この夜を終わらせるまで

 揺れるカーテンの隙間から差し込む陽が、窓ガラスを通して教室に届く。部屋全体を染める茜色は、二人の学生の影を形作っている。
 紙とぶつかるシャーペンの音は、不規則なリズムを繰り返して、教室の空気を際立たせていた。
「あー、やっと終わった。誠は?」
「あと少し。てか最近課題の量多すぎね?」
 どこか遠い目をしながら「マジそれ」と返す俺は、机に散らばった筆記用具に手を伸ばして筆箱にしまう。
 なんで放課後まで残って課題をやんなくちゃなんないんだ。俺は小さくため息を吐いた。
「なー、俺ら今三年じゃん。なんで茂は高校行かねぇの?」
 シャーペンを横に走らせながら、誠は俺に何気ない素朴な疑問を投げかけた。
 誠と俺は、中学に上がって三年間もクラスを共にしてきた。誠は口に手を当てながら、大きな欠伸を一つする。
 そんな普段と変わらない誠の姿に、きっと気が緩んでしまったのだろう。膝の上で小さな拳をつくると、不意にも口から言葉を滑らせた。
「どうせ俺、──そん時いないし」
 こぼれ落ちたその声は、二人しかいない教室に、思いの外大きく響く。
 俺はハッとして咄嗟に口元を手で覆った。それに、誠はシャーペンを机に置いて紙から顔を持ち上げた。
「は、お前引っ越すの?」
「……へ?」
 思いもよらない誠の反応に、俺は「違う違う」と言いながら首を横に振る。
「じゃあ何なんだよ」
「いや、その...…。そういやこの前数学の先生がさ」
 すかさず話題を逸らそうとした俺に、誠は痺れを切らしたように息を吐いた。
「別に、お前が言いたくないならいい」
 誠は再び目線を下に戻すとシャーペンを持ち直す。カリカリと、シャー芯と紙が擦れる音が再び耳に軽く届く。
 俺は、黙って誠から視線を伏せた。程なくして止んだ音に、ふと顔を上げると誠がこちらの顔をじっと見ていたことに気がつく。 
「えっと、……なに?」
「お前さ、なんか悩んでんの?」
「……別に。ていうか課題は」
「終わった」
 誠は俺に見せつけるように、空欄が埋まった紙を持ってヒラヒラと動かす。
 全ての空欄が埋まったことを確認すると、俺は自分のプリントを持って椅子を後ろへ引いた。
「じゃ、さっさと先生に課題出し行こう」
 そう言って立ちあがろうとする俺に、誠は少し張った声で俺の名を呼んだ。
「俺にも言えねぇの?」
 そんな言葉に、俺は力なくその場に立ち上がる。
「だって、……誠は信じないだろ?」
「──は?」
 俺の一言に、誠はわずかに声を落とす。
「何でお前が俺を知ったように話すんだよ」
「だって誠だし。俺ら何年間一緒にいると思ってんだよ」
「……じゃあ言ってみろよ」
 誠は、ガタッと音を立てて椅子を引いた。目線が向かい合った誠に、俺は口をつむいで顔を背ける。すると、教室のドアがガラガラと音を立てて勢いよく開いた。
「お前らいつまで残ってんだ。明後日は祭りがあるんだからさっさと帰りなさい」
「あ、はい。すいません」
「すみません」
 先生の姿が見えなくなると、誠は自分と俺の鞄にプリントと筆箱をそれぞれしまった。その場に突っ立っている俺を横目で見つめながら、誠は机に散らばった消しカスをゴミ箱に捨てる。
 手に残るカスを払った誠は、俺に鞄を一つ差し出た。
「ほら、俺らも帰ろう」
 礼を言って鞄を受け取ると、誠は前を歩き出しながら口を開いた。
「なんか今回の祭りって大がかりだよな。明後日だからって、その準備のためだけに明日は学校ねぇし。しかも、って──茂?」
「あぁ、……何でもない。確かに今回の祭りは大袈裟だよな。こんな小さい田舎の村なのに」
(本当に今回は、大掛かりな祭りになりそうだ)
