都会では一日と待たずに埋もれていくような小さな交通事故も、田舎の町では存外長く尾を引く。
半年近く前に起きた事故なのに、母の律子が亡くなったことはまだ一部の住人の間で話題の種とされていた。小さい町だから普段は目立った事故もなく、それゆえ一度何かが起こると存在感もひとしおなのかもしれない。
夏が近づき、木々に茂る葉の密度が少しずつ上がりつつある山道を漂いながら登っていく。実体を伴わない幽霊状態だと、山登りも全く疲労しないのは幸いだと思うべきなのか複雑だが、ともかく俺は町の西側にある山を一人訪れていた。
とはいえ、塩越の町は海に面していない側全部が山に囲まれているので、山中に通された県道をたどって道なりに行くだけだが。
町中を飛び回り、拾い集めた住人たちの噂話から、事故が起きたのはこの県道をもう少し上った岩肌付近であると突き止めた。実際に現場を踏んだところで何も変わらないかもしれないが、自分の母親の最期の地を忘却したままというのも親不孝な気がする。
県道ではあるものの、あまり日常的に使われていない車道のせいか、車の往来は時折一台か二台通過する程度で、基本的に辺りは静かだった。蛇行も少なく、見通しもいい。この道で事故が起きた、と言われても、一見するとピンと来ない場所だ。
どのくらいの高さまで登ってきたのか自分ではわからないが、山の裾を見下ろしてみると町並みの屋根がずいぶん下方に見えていた。海面に反射した日光が眩しくて目に痛い。
事故は、どこで起きたのだろう。
道路沿いまで迫りくる山の傾斜も険しくなってきて、かなり近いところまで来ているはずだ。俺はそれ以上登るのをいったんやめ、周囲を見渡してみる。
住人たちの話を聞く限り、いささか不思議な点が多い事故だったらしい。急ブレーキはともかく、現場にはなぜか急ハンドルを切った痕跡もあったという。事故が起きたのは夜も遅い時間で、車の通りも少なく対向車もなかった。
なのにまるで何かを避けようとしたかのように、直進する道路の真ん中で切られたハンドルの跡を皆不思議がっていた。
それさえなければ、自らガードレールを突き破って崖下に落ちることもなかっただろうに、と――。
確かにそれは、最初に聞いたとき俺も疑問に思った。野生動物でも飛び出してきたのだろうか。考えられるのはそれくらいだが、どうにもしっくりこない。事故当時はまだ冬真っ只中で、人里近いこの山を動物が彷徨っていたとは考えにくい。
「……あ」
頭上を覆う木々のトンネルを抜けた先で、ぽっかりと不自然に途切れたままのガードレールを見つけた。
切れたガードレールのポールの足元に、ガラス瓶に生けられた花束が元気なさげに項垂れている。水を取り替えていないのか、久しく誰も花を手向けに来ていないのか、瓶の中の水は濁って汚れている。
思わず足を止めた。つま先の先には、ちょうどアスファルトに刻まれたタイヤ痕がまだ消えずに生々しく残ったままだ。
ここだ。この場所が、そうなのだ。
補修されていないガードレールの向こうは木々が折り重なる崖に直結し、覗き込めば地面に落ちる無数の枝木の陰影が複雑に絡み合い、不気味に蠢いている。事故が起きた痕跡は、一見すると残っていなかった。
ズキリと、頭の奥に痛みが走る。肉体にも戻れていないのに、どうして頭が痛くなったりするのかと内心戸惑う。
またズキリと、頭痛が襲い掛かる。視界が一瞬霞み、かと思えば何かにジャックされたように見えている景色と違う景色が目の前をよぎる。
街灯もない夜の車道を、一台の白い車が走っていく。ヘッドライトの丸い光が数メートル先のアスファルトを照らし、ざらついた灰色の地面に影を落とす。
運転席と助手席に、男と女が一人ずつ座っている。男の方がハンドルを握り、女はただその隣で俯いている。眠っている……わけではないようだ。車体が揺れるたび、艶の失せた長い髪が意思を宿したように何度も跳ねる。
