気づけば桜もすっかり散り、カレンダーは四月から五月へと移っていた。俺の体はまだ目を覚まさず、記憶も戻らないままだ。
つぐみの家の屋根の上で夜を明かし、ぼんやりと海の果てに差す朝日を眺める。幽霊には睡眠をとるという概念がなく、おかげでこの一ヶ月の間、夜がやけに長く感じた。
立山連峰の背後に後光が差し、淀んだ乳白色の空が色づき始める。遠い対岸に望む工場群の無骨なシルエットが陽炎のように揺らめき、高波が迫ってくるかのように波に乗りながらぼやけた水平線の上を漂う。
富山湾に面したこの辺りは、春先に蜃気楼が見えることで有名だ。魚津の方では蜃気楼が出ると町に放送も流れるらしいが、塩越のような小さな町ではそこまで特別待遇されることもなく、毎年訪れる自然現象の一部として景色に溶け込んでいる。
日が完全に昇り、夜間の冷え込みが徐々に緩み始めるとともに、地平線上に浮き上がっていた工場群も霞み、いつもの見慣れた風景の枠に収まっていく。その頃にもなると町も人も目を覚まし、往来を走る車の数が増え始める。
つぐみの家からもにぎやかな声が漏れ出し、一階のテーブルを囲んで朝食を食べているのがカーテンの隙間からわずかに覗く。光里の姿を見つけ、好物らしきウィンナーをフォークで刺して笑っている様子に安堵する。
七時を過ぎるとホームの子どもたちは各々学校に行く支度を始め、一人ずつバラバラに玄関を抜けて登校していく。一人だけまだ未就学児である光里は、職員の女性に手を引かれ、最後に家を出る。覚えておらずとも、ひと月近くホームを観察していれば生活サイクルもおのずと見えてくる。
光里を保育園に届けてから、恐らく職員が自転車を漕いでスーパーまで買出しに向かうだろう。毎朝訪れるこのルーティンの中に、自分の暮らしも確かに混ざっていたはずなのだ。
いつもなら光里が保育園に向かうのを見送ってから学校へ移動するのだが、その日は道中で予想外の後ろ姿に遭遇した。
「……ツル?」
正門へ向かう最後その坂道のふもとで、ツルを見かけた。制服のポケットに両手を突っ込み、カバンも持たず手ぶらだ。俺には気づいていないらしく、坂を上って学校へは行かず、別の坂道をまっすぐ上っていく。
こんな午前中に、学校にも行かずどこへ行くつもりなのだろう。
興味が湧き、俺は誘われるようにその背中を追いかけた。細い道を行っているせいか、ひとたび家々の間に踏み入ると途端に車の走行音が遠のき、静寂が訪れる。
常に数メートル遠い先に、ツルの背中はあった。気取られている気配はないが、なぜか距離が遠ざかることも近づくこともない。視力はあまりいい部類ではないのだが、前を歩くツルの輪郭だけはやけにくっきりと鮮明に浮かぶ。
そのままいくつも角を曲がり、やがてツルは山の中腹にある寺の前で足を止めた。富山湾に開いた漁港から日本海を一望できる、見晴らしのいい場所だ。
簡素な門の傍らには『長石寺』と刻まれた石碑が立っている。金堂の横には、恐らく寺が管理する共同墓地が広がり、ツルはそこへと入っていく。
誰かの墓参りにでも行こうとしてる――?
