黎明の町より望む海面は鏡面のように凪ぎ、空が白みゆくと共に水平線の向こうに逆さまの町が浮かぶ。
垂直に引き延ばされた町並みが霞み、早朝から漁に出ている漁船が、まるで宙を進むトビウオの魚影のように空からぶら下がって泳いでいる。
誰もいない校庭で、一人地平線を遠望するうち、背後の山間から朝日が控えめに顔を覗かせる。その眩しさに恥じらうように、海面を揺らめく蜃気楼の幻影はそそくさと霧散してしまった。
立て続けにあり得ないことばかり起こり続けた日の翌日としては、これ以上なく幻想的で美しい一日の始まりだった。
「すでにみんな聞き知ってると思いますが、昨日、うちのクラスの千羽くんが校舎の屋上から転落しました」
全校集会で通達され、朝のホームルームでも担任の男性教師――出席簿には須藤環とあった――が事故のことを生徒たちに伝えていた。二年二組のプレートが掲げられたこの教室が、俺のいたクラスのようだ。
「現在は病院で治療中で、命は取り留めたそうですが、かなりの重傷と聞いています。詳しいことは学校側が確認中ですので、むやみに憶測や噂を広めることは控えてください。今は一刻も早く、千羽くんの回復を祈りましょう」
祈られている本人が、まさに今、同じ教室の一番後ろでそれを聞いているとは誰も気づいていない。三人三様の反応を見せるクラスメイトたちの背中を、俺は複雑な内心で眺めた。
ホームルームが終了したあとも、教室内のざわついた空気は収まらなかった。昨日まで同じ教室にいた人間の不幸は、やはりそれなりに動揺を引き起こすものらしい。
「千羽のやつ、なんで飛び降りちまったんだろう。真面目なヤツだったのに」
「自分からはあんましゃべんねぇけど、話しかけりゃ付き合ってくれるし、結構人当たりいい奴だっただけどな」
「やっぱり悩みとかあったのかな? あんまりそんな風には見えなかったけど……」
「ねぇー。あたし席近いからたまに勉強教えてもらってたのに」
四方を取り巻くクラスメイトたちの残念そうな、あるいは不思議そうな囁きが不協和音を奏で、自分が教室でさほど浮いた存在ではなかったと知れば知るほど、誰にも気づかれない今が空虚でたまらない。
いつもの空間から人間が一人欠けても、幽霊が一体紛れ込んでも、世界は変わらず回っていく。
窓際の最後尾にぽっかりと空いた席。そこが俺が座っていた席なのだろう。数人のクラスメイトがそちらに目を向けては各々の席に戻っていく。どこにでもいた平凡な高校生。彼らの口から語られる俺の輪郭は、そうとしか形容できないものだった。
「でもあいつん家、なんていうか……いろいろあったみたいじゃん? 関係あんのかな」
「さぁ……千羽って自分のことはほとんどしゃべんねぇから」
少なくとも学校には、屋上から飛び降りる理由になりそうなものはないように思う。いじめられている様子もなく、良くも悪くも地味で普通といった具合だ。
一時限目は教室移動のようで、クラスメイトたちが化学の教科書を持ってぞろぞろと教室を出ていく。最後の一人が電気を消し、無人になった教室に俺だけが残る。一箇所だけ開けっ放しの窓から風が流れ込み、カーテンをいたずらに揺らす。
彼らの後をついて教室を出ようとしたとき、一際強い風が教室を吹き抜けた。
ヒュオと音を立ててカーテンが勢いよく翻り、その音にとっさに振り返くと、ポトリ、視線の先で小さな折り鶴が冷たい椅子の上に転がる。
俺の机の中から零れ出たその和紙の鶴はぴったりと羽根を閉ざし、何かを訴えるように無言でこちらを見つめていた。
