この夜を終わらせるまで

 風がない。音もない。
 ここは、どこだ?
 まるでふわふわな雲の上にいるような心地だ。浮遊している感覚の身体は、自分ものじゃないかのように腕以外言うことを聞かない。
 目の前に広がる真っ白な光に包まれているこの空間に流れに身を任せて、俺はただ浮かんでいた。
(そもそも、俺。──なにしてたんだっけ?)
 何か大切なことを忘れてる気がするが、それが何かが分からない。
 ふと手の平に意識を向けた。指先の輪郭がうっすらぼやけて見えた。ずっと宙に浮いているような感覚のせいで、今自分に足がついているのかすら怪しく思える。
 声を出そうと口を開く。でも、はくはくと口が動くだけで言葉は一向に喉を通ろうとしない。
 瞳を閉じて、考えることをやめた。
 ここは、どこか安心する。もう何も考えたくない。何もしたくない。温かい腕に抱かれているような心地よさに胸が包まれる。
 ずっとそうしていたい。そう思っていたとき、
『──、る』
(今、なにか……)
 不意に鼓膜を突いた微かな音に、俺は薄っすらと目を開いた。
 その瞳の先に映ったのは、淡い青色の輝きを放つ光。たった一つの小さな粒によって大きな存在感を示しているそれは、思わず目を細めてしまうほどに眩しい。
 こんなもの、さっきまではなかった。
 突如として姿を現したそれは、もう目を瞑ってもないものにはならない。瞼を通してもこの輝きがひしひし伝わってくる。
 俺は、なんなんだと思って青い光に腕を伸ばした。もう動かさないと思っていた手の平を限界までに広げて、引き寄せられるように前のめりになった。
(──届いた)
 そう思ったのも束の間。目の前の輝きとは裏腹に、俺の視界は灰色に染まる。手の内に収めてある光だったものをゆっくり開くと、それは一枚の紙切れに変わっていた。
 くしゃくしゃになっていたそれを広げる。そこに映っていたのは、……自分。
 放課後にアイスを食べている俺に、テスト勉強をしている自分。次々と移り変わっていく写真。その中には必ずと言っていいほど、自分以外の一人が映り込んでいた。
 それはずっと同じ人。俺はその人と一緒にバカみたいに笑っている。一体誰なんだと記憶を遡って見ていくが、顔だけピントが張ったようにぼやけて上手く思い出すことができない。
 瞬間、手に広げていた写真が黒一色で塗り潰された。それも、俺の隣で笑っていたその人の姿だけ。
「は……なんだよ、これ」
 声が、ようやく喉を通って口から溢れた。でもその声は自分でも驚くほどに掠れていて、唇は微かに震えている。
 するとその写真は、紙の重みを失った。瞬きもしない間にハラハラと崩れていった写真は、指の隙間を抜けて消えていく。
 あんなに心地いいと思っていたはずなのに、胸がだんだんと速く脈を打ち鳴らしていく。
 俺は、一欠片の紙も落とさないようにと手の平を固く閉じた。でもそれは無意味だったというように、開いた時にはもう、写真は跡形もなくなくなっていた。
 ドクン、心臓に衝撃が走った。いきなり降りかかってきた、痛苦しく締め付けてくる胸。
 俺は力強く拳を胸に押し当てる。意識が朦朧とする中でふと、ある人の顔にかかっていた靄が徐々に晴れていった。
「……ま、こと?」



「──誠!!」
 布団の端を掴みながら、勢いよく体を起こした。飛び起きた背中は汗でぐっしょり濡れていて、胸はずっとバクバクと大きな音を立てている。
「ゆ、め?」
 枕元にあった時計を乱暴に取り上げる。針が示しているのは、朝の七時。
 俺はおずおずと布団から足を出して、カーテンの端に手をかけた。
「っ、まぶし」
 柔らかく黄色を帯びた光に、透き通っている青い空。晴れ渡っている空はまさに快晴で、雲一つ残っていない。