墓地を囲う塀に遮られ、ツルの姿が視界から消える。すぐ後を追って墓地に向かうが、誰もいない。今の一瞬で見失ってしまったらしい。
平日ということもあり、墓地に人の気配はなかった。辺りは静まり返り、死者が眠る地にふさわしい静謐に包まれている。時折どこからともなくメジロの鳴く声が聞こえ、新緑の木々が風にさわさわとなびく。
俺はキョロキョロと辺りを見渡す。そんなに広い墓地ではなく、身を潜められそうな場所も見当たらない。確かにここに入ったはずのツルを探してふわふわと近くを彷徨ううちに、気づけば奥の一角にある雑木林までたどり着いていた。
墓地の端であろうその林の前には、無数の石碑や石塔婆がひっそりと佇んでいた。特定の家の墓のように塀で区画分けされておらず、地蔵のように一列にずらりと並んでいる。中には石の表面がひび割れたり、苔むしているものもあり、年代は古いものから新しいものまで幅広い。
慰霊碑か、あるいは無縁仏のようなものだろうか。そんな感じがする。彫られた文字を読もうと石碑に近づいたとき、突如背後からザッと土を踏む足音が響く。
「おや、海斗くんではありませんか」
作務衣を着た初老の男性が箒を片手にこちらにやってくる。この墓地を管理する寺の住職さんだろう。
「こんなところでどうしました? 学校はいいのですか?」
「え? あ、はい。今日は、休んでいるので……」
当たり前のように幽霊である俺が見えているようで、そのあまりの自然さについ生身の人間のような反応を返してしまった。
いや、意識不明とはいえ体は生きているから、一応まだ人間ではあるのだが……。
「そうでしたか。失礼。しかし、海斗くんがこんな奥まったところに迷い込むなんて珍しいですね。稔さんと律子さんの墓は向こうですよ?」
少し気まずそうに剃髪した頭を撫でた住職さんは、それから不思議な顔で墓地の一角を右手で軽く指し示す。
その方角に目を向けると、墓地の南側のエリアだ。他のエリア同様お墓が並び、ここからではどれが誰の墓なのかはわからない。しかし俺はその一角に釘付けになった。
稔、律子。病院で、看護師たちもこぼしていた名前。両親か、あるいは俺たちに近しい親族の名前。彼らの墓も、ここにあるのか。
そう考えると途端に居所が悪くなる。まだ、家族すらちゃんと思い出せずにいる自分が申し訳なかった。
「……俺の家族、なんですよね?」
「ええ、そうですよ。どうしました? お爺様と、お母様ではないですか」
「い、いえ、ちょっと……」
怪訝そうな住職さんにかぶりを振り、俺は微笑んで場を取り繕う。ツル以外、俺の記憶喪失を知っている人間はいない。ぼろが出てしまう前に、どうにかこの話題を終わらせたかった。
「稔さんのためにも、少しだけ顔を出してあげたらいかがです? 律子さんが亡くなってから、まだ一度しかお参りに来ていませんよね」
俺の表情から墓参りではないと悟ったのか、住職さんは事情を追及することなく控えめにそう提案してくれた。
「は、はい。そうします」
大人な対応に内心安堵する。しかしこの言い方だと、以前の俺もずいぶん墓参りをおろそかにしていたように聞こえる。
やはり家族とは深い確執があったのだろうか。
結局最後まで、住職さんは俺を幽霊だとは認識しなかったらしい。お堂に戻っていく作務衣の後ろ姿を見送り、千羽家のお墓を探そうと墓地をうろうろする。
大きな柳の木の下に、その墓はあった。周囲と同じありふれた花崗岩の竿石には『千羽家之墓』と刻字され、背後に立つ卒塔婆が風に吹かれてカラカラと鳴る。花立にはしおれた花が差されたままで、確かにお参りが開いてしまっていることを示している。
竿石の裏に刻みきれなかった歴代の千羽家の故人の享年や戒名が、傍らの墓誌に刻字されている。その末尾に、二つの名前を見つけた。
『千羽稔』
『千羽律子』
名前だけでしか登場してこなかった家族の名前を、初めて克明にこの目に映した。