午前中はクラスメイトの近くでできる限り聞き耳を立てていたが、特にめぼしい収穫はなかった。
昼休みの開始を告げるチャイムを聞きながら、俺はふらりとまた屋上に足を運んだ。事故があったということで屋上に通じる出入り口は施錠されていたが、壁を貫通する幽霊には関係のない話だ。
昨日と変わらず、屋上は今日も明るい日差しに照らされていた。遠くに望む濃紺の海面が白く瞬き、寄せて返す波が荒々しく堤防を打つ。
ここが富山湾に面した小さな町であると、学校の掲示板に張り出された掲示物に書かれた住所を読んで知った。塩越高校という名前のこの学校は町内唯一の高校で、全校生徒はおよそ二百人程度。普通科以外に工業コースもあり、専門高校としての側面もある。町の北にある山の裾から中腹にかけて建ち、校舎も二つあるなど、生徒数の割にはそれなりに広い敷地を持っているらしい。
空と太陽と風と、自分しかいない、まっさらなコンクリートの世界。ここに立って空を見上げていると、不思議と心が凪いでくる。もしかして以前から、ここにはよく来ていたのかもしれない。
近くに窓が開いている教室があるのだろう。下方からガヤガヤと賑わう昼休みの喧騒が昇ってくる。生身の体を持つ人間が作る日々の営みが、屋上の床一枚隔ててすぐ下には広がっている。すぐ近くにあるのに、今は果てしなく遠い。
この場所でだけ、本当の意味で自由に息をすることができていたような気がする。
「へぇ、また来たんだ」
頭上から降ってきた声が風の音を遮る。聞き覚えのあるテノール。例の貯水槽の足場から、ツルがあぐらをかいて俺を眺めていた。
今の今まで、人がいることに気づかなかった。さっきまで誰もいなかったはずだが……単に寝転がっていて下から見えてなかったのだろうか。
「あの金網を覗き込む勇気が持てたの?」
「そういうわけじゃないけど……」
「違うんだ。ふぅん」
ツルは意味ありげにすっと目を細める。その眼差しは全てを見透かすようで、俺はいたたまれず顔を背ける。
「ツルは、どうして俺に構うんだよ」
クラスメイトたちを観察しても、多分ここまで距離の近い人間は俺の周りにはいなかった。しかも今の俺は記憶喪失で、絡んだところで別段面白いことがあるとも思えない。
二年二組の教室に、ツルの席はなかった。一組か、あるいは工業コースの生徒だろう。そうするとますます接点がよくわからない。俺と彼はどういう経緯で出逢い、彼は俺のなんなのだろう。
「うーん、お友達だったから」
「……」
「あ、信じてないね?」
わかりやすく顔に出ていたのか、俺の内心を正確に代弁したツルがクツクツと面白がるように笑う。
「僕は君のことを、君以上によく知っているつもりだよ。例えば一人になりたいときはいつもここに来てたとか、動揺すると今みたいに無意識に目が泳ぐとか」
そんなことまで知っているのかと目が泳ぎそうになり、半テンポ遅れて本当に指摘された通りじゃないかと頭を抱える。
ツルがまたケラケラと、してやったように笑う。思わずジト目で睨みつけた。ただでさえいっぱいいっぱいなのに、妙にからかってくるのは勘弁してほしい。本当に彼は何がしたいんだ。
「昨日は怖がってたのに、今日は不安の方が勝ってるんだ」
「それは……そうだよ。何も覚えてないんだから」
自分が何者かもわからないことが、こんなにも心細いとは知らなかった。記憶がないことは、過去がないということ。過去がなければ、人は自分自身が生きてきた軌跡を証明することもできない。
そんな状況に置かれている今が、たまらなく怖い。