 久しぶりで慣れない光に目を細めて、手の甲で日差しを遮る。窓を開いてみた。ふわりと流れる爽やかな風が、俺の頬を優しく撫でる。
「……嘘、だろ」
(だって、確かにさっきまでは夜で。常夜祭が始まってから外はずっと暗かったのに)
 窓辺から差し込む日差しは部屋を明るく包み込んでいる。その光に反射して埃はキラキラと宙を舞う。
 明るくなった部屋全体を、俺はくまなく見回した。自分の部屋かと疑うほどに、私物がなくなっていて殺風景になっている部屋。その家具の代わりにあったのは、たった二箱の段ボール箱。
 しばらくその場に立ち尽くしていると、不意に回った部屋のドアノブに意識が向いた。
「茂ー、起きなさい。って、あら?ちゃんと自分で起きてたのね」
 そう言いながらドアの縁を潜ったのは、フライ返しを片手に持つ──母さん。
「今日皆さんのところに挨拶に行くんでしょう?顔洗ってご飯食べて、早く行ってらっしゃい。出発に間に合わなくなっちゃうわよ?」
「え、出発って。それにあの段ボールは……」
「なに寝ぼけたこと言ってるの?」
「は、」
 母さんは不思議そうに首を傾げながら俺の額に手を置いた。
「熱はないわね」
「え、なに」
 反射的に後ずさった俺に、母さんはカレンダーを指差して言った。
「今日は引越しする日じゃない」
「引、越し?」
 そんな話、今まで一度も上がったことがない。でもこの殺風景な部屋も、部屋の片隅に積んである段ボールも。これが全て引っ越しのための準備だというなら納得ができる。でも、
「……誠」
「まこと?」
「ほら、母さんも会ったことあるじゃん。それに俺と同じ学校通ってるし」
 母さんは顎に指を当てて少し考える素振りを見せる。束の間、母さんはゆっくり口を開いた。
「誰かしら、その子。茂の新しいお友達?」
「え、だって誠は……」
 ピーっとやかんが吹いた音が、廊下を伝って聞こえてくる。
「誰か分からないけど、冷めちゃうからご飯早く食べに来なさいよ」
 湯の沸騰に慌てた母さんは、そそくさと台所へ戻っていった。
 一人残された部屋で、開きっぱなしに揺れているドアを呆然と見つめる。
「……他の人は?」
 ハッと頭に浮かんだのは村の住民の顔。その衝動に駆られて、俺は急いで近くの服を鷲掴む。乱暴に袖に腕を通してズボンを履くと、転びそうになりながらも玄関に急いで向かった。
「あら、ご飯は?」
「後で!」
 バンと音を鳴らして引き戸を横に流す。勢いのまま外へ出ると、空を明るく照らす日差しが目を刺した。
 そのあまりの眩しさに、眉根を顰めて空を見上げる。暗闇での景色をずっと見ていたせいか、全てしっかり見える視界の広さに少しばかりの懐かしさを覚える。
 村の大通りに繋がる細い道を抜け出ると、そこには何変わらぬ顔で一日の始まりを過ごす村人たちで行き通っていた。
 いつも通りの、自分が望んだ元通りの日常の風景。それなのに──
「あれ。茂くん?」
 背後から降りかかった声に、俺は肩を揺らして振り返る。
「あ、」
(元に、戻ってる)
 視界に飛び込んだのは、買い物袋を片手に下げたクラスメイトの女子。
「今日引越しするんでしょ?あ、私は今日休日だからって親にお使い頼まれちゃってさ。って、茂くん?」
 なんの反応を示さない俺に、心配そうに顔を覗いてくる。
「なぁ、その。同じクラスに……誠っていうやつ居る?」
 その問いかけに、女子は首を傾げて静かに横に振った。
「その人がどうかしたの?」
(そっ、か)
 俺は「わるい」と言葉を一言残して、女子に背を向けそのまま駆け出した。
 熱のこもった目元をゴシゴシと擦りながら村内を一つ一つ順に足を運ぶ。
 学校の校内に放課後よく行った駄菓子屋。テストがある度に行った図書館、腹が空いた時に行った定食屋。そして、あの公園。
