病室のベッドに座り、俺は窓から望む雲一つない青空を眺める。意識不明の重体から目を覚まして以来、毎日見続けている景色だ。
校舎の屋上から落ちたあの春先の日から、気づけば三ヶ月以上が経過していた。当時はまだ道端に桜の花が咲いていたのに、今はもうすっかり夏である。病室ではエアコンが稼働し、冷たい風を入院患者に届けている。
思い出した記憶は、いつぞやツルが言っていた通り決して楽しいものではなかった。かつてどんな劣悪な環境に置かれ、どんな生活や痛みを強いられたのか、もう一度忘れてしまいたいと思う過去まで生々しく蘇り、病み上がりの心を引き裂こうとした。
後悔が首をもたげるたびに、ツルの声が脳裏に蘇る。最後に会ったあの屋上で、俺を突き落とす直前に呟いていた言葉。
『この世に遺したものがあるうちは、心残りが消えるまで生きた方がいい。死ぬ方がずっと楽なんだから』
その意味を、俺はまだ理解できていない。それは確かに今でも忘れられないほど強くこの胸に響いた言葉だったけど、高校生の口から出るにはあまりに大人で達観すぎて、まるで悟りを開いた聖職者のようでもあった。誰が、何が、彼にこんなことを言わせるに至ったのだろう。あのチョコレート色の瞳の奥に、本当はどんな過去を抱えていたのか。
「こんにちは、千羽くん。具合はどうですか?」
病床のブースを区切るカーテンをくぐり、担当看護師の女性が顔をのぞかせる。集中治療室での治療を終えたため、今はこうして一般の患者たちと同じ病室に移ってきていた。
「特に不調はないと思います。足は、まだうまく力が入らないですけど」
「そうですよね。でも骨はしっかりくっついてきてますから、無理せずゆっくりリハビリしていきましょう」
「はい。ありがとうございます」
看護師は手際よく点滴の様子を確認し、バイタルを測りながら手元のボードに数値を書き込んでいく。それが終わるとペンを白衣のポケットに戻し、ちらとベッドテーブルの上に目を向ける。
「また、折り鶴を作ってるんですか? 手持ち無沙汰になると、いつも折ってますよね」
ベッドを跨ぐ大きめのテーブルには大小さまざまな折り鶴がランダムに転がっていた。光里が見舞いのたびにたくさんの折り紙を持ってきてくれるので、暇つぶしがてら折り続けていたらこんな量になってしまった。
「そうですね。鶴を折ってると落ち着くというか、昔から無心になりたいときの癖みたいなもので」
記憶がそこそこ戻った今、わかることだが、子どもの頃から手先が器用で物を作るのが得意だった。
和紙職人である祖父の工房にもよく入り浸り、たまに社会科見学よろしく和紙作りの体験もさせてもらっていた。図工だって好きだったし、時間さえ許せばいくらでも作品作りに没頭できたものだが、それが折り鶴を折ることに定着したのは近年だ。
「祖父が入院していた頃、見舞いのたびに一羽ずつ折って持って行ってたんです。千羽鶴みたいなつもりで、病気が治るといいなって」
「そうでしたか……。稔さんも、きっと喜んでいたと思いますよ」
「そうですかね? そうだと、いいんですけど」
結局、病気平癒の願いが叶うことはなく祖父は病没してしまったが、祖父のために折り鶴を折り続けた指に染み付いた癖は消えることのなく残り続けた。殴られた痛みを忘れたいとき、亮の怒鳴り声に耳を塞ぎたいとき、頭を空っぽにしたいとき、気づけば鶴を折ることは、俺にとって現実逃避の一種となっていた。
指先だけに意識を集中させ、何も考えずただ決められた手順の通り機械的に紙を折り、作品を完成させていく……折り紙は自分の世界にこもる手頃な手段でもあった。今でも、それでは変わらない。
「では、あとでまた巡回に来ます。具合の変化があれば、ナースコールで呼んでくださいね」