前者の享年は二年前の九月中頃。生年月日から換算して六十歳あまりで、恐らくは祖父だっただろう。
対して後者は生まれが三十年ほど前で、年齢から考えると俺たちの母親であるのが妥当な推測だ。
だがその没年月日は、今からわずか四か月前の元日だった。
ドクンと、ないはずの心臓が嫌な音を立てる。頭上ではかもめの群れが旋回し、こちらを警告するようにしきりに鋭く鳴く。
近すぎる。そう思った。俺が投身を図ったのが先月。そのたった数か月前に、母親が亡くなっている。そして俺たち兄妹は施設で暮らしている。これは――偶然だろうか。
刻まれた戒名は二人分で、父親らしき人の名前はない。いなかったのか、あるいは別の墓で眠っているのか。どちらにせよ、公園で聞いたあの嫌な幻聴が蘇り、無意識に二の腕を強く握りしめる。
あれが、俺たちの父親の声だったのだろうか。それとも、別の人? ただ一つわかるのは、かつての暮らしが決して幸福とは言えなかったこと。記憶を失くしてもなお、その事実は無意識の反応として心身に刻みつけられている。
『ごめんなさい……ごめんなさい……』
記憶の奥底で、誰かが墓前で謝罪を繰り返す光景が浮かぶ。降りしきる雨の中、一人首を垂れて立ち尽くす。
それは間違いなく、俺自身の声だった。
「あれ? もしかしてつけてた?」
「うわっ!」
突然耳元で囁き声が聞こえ、我に返ると同時に飛び上がる。すぐ後ろでは、ツルがいたずらに成功した子どものようにしたり顔で笑っていた。
今までどこに隠れていたのだろう。さっきまで全然見つけられなかったのに、本当に神出鬼没という言葉が似合う奴だ。
「僕にかまけてないで、ちゃんと学校に行った方がいいんじゃない?」
「かまけてるわけじゃ……だいたい、それを言うならお前も人のこと言えないだろ。授業はいいのかよ」
「青春を謳歌するためには、適度にサボることも大事って誰かが言ってたからね」
「そんなこと、誰が言ったんだ」
「んー、僕?」
自分かよ、と内心思わず突っ込んだ。ツルと出会ってからひと月あまり、この人を食ったような飄々とした減らず口にも慣れてきた。
幽霊になってからの一ヶ月間、ツルとは学校の屋上以外にもいろいろな場所で遭遇してきた。つぐみの家の前のあの公園だったり、海岸沿いの堤防の上だったり、山の中腹にある展望台だったり、彼はいつでも神出鬼没で、いつまでも謎に包まれたままだった。
今回は珍しく町中で偶然見かけたが、ツルが顔を合わせるときは、決まって彼の方から俺を訪ねてきたときだ。俺の方から会おうとしても、そのときだけ高難易度のかくれんぼでもしているのかというくらい見つからない。なのに探すのをやめるとどこからともなく現れたりするからタチが悪い。
ちなみに「本名はないのか」と聞いてみたこともあるが、「それくらい自分で思い出してよ」と、これまたお得意の軽口で交わされ、結局まだ彼の本名も聞けていない。
「墓参り? 珍しい」
「……やっぱり珍しいんだ」
「ん?」
「さっき住職さんにも言われた。葬式以来、来てないよねって」
母が亡くなってから、というと四ヶ月間ここに足を運んでいないことになるが、かつての俺にはここに立つことを避ける理由があったのだろう。でないと肉親の墓をこんなにも長くほったらかしにはできないはずだ。
鼓膜の奥にこだまするのは、先ほど幻聴の中で聞いた、墓石を前に謝罪を繰り返す自分の声。あの『ごめんなさい』が向かう先に、俺がここを敬遠していた理由も眠っているような気がする。
「……ツルは、こうなる前から俺のこと、よく知ってるんだよな?」
「そうだよ」
「じゃあ、この下で眠ってる人たちのことも?」
俺の肩越し――と言っても俺は幽霊なので若干すり抜けているが――に、特に感慨もなさそうにツルが『千羽家之墓』の文字を眺める。
普段から飄々と笑みを絶やさず、こちらを煙に巻いてばかりの彼は、今みたいに顔から一切の表情が抜け落ちたとき、ことさら感情を推し量ることが難しかった。
「知ってるよ。君のお爺さんとお母さんでしょ?」