 俺はすれ違う住民全員に、同じ質問を繰り返し投げかけた。でも、帰ってくる言葉はみんな口を揃えて同じことを言う。
「どこで何やってんだよ。……誠」
 気がつけば、いつの間にか日差しは高くなっていた。母さんに早く帰ってこいと言われていた手前、これ以上ここに居るのを引き伸ばすことはできない。
(あと、もう少しだけ)
 タイミングが合わなくて行き違いになってる可能性も少なからずある。
 家に帰ったら、遅れたことを母さんに謝ろう。そう思い顔を上げると、すれ違い様の一人の老人と目が合った。
「……村長」
「おや、茂くん。今日はついに引越しだね。本当に寂しくなるよ。今、ちょうど君の家に挨拶に行こうと思っていたんだ」
 村長は、目元も細めて笑顔を作る。でもそれは、今まで見たことのないような穏やかな表情。
(こんな顔、初めてみた)
 記憶の中にある村長は、いつも商品の品定めをするような目をしていた。でも今俺の前にいる村長は、信じられないほどに優しい瞳でこちらを見ている。
「あ、の」
「どうしたんだい?」
「……まこと。桂木、誠知ってますか?」
 バクバクと脈打つ胸に、汗ばむ手を握りしめて返事を待つ。すると、村長は首を横に振って口を開いた。
「誰かね、その子は。聞いたことがないよ」





 清々しいほどに透き通っている青い空。隣に座る母さんは、布団日和だと言って一日の始まりの朝から張り切っている。
 結局、あの日。村長と別れた後も動き回ったけど、誠を見つけることはできなかった。
 俺は目の前にある朝食をぼんやりと見つめながら、箸でご飯を一口すくう。今日の献立は、卵焼きとご飯。そして、焼き魚と味噌汁。
 どの品からも漂ういい香りが鼻をくすぐる。腹は減っている。そのはずなのに、箸は重くて次へなかなか進まない。
「あら、どうしたの?全然食べてないじゃない」
 布団を両手で抱えている母さんが、俺の減らないご飯を見て心配そうに口にする。
「最近ずっとおかしいわよ?心ここに在らずって感じで。茂、何かあったの?」
 バサリと布団を床に下ろした母さんは、その足で俺の元へと駆け寄って来る。
「……別に、なんともないから。心配しすぎだって」
「そう?大丈夫ならいいんだけど」
 俺は箸にあるご飯を、口の中へゆっくりと流し込んだ。噛むたびに米の甘さが口内へと広がっていく。味はしっかりと感じる。でも、
(おいしくない)
 口にしているのは普段美味しく食べている米のはずなのに、食べている気が全く湧いてこない。
 一度箸を置いてコップに手を伸ばす。すると母さんは、何かをハッと閃いたかのように手をパチンと鳴らした。
「え、なに」
「茂。お使いに行ってきてくれない?ほら、今日は天気もいいじゃない」
 母さんの、あまりに唐突な提案。俺はコップを持ったまま、口をつけずに不動する。
「せっかくだし、散歩でもしてみたら?いい気分転換にもなりそうじゃない」
 そう口にした母さんは、床に落ちた布団なんかほったらかしで紙とペンを探し始めた。
「え、俺まだ行くって言ってない……」
「どうせやることなくて暇なんでしょ?」
 その言葉に、喉はグッと詰まって何も言い返すことができない。
「あった、あった」
 母さんはタンスから取り出した手の平サイズの紙に、冷蔵庫の中身を確認しながらお使いのメモを書き上げた。
 「はい、これ」と渡された紙を、コップを持つ反対の手で受け取る。そこには卵ともも肉、そして玉ねぎと書かれてあった。
「これって」
「そう。今日の夕飯は親子丼よ」
 母さんは俺に向かってそう微笑むと、頭に手を置いてくしゃりと撫でる。
「そんなしけた顔しないの。ここでの暮らしもきっと楽しいわよ」
 そっと頭から手が離れる。母さんは、「食器は片付けてね」と一言残すと、布団の方へ戻っていった。