シャッとカーテンを元通り綺麗に引き直し、看護師はパタパタと軽い足音を響かせて病室から去っていった。俺は再び窓の外に目を向け、無意識に新しい折り紙を手にする。
谷折り、山折り、中割り折り。何度も繰り返してきた折り鶴作りの工程。薄い千代紙の角と角を合わせ、厚くしていきながら最後には頭を折り込み、あっという間に翼を広げた青い鶴が完成する。
祖父のために鶴を折り始めてから、ずいぶんたくさんの折り鶴を作ってきた。祖父が亡くなってからは折り紙を折る理由も変わってしまったが、作りすぎて手元を見ずとも簡単に折れるようになっていた。
鶴以外を試そうとしたこともあったが、風船は膨らませる手間があるし、動物は折っていて張り合いがなく、かといって難しいものに挑戦しても気軽のその辺に放っておけなくて作り捨てができない。結局ほどよく手に馴染み、そこそこ工程もある折り鶴が一番手頃だった。
一度はただの現実逃避に成り下がった折り鶴が、また新たな意味を持ち出そうとしている。頭を空っぽにして折っていたはずのものに、祖父ではない別の誰かの影を投影している。
あのあと、ツルはどうしただろう――?
目が覚めてから、この部屋にはいろいろな人がお見舞いに訪れた。光里やつぐみの家の職員、クラスメイトや先生方。
唯一ツルだけが、今日に至るまで一度も俺の前に現れていない。俺を屋上から落としたあと、俺の世界から忽然と姿を消してしまった。
最も気がかりな人間の姿だけが見当たらず、心にはずっと晴れない雨雲がどんよりとかかっている。屋上でツルが発した言葉の意図も、目的も、彼の本当の名前も、俺は何一つわかっていないのに。
病床の枕元にある収納棚に視線を向ける。見舞いの花や菓子が所狭しと置かれた隅に、よれたしわしわの折り鶴が一羽、居所悪そうに佇んでいた。紙袋の影に隠れて見えにくいが、片側の羽の底には赤黒い汚れがべっとりとこびりついている。
その汚れの正体が、俺が屋上から落ちたときに流した血であるとあとから知った。看護師に聞いたところ、この鶴は俺が病院に搬送されてきたとき、手の中に握りしめていたものらしい。
あの校舎の屋上には、折り鶴サマの祭壇がある。予感めいたものを覚えて、一度紙を広げて内側を確認したが、願い事は書かれていなかった。
俺もまた、折り鶴サマに何か願ったのだろうか――?
そんな仮説を思い描かずにはいられない。そうでなきゃ、わざわざ折り鶴を握りしめて落ちたりするだろうか。鶴に仮託した願いがあって、それと共に落ちたのならまだ筋が通る。
「……なんでこんな中途半端な思い出し方したんだろう」
ないものねだりのように、自分の不甲斐ない頭に不満をこぼす。生い立ちにまつわる過去は取り戻したが、俺の記憶にはまだ不完全な、それでいて重大な穴抜けが残っている。ツルにまつわる全てだ。
亮が死に、母が亡くなり、俺と光里が施設に入ったことまでは思い出せた。だがその中に、不自然なほどツルの影が見当たらない。
まるで消しゴムで消されたかのようにきれいさっぱり、俺がかねてからツルと知り合いだったという証拠がどこにもない。
今日に至るまで一度も会えずにいるのと、記憶の中でも彼の像が形を結ばないのもあって、ツルという人間はまるでこの町の名物である蜃気楼だったかのように、日に日に俺の中で現実味が薄れていこうとしている。
いっそ本当に臨死体験が見せた幻覚だったと思えれば気も楽なのだろうが、そんな風には到底思えない。だって彼と過ごした時間も、彼がかけてくれた言葉も、色褪せることなく思い出に刻まれたままだ。ARだと言い張るにしたって苦しいものがある。
気づけばツルのことを考える時間が増え、なのに彼に関係する記憶が不十分なせいで思考は堂々巡りで、いたずらに時間ばかりが経過していく。口に出して名を呼んでみれば懐かしく思えるのに、その懐かしさを裏付ける証拠がないのがもどかしく、最近ではなんだか腹立たしく思えてもきた。