あの、男は――。
いつぞや公園で聞いた幻聴が再び蘇る。水に沈んだようにぼやけていた声の輪郭がはっきりとし、目の前の顔と重なっていく。
この男だ。この男が家に上がり込んでから、何もかもが狂っていったんだ。
急に足元がぐらりと傾き、立っていられなくなるほど視界が激しく歪む。どこからともなく甲高いクラクションの音が鳴り響き、そこに無機質で等間隔な電子音が混ざる。
なんの電子音だろう。病院の心電図のような音だ。どうしてそんなものが、このタイミングで聞こえてくるのか。
目の前に眩しい閃光と、車のフロントガラスが迫ってくる。ハンドルをがむしゃらに回す男の顔は、恐怖に歪んでいた。
憎かったはずの男なのに、せいせいした、よりも真っ先に罪悪感を覚えてしまう自分はおかしいだろうか。
白いボンネットが体に触れ、そのまま宙をかいてすり抜けていく。周りの景色が、スローモーションにかけられたかのように、ゆっくりと、ゆっくりと、この幻影を見せつけるように視線を逸らすことを許してくれない。
助手席の女が顔を上げる。記憶の中から忘却してしまった顔。だがこけた頬や痩せた目元に、確かに俺と光里の面影を見た。
――母さん。
もうこの世にいない人の双眸が間近に迫る。これは幻覚。過去の残影。視線が交わることはない。
そのはずだが、近づいてくる母の見開かれた瞳の中に、人影が写っているのが見えた。全てがスローモーションのように見えるからこそ気づけた、本当に些細なことだ。
見覚えのある塩越高校の制服。夜半の山中にいては不自然な少年。その口角は――笑っているようにみえた。
「……っ」
まただ。また心臓がきしむ。この状態になってから何度も経験した。本来心臓があるはずの肉体とは遠く離れているのに。
足を掴まれ、強引に引きずられていくような、強力な引力を感じる。どこから来るものなのかもわからず、這い上がる悪寒から身を守るように己を抱きしめる。その腕に体温がないことが無性に寂しい。
「海斗。海斗!」
誰かが名前を呼んでいる。懐かしい声だ。混乱し、とぐろを巻いていた意識が徐々に落ち着き始める。
いつ倒れ込んだのか、気づけば固いアスファルトに膝をついていた。実体じゃないから感覚は伴わないはずなのに、地面に接した部分が鈍い痛みを訴えてくる。
ぎこちなく顔を上げると、すぐそばにツルがいた。気配などまるで感じなかったが、息切れ一つせず俺の顔色を覗き込んでいる。
「ツル……」
「息して。幽霊になった上、今度は窒息死したいの?」
ようやく無意識に息を詰めていたことをに気づき、反射的に吸い込んだ拍子に咳き込む。実体がなくても呼吸が必要だなんて、幽霊って中途半端な存在だ。
「車が、避けて、母さんが――」
「ここは事故の現場で、君は今幽霊だよ? 土地に染み付いた死の記憶には、生身だったときよりも近いだろうね」
俺が冷静じゃなさすぎるだけかもしれないが、それにしてもツルはあまりにも冷静だった。淡々とこちらの状況を分析し、列挙し、確かめてくる。
「視えたんだ」
その一言で、まだこちらからは何も告げていないのに、彼が全てを察していることを理解する。
俺はまだ、混乱から立ち直れていない。
道端に立っていた制服姿の人影。がむしゃらに切られた急ハンドル。尋常じゃないほど怯えていた男の表情。
もしかして、車道にいた人間を避けようとして起きた事故なのだろうか。あれは、そういう情景にしか見えなかった。だがあんな遅くにあんな場所になぜ立っていたのだろう。なぜ車道の上などという危険な場所を選んだのだろう。
冷静さを取り戻すたび、違和感ばかりが膨らんでいく。不自然だ。そんなの、自ら死にに行くようなものじゃないか。あるいはそうまでして事故を起こしたかったか……。
あの少年は誰だ。
――俺か?
