折り鶴サマの満つる刻

 ツルが初めから存在していなかった。そんなことがあり得るのだろうか。
 幼い園児たちが走り回る保育園の玄関先で、俺は壁にもたれながらまだ今朝聞いた話の衝撃を引きずっていた。
 日野曰く、俺たちの学年にツルと呼ばれている生徒はいないという。違う学年ならともかく、うちの学年は二クラス四十人程度しかおらず、転校や編入などでそういう名前の生徒が出入りしたこともないらしい。
 制服を着ていたし、屋上で何度も会っていたし、この学校の生徒だと信じて疑っていなかった。思い返せば確かに屋上以外でツルと校内で会ったことはなかったが、それはずっとコースが違うからだと勝手に思い込んでいた。塩越高校には普通コース以外に工業・商業コースがあり、そっちは校舎が違うからだ。
 だがそれも、考えてみればおかしな話だ。そもそも校舎が違うのだから、普通コースの使っている校舎の屋上に、工業コースの生徒が入り込むこと自体難しいはずだ。行き来していれば、なおさら目立つし誰かの目に留まってしまうだろう。
 急な事情で町を出たか、引っ越すかした可能性も考えた。あり得ない話ではない。だがそれでも彼が終始塩越高校の制服姿だったことが腑に落ちない。よしんば町の住人で、違う学校に通っていたとして、今度はなぜ他校の制服を着ているのかが問題になる。そもそもこの町にある高校は一つだ。ここじゃないなら、彼はどこに通っているというのか。
 振り返ってみれば、校舎の屋上では幾度となく顔を合わせていたツルだが、彼を校舎内で見かけることは結局なかった。サボりと考えると当然かもしれないが、そこまでの問題児ならやはり噂の一つや二つ、あってしかるべきだ。誰も知らないのはおかしい。
 突き詰めて考えれば考えるほど、ツルにまつわる違和感は膨れ上がる一方だ。彼は本当に実体のある人間だったのか、段々自分でも自信がなくなってきた。あまりにも辻褄が合わないことが多すぎる。
 何もかも、本人に直接問い詰められたらいいのに、肝心の本人がいないものだから、一方的にこちらがヤキモキするだけなのがまた腹立たしい。本当にどこへ行ってしまったのやら――。
「……あっ、おにいちゃん!」
 保育士の先生に連れられてやってきた光里が、俺を見つけた途端パッと顔を輝かせる。お気に入りの兎のぬいぐるみがついたナップサックを背負い、帰る準備は万端らしい。
 部活に所属していなかった俺の放課後は、いつも光里のお迎えのために保育園に向かうことから始まっていた。祖父が家にいた頃は母と交代で来ていたものだが、今では俺一人の癖として日々のルーティンに溶け込んでいる。
 妹と一緒に手をつないで帰る帰り道が、俺にとって数少ない安らぎの時間であり、同時に地獄へ逆戻りするカウントダウンでもあった。祖父が入院し、亮が家に上がり込み、何もかもが変わった。
 夕日が嫌いになった。この光が世界を照らし始めると、子どもは家に帰らなくてはならなくなる。まして光里はまだ園児で、夜まで町を出歩いていると警察に咎められる。そしてそのことを知り、亮がまた暴れる。だから嫌でも家に帰らざるを得なかった。
 当時は足を進めるたび暗澹たる気持ちだったが、母が死に、帰る家が変わり、亮から解放されたことで、皮肉にも夕日をもう一度好きになれそうだった。
 まだ少し、晴れない心内があるのは、きっと綺麗に埋まり切っていない記憶の空白が気持ち悪いからなのだろう。
 松葉杖をつきながら、光里と並んでゆっくりとホームへ帰る。折れた右足をかばいながらなのでかなりペースは遅いが、光里は速度に合わせて数歩先を行っては立ち止まり、その都度振り返って俺が追い付くのを待ってくれた。
「あし、だいじょうぶ? いたくない?」
「大丈夫。歩く分には平気だよ」
 心配そうに眉を下げながら俺の右足をじっと見つめる光里に、俺は努めて明るい声で答える。さすがに飛んだり走ったりはまだできないが、リハビリも順調で、もう一月もすれば問題ないでしょう、と医者からもお墨付きをもらっている。
「いたかったらゆってね? ひかり、もっとゆっくりあるくから!」
「ありがとう、気遣ってくれて。そのときはお願いするよ」
「……うん!」