「……むかつく」
ここにツルがいれば、この呟きにもきっと飄々と笑っていただろう。
意識せずともそんな想像を巡らせてしまうあたり、振り回されるあまりいよいよ心の奥底まで入り込まれたような気がする。
その事実がまた癪で、もう一度「むかつく」と、清々しいまで晴れ渡った夏の青空に呟いた。
世間では真夏の暑さがようやく収まり、学校では二学期が始まっていた。
夏休みの最後の週に退院し、松葉杖を突きながらではあるが学校にも復帰できることになり、俺の周りに少しずつ日常が戻ってきた。
つぐみの家では、誰かの誕生日でもなければ開かないようなパーティがささやかながら開かれ、担任もクラスメイトもこちらの無事を素直に喜んでくれた。周囲の優しさと温かさには感謝するしかない。
「にしても、お前が屋上から落ちたって聞いたときは肝が冷えたよ。クラスで死人が出るなんざ洒落にならねえって」
窓辺に松葉杖を立てかけていると、隣の席の男子生徒が声をかけてきた。記憶を失くしていた当時は誰かも思い出せなかったが、今は違う。
「そうだよね。なんか、ごめん」
「いいっていいって。百合の花とか机に供えなくて済んだんだからさ」
ひらひらと片手を振ってそう答える彼は日野という名前で、クラスではお調子者として少し有名だった。俺とは席がお隣というよしみもあり、記憶を失くす以前から何かと仲良くしてくれた、気のいいやつだ。
「ただ屋上が閉鎖になっちまったのは残念だなぁ。あそこ、昼飯を食うには結構いい穴場だったんだけど」
「それは……ごめん」
「いや、千羽が謝ってどうすんだよ。金網が老朽化でもろくなってたんじゃあ、しょうがねえだろ」
事故があった屋上は今は施錠されて立ち入り禁止となり、穴が開いた金網周りも、夏休みの間に業者に修理してもらって元通り塞がっている。
学校側には、一応今回の件は事故ということで話が通っているようだ。事件性がないのと、自殺につながりそうな証拠も挙がっていないため、そのように処理するのが一番穏便なのだろう。
「授業のノートとか、なんか他に必要なもんとかあったら言ってな。席隣だし、まぁ、俺字きたねぇけどそれでも良けりゃ貸すからさ」
「ありがとう。そのときはお言葉に甘えるよ」
俺は素直に礼を言う。時折幽霊として教室に紛れ込んでいたとはいえ、二三ヶ月くらいはまともに授業に出れていないから勉強についていけるか、不安の方が強い。日野の厚意は純粋にありがたかった。
チャイムが鳴り、昼休み終わって最初の授業を担当する先生が教室に入ってくる。席に着かず話し込んでいる男子たちに、早く席に座れ、と大声で注意している。
取り戻した記憶の中にあるのと同じ、ありふれた教室の風景。かつて俺ができるだけ無味無臭の存在として溶け込もうとしていた日常。それを実感できることが、不思議と今は生きている実感を強く感じさせてくれる。
自分の家が普通ではないと、薄々気づいてはいた。だから誰にも、深く立ち入ってほしくなかった。
だから居ても居なくて変わらない存在に徹し、誰とも必要以上に関わらず最低限の交流だけを保ち続けた。かつて記憶を失くしてこの教室に立った時感じた空虚さは、俺が自らの意思で作り上げた透明な壁だった。
そうやって誰にも目をかけられず、そのことに安堵しながらも、心のどこかでは誰かに見つけてもらえることを矛盾にも望んでいたのだ。
「ねえ、日野。一つ、聞きたいことがあるんだけど」
日直に号令をかけるよう、教壇に立った先生が言っている。それがかかる前に、俺は日野にこっそりと質問を投げかける。
「ん? なんだ?」
「ツルってあだ名のやつ、知らないか?」
学校に復帰したら、真っ先に誰かに聞きたかったことだ。