やっぱりそうなのか。自分の予想が当たっていたことに、納得したような、ショックを受けたような、奇妙な乖離感があった。
多分、俺がまだ本当の意味で二人の死の記憶を思い出せていないからだろう。親族を亡くしたという喪失感と、家族の訃報という事務的な事実を聞かされた他人事感が同居している。悲しいのか、それとも安堵しているのか、自分でもうまく説明できない。
「前者は病死、後者は事故死」
「事故……」
「自動車事故だったね。ガードレールを突き破って崖下に落ちたって、当時は結構騒がれてたよ」
必要最低限の情報だけを淡々で並べた、簡潔で残酷なまでに分かりやすい答えだった。あまりにもわかりやすすぎて、ストンと小石を呑んだような苦々しさと共にすんなりと受け止められてしまう。
頭の奥がもやもやする。何かを思い出そうとしているのかもしれない。だがその感覚が気持ち悪い。まただ。あの恐ろしい幻聴を聞いたときと同じだ。
俺自身の意志とは別に、魂はまるで俺が記憶を取り戻すことを思いとどまらせようとしているかのようだ。
無人の墓地に乾いた風が吹き抜ける。沈黙する俺を、ツルは隣で何も言わずじっと見守っていた。チョコレート色の瞳には少しずつ陰りが見え始め、
「いっそ、僕と遠いところへ逃げる?」
脈略もなく、突然そんな突拍子もないことを言い出した。
驚き、思わず目を丸くしてツルの目を凝視する。過去の残滓にさらされているのは俺の方なのに、どうしてかツルの眼差しの方が悲しく見えた。
「今ならまだ、二度も不幸を味わわずに済むよ」
いつもそうだ。彼は俺に記憶を思い出さない方がいいと助言してみたり、逆に思い出したいならそうすればいいと促したり、こちらの意思を尊重しようとする意図は見え隠れするものの一本筋が通っておらず、その曖昧さがいつも不安をかき立てる。
まるで過去を望みつつも迷いを捨てきれずにくすぶっている、俺の内心を体現しているかのようだ。
「……なんてね」
俺が返事するより先に、ツルは軽い調子で話題を引っ込める。冗談だよ、とあからさまに強調するかのように。
そういえばいつだったか、ツルがこう話してくれた。自分はただ、一人でも不幸せな子がいなくなればいいと思っているだけだと。
あの日、途方に暮れて校庭に立ち尽くす俺を見つけ、今日に至るまで執拗に構い続けているのも、不幸な子どもをなくしたいという信念に基づく行動なのだろうか。心配されているというより、時々遊ばれているような気もするが……。
「なんで、ツルがそんな顔するんだよ」
「そんな顔って?」
「申し訳なさそうというか、なんというか……」
目の前のこの翳った表情をうまい具合に言い表せる言葉が思いつかず、歯切れの悪い物言いになってしまった。ツルの目が、何もない虚空を映す。立ち並ぶ墓石を写し取った灰色が、瞳の色と混ざって褪せていく。
「そうだね。うん。ごめん」
「?」
「ごめんね」
逃避行の誘いをかけてきたかと思えば、今度はなぜか謝罪された。思わず自分でも自覚できるほど、思い切り眉間にしわが寄ってしまう。普段から本心の読めない言動が多いヤツだけど、今日は輪にかけて意味が分からない。
「……ツルって、よくわからない」
「やっぱり? よく言われる」
再び軽口を叩き始めたツルは、いつもとなんら変わらないように見えた。先ほど一瞬、確かに覗いたはずの寂寥の正体は不明のまま、軽薄のヴェールに隠されてしまう。
どうして時々、こんなにもツルが遠いのだろう。彼は俺の過去を知っていて、俺の現状を面白がるが、自分自身の背景については何一つ語ろうとしない。いつだって鏡のように俺の心を反射しているだけのようで、そこに彼の”体温”はどこまであるのか。
先ほど、住職さんが俺を人間として扱ったことを思い出す。幽霊を知る人がいるのだから、同じようにツルを知る人もこの町にいるはずだ。
そういう人がいるところも、ツルが俺以外の誰かと話しているところも、一度も見たことがなかった。