 無意識に下を見ながら歩いていた俺は、不意に止まった誠に気づかずドスと互いの肩がぶつかり合う。
「おい急に止まんなよ」
「なぁ、茂って明後日誕生日だろ?」
「え、まぁ……」
「明後日の祭、俺ら準備サボって遊ばねぇ?」
 あまりに唐突な提案に、俺は誠に目を見張った。
「は、何言って」
「二人ぐらい居なくっても別に支障ないだろ。それに今回の祭りって日付変わると同時に開催されんだろ?」
 廊下の窓から差す夕焼けが、誠を背後から照らす。すると、誠はニッと笑って続けた。
「俺が一番にお前の誕生日祝ってやるよ」
「──なんだよ、それ」
 俺は誠から目を逸らすと、鞄の肩紐を片手で強く握った。「意味わかんねぇ」と顔を背けながら呟く自分の口元は、どこか柔らかく緩んでしまう。
「お、なんだ俺に祝われんの泣くほど嬉しいのかよ」
「違ぇよ!!」
「はいはい、別に恥ずかしがんなくっていいよ」
 俺は「だから」と詰め寄って誠に食いかかる。誠はヘラヘラと笑ってそれを流した。
「誠ってさ、……生贄とか信じるタイプ?」
 冗談めかしく聞きてみた。その質問に、誠はしばらく悩む素振りを見せて口を開いた。
「生贄?そんなの映画の中だけだろ。迷信みたいなやつなんじゃないか?」
「そっか、そうだよな」
 靴を履いて校舎を出ると、そこからでも村全体が祭のための準備の活気で溢れかえっているのがひしひしと肌に伝わってくる。
 神輿の装飾に様々な屋台の組み立て。あまりにも大掛かりな準備に、隣の誠が息を飲むのが分かる。
 「すっげぇ」と呟きながら、そわそわした様子で辺りを見回すと、誠はたこ焼きの屋台に目を留めて指を差した。
「明日あれ食べようぜ」
 子供のようにはしゃぐ誠。そんな誠と裏腹に、微塵も心が踊らない俺は鞄を肩に掛け直した。
「誠、帰るんだろ?行くよ」
「え、あぁ。茂?」
 俺は誠の腕を引っ張ると、息を止めて何も見ないようにただ前だけを向いて足を動かした。
 途中、すれ違う村の大人の住人がこちらを振り返る。すると、一人の住人が手を振りながら駆け寄って来て俺の肩に手を置いた。
「茂くん、明日は頼んだよ。いやぁ、本当に君でよかったよ。お陰で祭りを心置きなく楽しめる」
 男は歯を剥き出しにして歪に笑った。俺が「そうですか」と適当にあしらうと、男は視線をずらして誠へ向ける。
「やぁ、君も明後日の祭りが楽しみなんだよね」
「え、あ。はい、楽しみですけど」
「誠、……早く帰ろう」
 また男がなにかを言い出すその前に、俺は誠の腕を強く引っ張る。そんな俺達の背中に、男は口元を釣り上げて手を振った。
「なぁ、あの人お前の知り合い?」
「知らない」
 俺はぶっきらぼうに、誠の問いかけに答える。
「でもお前......まぁいいよ。茂、祭りが始まる十分前に集合でどうだ?待ち合わせ場所どうする?」
「分かった、十分前でいいよ。待ち合わせ場所は、──あの山でいい?」
 俺は少し離れた山の入り口に指を差す。
「了解」
 帰る道中にある二つの分かれ道に、誠は足の方向を右へ向けた。
「じゃあな、茂。約束忘れんなよ」
「おう。──またな」
 別れ際に軽く手を振って誠の背をじっと見つめる。その後ろ姿が見えなくなると、俺は分かれ道を左に進んだ。
 夕方だからといっても、この季節の日差しはまだ暑い。細い通りに入った俺は制服の胸元を開くと、空気を入れるようにパタパタと仰ぐ。
 しばらくしてその通りを抜けると、そこにはもう随分と見慣れてしまった一軒家が佇んでいた。
 様々な種類の札の貼ってある引き戸に、あからさまな古い外装。ガラガラと鳴る引き戸を横に流すと、奥から近づいて来る一人分の足音が耳に届いた。
「……ただいま」
 靴を脱いで顔を上げると母さんは「おかえり」と、俺をエプロン姿で出迎える。