 ベランダへ消える母さんの背中をじっと眺める。俺は台所へ行って、ラップを手に取った。残ったご飯に蓋をして一つずつ冷蔵庫へしまっていく。
 荷造りがだいぶ片付いてきたこの家には、たたまれた段ボールが積み重なって隅に立て掛けてある。
 それが目についた俺はその段ボールを手に持って、布団を干している母さんに向けて声を張った。
「母さん。ここの段ボール、スーパー持ってく?」
 しばくすると応えるように、母さんからも声の張った返事が返ってきた。
「お願ーい」
「じゃあ、行ってきます」
 段ボールが縛られている紐を片手に吊り下げて、新しい玄関の扉を引く。ガチャリと隙間の空いたドアからは、柔らかい風が入り込んで来る。
 「行ってらっしゃい」と遠くから聞こえる母さんの声を後にして、俺は玄関のドアをくぐった。
「まだ暑いな」
 もう季節は秋だというのに、空から照りつける日差しはまだジリジリとした棘を持っている。額に滲む汗を腕で拭いながら、はっと息を一息ついた。
(そういや、スーパーってどこだっけ)
 引っ越した直ぐに一度、母さんとスーパーへ買い物へ行ったことがあった。いらなくなった段ボールを捨てる場所があったのは覚えているけど、スーパーの明確な場所まではちゃんと覚えていない。
「確か、川沿いの向こうだったよな」
 そんな独り言を呟きながら、川沿いを伝って進んでいく。
 前の村はどこに行っても山に囲まれていたのに、この街には山の姿が一つもない。その代わりにあるのは、川と密集してる家だけだ。
「来年から、高校生か」
 明日からは、新しい中学校へ行くことになっている。一月、二月にもなれば受験があって、その後すぐに卒業式。
 ぼうっと水面に反射する光を見つめなら、川の流れをフェンス越しに眺める。それに段ボールをそっと立て掛けて、俺はフェンスに肘をつく。
 俺の望んだ日常。変わらずに訪れる、朝の太陽。
(あれは、……全部俺の夢?)
 そもそも生贄も儀式も存在していなくて、今まで見てきたのは俺の夢が創り出した世界。
 でもそれにしては、あまりに現実味を帯びていた。あそこであった出来事も、俺が送ってきた過去も全部、嘘な訳がない。
 それでも今視界に映る景色が、これが現実だと脳にひしひしと訴えてくる。
「──誠は、本当に」
 いざ言葉に出そうとしても、どうしてもその続きを言うことができなかった。喉の奥がつっかえて、枯れた声だけが気管を通る。
 認めてしまったら、今まで自分を支えてくれていたものが、たちまち崩れていってしまう気がしたから。
(俺が本当に望んだ世界は、こんな世界じゃない)
 自分のことなんてどうでもよかった。ただ俺は、誠を元の日常に返したかった。それだけを思ってあの時、泉まで駆けて行ったんだ。
「ほんとに、なんなんだよ……」
 でもここには、本来居るべきはずの誠が居ない。
 胸にぽっかりと空いた穴は、塞ごうとしても未だ雨漏りを続けている。晴れ渡っている空とは裏腹に、胸の中はあの夜のような鉛色の空がずっと続いていていた。
「行くか」
 ずっとここにいてもしょうがない。母さんからは散策でもして来いと言われていたけど、流石に遅すぎると心配をかける。
 そう思ってお使いのメモを取り出すと、あまりにも軽いポケットに違和感を感じて指を突っ込んだ。
「……ない」
(財布、家に置いてきたままだ)
 お使いを頼まれたのに、財布を忘れるなんてバカがどこにいるか。
 やってしまったと深いため息を吐く。そういえば屋台に行った時も、財布を家に忘れていたことをふと思い出す。
 俺は立て掛けてあった段ボールを手に持って、メモをポケットの中へ戻した。
「しょうがない」
 来た道を戻ろうと顔を上げる。すると人通りの少ない道から、複数人の怒号が飛び交う声が耳についた。
(うわ。ここでも喧嘩あんのかよ)