「俺たち……本当に友達だったのか?」
ツルと出会ってから、何度も首をもたげた疑問。彼と話していると、昔からの親友であるような錯覚に陥ることもあるが、赤の他人だったような疎外感を覚えることもしばしある。いっそ実は幼馴染か何かでしたと言われたならまだ納得の一つもできるが、そういう感覚もない。
光里を目にしたときと違い、幼い頃から蓄積され続けてきたであろう情愛を彼には感じない。ただ言いようのない心地よさと、この目に身を委ねてしまいたいという不思議な引力だけが、俺をツルという底なし沼に捉えて離さない。
これではまるで、俺が彼に依存しかけているようではないか。
「君がそう思ってくれる限りは」
猫のようにツルがすっと目を細めて笑う。またも答えになってないあやふやな回答でかわされてしまった。
だが肯定とも否定とも取れるその言葉は、日が昇ると共に消えていく蜃気楼のように不安定で、見捨てられたような寂しげで達観した響きを孕んでいた。
つぐみの家の屋根の上で夜を明かし、ぼんやりと海の果てに差す朝日を眺める。幽霊には睡眠をとるという概念がなく、おかげでこの一ヶ月の間、夜がやけに長く感じた。
立山連峰の背後に後光が差し、淀んだ乳白色の空が色づき始める。遠い対岸に望む工場群の無骨なシルエットが陽炎のように揺らめき、高波が迫ってくるかのように波に乗りながらぼやけた水平線の上を漂う。
富山湾に面したこの辺りは、春先に蜃気楼が見えることで有名だ。魚津の方では蜃気楼が出ると町に放送も流れるらしいが、塩越のような小さな町ではそこまで特別待遇されることもなく、毎年訪れる自然現象の一部として景色に溶け込んでいる。
日が完全に昇り、夜間の冷え込みが徐々に緩み始めるとともに、地平線上に浮き上がっていた工場群も霞み、いつもの見慣れた風景の枠に収まっていく。その頃にもなると町も人も目を覚まし、往来を走る車の数が増え始める。
つぐみの家からもにぎやかな声が漏れ出し、一階のテーブルを囲んで朝食を食べているのがカーテンの隙間からわずかに覗く。光里の姿を見つけ、好物らしきウィンナーをフォークで刺して笑っている様子に安堵する。
七時を過ぎるとホームの子どもたちは各々学校に行く支度を始め、一人ずつバラバラに玄関を抜けて登校していく。一人だけまだ未就学児である光里は、職員の女性に手を引かれ、最後に家を出る。覚えておらずとも、ひと月近くホームを観察していれば生活サイクルもおのずと見えてくる。
光里を保育園に届けてから、恐らく職員が自転車を漕いでスーパーまで買出しに向かうだろう。毎朝訪れるこのルーティンの中に、自分の暮らしも確かに混ざっていたはずなのだ。
いつもなら光里が保育園に向かうのを見送ってから学校へ移動するのだが、その日は道中で予想外の後ろ姿に遭遇した。
「……ツル?」
正門へ向かう最後その坂道のふもとで、ツルを見かけた。制服のポケットに両手を突っ込み、カバンも持たず手ぶらだ。俺には気づいていないらしく、坂を上って学校へは行かず、別の坂道をまっすぐ上っていく。
こんな午前中に、学校にも行かずどこへ行くつもりなのだろう。
興味が湧き、俺は誘われるようにその背中を追いかけた。細い道を行っているせいか、ひとたび家々の間に踏み入ると途端に車の走行音が遠のき、静寂が訪れる。
常に数メートル遠い先に、ツルの背中はあった。気取られている気配はないが、なぜか距離が遠ざかることも近づくこともない。視力はあまりいい部類ではないのだが、前を歩くツルの輪郭だけはやけにくっきりと鮮明に浮かぶ。
そのままいくつも角を曲がり、やがてツルは山の中腹にある寺の前で足を止めた。富山湾に開いた漁港から日本海を一望できる、見晴らしのいい場所だ。
簡素な門の傍らには『長石寺』と刻まれた石碑が立っている。金堂の横には、恐らく寺が管理する共同墓地が広がり、ツルはそこへと入っていく。
誰かの墓参りにでも行こうとしてる――?