 ふわり鼻先まで漂ってきた食欲を誘う匂いに、俺は少し首を捻った。
(この匂いって親子丼、だよな)
「母さん?」
「一日早いけど、茂の誕生日祝うの今日じゃ駄目かな?」
 そう言う母さんは、どこか影のある瞳で微笑んでいる。
「全然いいよ。むしろありがとう、母さん」
「いっぱい食べてね。おかわりもあるから。それで、今日はもう早く寝ちゃいましょ」
「……そうだね」
 手を洗った俺は、荷物を置いて制服を着替える。支度が整うと、俺は母さんと向かい合せに食卓を囲んだ。
「「いただきます」」
 ジュワッと広がる肉汁に、口の中で解けるふわふわな卵とじ。そしてこの優しい味付けは、昔と変わらない母さんの味だ。
 駆け込むように口に運んでいた親子丼は、気付いたらもう半分にまで減っていた。
「あんた、昔から親子丼好きだったわよね」
 そう微笑む母さんの表情は、玄関で見たときと変わって柔らかい。
 俺もその笑みに釣られるように、口元を緩ませながら「おかわり」と、空になった丼を母さんに手渡した。
 食事を囲むこの空間は、母さんの優しい味付けのように温かく、そしてふんわりと俺の胸を柔らかく包む。
「茂、──母さんのところに来てくれてありがとう」







「っ、まぶしい」
 太陽の光に目を細めながら、しばしばとした目を指で擦る。凝り固まった体を捻って伸びをすると、俺はゆっくりと体を起こしてボーッと部屋を眺めた。
 小学生の時にかけっこで一番になった時に貰った紙のメダルに、昔駄々を捏ねて母さんに買ってもらったボロいサッカーボール。
(そういえばこの家に来る前の俺は危なっかしいやんちゃな奴だったよな)
 そんなことを思い返しながら俺は布団から足を出す。無地のTシャツの袖に腕を通すと、奥からピーンポーンとチャイムの音が耳に届いた。
 着替えを済ませた俺は自室の扉に手を掛ける。すると奥から「しげるー。お客さん来てるわよ」と、母さんの声がした。
 気だるげな足を前へ進めて玄関へ向かう。すると、最近シワが深くなった白髪頭の村長が俺のことを出迎えた。
「いい夢は見れたかい、茂くん。いやぁ、今日は実にいい天気だ。きっとあのお方が、明日という日を待ち望んでいらっしゃるのだろう」
 そう声を上げて笑う爺さんに、俺は少し苛立ちを感じながらも合わせるように口角を上げて「そうですね」と答える。
 すると爺さんは満足したように俺の手を取りながら身体を一瞥した。
「よし、今日も体調に変わりはないな。午後からは屋台も出始める。何か美味しいものでも食べてきなさい。」
 爺さんは俺の手をパッと離すと、上機嫌に玄関の引き戸に手をかけた。
「では、──また夜に」
 ガラガラと閉まる扉の先をを睨みつけながら、俺はその場に立ち尽くす。
 俺は、壁に拳を押し当てた。
 ドンという音と同時に、腕には鈍い痛みが走る。小さく舌を打ち鳴らすと、俺は乱暴に足を靴に通した。
 台所の奥からは、ドンと鳴った音の正体を確かめに母さんが駆けてきた。手をかけすでに半分玄関扉を開いている俺を見つけると、母さんは少し焦りの滲んだ声で言った。
「茂、早く帰ってくるのよ」
「分かってる。……行ってきます」
 母さんは玄関を出ようとしている俺に何か言いたげな口をした後、「──いってらっしゃい」と影のある笑みを浮かべて送り出した。
 空を見上げるとあの爺さんが言っていたように空は高く晴れ渡っていて、嫌なくらいに日差しが目につく。
 一瞬帽子が頭によぎったが、もう一度家に戻るのはちょっと気まずい。  
 俺は村の大通りに繋がる細い通りを浮かない足取りで進める。段々と前へ進むにつれ、人々の賑わいの声が大きくなっていった。