「それって悪いことかな?」
「え?」
「その失くした記憶、君は思い出したいわけ?」
さっきまでおちゃらけた雰囲気だったのに、たった一言でツルのまとう空気が変わる。まるで最初に屋上で出会ったときのようだ。
チョコレート色の瞳ににじむ言い得ない圧に気圧されそうになりながらも、俺はためらいがちに頷く。自分の存在意義のためにも、できることなら失くしてしまった過去は取り戻したい。
「どうして?」
「どうしてって……」
「自分が死のうとした理由を、どうしてわざわざ知りたがるの?」
非情にも覚えるその問いかけは、しかし残酷な正論だった。とっさに返せる答えが見当たらず、俺はうつむく。
確かに、ツルの言う通りだ。俺が過去を思い出したいと望むことは、同時に俺がなぜ屋上から飛び降りたのか、その理由と向き合うことと同義だ。
「忘れたままでいた方が、いいときもあると思わない?」
かつて自分を追い詰めたかもしれない記憶なら、思い出さない方が精神的にいいのはそうだろう。至極まっとうな意見だ。だがどうしてか、それは嫌だとくすぶっている心があった。例えもう一度傷つくことになったとしても、忘れたままではいたくないものがあるのだと叫びたがっているように。
「……それだと、ツルのことも忘れたままだろ」
覚えていないもの、忘れたくないもの。他にもたくさんあっただろうに、真っ先に口から出たのはそんな一言だった。
「それは、なんか嫌だ」
ツルのチョコレート色の瞳が、一瞬意外そうに見開かれる。俺自身、なんでそんな風に思ったのだろうと、自分で言っておいて疑問だった。唯一幽霊である俺に気づいてくれた人と、赤の他人で居続けることがよほど申し訳ないのだろうか。そんな風には全く思っていないのだが……。
「君って、変なヤツだよね」
「ツルには言われたくないんだけど」
「僕は自分でわかってるから」
わかってるのか。自覚ありとはまたタチの悪い。彼と話すこの時間は不思議と嫌ではないが、我ながら妙な奴に気に入られたものだ。
そうこうしているうちに、昼休みの終了を告げる予鈴が鳴る。もうじき午後の授業が始まるのに、ツルは貯水槽から降りてくる気配もなければ、その場を動こうとせず座ったままだ。
すました横顔に、どうやら堂々と授業をサボる気だと察する。俺の自称友人はなかなか問題児のようだ。
給水塔の上に座り、空を流れる雲をぼうっと眺めるツルは絵に描いたように美しかった。まるでここだけ時が止まり、世界が彼一人のために存在しているかのような不思議な全能感がある。
住む世界が違う、というと月並みだろうか。彼は俺を友人と称しているが、ツルの隣にいる自分の姿はうまく思い描けない。
無性に目を離しがたくてずっと眺めていると、屋上に通じるドアが開く。現れたのは三人組の女子生徒で、上履きのラインは赤。確か一つ下の学年カラーだ。人目を気にしているのか周囲をしきりに確認し、「行こ行こ」などと言い合いながら小走りに貯水槽の方へやってくる。当然のように俺の姿は見えておらず、そのまま建屋の裏側に回り込んでいった。
なんだろうとツルを見上げようとして、建屋の上からいつの間に彼の姿が消えていることに気付く。今の一瞬で逃げたか、あるいは隠れたのだろうか。それらしい物音もなかったのに、忍者みたいな早業だ。
ほどなく三人組が戻り、どうやら用が済んだようで嬉しそうにしている。そこへ本鈴のチャイムが響き、「やばっ!」と焦ったように、彼女たちはまたそそくさと屋上から去っていく。
なんだろう――?
