として見てくれているのなら。
恋愛対象として見てくれているなら。
その可能性を考えるだけで、
世界が少しだけ明るくなる気がした。
それから、結城に相談するまでもなく鵠沼を手中に落とす作戦を練り始めた。
そして、初めてお互いを意識して話すきっかけを生み出すためにしたことが返却されたノートをわざと入れ替え、取り違いに見せかけて向こうから話しかけてくるのを待つことだった。
こっちから話しかけても、避けられるのは目に見えていたし、クラスではみんなの注目を集めてしまう。そうすれば、鵠沼にも迷惑がかかる。それだけは避けたかった。