 昼近くに起きたせいか、通りを抜けた時にはもう沢山の村人で溢れかえっている。誰もが今か今かと屋台が始まるのを心待ちにしているようだ。
「ママー、あの綿飴食べたい!」
「はいはい。お店が始まったら一番最初に食べに行こうね」
 周りを見渡すとふと、近くから親子の会話が耳に入った。そんな微笑ましいやり取りに、思わず口元がわずかに緩む。
(俺も綿飴好きだったよな)
 そういえばここ数年間、一度も綿飴を口にしていない。
 屋台が開いたら俺も最初にそれを食べようと、ポケットに手を突っ込む。
「あれ?」
 反対側のポケットも確かめるけど、どちっちもスカスカで何も指に掠らない。
「財布、忘れた……」
 財布を忘れてしまっては、来たとしても意味がない。
 来た道を戻ろうと足を引くと、一人の屋台の商人が俺に声をかけてきた。
「おはようございます、茂さん。いやぁ、今日は晴れていてよかったですね。実にめでたい」
「……おはようございます。あの俺、財布忘れたんで家に戻りますね」
 俺はその場から逃げるように体を引き返そうとするが、商人は「ちょっと待ってくだせぇ」と俺の腕を取った。
「いやいや、何言ってるんですかい。もちろん、どの屋台でもお代は結構です。村長様にもそうご指示がありやした」
 俺は商人から掴まれた腕を振り払おうとするが、あまりにも力強い大人の手に自分の腕はびくともしない。
(どいつもこいつも)
 商人に聞こえないように小さく息を吐く。
「……分かりました。ですので腕、離してもらえませんか?」
「おっと、これはすいやせん」
 商人は申し訳なさそうに腕を解放すると、俺に一礼をして自分の屋台へ戻って行った。
 無意識に入れていた肩の力を抜くと、四方八方から注がれいた視線を肌で感じとった。それに思わず足をすくませると、その視線は次第にパラパラと減っていく。
(なるほどな)
 俺たちのやり取りが見られていたのか。
 ふと空を見上げると、いつの間にかに太陽は真上に差し掛かっていた。
「……はじまる」
 村中に一本の放送が響き渡った。

『ただいまから、常夜祭り前の余興を始めます。屋台で心も腹もいっぱいに満たしてください。皆さま、心からこの常夜祭を楽しみましょう』

 放送が鳴り止むと同時に、周りからは歓声が引き起こされる。屋台のおじさん達の客を引き寄せる声に、笑っている村人たちの楽しそうな賑わいぶり。
 そんな住人たちの様子をぼうっと眺めていたら、俺は一人の女の人と目が合った。
 確か、あの女子はクラスメイトの。関わったことがあまりないからか、名前がなかなか思い出せない。
「おー、茂くんも来てたんだね。賑わってるよねー。ほんと常夜祭ってなんのための祭りなんだろ」
 そう言う彼女はた湯気が立っているたこ焼きを美味しそうに頬張る。
「なんか知ってる?」
 口をもごもごさせながら首を傾げる彼女に、俺は笑って「俺も分かんない」と首を振った。 
「ゆみー。お待たせ」
「あ、やっと来た。じゃあまたね茂くん」
 彼女は友人の元へ駆け寄ると俺に手を振ってその場を去っていった。
 気を持ち直すように自分も足を動かすと、目的としていた綿飴の屋台に顔を出した。
「茂くんだね。ほら、大きいのをどうぞ」
 俺の顔を見た店主はにこやかに笑みをつくって、あの商人が言っていたように本当に無料で綿飴を差し出した。
 その綿飴を掴もうと一瞬手を伸ばしたが、俺はその腕をすぐ後ろへ引っ込めた。
「あの、すいません。家に財布を忘れました。家に一回帰るので、そこでお代もしっかり払います」
 俺は店主に向かって頭を下げる。すると店主は慌てたように、引っ込めた俺の手を掴んで力ずくに綿飴を押し付けた。
「何を言っていらっしゃるんですか。貴方のようなお方からお代をいただく訳がないでしょう」