 しばらくすると声は止み、バサと人の倒れていく音が次々と聞こえてくる。
「ちょっとだけ」
 何があったのか気になる。少し覗く分には、何も問題ない。
 そう思い、音のした方へ距離を縮めた。俺は、物陰に隠れてその現場を覗き見る。その瞬間、仰向けに寝転がっている制服を身につけている男と不意に視線が交わった。
「──血、切れてる」
「なんだ?喧嘩ならよそいけ」
 手をひらひら振りながら、気だるげな声で男はそっぽを向く。
 そう吐き捨てる男の頬は切れていて、赤色に流れる血は陽に反射して光っている。大の字で寝転がるそいつの周りには、気を失うまでボコボコになったの人たちが広がっている。
(前も、同じようなことがあった気がする)
 桜の花弁がはらはらと散っていくくらいの季節。俺と誠が出会った日。
 あの時も今と同じように、仰向けになった体制で空をじっと見つめていた。デジャヴのようなこの光景に俺はふと、ポケットの中に手を突っ込んだ。
 丸まった紙が指先に触れる。それを指に絡めて持ち上げると、くしゃくしゃになった複数枚でつながっている絆創膏が手の中に収まった。
 どっかの誰かが怪我ばっかりするせいで、常日頃から絆創膏を持ち歩く癖が抜けていない。
 そいつの前まで歩み寄ってしゃがみ込む。顔に、俺の影が重なった。
「え、──まこと?」
「は?何で俺の名前、」
 日差しで遮ってよく見えていなかった。それが自分の影によって、相手の顔をはっきりと捉えた。
「俺、高校行くよ」
 あの夜が明けてから、ずっと言いたかったその言葉。今まで何をしてたのか、どうして村に居なかったとか。そんな言葉よりも先に想いが溢れ出た。
 ここは俺たちが生まれ育った場所じゃない隣町。着ている制服も全然違う。でも、
(見間違えるはずがない)
 だんだんと味気なかった景色に色がつく。空いていて塞がらなかった胸の穴には、絆創膏が一枚貼られる。
 何から話そうと思ってまた口を開こうとする。そんな俺を遮って仰向けになっていた体を起こし、誠は俺を睨み上げて言った。
「誰だよ。お前」
 誠の一言に、俺は溢れそうになるほどに目を見開いた。その言葉に一瞬自分の人違いを疑う。それでも、変わらない口調や俺を真っ直ぐ見るその瞳は、俺がずっと見てきた誠そのもので。
「……そっ、か。ごめん。大切な人に似てる気がして」
(誠は、俺のことが分からない)
 誠は今も、不審な目で俺を見ている。そんな誠と顔を合わせることができなくて、俺は力ない笑みを浮かべながら視線を落とした。
「あ、これ」
 無意識に握りしめていた手の中を軽く緩める。さっきより丸まった絆創膏が、隙間から顔を出していた。
 そのうちの一枚を切り離した俺は、くしゃくしゃなそれを誠へそっと差し出た。
「絆創、膏?……なんで」
 俺は黙って誠の傷のある箇所を、自分の頬を鏡にして指でさす。それに釣られて自分の顔を拭った誠の腕は、赤い血と汗が混ざってべたりと染まった。
 どうせいつものように、俺に指摘されるまでまで気づかなかったんだろう。
「使って」
 誠の胸に絆創膏を押し付ける。それに戸惑ったような顔をしながらも、誠はおずおずとした指で、でもしっかりと絆創膏を受け取った。
 絆創膏が手に渡ったのを見て、俺は極力顔を合わせないように、誠に自分の背中を向けた。
「怪我もほどほどにしろよ。──じゃあな」
「ちょっ、おい!!」
 誠の声が、胸を揺らす。段ボールを持ち直した俺はその場から逃げ出すように、ただひたすらに走って来た道を折り返した。
 昔も今も俺の体力は全然で、少し走っただけなのにもう息が上がる。指に下げた段ボールは、足を一歩踏み出すごとに重みを増していく。
(元気だったな。あいつ)
 相変わらず怪我ばっかしてたけど最後に見た誠より、どこか生き生きとして見えた気がした。