結局入院中、ツルは一度も病室に姿を見せなかった。今では行方も知れない。これまで幾度となく顔を合わせてきたのに、まるで蜃気楼だったように忽然と消えてしまった。
それがどうしようもなく不安と焦燥をかき立てた。一ヶ月――俺が肉体に戻るまでは確かにいたはずの人間が、いともたやすく消息不明になり、まるで蜃気楼のようにいなくなくなる。
心を許し、開いていた相手に去られるのは、なぜだろう、裏切られたような心細さを覚える。俺はまだ、彼のことを何一つちゃんと思い出せていないのに。
「上履きの色が黄色だったから、多分同じ学年だと思うんだけど」
「ツル?」
俺が覚えていないなら、せめてクラスの人なら何かわかるかと期待して尋ねた。だが日野は怪訝そうに眉をしかめる。同時に日直が起立の号令をかけ、みんながバラバラと立ち上がる。そのまま先生に一礼し、席に座り直す。
教科書を開くようにと指示する先生がチョークを手に黒板に向かった隙に、日野はこちらに身を乗り出して囁いた。その眉間にはますます深いしわが寄っている。
「そんなやつがいるって、俺聞いたことねぇけど?」
「……え?」
返ってきたのは、想像していたものには程遠い答えだった。授業が本格的に始まり、日野もまた黒板に向き直ってしまう。
先生の声がちっとも耳に入らない。どういうことだ。話題が途切れても、心の中では信じられないと叫ぶ声が止まらない。確かに、ツルは存在していたはずだ。何度も出会い、会話だって繰り返した。肉体に戻った今でも、当時のことを鮮明に覚えている。
それらが全て、幽体離脱か臨死体験か何かが見せた、俺にしか感知できない幻だったとでもいうのだろうか。
校舎の屋上から落ちたあの春先の日から、気づけば三ヶ月以上が経過していた。当時はまだ道端に桜の花が咲いていたのに、今はもうすっかり夏である。病室ではエアコンが稼働し、冷たい風を入院患者に届けている。
思い出した記憶は、いつぞやツルが言っていた通り決して楽しいものではなかった。かつてどんな劣悪な環境に置かれ、どんな生活や痛みを強いられたのか、もう一度忘れてしまいたいと思う過去まで生々しく蘇り、病み上がりの心を引き裂こうとした。
後悔が首をもたげるたびに、ツルの声が脳裏に蘇る。最後に会ったあの屋上で、俺を突き落とす直前に呟いていた言葉。
『この世に遺したものがあるうちは、心残りが消えるまで生きた方がいい。死ぬ方がずっと楽なんだから』
その意味を、俺はまだ理解できていない。それは確かに今でも忘れられないほど強くこの胸に響いた言葉だったけど、高校生の口から出るにはあまりに大人で達観すぎて、まるで悟りを開いた聖職者のようでもあった。誰が、何が、彼にこんなことを言わせるに至ったのだろう。あのチョコレート色の瞳の奥に、本当はどんな過去を抱えていたのか。
「こんにちは、千羽くん。具合はどうですか?」
病床のブースを区切るカーテンをくぐり、担当看護師の女性が顔をのぞかせる。集中治療室での治療を終えたため、今はこうして一般の患者たちと同じ病室に移ってきていた。
「特に不調はないと思います。足は、まだうまく力が入らないですけど」
「そうですよね。でも骨はしっかりくっついてきてますから、無理せずゆっくりリハビリしていきましょう」
「はい。ありがとうございます」
看護師は手際よく点滴の様子を確認し、バイタルを測りながら手元のボードに数値を書き込んでいく。それが終わるとペンを白衣のポケットに戻し、ちらとベッドテーブルの上に目を向ける。
「また、折り鶴を作ってるんですか? 手持ち無沙汰になると、いつも折ってますよね」
ベッドを跨ぐ大きめのテーブルには大小さまざまな折り鶴がランダムに転がっていた。光里が見舞いのたびにたくさんの折り紙を持ってきてくれるので、暇つぶしがてら折り続けていたらこんな量になってしまった。