その奇妙な行動が気になり、彼女たちが向かった建屋の裏、貯水槽の麓を覗き込む。貯水槽から伸びるパイプの下にコンクリートブロックがいくつか積み上げられており、その周囲になぜか無数の鶴が寄せ集められていた。
「折り鶴?」
あまりに屋上という場にそぐわない小物たち。なんで、こんなものがここに……。
「また増えた。女の子って好きだねぇ、おまじない」
給水塔の足場から顔をのぞかせたツルがこちらを見下ろす。その口調は困っているような、呆れているようなものだった。
「これ、知ってるんだ?」
「うん。『折り鶴サマ』ってやつ」
聞き馴染みのない単語に首をひねると、ツルのチョコレート色の瞳が真っ直ぐ俺を見やる。
「見ての通り、折り鶴を折るおまじないだよ。折り紙の裏に願い事を書いて、それで鶴を折ってここに納めるんだ」
「へぇ……でも、なんでわざわざここに納めるの?」
「さぁ? 目立たないからじゃない?」
いかにも適当な具合で答えるツルに、俺は今一度折り鶴の群れに視線を戻す。折り重なって身を寄せ合う色とりどりの鶴は、どこか波打ちに流れ着いた流木のようにも見える。
「七不思議、みたいなものかな」
「そうじゃない? 誰にも見られずに鶴を納められれば、鶴に折り込んだ願いを『折り鶴サマ』が叶えてくれるんだって」
「折り鶴、サマ?」
この手の願いが叶う系のまじないは、消しゴムを使ったり鉛筆を使ったり、色々とバリエーションがあるものだが、折り鶴を作らせるとは珍しい。というか折り鶴サマって、見たままのなんとも安直な名前だ。もう少し名付けようがあったのでは――。
「お願いしてあげよっか?」
「え?」
「記憶、思い出したいんでしょ?」
思わぬ提案に面食らう。捉えどころのないヤツだとは思っていたが、本当に気まぐれで何を言い出すか読めないヤツだ。
風に震え、日陰で身を寄せ合う折り鶴たちに目を向ける。神様もまじないも、真剣に信じたりはしないが、時には神頼みしたくなる気持ちも理解できる。切実にしろ、気休めにしろ、誰かが代わりに叶えてくれるなら、これほど楽な方法はない。
そうして願いを叶える責任まで他人に押し付けることが、後々まで自分自身を苛むことになるとも知らずに。
「――いい。こういうのは、自力でたどり着かないとダメだと思うから」
「真面目だねぇ。なら頑張って。忠告はしたよ」
首を横に振る俺に、ツルは一つ肩をすくめ、ゴロンと足場の上に寝転がる。突き放すような、だが完全には見捨ててもないような、近いのか遠いのかよくわからないおかしな距離感だ。
「……ツルってよくわかんないな」
青空を写して白く輝くその整った横顔に、ポツリと本音が漏れた。
「思い出さなくてもいいと言ったり、今度は応援してみたり、本当は何がしたいんだ」
この自称友人の心の内がわからない。彼は一体、俺をどうしたいのだろう。こうして無駄に絡んできて、コロコロと手のひらを返して、遊ばれているのかとも思ったが、それだけとも思えない。
「……」
返事はなかなか返ってこなかった。ツルは空を見上げたまま無言を貫いている。少し残念に思いながら、彼はきっと答えてくれないだろう、という奇妙な納得感もあり、それ以上追及しようとは思わなかった。
「一人でも」
思わなかったが、その矢先、わずかでも風が吹けばかき消されそうなほど、小さな呟きが耳に届く。
「不幸せな子がいなくなればいいと思ってるだけだよ」
唐突に降ってきたその言葉の意図を測れず、俺は首を傾げる。明後日の方向を向くツルの表情は、ここからではよく見えない。嘘を言っているようには聞こえなかったが、質問の答えとしての脈略もまたなかった。
「答えになってない気がするんだけど……」
「うん、そうかもね」
煙に巻くようにツルは軽く笑う。会話はそこで切れてしまい、再び凪いだ沈黙がその場に漂う。
俺もまた口を閉ざす。気まずくなるかと思ったが、訪れた静謐は、存外心地良いと思える時間だった。
記憶を失くす以前の俺たちは、どういう間柄だったのだろう。