母さんが死んだのは、俺が事故を望んだせいなのか、
「……恨みたいなら、君は自分ではなく、僕を恨むべきだよ」
マイナスの方へ振り切ろうとする思考を中断させるように、ツルは意味深な言葉を吐く。その眼はなぜか悲しげだった。
目を離せず、どうしてそんなことを言うのかと戸惑う。遠くに見える地平線は夕日の半分以上を飲み込み、塩越の町に半月が昇る。
月明かりにかざした指先が白く透けている。幽霊になってから初めての現象だ。いよいよ魂すら、この世から消えようとしているのだろうか。嫌な予感は覚えながらも、不思議なほど焦りは浮かんでこない。
「さっきまで病院にいたけど、君の体、容体が急変したみたい。だからじゃない?」
俺の身に起きている現象に対する答えを、ツルは淡々と教えてくれる。いつも通りの口調で、世間話でもするかのように。
疑問が湧いた。彼はいつ、どのタイミングで病院でその事実を知ったのだろう。この異変が始まったのはたった今で、彼が来たのは直前だ。
ここから病院までだとずいぶん遠いはずだが、さっきまで、とは具体的にいつまでだろう。口ぶりからはそう間もない風に聞こえるが、あり得ない。移動だけでも相応に時間がかかるはずだ。
「死にたい?」
雑談の延長のようにかけられた言葉は、到底雑談で済ませられない冷たさと鋭さを伴っていた。
「死にたいなら、最期までそばにいてあげる」
笑みが浮かんだツルの顔が、無機質な能面のように白い。その表情からは、やはり感情が何も読み解けない。
その甘美な誘惑に頷きたい願望があった。だが実際に頷くことはできなかった。動悸はますます激しくなり、指先の輪郭もどんどん薄くなっていく。”戻りたい”と、”戻りたくない”が絶えずせめぎ合う。
そのたびにまぶたの裏に浮かぶのは、兄の目覚めを一人孤独に待つ光里の泣き顔。このまま肉体が滅びたなら、あの子は……この世界で一人になってしまう。
「……お前は、なんなんだよ」
結局、彼は何者だったのだろう。受け止めてくれたし、寄り添ってもくれた。怖いくらいに優しく、今もまるで全てを見透かしたようにこちらの心を丸裸にしてくる。
「知らなくていいよ。知らない方が、いいこともあるでしょ?」
そうやって彼はいつもはぐらかす。透けている俺と違って彼の手は確かな存在感があるのに、どうしてか彼の方がよほど現実味がない。
ゆっくりとした足取りでツルが近づいてくる。薄闇の中、チョコレート色の瞳が爛々と輝きを増す。
何もかも諦めてしまったような、物悲しい輝きだ。
「迷いがあるなら、現世に引き返すのが君のためだよ。どうせ彼岸に渡るときなんて、一瞬だから」
ツルは腕を伸ばし、トンと俺の肩を軽く押した。力は強くないのに、というか霊体だから触れられないはずなのに、確かに感じた衝撃に体がよろめく。
その背後で、黒々とした崖が口を開いて待ち構えている。
抗う間もなく虚空に投げ出され、真っすぐに落ちていく。勝手知る感覚だ。四月のあの日、校舎の屋上から飛んだときもこんな感覚だったと、唐突に思い出す。
ツルの顔と姿は急速に遠ざかり、闇夜に埋もれて塗りつぶされていく。思わず手を伸ばすも、もう到底届かない。
「――じゃあね」
轟音が響く耳元にそんな囁きが届き、それを最後に意識は暗転した。
半年近く前に起きた事故なのに、母の律子が亡くなったことはまだ一部の住人の間で話題の種とされていた。小さい町だから普段は目立った事故もなく、それゆえ一度何かが起こると存在感もひとしおなのかもしれない。
夏が近づき、木々に茂る葉の密度が少しずつ上がりつつある山道を漂いながら登っていく。実体を伴わない幽霊状態だと、山登りも全く疲労しないのは幸いだと思うべきなのか複雑だが、ともかく俺は町の西側にある山を一人訪れていた。
とはいえ、塩越の町は海に面していない側全部が山に囲まれているので、山中に通された県道をたどって道なりに行くだけだが。
町中を飛び回り、拾い集めた住人たちの噂話から、事故が起きたのはこの県道をもう少し上った岩肌付近であると突き止めた。実際に現場を踏んだところで何も変わらないかもしれないが、自分の母親の最期の地を忘却したままというのも親不孝な気がする。
県道ではあるものの、あまり日常的に使われていない車道のせいか、車の往来は時折一台か二台通過する程度で、基本的に辺りは静かだった。蛇行も少なく、見通しもいい。この道で事故が起きた、と言われても、一見するとピンと来ない場所だ。
どのくらいの高さまで登ってきたのか自分ではわからないが、山の裾を見下ろしてみると町並みの屋根がずいぶん下方に見えていた。海面に反射した日光が眩しくて目に痛い。
事故は、どこで起きたのだろう。
道路沿いまで迫りくる山の傾斜も険しくなってきて、かなり近いところまで来ているはずだ。俺はそれ以上登るのをいったんやめ、周囲を見渡してみる。
住人たちの話を聞く限り、いささか不思議な点が多い事故だったらしい。急ブレーキはともかく、現場にはなぜか急ハンドルを切った痕跡もあったという。事故が起きたのは夜も遅い時間で、車の通りも少なく対向車もなかった。
なのにまるで何かを避けようとしたかのように、直進する道路の真ん中で切られたハンドルの跡を皆不思議がっていた。
それさえなければ、自らガードレールを突き破って崖下に落ちることもなかっただろうに、と――。