 そのあまりの必死さに、俺は胸の奥で皮肉に笑った。
(俺は、神かなんかかよ)
 圧に押されて仕方なくその綿飴を掴むと、店主は目に見えるようにホッとした顔をした。
「では、心から楽しみにしていますね。──常夜祭を」
 店主の言葉が言い終わったのをいいことに俺は、足早で屋台から距離をとった。
 しばらく離れた木陰で一息吐いた俺は、手渡された綿飴をじっと見つめる。
 正直に言って、もう綿飴を食べたい気分ではない。でも捨てるのはもったいないし、手に取ってしまったからにはしょうがない。
 そう腹を括って綿飴を口に運ぶ。瞬間、じわりと溶けて口いっぱいに甘さが広がった。
 あの頃と変わらないその味は、求めていた物のはずなのに全然美味しいとは思えなかった。
 勢いに任せてその綿飴を口の中に詰め込む。あまりの量に口溶けはあまり良くないけど、瞬く間に俺は綿飴を全て食べ切った。
 指と指を擦ると、砂糖がくっついて糸を作る。指を覆うベタベタな砂糖は、村人たちが俺を見る時の眼差しに似ている気がする。
 そんな手を今にでも洗いたくて周りを見渡すも、水に流せそうな場所は一向に見当たらない。
 俺は家へ帰ろうと体を向きをひねると、ふわりと香ばしい匂いが鼻先をくすぐった。
「──たこ焼きか」
(そういや、昨日誠がたこ焼きを食べたいって言ってたな)
 まだ、今日は一度も誠に会ってない。あいつは昨日の宣言通り、たこ焼きを食べることができたのだろうか。
「"お前の誕生日を一番に祝ってやる"、か」
 放課後に言っていた誠の言葉が脳裏によぎった。明日の常夜祭、0時の鐘が鳴るその瞬間までに誠と待ち合わせるという約束。
 空をよく見ると、屋台の放送があった時よりもわずかに陽は傾いている。近くの公園まで行き時計を見つけると、時刻は午後二時を示していた。
(常夜祭の鐘が鳴るまで、残り十時間)
 俺はしばらく針の先を見つめると、パッと視線を戻して足を帰路に戻した。
 村の子ども達は、今も楽しそうに屋台を回っていた。
 りんご飴を頬張っている子。
 面を買ってもらってはしゃぐ子ども。
 かつての自分を無意識に重ねる。胸の奥がチクリと痛んだ。
 唾を飲み込むと、なぜか苦いと感じた綿飴の後味。俺はベタベタとした指をそっとなぞる。
 浮き足が立っている村を横目で流しながら、重い足を動かした。
 分かれ道を左に進んで、細い通りを抜けていく。そこには、いつも通りな家がポツンと佇んでいた。
 何変わらない普段の光景に胸を撫で下ろして玄関を引く。その音が耳まで届いたのか、奥から母さんがバタバタと俺の元に駆けてきた。
「し、茂。早かったわね。せっかくの祭りなんだからもっと遅くても全然よかったのよ」
 嫌に甲高い母さんの声に、俺はそっぽを向きながら靴を揃える。
「祭りはもういい」
「っ、でも」
「いいって。俺、昼寝するから」
 重い足音を鳴らして廊下を渡る。自室まで入ると、俺は布団に身を放り投げた。
(村の連中も、──母さんも)
 今日は朝からとんだ憂鬱だ。
 俺はふと、枕元に置いてある目覚まし時計を見つめた。
「はぁー」
 夕方ごろには、あいつらがこの家にやって来る。
「……実感なんて湧くわけねぇだろ」
 明日の朝にはもう自分が居ないなんて。そんなこと、今でも考えられない。
(これが、もし全部夢だったら)
 そんなことを思いながら、俺は眠くもない瞼を固くと閉じた。




「ぅん、あれ──」
 次に俺が目を覚ましたとき最初に視界に映ったのは、陽が完全に沈みきった薄暗い自室の天井だった。
「っ、今何時?!」
 乱暴に目覚まし時計を取り上げて、針の先が向いている数字を確認する。
(……二十三時、四十分?)