墓地を囲う塀に遮られ、ツルの姿が視界から消える。すぐ後を追って墓地に向かうが、誰もいない。今の一瞬で見失ってしまったらしい。
平日ということもあり、墓地に人の気配はなかった。辺りは静まり返り、死者が眠る地にふさわしい静謐に包まれている。時折どこからともなくメジロの鳴く声が聞こえ、新緑の木々が風にさわさわとなびく。
俺はキョロキョロと辺りを見渡す。そんなに広い墓地ではなく、身を潜められそうな場所も見当たらない。確かにここに入ったはずのツルを探してふわふわと近くを彷徨ううちに、気づけば奥の一角にある雑木林までたどり着いていた。
墓地の端であろうその林の前には、無数の石碑や石塔婆がひっそりと佇んでいた。特定の家の墓のように塀で区画分けされておらず、地蔵のように一列にずらりと並んでいる。中には石の表面がひび割れたり、苔むしているものもあり、年代は古いものから新しいものまで幅広い。
慰霊碑か、あるいは無縁仏のようなものだろうか。そんな感じがする。彫られた文字を読もうと石碑に近づいたとき、突如背後からザッと土を踏む足音が響く。
「おや、海斗くんではありませんか」
作務衣を着た初老の男性が箒を片手にこちらにやってくる。この墓地を管理する寺の住職さんだろう。
「こんなところでどうしました? 学校はいいのですか?」
「え? あ、はい。今日は、休んでいるので……」
当たり前のように幽霊である俺が見えているようで、そのあまりの自然さについ生身の人間のような反応を返してしまった。
いや、意識不明とはいえ体は生きているから、一応まだ人間ではあるのだが……。
「そうでしたか。失礼。しかし、海斗くんがこんな奥まったところに迷い込むなんて珍しいですね。稔さんと律子さんの墓は向こうですよ?」
少し気まずそうに剃髪した頭を撫でた住職さんは、それから不思議な顔で墓地の一角を右手で軽く指し示す。
その方角に目を向けると、墓地の南側のエリアだ。他のエリア同様お墓が並び、ここからではどれが誰の墓なのかはわからない。しかし俺はその一角に釘付けになった。
稔、律子。病院で、看護師たちもこぼしていた名前。両親か、あるいは俺たちに近しい親族の名前。彼らの墓も、ここにあるのか。
そう考えると途端に居所が悪くなる。まだ、家族すらちゃんと思い出せずにいる自分が申し訳なかった。
「……俺の家族、なんですよね?」
「ええ、そうですよ。どうしました? お爺様と、お母様ではないですか」
「い、いえ、ちょっと……」
怪訝そうな住職さんにかぶりを振り、俺は微笑んで場を取り繕う。ツル以外、俺の記憶喪失を知っている人間はいない。ぼろが出てしまう前に、どうにかこの話題を終わらせたかった。
「稔さんのためにも、少しだけ顔を出してあげたらいかがです? 律子さんが亡くなってから、まだ一度しかお参りに来ていませんよね」
俺の表情から墓参りではないと悟ったのか、住職さんは事情を追及することなく控えめにそう提案してくれた。
「は、はい。そうします」
大人な対応に内心安堵する。しかしこの言い方だと、以前の俺もずいぶん墓参りをおろそかにしていたように聞こえる。
やはり家族とは深い確執があったのだろうか。
結局最後まで、住職さんは俺を幽霊だとは認識しなかったらしい。お堂に戻っていく作務衣の後ろ姿を見送り、千羽家のお墓を探そうと墓地をうろうろする。
大きな柳の木の下に、その墓はあった。周囲と同じありふれた花崗岩の竿石には『千羽家之墓』と刻字され、背後に立つ卒塔婆が風に吹かれてカラカラと鳴る。花立にはしおれた花が差されたままで、確かにお参りが開いてしまっていることを示している。
竿石の裏に刻みきれなかった歴代の千羽家の故人の享年や戒名が、傍らの墓誌に刻字されている。その末尾に、二つの名前を見つけた。
『千羽稔』
『千羽律子』
名前だけでしか登場してこなかった家族の名前を、初めて克明にこの目に映した。
前者の享年は二年前の九月中頃。生年月日から換算して六十歳あまりで、恐らくは祖父だっただろう。
対して後者は生まれが三十年ほど前で、年齢から考えると俺たちの母親であるのが妥当な推測だ。
だがその没年月日は、今からわずか四か月前の元日だった。
ドクンと、ないはずの心臓が嫌な音を立てる。頭上ではかもめの群れが旋回し、こちらを警告するようにしきりに鋭く鳴く。