確かにそれは、最初に聞いたとき俺も疑問に思った。野生動物でも飛び出してきたのだろうか。考えられるのはそれくらいだが、どうにもしっくりこない。事故当時はまだ冬真っ只中で、人里近いこの山を動物が彷徨っていたとは考えにくい。
「……あ」
頭上を覆う木々のトンネルを抜けた先で、ぽっかりと不自然に途切れたままのガードレールを見つけた。
切れたガードレールのポールの足元に、ガラス瓶に生けられた花束が元気なさげに項垂れている。水を取り替えていないのか、久しく誰も花を手向けに来ていないのか、瓶の中の水は濁って汚れている。
思わず足を止めた。つま先の先には、ちょうどアスファルトに刻まれたタイヤ痕がまだ消えずに生々しく残ったままだ。
ここだ。この場所が、そうなのだ。
補修されていないガードレールの向こうは木々が折り重なる崖に直結し、覗き込めば地面に落ちる無数の枝木の陰影が複雑に絡み合い、不気味に蠢いている。事故が起きた痕跡は、一見すると残っていなかった。
ズキリと、頭の奥に痛みが走る。肉体にも戻れていないのに、どうして頭が痛くなったりするのかと内心戸惑う。
またズキリと、頭痛が襲い掛かる。視界が一瞬霞み、かと思えば何かにジャックされたように見えている景色と違う景色が目の前をよぎる。
街灯もない夜の車道を、一台の白い車が走っていく。ヘッドライトの丸い光が数メートル先のアスファルトを照らし、ざらついた灰色の地面に影を落とす。
運転席と助手席に、男と女が一人ずつ座っている。男の方がハンドルを握り、女はただその隣で俯いている。眠っている……わけではないようだ。車体が揺れるたび、艶の失せた長い髪が意思を宿したように何度も跳ねる。
あの、男は――。
いつぞや公園で聞いた幻聴が再び蘇る。水に沈んだようにぼやけていた声の輪郭がはっきりとし、目の前の顔と重なっていく。
この男だ。この男が家に上がり込んでから、何もかもが狂っていったんだ。
急に足元がぐらりと傾き、立っていられなくなるほど視界が激しく歪む。どこからともなく甲高いクラクションの音が鳴り響き、そこに無機質で等間隔な電子音が混ざる。
なんの電子音だろう。病院の心電図のような音だ。どうしてそんなものが、このタイミングで聞こえてくるのか。
目の前に眩しい閃光と、車のフロントガラスが迫ってくる。ハンドルをがむしゃらに回す男の顔は、恐怖に歪んでいた。
憎かったはずの男なのに、せいせいした、よりも真っ先に罪悪感を覚えてしまう自分はおかしいだろうか。
白いボンネットが体に触れ、そのまま宙をかいてすり抜けていく。周りの景色が、スローモーションにかけられたかのように、ゆっくりと、ゆっくりと、この幻影を見せつけるように視線を逸らすことを許してくれない。
助手席の女が顔を上げる。記憶の中から忘却してしまった顔。だがこけた頬や痩せた目元に、確かに俺と光里の面影を見た。
――母さん。
もうこの世にいない人の双眸が間近に迫る。これは幻覚。過去の残影。視線が交わることはない。
そのはずだが、近づいてくる母の見開かれた瞳の中に、人影が写っているのが見えた。全てがスローモーションのように見えるからこそ気づけた、本当に些細なことだ。
見覚えのある塩越高校の制服。夜半の山中にいては不自然な少年。その口角は――笑っているようにみえた。
「……っ」
まただ。また心臓がきしむ。この状態になってから何度も経験した。本来心臓があるはずの肉体とは遠く離れているのに。
足を掴まれ、強引に引きずられていくような、強力な引力を感じる。どこから来るものなのかもわからず、這い上がる悪寒から身を守るように己を抱きしめる。その腕に体温がないことが無性に寂しい。
「海斗。海斗!」
誰かが名前を呼んでいる。懐かしい声だ。混乱し、とぐろを巻いていた意識が徐々に落ち着き始める。
いつ倒れ込んだのか、気づけば固いアスファルトに膝をついていた。実体じゃないから感覚は伴わないはずなのに、地面に接した部分が鈍い痛みを訴えてくる。
ぎこちなく顔を上げると、すぐそばにツルがいた。気配などまるで感じなかったが、息切れ一つせず俺の顔色を覗き込んでいる。
「ツル……」
「息して。幽霊になった上、今度は窒息死したいの?」
ようやく無意識に息を詰めていたことをに気づき、反射的に吸い込んだ拍子に咳き込む。実体がなくても呼吸が必要だなんて、幽霊って中途半端な存在だ。
「車が、避けて、母さんが――」
「ここは事故の現場で、君は今幽霊だよ? 土地に染み付いた死の記憶には、生身だったときよりも近いだろうね」
俺が冷静じゃなさすぎるだけかもしれないが、それにしてもツルはあまりにも冷静だった。淡々とこちらの状況を分析し、列挙し、確かめてくる。
「視えたんだ」
その一言で、まだこちらからは何も告げていないのに、彼が全てを察していることを理解する。
俺はまだ、混乱から立ち直れていない。
道端に立っていた制服姿の人影。がむしゃらに切られた急ハンドル。尋常じゃないほど怯えていた男の表情。
もしかして、車道にいた人間を避けようとして起きた事故なのだろうか。あれは、そういう情景にしか見えなかった。だがあんな遅くにあんな場所になぜ立っていたのだろう。なぜ車道の上などという危険な場所を選んだのだろう。
冷静さを取り戻すたび、違和感ばかりが膨らんでいく。不自然だ。そんなの、自ら死にに行くようなものじゃないか。あるいはそうまでして事故を起こしたかったか……。
あの少年は誰だ。
――俺か?