沈黙に身を委ねながら、ふとそんなことを思う。本当によくある友人同士だったのだろうか。その割に自分はあまりに彼の存在を無抵抗に受け入れ過ぎているし、ツルの言動も謎だ。
どんなに仲の良い友人でも、仲良くなった過程を忘れてしまえば初対面と同義だ。こんなにもあっさり、よく知らない相手に気を許せるはずがない。例え無意識が覚えていたとしても、多少の警戒心は残る。
それが一切感じられないことに、自分自身が一番戸惑っていた。
海から吹く塩辛い風が屋上を撫で、風にあおられた折り鶴がいくつかコロコロと床を転がる。さらにそのうちの何羽かは金網の下の隙間をくぐり抜け、空に飛び立つように屋上の縁から落ちていく。
記憶さえ戻れば、全て明るみになるだろうか。ここで何があったか、自分の身に何が起きたか、ツルとの間にどんな過去があったか――。
落下する折り鶴の姿が、屋上から自ら飛び降りたという自分自身の背中に重なり、とっさに顔を背けていた。
垂直に引き延ばされた町並みが霞み、早朝から漁に出ている漁船が、まるで宙を進むトビウオの魚影のように空からぶら下がって泳いでいる。
誰もいない校庭で、一人地平線を遠望するうち、背後の山間から朝日が控えめに顔を覗かせる。その眩しさに恥じらうように、海面を揺らめく蜃気楼の幻影はそそくさと霧散してしまった。
立て続けにあり得ないことばかり起こり続けた日の翌日としては、これ以上なく幻想的で美しい一日の始まりだった。
「すでにみんな聞き知ってると思いますが、昨日、うちのクラスの千羽くんが校舎の屋上から転落しました」
全校集会で通達され、朝のホームルームでも担任の男性教師――出席簿には須藤環とあった――が事故のことを生徒たちに伝えていた。二年二組のプレートが掲げられたこの教室が、俺のいたクラスのようだ。
「現在は病院で治療中で、命は取り留めたそうですが、かなりの重傷と聞いています。詳しいことは学校側が確認中ですので、むやみに憶測や噂を広めることは控えてください。今は一刻も早く、千羽くんの回復を祈りましょう」
祈られている本人が、まさに今、同じ教室の一番後ろでそれを聞いているとは誰も気づいていない。三人三様の反応を見せるクラスメイトたちの背中を、俺は複雑な内心で眺めた。
ホームルームが終了したあとも、教室内のざわついた空気は収まらなかった。昨日まで同じ教室にいた人間の不幸は、やはりそれなりに動揺を引き起こすものらしい。
「千羽のやつ、なんで飛び降りちまったんだろう。真面目なヤツだったのに」
「自分からはあんましゃべんねぇけど、話しかけりゃ付き合ってくれるし、結構人当たりいい奴だっただけどな」
「やっぱり悩みとかあったのかな? あんまりそんな風には見えなかったけど……」
「ねぇー。あたし席近いからたまに勉強教えてもらってたのに」
四方を取り巻くクラスメイトたちの残念そうな、あるいは不思議そうな囁きが不協和音を奏で、自分が教室でさほど浮いた存在ではなかったと知れば知るほど、誰にも気づかれない今が空虚でたまらない。
いつもの空間から人間が一人欠けても、幽霊が一体紛れ込んでも、世界は変わらず回っていく。
窓際の最後尾にぽっかりと空いた席。そこが俺が座っていた席なのだろう。数人のクラスメイトがそちらに目を向けては各々の席に戻っていく。どこにでもいた平凡な高校生。彼らの口から語られる俺の輪郭は、そうとしか形容できないものだった。
「でもあいつん家、なんていうか……いろいろあったみたいじゃん? 関係あんのかな」
「さぁ……千羽って自分のことはほとんどしゃべんねぇから」
少なくとも学校には、屋上から飛び降りる理由になりそうなものはないように思う。いじめられている様子もなく、良くも悪くも地味で普通といった具合だ。
一時限目は教室移動のようで、クラスメイトたちが化学の教科書を持ってぞろぞろと教室を出ていく。最後の一人が電気を消し、無人になった教室に俺だけが残る。一箇所だけ開けっ放しの窓から風が流れ込み、カーテンをいたずらに揺らす。
彼らの後をついて教室を出ようとしたとき、一際強い風が教室を吹き抜けた。
