「……ドン」
 何も、起こらない。
 もう、
 気がふれそうだ。
 恐怖と緊張で、
 呼吸だけが、
 勝手に、続いていた。
 服を着る。
 ドライヤーをかける。
 ふらふらと、家を出る。
 マンションの玄関で、力が抜けた。
 たまたま通りかかった男が、抱きとめる。
「タバコを、ください」
「俺ので、いいのか」
 火を、つけてもらう。
 女は、タバコを吸ったことがない。
 むせる。
 また、むせる。
 吐く。
 男は、
 姫抱きにして、
 マンションのベンチまで運ぶ。
 そこで、休ませた。
 女が、目を覚ます。
 ベンチの冷たさが、背中に返ってきた。
 キャップの外れた、水のペットボトルがある。
 少し、減っている。
 管理人が、男と話をしていた。
 管理人は、
 その男が、信頼できる探偵だと告げる。
「何が、あった」
 二人は、
 心配そうに、
 女の話を待った。
 女は、
 こんな明け方に、
 人生のすべてを語るように、話し始めた。
 誘導は、しない。
 起きたことだけが、
 口から、出てくる。
 冷蔵庫の、ビールの位置。
 洗面台の、手のあと。
 郵便受けの、ラブレター。
 靴。
 お風呂場の、音。
 位置情報の、ズレ。
 探偵は、途中で遮らない。
 相づちも、ほとんど、打たない。
 話が終わると、
 少し、間があった。
「……まずな」
 静かな声だった。
「今の話を聞いて、
 俺は、侵入を疑ってない」
 心臓が、ひとつ、大きく鳴る。
「え……?」
「理由は、単純だ。
 侵入者は、痕を残す。
 たぶん、あんたの部屋は、残ってない」
 探偵は、淡々と続ける。
「電球の交換。
 寄りかかった、手の跡。
 全部、生活の延長だ」
「この間、電球を交換しまし、た」
「でも……」
「ビールが……」
「クレープとか、ケーキだろ」
 言い当てられ、
 言葉が、詰まる。
「潰れないように、
 よけたんだろうよ」
 否定できない。
 説明の、つく音だった。
「お風呂の音は?」
「湯があふれて、
 シャンプーのボトルが倒れた。
 音の高さも、重さも、説明がつく」
 探偵は、軽く息を吐く。
「それに、
 電気を点けようとして、
 手が震えて、換気扇まで押したんだろ」
「換気扇の風の流れが、
 余計に、怖さを煽った」
「GPSのズレも、
 このマンションじゃ、珍しくない。
 コンクリ、分厚いだろ」
「……知っていました」
「知ってた。
 でも、冷静じゃなかった」
 探偵は、少しだけ、うなずく。
「ラブレターは?」
「それは、あとで俺が確認する」
 声に、わずかに笑いが混じる。
「もし本物なら、
 不器用で、誠実な男だ」
 女は、唇を噛む。
「靴は?」
「新品の、パンプスだろ」
 即答だった。
「下ろしたての靴はな、
 人は、揃える。
 無意識で」
「揃えない癖がある人ほど、
 最初だけ、揃える」
 言葉が、静かに刺さる。
 女は、息を飲む。
「……全部、
 勘違いだったんですね」
「全部じゃない」
 探偵は、少し、間を置いた。
「不安を、
 ひとりで抱えたのが、間違いだ」
 責める響きは、ない。
「人はな、
 説明がつかないと、怖くなる」
「怖くなると、
 説明を探す」
「で、
 一番、悪い線を引く」
 女は、目を閉じた。
 やがて、視線が、地面に落ちる。
 指先が、無意識に擦れ合う。
「思い出しました。……あの、レシートも」
 声が、少し遅れて、形になる。
「同僚が、
 使っているボールペンが、
 すごく、可愛くて」
 一度、息を吸う。
「今度見かけたら、
 買ってきてほしいと、
 お願いして」
 言葉が、ゆっくり、ほどけていく。
「後日、
 買ってきてくれて」