 目を擦ってもう一度確かめるが、針の向きは変わらない。
 時計を持つ指先が、ほんのわずかに震えだした。
 だんだんと速さが増していく鼓動を感じながら、俺は電気をつけようと立ち上がる。
 すると、足先にごわごわとした布が掠れる感触がした。
「なんだよ、これ」
 それを拾い上げると、丁寧に畳まれていたものが開いて白い着物が姿を見せた。同時にはらりと一枚の紙切れが床に落ちる。
 紙を月明かりの下まで持っていくと、二つ折りになっていたその紙切れの中身を覗いた。
 紙切れが、指からするりと滑り落ちた。掴んでいた指先から、身体に冷たさがじわじわと広がっていく。
「……俺は。っ、」
 考えるまでもなく、体が勝手に動き出す。
 隅に置かれていた色褪せたリュックを引き出して服やハンカチ、ティッシュを詰める。机の端に落ちていたお菓子や買いためていたおにぎりを、俺はありったけリュックに押し込んだ。
 部屋の扉に耳を当て研ぎ澄ます。ガヤガヤと楽しそうな複数の声に、それに便乗している母さんの声。
 足音で床が軋む音がだんだんこの部屋に近づいてきている。その音に一瞬体を強張らせると、俺は急いで部屋の電気をつけリュックを布団の中へ隠した。
「おや茂くん、お目覚めですかい」
「……さっき、目が覚めました」
「おお、そうでしたか。ではもう紙は読んでくださいましたね?祭りが始まるまで残りわずかです。またお伺いしますね」
 俺は黙ったまま目をそむける。そんな俺に、男は「では」と言い残して扉を閉めた。
 もう一度扉に耳を傾けてもう人の気配がないことを確認すると、俺は鳴り止まない心臓を服の上から押さえつける。
 昨日までは。いや、今までこんなこと一度もなかった。
「……知ってた、はずなのに」
 時計に目を配った。残りは、たったのわずか十五分。
 俯いていた顔を、持ち上げた。
(──今しかない)
 荷物を詰めたリュックの紐を片肩にかける。音の鳴らないよう、少しずつ窓を開いていった。
 右にも左にも、人影はない。横を吹き抜ける生ぬるい風は俺の頬を撫でいく。
 学校の上履きに足を通すと、一つの音も立てないようにそっと窓の淵に足をかけた。
 片足づつ地面に足をつける。
 後もう片方も下ろそうとすると不意に、淵に反対側の足が引っかかった。
「ぅ、わ──」
 あんなに気をつけていたはずなのに。もう目の前にある地面に咄嗟に受け身をとると、どさりと鈍い音が落ちた。
「おい、なんだ今の音は」
 遠くから聞こえた困惑の声に、俺は下敷きになった腕を摩りながら急いで体を持ち上げる。
 即座に近くにあった木の影に身を縮こませると、突如自室の扉が勢いよく開いた。
「──居ない。茂の姿がありません!!」
 一人の男がそう叫ぶ。俺はそんな叫びと同時にその場を駆け出した。
 後ろから響く大人たちの怒号に背を向けて、息を潜めるように。大通りに繋がる細道出ても誰にも見つからないように、人の目をかいくぐっては胸が苦しくなるほど足の力を振り絞る。
 ただ俺は、誠と約束した山のふもとを目指して足を動かし続けた。
 村の灯りから遠ざかり、景色は雑木林に変わっていく。
 木々の隙間から溢れる月明かりをもとに道を進むと、遠くに見える一つの影に足が止まった。
「──まこと?」
「あ、茂!こっちこっち」
 俺に気づいた誠は、俺に向かって大きく手を振る。そんな誠の元へ駆け寄りながら、俺は胸に手を当てて荒れた息を整えた。
「わるい。待たせた」
「いいって。お、もう鳴んじゃん」
「……え、」
 誠は腕時計の秒針に指を立てる。
 その瞬間、大きな鐘の音がカーンカーンと繰り返し頭に響き渡った。
(──はじ、まったのか?)
「茂。やっと始まったな」
 顔から、一気に血の気が引いていくのが分かる。
「どうかしたのか?」
 誠の呼びかけに反応できない。その時、
 ポツリと、一滴の雨が手の甲に落ちた。空を見上げた瞬間、村の奥から霧が薄っすらと姿を現す。
「うわ、雨降ってきた。おい茂!早く雨宿りしねぇと、って──茂?」
 こうなるって、知っていた筈なのに。
「だめだ、駄目だったのに。知ってたのに、俺」
(なんで直前になって、俺は家を抜け出した?)