「そうですね。鶴を折ってると落ち着くというか、昔から無心になりたいときの癖みたいなもので」
記憶がそこそこ戻った今、わかることだが、子どもの頃から手先が器用で物を作るのが得意だった。
和紙職人である祖父の工房にもよく入り浸り、たまに社会科見学よろしく和紙作りの体験もさせてもらっていた。図工だって好きだったし、時間さえ許せばいくらでも作品作りに没頭できたものだが、それが折り鶴を折ることに定着したのは近年だ。
「祖父が入院していた頃、見舞いのたびに一羽ずつ折って持って行ってたんです。千羽鶴みたいなつもりで、病気が治るといいなって」
「そうでしたか……。稔さんも、きっと喜んでいたと思いますよ」
「そうですかね? そうだと、いいんですけど」
結局、病気平癒の願いが叶うことはなく祖父は病没してしまったが、祖父のために折り鶴を折り続けた指に染み付いた癖は消えることのなく残り続けた。殴られた痛みを忘れたいとき、亮の怒鳴り声に耳を塞ぎたいとき、頭を空っぽにしたいとき、気づけば鶴を折ることは、俺にとって現実逃避の一種となっていた。
指先だけに意識を集中させ、何も考えずただ決められた手順の通り機械的に紙を折り、作品を完成させていく……折り紙は自分の世界にこもる手頃な手段でもあった。今でも、それでは変わらない。
「では、あとでまた巡回に来ます。具合の変化があれば、ナースコールで呼んでくださいね」
シャッとカーテンを元通り綺麗に引き直し、看護師はパタパタと軽い足音を響かせて病室から去っていった。俺は再び窓の外に目を向け、無意識に新しい折り紙を手にする。
谷折り、山折り、中割り折り。何度も繰り返してきた折り鶴作りの工程。薄い千代紙の角と角を合わせ、厚くしていきながら最後には頭を折り込み、あっという間に翼を広げた青い鶴が完成する。
祖父のために鶴を折り始めてから、ずいぶんたくさんの折り鶴を作ってきた。祖父が亡くなってからは折り紙を折る理由も変わってしまったが、作りすぎて手元を見ずとも簡単に折れるようになっていた。
鶴以外を試そうとしたこともあったが、風船は膨らませる手間があるし、動物は折っていて張り合いがなく、かといって難しいものに挑戦しても気軽のその辺に放っておけなくて作り捨てができない。結局ほどよく手に馴染み、そこそこ工程もある折り鶴が一番手頃だった。
一度はただの現実逃避に成り下がった折り鶴が、また新たな意味を持ち出そうとしている。頭を空っぽにして折っていたはずのものに、祖父ではない別の誰かの影を投影している。
あのあと、ツルはどうしただろう――?
目が覚めてから、この部屋にはいろいろな人がお見舞いに訪れた。光里やつぐみの家の職員、クラスメイトや先生方。
唯一ツルだけが、今日に至るまで一度も俺の前に現れていない。俺を屋上から落としたあと、俺の世界から忽然と姿を消してしまった。
最も気がかりな人間の姿だけが見当たらず、心にはずっと晴れない雨雲がどんよりとかかっている。屋上でツルが発した言葉の意図も、目的も、彼の本当の名前も、俺は何一つわかっていないのに。
病床の枕元にある収納棚に視線を向ける。見舞いの花や菓子が所狭しと置かれた隅に、よれたしわしわの折り鶴が一羽、居所悪そうに佇んでいた。紙袋の影に隠れて見えにくいが、片側の羽の底には赤黒い汚れがべっとりとこびりついている。
その汚れの正体が、俺が屋上から落ちたときに流した血であるとあとから知った。看護師に聞いたところ、この鶴は俺が病院に搬送されてきたとき、手の中に握りしめていたものらしい。
あの校舎の屋上には、折り鶴サマの祭壇がある。予感めいたものを覚えて、一度紙を広げて内側を確認したが、願い事は書かれていなかった。
俺もまた、折り鶴サマに何か願ったのだろうか――?