 しっかりと力強く頷き、光里は松葉杖を避けるように数歩前へダッシュしていき、立ち止まってこちらを待つ。そして俺が追い付くとまた走り出し、少し先で再び足を止めて待つ。
「今日は手、つながなくていいの?」
 今までであれば、甘えたがりな光里は手をつなぎたいとよくせがんだものだが、今日はまだ一度もそれを言い出す気配がない。こちらから聞いてみるが、光里は一瞬ちらっと俺の右手を物欲しそうに見つめ、しかし迷いを振り切るように勢いよくかぶりを振る。
「おにいちゃんのあしがなおってからにする」
 どうやら変わらず手をつなぎたい気持ちはあるが、俺の足を配慮して我慢してくれているらしい。優しい気遣いが微笑ましく、思わず頬が緩む。
「そっか。じゃあ、早く治さないとね」
 松葉杖を握っていた右手を一度離し、光里の頭を軽く撫でる。光里は撫でられた子犬のように嬉しそうに身を委ねている。
 俺と光里は、いわゆる異父兄妹というやつではあるが、光里は半分しか血がつながっていない俺によくなついてくれた。引っ込み思案で内気な性格ではあるが、俺がいると光里がいつも笑っているのはきっと気のせいでも自惚れでもない。
 あの夜の屋上で、ツルが言っていた通りだ。光里の存在がなければ、俺は肉体に帰ることもできなかったかもしれない。この子が、俺にとって生きる理由だったから。
 一度忘却し、再び思い出したこの子を、今度こそ一人にはしない。心の中で、誰にともなくそう誓った。
 光里の通う保育園は、つぐみの家から徒歩で十五分ほどのところにある。足の怪我はあっても、そんなに時間はかからず表札が見える通りまで帰り着く。
 いつものように門扉を開けて玄関に向かおうとしたが、そこで光里がどこか一点を見つめたまま動かないことに気づいた。パチパチと瞬く黒い瞳は、家の向かい側にある公園へと向けられている。
 いつぞやツルと並んでブランコに座り、話を聞いてもらった、あの公園だ。
「光里?」
 名前を呼んでみるが、それでも光里は動こうとしない。ふと幽霊だった頃、光里には当たり前のように俺の姿が見えていたことを思い出す。
「光里、そこに誰かいるの?」
 俺を見たときのように、もしや今も光里の目には、俺には見えていない”何か”が写っているのだろうか。そう思って聞いてみたが、光里は一度だけこちらを振り返り、再び公園の方に向き直ると小さな手でどこかを指差す。
「ブランコ」
 やはり光里にしか見えない何かが公園にはいるらしい。光里の指が示す先で、ブランコが確かにかすかに前後に揺れている。
 今日の夕暮れは少し風が出ている。そのせいであると考えれば、きっとなんでもない光景なのだろう。でもなぜか、揺れ続けるブランコを見つめていると正体不明の不安が首をもたげる。
 まるで、見えない何かがこちらをそっと手招いているような。
「先に家に入ってて。兄ちゃんが見てくるから」
 そう光里を促して玄関まで送り届け、ドアが閉まるのを確認してから俺は踵を返し、公園へと向かう。
 二車線の細い道路を渡ってすぐのところにこの小規模の公園は、近くの市営団地に合わせて整備された場所で、夕方にもなれば学校帰りの子どもが遊ぶ姿を見るのも珍しくないのだが、間が悪く今日は誰もいない。
 さわさわと風に木の葉がすれる音が響く無人の公園を横切り、俺はブランコのそばまでやってくる。ギィ、ギィ、と二つあるうちのブランコの一つが、軋みながらひとりでに動いている。
 なんの偶然か、以前二人並んでここに座ったときに、ツルが腰かけた方のブランコだった。
 手を伸ばし、ブランコの鎖を掴む。その衝撃でブランコは一度だけ大きく揺れ、数秒後に止まる。当然、誰かが座っていた温もりも、人が乗っているような重みもない。
 ここに、確かにツルはいた。存在していたはずなのだ。幻だったとは信じられないし、本音を言えば信じたくない。
 だってあんなにもはっきりとそばにいてくれた。飄々としてつかみどころのないやつではあったけど、この公園で彼の言葉に救われたことも、屋上の貯水槽の下で過ごした時間も、墓地で見せた儚い笑みも、俺にとっては現実だ。幻覚なんかじゃない。
 なのに、胸の奥でくすぶるこの苦みはなんだろう。また、怖いのか? 記憶がないことに対してではなく、ツルの”不在”を認めることが。
 今度はいったい、何を失うことを恐れている――?