ヒュオと音を立ててカーテンが勢いよく翻り、その音にとっさに振り返くと、ポトリ、視線の先で小さな折り鶴が冷たい椅子の上に転がる。
俺の机の中から零れ出たその和紙の鶴はぴったりと羽根を閉ざし、何かを訴えるように無言でこちらを見つめていた。
午前中はクラスメイトの近くでできる限り聞き耳を立てていたが、特にめぼしい収穫はなかった。
昼休みの開始を告げるチャイムを聞きながら、俺はふらりとまた屋上に足を運んだ。事故があったということで屋上に通じる出入り口は施錠されていたが、壁を貫通する幽霊には関係のない話だ。
昨日と変わらず、屋上は今日も明るい日差しに照らされていた。遠くに望む濃紺の海面が白く瞬き、寄せて返す波が荒々しく堤防を打つ。
ここが富山湾に面した小さな町であると、学校の掲示板に張り出された掲示物に書かれた住所を読んで知った。塩越高校という名前のこの学校は町内唯一の高校で、全校生徒はおよそ二百人程度。普通科以外に工業コースもあり、専門高校としての側面もある。町の北にある山の裾から中腹にかけて建ち、校舎も二つあるなど、生徒数の割にはそれなりに広い敷地を持っているらしい。
空と太陽と風と、自分しかいない、まっさらなコンクリートの世界。ここに立って空を見上げていると、不思議と心が凪いでくる。もしかして以前から、ここにはよく来ていたのかもしれない。
近くに窓が開いている教室があるのだろう。下方からガヤガヤと賑わう昼休みの喧騒が昇ってくる。生身の体を持つ人間が作る日々の営みが、屋上の床一枚隔ててすぐ下には広がっている。すぐ近くにあるのに、今は果てしなく遠い。
この場所でだけ、本当の意味で自由に息をすることができていたような気がする。
「へぇ、また来たんだ」
頭上から降ってきた声が風の音を遮る。聞き覚えのあるテノール。例の貯水槽の足場から、ツルがあぐらをかいて俺を眺めていた。
今の今まで、人がいることに気づかなかった。さっきまで誰もいなかったはずだが……単に寝転がっていて下から見えてなかったのだろうか。
「あの金網を覗き込む勇気が持てたの?」
「そういうわけじゃないけど……」
「違うんだ。ふぅん」
ツルは意味ありげにすっと目を細める。その眼差しは全てを見透かすようで、俺はいたたまれず顔を背ける。
「ツルは、どうして俺に構うんだよ」
クラスメイトたちを観察しても、多分ここまで距離の近い人間は俺の周りにはいなかった。しかも今の俺は記憶喪失で、絡んだところで別段面白いことがあるとも思えない。
二年二組の教室に、ツルの席はなかった。一組か、あるいは工業コースの生徒だろう。そうするとますます接点がよくわからない。俺と彼はどういう経緯で出逢い、彼は俺のなんなのだろう。
「うーん、お友達だったから」
「……」
「あ、信じてないね?」
わかりやすく顔に出ていたのか、俺の内心を正確に代弁したツルがクツクツと面白がるように笑う。
「僕は君のことを、君以上によく知っているつもりだよ。例えば一人になりたいときはいつもここに来てたとか、動揺すると今みたいに無意識に目が泳ぐとか」
そんなことまで知っているのかと目が泳ぎそうになり、半テンポ遅れて本当に指摘された通りじゃないかと頭を抱える。
ツルがまたケラケラと、してやったように笑う。思わずジト目で睨みつけた。ただでさえいっぱいいっぱいなのに、妙にからかってくるのは勘弁してほしい。本当に彼は何がしたいんだ。
「昨日は怖がってたのに、今日は不安の方が勝ってるんだ」
「それは……そうだよ。何も覚えてないんだから」
自分が何者かもわからないことが、こんなにも心細いとは知らなかった。記憶がないことは、過去がないということ。過去がなければ、人は自分自身が生きてきた軌跡を証明することもできない。
そんな状況に置かれている今が、たまらなく怖い。
「それって悪いことかな?」
「え?」
「その失くした記憶、君は思い出したいわけ?」
さっきまでおちゃらけた雰囲気だったのに、たった一言でツルのまとう空気が変わる。まるで最初に屋上で出会ったときのようだ。