近すぎる。そう思った。俺が投身を図ったのが先月。そのたった数か月前に、母親が亡くなっている。そして俺たち兄妹は施設で暮らしている。これは――偶然だろうか。
刻まれた戒名は二人分で、父親らしき人の名前はない。いなかったのか、あるいは別の墓で眠っているのか。どちらにせよ、公園で聞いたあの嫌な幻聴が蘇り、無意識に二の腕を強く握りしめる。
あれが、俺たちの父親の声だったのだろうか。それとも、別の人? ただ一つわかるのは、かつての暮らしが決して幸福とは言えなかったこと。記憶を失くしてもなお、その事実は無意識の反応として心身に刻みつけられている。
『ごめんなさい……ごめんなさい……』
記憶の奥底で、誰かが墓前で謝罪を繰り返す光景が浮かぶ。降りしきる雨の中、一人首を垂れて立ち尽くす。
それは間違いなく、俺自身の声だった。
「あれ? もしかしてつけてた?」
「うわっ!」
突然耳元で囁き声が聞こえ、我に返ると同時に飛び上がる。すぐ後ろでは、ツルがいたずらに成功した子どものようにしたり顔で笑っていた。
今までどこに隠れていたのだろう。さっきまで全然見つけられなかったのに、本当に神出鬼没という言葉が似合う奴だ。
「僕にかまけてないで、ちゃんと学校に行った方がいいんじゃない?」
「かまけてるわけじゃ……だいたい、それを言うならお前も人のこと言えないだろ。授業はいいのかよ」
「青春を謳歌するためには、適度にサボることも大事って誰かが言ってたからね」
「そんなこと、誰が言ったんだ」
「んー、僕?」
自分かよ、と内心思わず突っ込んだ。ツルと出会ってからひと月あまり、この人を食ったような飄々とした減らず口にも慣れてきた。
幽霊になってからの一ヶ月間、ツルとは学校の屋上以外にもいろいろな場所で遭遇してきた。つぐみの家の前のあの公園だったり、海岸沿いの堤防の上だったり、山の中腹にある展望台だったり、彼はいつでも神出鬼没で、いつまでも謎に包まれたままだった。
今回は珍しく町中で偶然見かけたが、ツルが顔を合わせるときは、決まって彼の方から俺を訪ねてきたときだ。俺の方から会おうとしても、そのときだけ高難易度のかくれんぼでもしているのかというくらい見つからない。なのに探すのをやめるとどこからともなく現れたりするからタチが悪い。
ちなみに「本名はないのか」と聞いてみたこともあるが、「それくらい自分で思い出してよ」と、これまたお得意の軽口で交わされ、結局まだ彼の本名も聞けていない。
「墓参り? 珍しい」
「……やっぱり珍しいんだ」
「ん?」
「さっき住職さんにも言われた。葬式以来、来てないよねって」
母が亡くなってから、というと四ヶ月間ここに足を運んでいないことになるが、かつての俺にはここに立つことを避ける理由があったのだろう。でないと肉親の墓をこんなにも長くほったらかしにはできないはずだ。
鼓膜の奥にこだまするのは、先ほど幻聴の中で聞いた、墓石を前に謝罪を繰り返す自分の声。あの『ごめんなさい』が向かう先に、俺がここを敬遠していた理由も眠っているような気がする。
「……ツルは、こうなる前から俺のこと、よく知ってるんだよな?」
「そうだよ」
「じゃあ、この下で眠ってる人たちのことも?」
俺の肩越し――と言っても俺は幽霊なので若干すり抜けているが――に、特に感慨もなさそうにツルが『千羽家之墓』の文字を眺める。
普段から飄々と笑みを絶やさず、こちらを煙に巻いてばかりの彼は、今みたいに顔から一切の表情が抜け落ちたとき、ことさら感情を推し量ることが難しかった。
「知ってるよ。君のお爺さんとお母さんでしょ?」
やっぱりそうなのか。自分の予想が当たっていたことに、納得したような、ショックを受けたような、奇妙な乖離感があった。
多分、俺がまだ本当の意味で二人の死の記憶を思い出せていないからだろう。親族を亡くしたという喪失感と、家族の訃報という事務的な事実を聞かされた他人事感が同居している。悲しいのか、それとも安堵しているのか、自分でもうまく説明できない。
「前者は病死、後者は事故死」
「事故……」
「自動車事故だったね。ガードレールを突き破って崖下に落ちたって、当時は結構騒がれてたよ」