「……ん?」
 鎖から手を離せば、自由を取り戻したブランコが再び自重で揺れ出す。その鎖と席の隙間から、何かがコロンと地面に転がり落ちる。
 それは一羽の小さな折り鶴だった。茶色い無地の色紙で折られたシンプルなもので、奇妙な位置に挟まっていたにもかかわらず、何かに守られていたかのように汚れ一つない。
 こんなところに、折り鶴……?
 公園の遊具の隙間に挟まっているものとしては、いささか違和感が強い品だ。そもそも子どもに人気でよく利用されているブランコに、折り鶴が挟まるなんて状況が発生するのだろうか。絶対漕いでいるうちに落ちてしまうだろう。
 なら、ついさっき誰かがうっかり落としていったのだろうか。しかし光里がブランコを注視していたときから、公園には誰もいなかったはずだ。いったい誰が――。
 ふとどこかから、視線のようなものを感じた。
 勢いよく背後を振り返る。だが公園にいるのは変わらず俺一人で、他に人影もなければ人がいた気配もない。
「気の……せい?」
 本当に?
 本当にそうだろうか。
 この不可思議な折り鶴を見つけた直後だ。タイミングが良すぎやしないか。これではまるで、誰かが俺にこれを見つけるのを待っていたようではないか。
 そう思うと背筋が少しヒヤリとする。できれば、俺の行き過ぎた妄想であってもらいたいものだ。
 足をかばいながら身をかがめ、俺は折り鶴を拾い上げる。得体の知れない不気味な鶴だが、ここに放置していくのはもっと得体が知れなかった。ホームの真ん前というのもあるだろう。変なものを置いたままにはしておきたくない。
 鶴を構成する折り紙の茶色が、無性にツルのチョコレート色の瞳を彷彿とさせる。俺以上に俺のことをよく見通し、気持ちを心のうちに溜め込むことを許してくれなかった、あの穏やかな色だ。
 どうして、俺は彼のことだけ思い出せないのだろう。思い出したいと願っているのに、記憶の蓋が何かにつっかえたようにうまく開かない。
 俺の生い立ち以上に、まだ俺の過去には何かあるというのか。そこにより深くかかわっているがために、ツルは未だに忘却されたままなのだろうか。
 ――まさか、忘れたままでいる俺に、自分を思い出させようと?
 突拍子もない考えが脳裏に浮かび、慌てて振り払う。さすがに馬鹿げている。それではツルが人ではないということになってしまう。
 そんなこと、あっていいはずがない。
 だいたい回りくどい方法など取らずとも、正面から直接来ればいい。人間であれば、簡単な対話で済む話だ。人間であれば。
 無意識に力がこもった指の腹に、折り鶴の羽のとがった先端がチクリと刺さる。その痛みが、まるで現実を直視しようとしない俺を咎めているかのようだった。ポケットに手を突っ込み、折り鶴を中にすとんと落とす。
 この頃、なんだか事あるごとにツルのことばかり考えているような気がする。いつの間にこんなにも心のうちを占めるようになったのだろう。彼の方は一向に姿を現してくれないのに。
 ツルに会いたい。会って、この目で確かめたい。彼が幻じゃないことを。俺が彼にもらった時間が、夢じゃないことを
 いよいよ太陽は半分以上が海の下へと沈み、空にかかる夕焼けのヴェールも半分以上が夜空に取って代わられていく。少しずつじわじわと夜に覆われていく町の東に、帯のように連なる灰色の雲が忍び寄る。
 今夜は雨になりそうだと、他人事のように思った。