チョコレート色の瞳ににじむ言い得ない圧に気圧されそうになりながらも、俺はためらいがちに頷く。自分の存在意義のためにも、できることなら失くしてしまった過去は取り戻したい。
「どうして?」
「どうしてって……」
「自分が死のうとした理由を、どうしてわざわざ知りたがるの?」
非情にも覚えるその問いかけは、しかし残酷な正論だった。とっさに返せる答えが見当たらず、俺はうつむく。
確かに、ツルの言う通りだ。俺が過去を思い出したいと望むことは、同時に俺がなぜ屋上から飛び降りたのか、その理由と向き合うことと同義だ。
「忘れたままでいた方が、いいときもあると思わない?」
かつて自分を追い詰めたかもしれない記憶なら、思い出さない方が精神的にいいのはそうだろう。至極まっとうな意見だ。だがどうしてか、それは嫌だとくすぶっている心があった。例えもう一度傷つくことになったとしても、忘れたままではいたくないものがあるのだと叫びたがっているように。
「……それだと、ツルのことも忘れたままだろ」
覚えていないもの、忘れたくないもの。他にもたくさんあっただろうに、真っ先に口から出たのはそんな一言だった。
「それは、なんか嫌だ」
ツルのチョコレート色の瞳が、一瞬意外そうに見開かれる。俺自身、なんでそんな風に思ったのだろうと、自分で言っておいて疑問だった。唯一幽霊である俺に気づいてくれた人と、赤の他人で居続けることがよほど申し訳ないのだろうか。そんな風には全く思っていないのだが……。
「君って、変なヤツだよね」
「ツルには言われたくないんだけど」
「僕は自分でわかってるから」
わかってるのか。自覚ありとはまたタチの悪い。彼と話すこの時間は不思議と嫌ではないが、我ながら妙な奴に気に入られたものだ。
そうこうしているうちに、昼休みの終了を告げる予鈴が鳴る。もうじき午後の授業が始まるのに、ツルは貯水槽から降りてくる気配もなければ、その場を動こうとせず座ったままだ。
すました横顔に、どうやら堂々と授業をサボる気だと察する。俺の自称友人はなかなか問題児のようだ。
給水塔の上に座り、空を流れる雲をぼうっと眺めるツルは絵に描いたように美しかった。まるでここだけ時が止まり、世界が彼一人のために存在しているかのような不思議な全能感がある。
住む世界が違う、というと月並みだろうか。彼は俺を友人と称しているが、ツルの隣にいる自分の姿はうまく思い描けない。
無性に目を離しがたくてずっと眺めていると、屋上に通じるドアが開く。現れたのは三人組の女子生徒で、上履きのラインは赤。確か一つ下の学年カラーだ。人目を気にしているのか周囲をしきりに確認し、「行こ行こ」などと言い合いながら小走りに貯水槽の方へやってくる。当然のように俺の姿は見えておらず、そのまま建屋の裏側に回り込んでいった。
なんだろうとツルを見上げようとして、建屋の上からいつの間に彼の姿が消えていることに気付く。今の一瞬で逃げたか、あるいは隠れたのだろうか。それらしい物音もなかったのに、忍者みたいな早業だ。
ほどなく三人組が戻り、どうやら用が済んだようで嬉しそうにしている。そこへ本鈴のチャイムが響き、「やばっ!」と焦ったように、彼女たちはまたそそくさと屋上から去っていく。
なんだろう――?
その奇妙な行動が気になり、彼女たちが向かった建屋の裏、貯水槽の麓を覗き込む。貯水槽から伸びるパイプの下にコンクリートブロックがいくつか積み上げられており、その周囲になぜか無数の鶴が寄せ集められていた。
「折り鶴?」
あまりに屋上という場にそぐわない小物たち。なんで、こんなものがここに……。
「また増えた。女の子って好きだねぇ、おまじない」
給水塔の足場から顔をのぞかせたツルがこちらを見下ろす。その口調は困っているような、呆れているようなものだった。
「これ、知ってるんだ?」
「うん。『折り鶴サマ』ってやつ」
聞き馴染みのない単語に首をひねると、ツルのチョコレート色の瞳が真っ直ぐ俺を見やる。
「見ての通り、折り鶴を折るおまじないだよ。折り紙の裏に願い事を書いて、それで鶴を折ってここに納めるんだ」
「へぇ……でも、なんでわざわざここに納めるの?」