必要最低限の情報だけを淡々で並べた、簡潔で残酷なまでに分かりやすい答えだった。あまりにもわかりやすすぎて、ストンと小石を呑んだような苦々しさと共にすんなりと受け止められてしまう。
頭の奥がもやもやする。何かを思い出そうとしているのかもしれない。だがその感覚が気持ち悪い。まただ。あの恐ろしい幻聴を聞いたときと同じだ。
俺自身の意志とは別に、魂はまるで俺が記憶を取り戻すことを思いとどまらせようとしているかのようだ。
無人の墓地に乾いた風が吹き抜ける。沈黙する俺を、ツルは隣で何も言わずじっと見守っていた。チョコレート色の瞳には少しずつ陰りが見え始め、
「いっそ、僕と遠いところへ逃げる?」
脈略もなく、突然そんな突拍子もないことを言い出した。
驚き、思わず目を丸くしてツルの目を凝視する。過去の残滓にさらされているのは俺の方なのに、どうしてかツルの眼差しの方が悲しく見えた。
「今ならまだ、二度も不幸を味わわずに済むよ」
いつもそうだ。彼は俺に記憶を思い出さない方がいいと助言してみたり、逆に思い出したいならそうすればいいと促したり、こちらの意思を尊重しようとする意図は見え隠れするものの一本筋が通っておらず、その曖昧さがいつも不安をかき立てる。
まるで過去を望みつつも迷いを捨てきれずにくすぶっている、俺の内心を体現しているかのようだ。
「……なんてね」
俺が返事するより先に、ツルは軽い調子で話題を引っ込める。冗談だよ、とあからさまに強調するかのように。
そういえばいつだったか、ツルがこう話してくれた。自分はただ、一人でも不幸せな子がいなくなればいいと思っているだけだと。
あの日、途方に暮れて校庭に立ち尽くす俺を見つけ、今日に至るまで執拗に構い続けているのも、不幸な子どもをなくしたいという信念に基づく行動なのだろうか。心配されているというより、時々遊ばれているような気もするが……。
「なんで、ツルがそんな顔するんだよ」
「そんな顔って?」
「申し訳なさそうというか、なんというか……」
目の前のこの翳った表情をうまい具合に言い表せる言葉が思いつかず、歯切れの悪い物言いになってしまった。ツルの目が、何もない虚空を映す。立ち並ぶ墓石を写し取った灰色が、瞳の色と混ざって褪せていく。
「そうだね。うん。ごめん」
「?」
「ごめんね」
逃避行の誘いをかけてきたかと思えば、今度はなぜか謝罪された。思わず自分でも自覚できるほど、思い切り眉間にしわが寄ってしまう。普段から本心の読めない言動が多いヤツだけど、今日は輪にかけて意味が分からない。
「……ツルって、よくわからない」
「やっぱり? よく言われる」
再び軽口を叩き始めたツルは、いつもとなんら変わらないように見えた。先ほど一瞬、確かに覗いたはずの寂寥の正体は不明のまま、軽薄のヴェールに隠されてしまう。
どうして時々、こんなにもツルが遠いのだろう。彼は俺の過去を知っていて、俺の現状を面白がるが、自分自身の背景については何一つ語ろうとしない。いつだって鏡のように俺の心を反射しているだけのようで、そこに彼の”体温”はどこまであるのか。
先ほど、住職さんが俺を人間として扱ったことを思い出す。幽霊を知る人がいるのだから、同じようにツルを知る人もこの町にいるはずだ。
そういう人がいるところも、ツルが俺以外の誰かと話しているところも、一度も見たことがなかった。
「俺たち……本当に友達だったのか?」
ツルと出会ってから、何度も首をもたげた疑問。彼と話していると、昔からの親友であるような錯覚に陥ることもあるが、赤の他人だったような疎外感を覚えることもしばしある。いっそ実は幼馴染か何かでしたと言われたならまだ納得の一つもできるが、そういう感覚もない。
光里を目にしたときと違い、幼い頃から蓄積され続けてきたであろう情愛を彼には感じない。ただ言いようのない心地よさと、この目に身を委ねてしまいたいという不思議な引力だけが、俺をツルという底なし沼に捉えて離さない。
これではまるで、俺が彼に依存しかけているようではないか。
「君がそう思ってくれる限りは」
猫のようにツルがすっと目を細めて笑う。またも答えになってないあやふやな回答でかわされてしまった。
だが肯定とも否定とも取れるその言葉は、日が昇ると共に消えていく蜃気楼のように不安定で、見捨てられたような寂しげで達観した響きを孕んでいた。