 村の人も母さんも、皆んなこの祭りを楽しみしていたのに。俺が、俺が急に嫌だなんてこと思ったから……
 考えがどんどん頭に降り積もっていくほど、俺の中にある罪悪感はどんどん膨れ上がっていく。
(──俺が、)
 背筋がゾッとして体が強張る。足がすくんで震え出す。すると突然、肩が思いっきり揺さぶられた。
「茂!!おい、お前どうしたんだよ」
「っ、──え?」
 意識せず下を向いていた顔を持ち上げると、どこか心配そうに俺をを見ている誠と目が重なった。
「お前、さっきっから呼んでんのに全然反応なかったんだぞ。熱でもあんのか?」
「いや、あったらこんなとこ来るわけないじゃん」
 俺は肩に置かれた誠の手を払い除ける。そんな俺に、誠は「いつもの茂だ」とヘラっと笑った。
「どっか雨宿りしようぜ。風邪ひく」
「あぁ。……そうだな」
 今この状況であれこれ考えても仕方がない。 
 後で、村に降りたら謝ろう。
 母さんにも、村長や村の人にも。
(それで、俺は──)
「行くか」
 俺たちは雨から逃げるように、少し駆け足で雑木林を抜けた。
 だんだんと村の灯りが近くなる。そのはずなのに、賑わっているはずの村からは声が一切聞こえなてこない。
 そのことに違和感を覚えた一瞬、青い一筋の光が目を横切った。
(気のせい、か?)
 横を見ても後ろへ振り返っても、あるのは見慣れた景色だけ。
「ん、どうした?」
「いや、──なんでもない」
 俺はそっと視線を戻して、前を進む誠と肩を並べる。
「誠、なんか静かすぎないか?」
「え、俺が?」
「ちげぇよ。……村が」
 その一言で誠も違和感を感じ取ったのか、村を見る目がわずかに細まる。
「確かに。誰の声も聞こえない」
「だよな」
 生ぬるい風に乗って、湿った土の香りが鼻につく。肌に張り付いてくる服が鬱陶しい。
 村へ向かう足の速さを緩める。俺たちはそこら辺の茂みに身を隠して、村の様子を覗き込んだ。
「茂。あれ、八百屋の」
 誠が差す指の先を見ると、そこには近所で親しみのある八百屋の田丸さんが立っている。
 しかし立ち振る舞いはどこかおぼつかなく、下を俯いて何かを繰り返し呟いている。
 いつもと様子がおかしい田丸さんに思わず、俺は茂みから足を一歩踏み出した。
「……の、──のために」
「田丸、さん?」
 俺の声に反応したのか、田丸さんは肩を揺らす。そして、俺たちに向かってゆっくりと顔を上げた。
 街灯に反射して見えたその瞳は、光を失ったように色が乗っていなかった。
「──のために。常夜様のために、生贄を……!」
 田丸さんは突然そう叫び出すと、俺に向かって勢いよく腕を伸ばす。
「うわっ!!──って、誠?!」
 誠は俺の腕を強く引く。そのまま誠は俺の腕を引いてこの場を駆け出した。田丸さんの気配が、後ろでだんだんと小さくなっていく。
 一度後ろへ振り返ると、俺は田丸さんと目線が不意に交わった。
「"み〜つけたぁ"」
 そう、乾いた言葉が遠くから風に乗って微かに耳に届いた。田丸さんは口元に歪な弧を描いて、俺たちの背中に手を振った。
「なんだよ、なんなんだよあいつ。あれは違う。いつもの田丸さんじゃない。──なにがどうなってんだよ!!」
 荒い息と一緒に誠の言葉が重く響く。
「他にも、居たんだ。暗くて見えにくかったけど、田丸さんだけじゃない。他の奴らも、なんか違う」
 そう途切れ途切れに言葉を繋げる誠は、俺の腕を掴んで離さない。力強く握られた腕からは、誠の手のひらの冷たさが広がっていく。
 誠に声をかけるが、聞こえていないのか俺の呼びかけに反応がない。
「まこと、誠!!」
「っ……なんだよ?!」
 ついに足が止まった誠は、勢いよく俺の方へ振り返る。
「お前、一旦落ち着けよ」
「はぁ?この状況でどこが落ち着いてられるって言うんだよ。お前も見ただろ!!あんなの、──普通じゃない」
 震えがだんだんと増していく誠の手が、自分の腕に伝わってくる。
「誠、一旦雨宿りしよう。このままじゃ本当に風邪ひく」
「雨宿りする場所なんて、どこにあんだよ」
 誠の声が、雨音によってかき消される。
 俺は掴まれていない反対の腕を動かして、誠の冷たい手を取った。
「俺いい場所知ってるから。──付いてきて」