この夜を終わらせるまで

「なぁ、茂」
「なに?」
「俺、坂口さんになんか手伝いないか聞いてくる。流石に貰いっぱなしじゃなんか悪いし」
 誠は立ち上がると「お前はもうちょっとゆっくりしてろ」と言って、一緒に足を立たせようとする俺に指を差した。
「なんかあったら呼ぶから」
「いや、俺も」
 誠は俺の意見も聞かずにこの部屋のドアノブに手をかける。ひらひらと手を振って見せてはガチャリとドアの奥へと姿を消していった。
(……あいつ。人の話くらい聞けっての)
 ポツンと一人残された俺は、しばらく誠が出ていったドアの先を見つめた。
 側にあったはずの温もりが、今では全く感じられない。二人だと小さく感じていたこの部屋も、俺一人だけだと無情な静けさが広がっている。
 自分の吐息とポツポツと落ちる雨音だけが響くこの空間で、俺は視線を移して窓の外を眺めた。
 相変わらず降り止まない疎雨に、視界を遮る白いもや。奥先まで何も見えないはずなのに、誰かに見張られているという感覚がする。俺はそれ以上窓の外を見るのは止めることにした。
 誠が居なくなっただけなのに、指先が勝手に震え出してきた。
 張り詰める胸にめいいっぱい空気を取り込む。するとドアの奥から──ジリジリ、ジリジリ。と、一本の着信音が微かに耳に届いた。
 その音は鳴り止まなく続いているというのに、一向に誰も受話器を取る気配がない。
 普段の俺ならきっと受け流していた。
 でも何故だろうか、
(俺が、いかなきゃ)
 そう思ってしまった身体はいうことを聞かない。
 無意識にひねったドアノブは、金属特有の冷たさを帯びている。ギシギシと軋む木板の廊下を渡るにつれ、着信音はだんだんと大きさを増していく。
 もう目の前にある受話器に惹きつけられるように手をかけると、声を振り絞って「もしもし」と声を出した。
「誰、ですか?」
『し、げる──茂。よね?この声わかるでしょ?』
「え……母、さん」
 受話器の奥から、耳馴染みがあるあの人の声がする。気のせいだと考えを振り払うも、その人の声色が本物だと胸に直接訴える。
「なんで……母、さん?」
『そうよ。あなたのお母さんよ』
 電話越しで、母さんは穏やかに笑う。
『今坂口さんのお宅にお邪魔してるのでしょう?あら、誠くんは今いないのね』
「え。なんで、それ」
 常夜祭が始まってから一度も顔を合わせていない。それに、昨晩は家に帰ってすらいない。
『ねぇ、茂。お家に帰ってらっしゃい』
「……え?今、なんて」
『──お家に帰っておいで』
(家に帰るって、今から?)
 突然の言葉に思わず立ち尽くしながら受話器を握りしめる俺は当惑を隠せない。そんな俺のことなど放って、母さんはつらつらと言葉を並べた。
『茂は何も心配いらないわ。茂が帰ってきて次目が覚める時がもしきたのなら、きっといつも通りの日常に戻っているはずよ』
「いや、母さん。俺──」
『あら、聞こえなかったのかしら』
 受話器の奥から母さんの笑い声がケタケタと耳に響く。鼓膜の奥へへばりつくその声は、徐々に薄れて消えていく。
『帰ってきなさい』
 ただ一言、音がなくなった電話の向こうで母さんはそう言った。
(俺、何してるんだっけ)
 せめぎ合っていた思考が、ゆるりと落ちてモヤがかかる。
 母さんが、母さんが俺を呼んでる。
 俺はまた迷惑をかけるのか。あの時みたいに昨日も、今も。
 電話越しの母さんは今もなお笑い声が途切れずに続いている。でも、俺は知ってる。
 その笑顔は化粧みたいに塗り固められた顔の裏で、本当の母さんはまた俺のせいで泣いているんじゃないか。
 笑顔にしたかったはずなのに、俺は。俺が逃げたから。
 ごめん、ごめん母さん。
「──母さ」
「しげ、る──おい、茂!!」
「へ……ま、こと?」
 声に駆られてゆっくりと顔を持ち上げる。耳の奥で響いていた母さんの声が徐々に薄れ、視界がクリアになっていく。
 そこには焦ったような表情をした誠が、俺の腕を掴んで名を呼んでいた。
「お前、何してんだよ!」
「誠?どうしたんだ?」
「どうしたんじゃねぇよ。急に居なくなったらびびんだろうが!」
 そう言う誠は、俺の腕を握る力を強める。息を吐くように小さく「心配させんなよ」と呟やくと、腕に込められる手の力が途端にふっと和らいだ。
「なんでこんなとこ居んだよ」
「だって電話が、部屋からずっと着信音が響いてて、誰も取らないからそれで」
「は、お前。何言ってんの?」
 誠は眉をひそめて俺を見た。
「──電話なんて鳴ってたか?」
「……え?」
 手に持っている受話器に視線を落とす。
 ──母さん?