そんな仮説を思い描かずにはいられない。そうでなきゃ、わざわざ折り鶴を握りしめて落ちたりするだろうか。鶴に仮託した願いがあって、それと共に落ちたのならまだ筋が通る。
「……なんでこんな中途半端な思い出し方したんだろう」
ないものねだりのように、自分の不甲斐ない頭に不満をこぼす。生い立ちにまつわる過去は取り戻したが、俺の記憶にはまだ不完全な、それでいて重大な穴抜けが残っている。ツルにまつわる全てだ。
亮が死に、母が亡くなり、俺と光里が施設に入ったことまでは思い出せた。だがその中に、不自然なほどツルの影が見当たらない。
まるで消しゴムで消されたかのようにきれいさっぱり、俺がかねてからツルと知り合いだったという証拠がどこにもない。
今日に至るまで一度も会えずにいるのと、記憶の中でも彼の像が形を結ばないのもあって、ツルという人間はまるでこの町の名物である蜃気楼だったかのように、日に日に俺の中で現実味が薄れていこうとしている。
いっそ本当に臨死体験が見せた幻覚だったと思えれば気も楽なのだろうが、そんな風には到底思えない。だって彼と過ごした時間も、彼がかけてくれた言葉も、色褪せることなく思い出に刻まれたままだ。ARだと言い張るにしたって苦しいものがある。
気づけばツルのことを考える時間が増え、なのに彼に関係する記憶が不十分なせいで思考は堂々巡りで、いたずらに時間ばかりが経過していく。口に出して名を呼んでみれば懐かしく思えるのに、その懐かしさを裏付ける証拠がないのがもどかしく、最近ではなんだか腹立たしく思えてもきた。
「……むかつく」
ここにツルがいれば、この呟きにもきっと飄々と笑っていただろう。
意識せずともそんな想像を巡らせてしまうあたり、振り回されるあまりいよいよ心の奥底まで入り込まれたような気がする。
その事実がまた癪で、もう一度「むかつく」と、清々しいまで晴れ渡った夏の青空に呟いた。
世間では真夏の暑さがようやく収まり、学校では二学期が始まっていた。
夏休みの最後の週に退院し、松葉杖を突きながらではあるが学校にも復帰できることになり、俺の周りに少しずつ日常が戻ってきた。
つぐみの家では、誰かの誕生日でもなければ開かないようなパーティがささやかながら開かれ、担任もクラスメイトもこちらの無事を素直に喜んでくれた。周囲の優しさと温かさには感謝するしかない。
「にしても、お前が屋上から落ちたって聞いたときは肝が冷えたよ。クラスで死人が出るなんざ洒落にならねえって」
窓辺に松葉杖を立てかけていると、隣の席の男子生徒が声をかけてきた。記憶を失くしていた当時は誰かも思い出せなかったが、今は違う。
「そうだよね。なんか、ごめん」
「いいっていいって。百合の花とか机に供えなくて済んだんだからさ」
ひらひらと片手を振ってそう答える彼は日野という名前で、クラスではお調子者として少し有名だった。俺とは席がお隣というよしみもあり、記憶を失くす以前から何かと仲良くしてくれた、気のいいやつだ。
「ただ屋上が閉鎖になっちまったのは残念だなぁ。あそこ、昼飯を食うには結構いい穴場だったんだけど」
「それは……ごめん」
「いや、千羽が謝ってどうすんだよ。金網が老朽化でもろくなってたんじゃあ、しょうがねえだろ」
事故があった屋上は今は施錠されて立ち入り禁止となり、穴が開いた金網周りも、夏休みの間に業者に修理してもらって元通り塞がっている。
