身支度をして、仕事に向かう。
 何も、確かめずに。
 鍵を閉める。
 ノブを回す。
 もう一度、回す。
 金属の感触が指先に残るまで確かめてから、背を向けた。
 駅までの道を、ほとんど覚えていない。
 信号を渡った記憶も、人とすれ違った感触もない。
 気づくと、改札の前に立っていた。
 会社の建物は、少し遠くにあるように見えた。
 エレベーターに乗り、フロアを歩く。
 いつもと同じ床。
 それなのに、身体だけが、わずかに遅れて動いている。
 席に着き、パソコンを立ち上げる。
 起動音が、大きく響いた。
 メールを読み、返事を書く。
 数字を打ち込み、表を整える。
 手は止まらない。
 その間、頭の奥で、冷蔵庫の低い音が続いていた。
 場所が違う一本の缶。
 画面を見る。
 一行読み、もう一度、同じ行を見る。
 文字が、うまく定着しない。
 午前中の会議。
 資料をめくる。
 自分の順番が来る。
 声は、いつも通りに出ていた。
 周囲の反応も、変わらない。
 異常はない。
 そのことが、気にかかった。
 昼前、引き出しを開ける。
 ペンを取ろうとして、手が止まる。
 位置が違っていた。
 右側にまとめていたペンが、少し散らかっている。
 消しゴムは奥に押し込まれ、クリップの箱が手前にある。
 ほんの少しの違いだ。
 説明できないほどではない。
 共有の引き出しでもない。
 触ったのは、自分だと考える。
 だが、その自分が、いつの自分なのか分からなかった。
 昼休み。
 食欲はない。
 それでも、何かを口に入れないと、身体が持たない気がした。
 スマートフォンを見る。
 無意識に歩数の画面を開きかけ、閉じる。
 見なければ、増えない。
 そう思う。
 午後、時間の感覚が曖昧になる。
 時計を見るたび、思っていたより進んでいない。
 仕事が終わる。
 ミスはない。
 叱責もない。
 それでも、胸の奥に、重さだけが残った。
 会社を出ると、足が自然と速くなる。
 理由は分からない。
 立ち止まりたくなかった。
 電車に乗る。
 吊り革につかまる。
 指先が、少し冷たい。
 バッグを膝に置き、ファスナーを開ける。
 中身を確かめるつもりはなかった。
 だが、指に紙の感触が触れる。
 引き抜く。
 レシートだった。
 白く、細長い。
 折り目が、はっきり残っている。
 店名を見る。
 見覚えがない。
 金額は高くない。
 内容も、現実的だ。
 だから、否定できなかった。
 財布を開く。
 現金は減っていない。
 カードも揃っている。
 スマートフォンで、決済履歴を確認する。
 履歴は、ない。
 それでも、レシートは、ここにある。
 バッグの中に。
 自分の持ち物のあいだに。
 朝から積み重なってきた違和感が、
 ひとつの形を取り始める。
 歩数。
 移動の記録。
 鏡。
 冷蔵庫。
 引き出し。
 そして、この紙切れ。
 レシートを握る。
 紙の感触が、確かにそこにあった。
 とにかく、帰らなければならない。
 理由は分からない。
 それが、使命を帯びた。