「母さん、あの!……母、さん?」
 受話器を強く押し当てると、母さんの声を拾おうと耳を傾ける。でも、音が微塵も聞こえてこない。
 突如、ピーと頭を割る電子音が鼓膜を刺した。
 あまりの音の大きさに手を滑らせると、床へぶら下がった受話器から「帰って、きなさい。し、げる……」と、音の割れた母さんの声が繰り返し廊下に響き渡る。
「なんだよ、これ」
 喉が動かずその場に立ちすくむ俺に、隣で立っていた誠はそれを取り上げる。
 次の瞬間受話器をもとの位置に戻した誠は、再び俺の腕を強く握って引いた。 
「ちょっ、誠?!」
「なんだよ、今の。だめだ──ここに居ちゃダメだ」
 そう呟く誠の手は、ドアノブを握った時に感じた金属のように酷く冷たい。
 俺と受話器との距離が開いていく。力強く引かれる腕と反対方向へ腕を引いた俺は、誠に「まって」と小さく声をかけた。
「母さんが、本当に母さんだったんだ。家に、家に帰らなくちゃ……帰らないと」
 弱々しく廊下に溶けていく自分の声。
 誠はそんな俺に痺れを切らしたかのように言った。
「誰がお前を帰らせるかよ。今家に帰って何になんだってんだよ。さっきのお前の母さんの声聞かなかったのか?あれは、──お前の母さんじゃない」
 目を丸くして瞬きをする。
("あれは、──お前の母さんじゃない"?)
 いや、そんなはずが。だって確かに母さんから電話が来て、それで。
 頭の中がバラバラで汚い部屋のように散乱している。それでも、受話器越しで笑っていた母さんの声がこびりついて俺の耳を離さない。
「だって──」
 あれは、記憶の中にいる母さんの声だった。
 口を紡いで右手のひらを覗く。ずっしりとした、あの受話器の感覚が今も重くのしかかっている。
 カタカタと揺れる身体を縮こませるように俯くと、誠の手はそっと腕を離して俺の右手を取った。
「震えてんぞ。こうすればちょっとはマシになるだろ」
 そう言う誠の手からは、じんわりとほのかな温もりが広がっていく。それでも小刻みに震えているその誠の背中に、俺は「わるい」と小さく呟いた。
(誠も、震えてるくせに)
 前からそうだ。見栄張って強がってばっかり。
「あっち行くぞ。茂の母さんのことも、坂口さんに聞けばなにか分かるかもしれない」
 俺はその言葉に静かに頷くと、止まっていた足を動かした。
 板の軋む二人分の足音は、渡り廊下に長く響く。目の前にあるポツンと明るい光を目指して足を進めると途端、ガゴンと何かが落ちた音と共に前を歩いていた誠が突然動きを止めた。
「……誠?どうし」
「ここから離れる」
「は?急になに言って」
 誠は強く、今と反対方向の出口に向かって俺の手を引いた。
(なんなんだよ)
 坂口さんのところへ行くって言っておいて、ここから離れるなんて全く意味がわからない。
 もう一度誠の名を呼んでも、こいつは何かに駆られたように動く足を止めない。
「おい、誠。なにが──」
「おや、キミたちどうしたんだい?玄関なんかに向かっちゃって。話してごらんなさい」
「え、」
(……気づかなかった)
 後ろへ振り向くとそこには、音もなく現れた坂口さんが穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
 誠は一歩前へ出て、俺と坂口さんの間に割って入って距離を取る。
「すみません。やっぱり俺たちここに居られません」
「なにを言っているんだい?ここに居ていいと言ったじゃないか。それに誠くんは私の提案に乗り気だっただろう?ほら、今は夕飯の仕込みをしているんだよ」
 そう言って坂口さんは奥の厨房を指差して口を開く。
「キミたちのためを思って作ったんだ。食べてもらわないと私が困るんだよ。ほら、──おいで」
 腕を広げた坂口さんは目を細める。
 鋭く突き刺さすようなその目。その視線に、咄嗟に身体が動いた俺は、瞬間的に誠と目が交わった。
(あれは──)
 あの目は、獲物を穫る動物の目だ。
「誠」
「分かってる。──行くぞ」
 その言葉を掛け声に、俺と誠は振り返ることなく駆け出した。
「残念だなぁ、もうすぐだったのに。料理が冷めてしまうよ。……あーあ。ばれ、ちゃったぁ」
 坂口さんの口から吐き出される言葉が、ノイズをもって耳に届く。途端、ドサッという音に背後を振り返ると坂口さんが糸が切れたかのように静かに横たわっていた。
「坂口、さん?」
「っ、──しげる!」
 足元が一瞬ためらった俺に、誠は俺の名を大声で叫ぶ。
「坂口さんは大丈夫だから、今はこっちに集中しろ!!」
 その声に、俺は唇を噛んでもう目の前にある玄関を潜り抜けた。
 空の下に出た俺たちにふわっとした風が横を吹き抜ける。半開きになった後ろの玄関を勢いよく閉ざすと、ドアに背をつけた誠がその場にへたり込んだ。
「茂。俺たち二人だけだ……」
 誠の肩が、不規則に小刻みに揺れている。
(雨、止んでたんだな)
 今朝は降っていたのに、今は雨粒一つさえ残っていない。ただ吹く風だけが、木々を大きく揺らしている。
(まただ)
 また、誠を危険な目に巻き込んだ。一度ではなく二度も。
 あの時坂口さんと会った時に違和感に確信を持っていたら、俺がもっとちゃんとしていれば、誠をこんな目に遭わせることはなかった。
 胸は張り詰めるばかりでドクドクと脈を打ち鳴らす。無意識に強く握りしめていた手の中は、氷のようにひどく冷たい。
「……ごめん」
「だから、なんでお前が謝んだよ」
 それでも、その言葉以外なにを言えばいいのか分からない。
 誠だけでなく、村全体を巻き込んだ。誠はなんでって言うけど、これは俺が犯してしまった結果だ。
「誠。行こう」
 俺は繋いでいた左手をそっと引いた。ゆっくりとその場を立ち上がった誠は、「ああ」と言って小さく頷く。
 俺たちは、静かに足を動かした。
 ほのかに香る味噌汁に、炊き立てのご飯の匂いが目に染みる。それでももう振り返ることはできないその香りを背に、俺と誠は朝来た道を戻っていった。