「さぁ? 目立たないからじゃない?」
いかにも適当な具合で答えるツルに、俺は今一度折り鶴の群れに視線を戻す。折り重なって身を寄せ合う色とりどりの鶴は、どこか波打ちに流れ着いた流木のようにも見える。
「七不思議、みたいなものかな」
「そうじゃない? 誰にも見られずに鶴を納められれば、鶴に折り込んだ願いを『折り鶴サマ』が叶えてくれるんだって」
「折り鶴、サマ?」
この手の願いが叶う系のまじないは、消しゴムを使ったり鉛筆を使ったり、色々とバリエーションがあるものだが、折り鶴を作らせるとは珍しい。というか折り鶴サマって、見たままのなんとも安直な名前だ。もう少し名付けようがあったのでは――。
「お願いしてあげよっか?」
「え?」
「記憶、思い出したいんでしょ?」
思わぬ提案に面食らう。捉えどころのないヤツだとは思っていたが、本当に気まぐれで何を言い出すか読めないヤツだ。
風に震え、日陰で身を寄せ合う折り鶴たちに目を向ける。神様もまじないも、真剣に信じたりはしないが、時には神頼みしたくなる気持ちも理解できる。切実にしろ、気休めにしろ、誰かが代わりに叶えてくれるなら、これほど楽な方法はない。
そうして願いを叶える責任まで他人に押し付けることが、後々まで自分自身を苛むことになるとも知らずに。
「――いい。こういうのは、自力でたどり着かないとダメだと思うから」
「真面目だねぇ。なら頑張って。忠告はしたよ」
首を横に振る俺に、ツルは一つ肩をすくめ、ゴロンと足場の上に寝転がる。突き放すような、だが完全には見捨ててもないような、近いのか遠いのかよくわからないおかしな距離感だ。
「……ツルってよくわかんないな」
青空を写して白く輝くその整った横顔に、ポツリと本音が漏れた。
「思い出さなくてもいいと言ったり、今度は応援してみたり、本当は何がしたいんだ」
この自称友人の心の内がわからない。彼は一体、俺をどうしたいのだろう。こうして無駄に絡んできて、コロコロと手のひらを返して、遊ばれているのかとも思ったが、それだけとも思えない。
「……」
返事はなかなか返ってこなかった。ツルは空を見上げたまま無言を貫いている。少し残念に思いながら、彼はきっと答えてくれないだろう、という奇妙な納得感もあり、それ以上追及しようとは思わなかった。
「一人でも」
思わなかったが、その矢先、わずかでも風が吹けばかき消されそうなほど、小さな呟きが耳に届く。
「不幸せな子がいなくなればいいと思ってるだけだよ」
唐突に降ってきたその言葉の意図を測れず、俺は首を傾げる。明後日の方向を向くツルの表情は、ここからではよく見えない。嘘を言っているようには聞こえなかったが、質問の答えとしての脈略もまたなかった。
「答えになってない気がするんだけど……」
「うん、そうかもね」
煙に巻くようにツルは軽く笑う。会話はそこで切れてしまい、再び凪いだ沈黙がその場に漂う。
俺もまた口を閉ざす。気まずくなるかと思ったが、訪れた静謐は、存外心地良いと思える時間だった。
記憶を失くす以前の俺たちは、どういう間柄だったのだろう。
沈黙に身を委ねながら、ふとそんなことを思う。本当によくある友人同士だったのだろうか。その割に自分はあまりに彼の存在を無抵抗に受け入れ過ぎているし、ツルの言動も謎だ。
どんなに仲の良い友人でも、仲良くなった過程を忘れてしまえば初対面と同義だ。こんなにもあっさり、よく知らない相手に気を許せるはずがない。例え無意識が覚えていたとしても、多少の警戒心は残る。
それが一切感じられないことに、自分自身が一番戸惑っていた。
海から吹く塩辛い風が屋上を撫で、風にあおられた折り鶴がいくつかコロコロと床を転がる。さらにそのうちの何羽かは金網の下の隙間をくぐり抜け、空に飛び立つように屋上の縁から落ちていく。
記憶さえ戻れば、全て明るみになるだろうか。ここで何があったか、自分の身に何が起きたか、ツルとの間にどんな過去があったか――。
落下する折り鶴の姿が、屋上から自ら飛び降りたという自分自身の背中に重なり、とっさに顔を背けていた。