学校側には、一応今回の件は事故ということで話が通っているようだ。事件性がないのと、自殺につながりそうな証拠も挙がっていないため、そのように処理するのが一番穏便なのだろう。
「授業のノートとか、なんか他に必要なもんとかあったら言ってな。席隣だし、まぁ、俺字きたねぇけどそれでも良けりゃ貸すからさ」
「ありがとう。そのときはお言葉に甘えるよ」
俺は素直に礼を言う。時折幽霊として教室に紛れ込んでいたとはいえ、二三ヶ月くらいはまともに授業に出れていないから勉強についていけるか、不安の方が強い。日野の厚意は純粋にありがたかった。
チャイムが鳴り、昼休み終わって最初の授業を担当する先生が教室に入ってくる。席に着かず話し込んでいる男子たちに、早く席に座れ、と大声で注意している。
取り戻した記憶の中にあるのと同じ、ありふれた教室の風景。かつて俺ができるだけ無味無臭の存在として溶け込もうとしていた日常。それを実感できることが、不思議と今は生きている実感を強く感じさせてくれる。
自分の家が普通ではないと、薄々気づいてはいた。だから誰にも、深く立ち入ってほしくなかった。
だから居ても居なくて変わらない存在に徹し、誰とも必要以上に関わらず最低限の交流だけを保ち続けた。かつて記憶を失くしてこの教室に立った時感じた空虚さは、俺が自らの意思で作り上げた透明な壁だった。
そうやって誰にも目をかけられず、そのことに安堵しながらも、心のどこかでは誰かに見つけてもらえることを矛盾にも望んでいたのだ。
「ねえ、日野。一つ、聞きたいことがあるんだけど」
日直に号令をかけるよう、教壇に立った先生が言っている。それがかかる前に、俺は日野にこっそりと質問を投げかける。
「ん? なんだ?」
「ツルってあだ名のやつ、知らないか?」
学校に復帰したら、真っ先に誰かに聞きたかったことだ。
結局入院中、ツルは一度も病室に姿を見せなかった。今では行方も知れない。これまで幾度となく顔を合わせてきたのに、まるで蜃気楼だったように忽然と消えてしまった。
それがどうしようもなく不安と焦燥をかき立てた。一ヶ月――俺が肉体に戻るまでは確かにいたはずの人間が、いともたやすく消息不明になり、まるで蜃気楼のようにいなくなくなる。
心を許し、開いていた相手に去られるのは、なぜだろう、裏切られたような心細さを覚える。俺はまだ、彼のことを何一つちゃんと思い出せていないのに。
「上履きの色が黄色だったから、多分同じ学年だと思うんだけど」
「ツル?」
俺が覚えていないなら、せめてクラスの人なら何かわかるかと期待して尋ねた。だが日野は怪訝そうに眉をしかめる。同時に日直が起立の号令をかけ、みんながバラバラと立ち上がる。そのまま先生に一礼し、席に座り直す。
教科書を開くようにと指示する先生がチョークを手に黒板に向かった隙に、日野はこちらに身を乗り出して囁いた。その眉間にはますます深いしわが寄っている。
「そんなやつがいるって、俺聞いたことねぇけど?」
「……え?」
返ってきたのは、想像していたものには程遠い答えだった。授業が本格的に始まり、日野もまた黒板に向き直ってしまう。
先生の声がちっとも耳に入らない。どういうことだ。話題が途切れても、心の中では信じられないと叫ぶ声が止まらない。確かに、ツルは存在していたはずだ。何度も出会い、会話だって繰り返した。肉体に戻った今でも、当時のことを鮮明に覚えている。
それらが全て、幽体離脱か臨死体験か何かが見せた、俺にしか感知できない幻だったとでもいうのだろうか。