母さんが死んだのは、俺が事故を望んだせいなのか、
「……恨みたいなら、君は自分ではなく、僕を恨むべきだよ」
マイナスの方へ振り切ろうとする思考を中断させるように、ツルは意味深な言葉を吐く。その眼はなぜか悲しげだった。
目を離せず、どうしてそんなことを言うのかと戸惑う。遠くに見える地平線は夕日の半分以上を飲み込み、塩越の町に半月が昇る。
月明かりにかざした指先が白く透けている。幽霊になってから初めての現象だ。いよいよ魂すら、この世から消えようとしているのだろうか。嫌な予感は覚えながらも、不思議なほど焦りは浮かんでこない。
「さっきまで病院にいたけど、君の体、容体が急変したみたい。だからじゃない?」
俺の身に起きている現象に対する答えを、ツルは淡々と教えてくれる。いつも通りの口調で、世間話でもするかのように。
疑問が湧いた。彼はいつ、どのタイミングで病院でその事実を知ったのだろう。この異変が始まったのはたった今で、彼が来たのは直前だ。
ここから病院までだとずいぶん遠いはずだが、さっきまで、とは具体的にいつまでだろう。口ぶりからはそう間もない風に聞こえるが、あり得ない。移動だけでも相応に時間がかかるはずだ。
「死にたい?」
雑談の延長のようにかけられた言葉は、到底雑談で済ませられない冷たさと鋭さを伴っていた。
「死にたいなら、最期までそばにいてあげる」
笑みが浮かんだツルの顔が、無機質な能面のように白い。その表情からは、やはり感情が何も読み解けない。
その甘美な誘惑に頷きたい願望があった。だが実際に頷くことはできなかった。動悸はますます激しくなり、指先の輪郭もどんどん薄くなっていく。”戻りたい”と、”戻りたくない”が絶えずせめぎ合う。
そのたびにまぶたの裏に浮かぶのは、兄の目覚めを一人孤独に待つ光里の泣き顔。このまま肉体が滅びたなら、あの子は……この世界で一人になってしまう。
「……お前は、なんなんだよ」
結局、彼は何者だったのだろう。受け止めてくれたし、寄り添ってもくれた。怖いくらいに優しく、今もまるで全てを見透かしたようにこちらの心を丸裸にしてくる。
「知らなくていいよ。知らない方が、いいこともあるでしょ?」
そうやって彼はいつもはぐらかす。透けている俺と違って彼の手は確かな存在感があるのに、どうしてか彼の方がよほど現実味がない。
ゆっくりとした足取りでツルが近づいてくる。薄闇の中、チョコレート色の瞳が爛々と輝きを増す。
何もかも諦めてしまったような、物悲しい輝きだ。
「迷いがあるなら、現世に引き返すのが君のためだよ。どうせ彼岸に渡るときなんて、一瞬だから」
ツルは腕を伸ばし、トンと俺の肩を軽く押した。力は強くないのに、というか霊体だから触れられないはずなのに、確かに感じた衝撃に体がよろめく。
その背後で、黒々とした崖が口を開いて待ち構えている。
抗う間もなく虚空に投げ出され、真っすぐに落ちていく。勝手知る感覚だ。四月のあの日、校舎の屋上から飛んだときもこんな感覚だったと、唐突に思い出す。
ツルの顔と姿は急速に遠ざかり、闇夜に埋もれて塗りつぶされていく。思わず手を伸ばすも、もう到底届かない。
「――じゃあね」
轟音が響く耳元にそんな囁きが届き、それを最後に意識は暗転した。