 きっと俺がいなくたって、あいつはあいつなりの人生を送っていってる。その隣には、もう俺以外の誰かがいるんだろうか。
 俺の知らない誠が、今この時を生きている。
 それが無性に寂しくて、胸には堪え切れない気持ちが込み上げる。
「忘れてんじゃ、ねぇよ。なんで……」
 目元が熱い。
 自分の当たり前だった常識が、あの晩で何もかも変わった。
 村のみんなも母さんも、元々存在していなかったかのように誠を扱った。ようやく会えたと思った誠も、住んでる場所も生きてきた道も全部記憶と違っている。
 自分が今まで生きてきた思い出全てが作りものだと言われてるかのように。変わっていないようで、変わってしまった。
 おぼつかない足が、石につまずいて体制を崩す。その拍子に指から紐が滑り落ちて、ドサッと段ボールが土の上に転がった。
 それを拾おうと俺は、咄嗟に道を振り返って腕を伸ばす。知らないうちにだいぶ距離をとっていたようで、もう誠の姿は目に見えない。すると元々熱くなっていた目元に温度が増して、頬には一筋の涙が伝った。
「なんでだよ。意味わかん、ねぇよ」
 いくら涙を流しても、何も変わらない。そんなこと分かってる。
「あ゙ー、ダメだ。とまんねぇ」
 一度堰を切った涙は拭っても拭っても、止めどなく溢れ出てくる。それでも強い日差しのせいか、首筋まで伝った涙は後だけ残して消えていった。
 ここが、誠から離れた場所でよかった。こんな顔、あいつにだけは死んでも見られたくない。
 段ボールを拾い上げた俺は、反対の腕でもう一度ゴシゴシと目を拭う。
「帰ら、ないと」
 まだ頼まれたお使いが済んでいない。財布も家に忘れた。それに、財布関係なしでもこれ以上遅くなると母さんに余計な心配をかける。
 鼻を啜って息を一つ吐く。俺はパチンと、ダンボールを持たない手で自分の頬を思いっきり叩いた。
 片頬はヒリヒリとして、小さな熱を持つ。俺は顔を、おもむろに持ち上げた。
 熱った顔に、隣を吹き抜ける風が頬を掠めた。朝より少し高くなった太陽は、肌を刺す日差しの強さを増していく。
 俺は、誠が居る道の先を見つめた。
「──行くか」
 視線を戻して、来た道を辿って足を踏み出す。来るまでと同じ景色を眺めながら、また溢れそうになる涙を指で擦る。
 足を進めるうちに、気がつけば新しい家はもう目の前にあった。ガチャリとドアノブを右に回して、玄関のドアを後ろへ引く。
「ただい、ま」
 そう声に出した言葉は酷く掠れていた。そんな声に自分自身も少し驚く。
 熱のこもった靴を脱いで揃えていると、奥かパタパタとスリッパの音が近づいてきた。
「おかえり早かったわね。って、どうしたの?目が真っ赤じゃない」
 母さんは心配そうに俺の顔を覗き込む。それがどこか居た堪れなくて、俺は母さんから顔を背けた。
「……目に、虫が入ったんだ」
「あら、そう?」
 束ねた段ボールを結っている紐を固く握りしめる。それに気がついた母さんが声を出すより前に、俺から口を切った。
「ごめん。財布、家に忘れて」
 その言葉に見開いた母さんは、瞬間顔を綻ばせて微笑んだ。
「別にいいのよ。母さんもちょうど布団干すの終わったところの。せっかくだから、一緒に行きましょう」
 そう言った後に「アイスも食べたいわ」と呟いた母さんは、真剣な面もちで何アイスにしようか考えている。それがどこかおかしくて、俺は吹き出すように笑みを溢した。
「茂も何がいいかちゃんと考えるのよ。じゃあ母さんは財布持ってくるから」
「母さん、ちょっと待って」
 部屋へ戻ろうとした母さんの背中を、俺は咄嗟に呼び止める。
「なに?」
 俺は手に汗を握る。振り返った母さんに、裏返りそうになる喉で口を開いた。
「こ、高校なんだけど──」