「お金を渡して」
「……そのとき、
 ボールペンと一緒に、
 レシートも、受け取ったんです」
 探偵は、口を挟まない。
「引き出しの中も……」
「仲のいい人がいて」
「消しゴムとか、
 ペンとか」
「勝手に借りて、
 あとで、
『ごめん、借りた』って
 言われることが、
 あるんです」
 言い終えて、
 女は、小さく息を吐く。
「それなのに……」
「全部、
 知らない誰かの痕みたいに、
 見えてしまって」
 探偵は、静かに言った。
「冷静なら、
 判断できた」
 それだけだった。
「部屋は、調べる。
 盗聴器も、
 カメラも、
 全部な」
 胸の奥が、
 ゆっくり、緩む。
「……お願いします」
「鍵も、替える」
 黙っていた管理人が、口を開いた。
「明日、
 交換に伺いますよ」
「世話焼きの、おっさんだからな。
 喜んで、やるさ」
 少しだけ、
 笑った気配。
「今日は、もう寝ろ」
「お風呂も、入るな。
 水、飲んで、横になれ」
「……眠れないかも、
 しれません」
「それでも、横になれ。
 目を閉じてりゃ、十分だ」
 部屋の中まで、送る。
 部屋は、
 変わっていない。
 なのに、
 世界の輪郭が、
 はっきりしている。
 怖さは、
 消えていない。
 ただ、
 理解できる場所に、戻った。
 そして、
 女は、きちんと、深く眠った。
 探偵は、
 約束の時間より、
 少し早く、やって来た。
 エレベーターを降りる、
 足音が、落ち着いている。
「こんにちは」
 それだけで、
 この人に頼んでよかったと、分かる声だった。
 部屋に入り、靴を脱ぐ。
 無造作だが、音がしない。
「じゃ、
 見せてもらうかな」
 探偵は、
 リビングから順に、確認する。
 コンセント。
 換気口。
 照明。
 棚の裏。
 クローゼット。
 無駄な、動きがない。
「……ないな」
 風呂場。
 トイレ。
 寝室。
「全部、白」
「盗聴器も、
 カメラも、
 仕掛けた形跡も、ない」
 胸の奥が、
 また、ゆっくり緩む。
 管理人が、やって来る。
「いやぁ、
 心配かけちゃってね」
 鍵は、
 その場で、
 最新式に交換された。
 説明も、丁寧で、
 作業も、早い。
 探偵は、
 腕を組んで、見ている。
 この人、
 普通だ。
 それが、
 一番の、安心材料だった。
 帰り際、
 探偵は、玄関で立ち止まる。
「ひとつだけ、覚えとけ」
 振り返る。
「怖くなったら、
 誰かに、話す」
 それだけだ。
「頭の中で考え続けると、
 人は、必ず、悪い方へ行く」
 ドアが、閉まる。
 静かだった。
 後日、
 探偵は、外で、
 例のラブレターの男を確認したのち、
 再訪し、報告した。
 差出人は、
 近くの会社に勤める、若い男だった。
 通勤時間が、
 たまたま、重なっていただけ。
 それ以上の、意味はない。
 本当に、
 誠実な、一目惚れだった。
「悪い男じゃない」
 探偵は、そう言った。
「距離の、測り方を、
 知らなかっただけだ」
 靴に手をかけたまま、
 探偵は、ふと思い出したように言った。
「こんど、また何かあったら、
 あそこの駅前の事務所に来い。
 珈琲くらいは、出せる」
 女は、少しだけ、驚いた顔をして、
 それから、照れたように、目を伏せた。
「はい、ありがとうございます」
 女は、今も、
 そこで、暮らしている。
 翌朝。
 玄関で、靴を履く。
 新しい、パンプス。
 左右は、揃っている。
 でも、今日は、気にしない。
 外に出ると、
 空気が、冷たい。
 怖かった記憶は、
 消えない。
 だが、
 それはもう、
 そこに、留まらない。
 説明がつく恐怖は、
 恐怖では、なくなる。