折り鶴サマの満つる刻

 秋が終わり、冬が始まり、十二月暮れの冬休みが近づきつつある。
 塩越高校では、毎年この時期恒例の避けて通れないイベントが高校二年生にはある。進路希望調査と、それに付随する二者面談だ。
「……では、千羽くんは大学進学はしないと」
 二年二組の教室で、俺は向かい合わせにくっつけた机の前に座り、絶賛二者面談の真っ最中だった。この日は午前授業だったので、窓の外はまだ明るい。
 目の前には眼鏡をかけた中年の男性が資料を両手に座っている。須藤環。化学担当の先生で、俺のクラス担任でもある。記憶喪失になっていた頃は出席簿を見て名前を覚えたものだが、今ではその記憶すら懐かしい。
「はい。高校を卒業したら働くつもりです」
「そうですか。千羽くんの成績なら、国立大学も夢じゃないと思いますけど……」
 手元の成績表と、就職欄に丸を付けた、ほぼ白紙に近い俺の進路希望調査書を見比べ、先生は口惜しそうに眉を下げる。
 一学期は大半を昏睡と入院に費やし、いっとき授業の進捗からずいぶん取り残されてしまった頃もあるが、元々勉強は嫌いではなく、自分でも置いていかれている自覚はあったので、前よりも勉強に力を入れていたのは事実だ。
 だがそれとこれとは話が別、と思っている。今、自分たちが置かれている状況で、大学に通うために必要な四年という時間は、割と本気で葛藤するくらい長すぎる。
「できるだけ妹の選択を狭めないために、そうすべきだと判断しました。何においても、お金って大事ですし」
「相変わらず妹思いのお兄ちゃんですねぇ、千羽くんは。奨学金を取るというのは?」
「考えなかったわけじゃないですけど……妹はようやく来年から小学生で、まだ一人で置いていきたくはないんです」
 そもそも塩越は田舎だ。町内に大学なんて大層な機関は当然ない。通うとなると必然的に町を出ることになる。
 それはつまり、つぐみの家に光里を一人残していくということだ。
 俺と光里が暮らすあの家は、外見こそそこらの一軒家と大差ないが、曲がりなりにも児童養護施設だ。入所できるのは高校生までと、法律で規定されている。
 大学に通う云々以前に、俺は高校を卒業するタイミングで必然的に光里と別々に暮らすことが確定している。そして光里を引き取って一緒に暮らせるほどの地盤も、今の俺にはない。
 幸い長石寺の住職さんが、部屋なら余っているからと引っ越しを勧めてくれていた。亡き祖父の仕事仲間で工房の働き手を探している職人さんがいるようで、そこで雇ってもらえるよう話もつけてくれた。
 だからせめて光里が独り立ちできるくらい心身が成熟するまでは、可能な限り近くで見守り、支えてやろうと思った。
 つぐみの家は、確かに疑似的な家庭のような暖かさはある。でも所詮は他人同士の共同生活の場である以上、真似事の域は脱せない。必要以上に気を遣うし、気は許せても心は開ききれない。少なくとも俺にとってはそういう場所だった。
 俺にとっても、光里にとっても、互いが互いにとって残された最後の家族だ。手を放してしまえば、本当に寄る辺のない根無し草になってしまう。それは、とても寂しい。
「それに、ストレートに新卒資格がほしいのでなければ、大学は行こうと思えばいつでも行けます。多少、後回しにしてもいいかなと」
「なるほど……。全く、とても高二の子どもとは思えない言葉ですね」
 ずり落ちた眼鏡をくいと押し上げ、須藤先生は感心するような、呆れるような苦笑いを浮かべた。
「そうでしょうか」
「そうです。十七歳というのは、普通視野が狭いものです。物事を達観するには幼すぎるはずなんですけどね」
 先生の言わんとすることもわからなくもなくて、俺はすいと目を泳がせて頬を掻く。実際、クラスメイトたちを見ているとみんなもっと純粋に青春を満喫している感じがする。相応に若々しく、相応に子どもらしい。
 なんて、こんなことを自分と同年代の人に対して思っている時点で、早熟といわれてもぐうの音も出ないわけだが。
「……まぁ、その、いろいろあったので」
 皆まで言うまいとお茶を濁すと、身内の不幸から俺自身の入院までの流れを知っている先生も、何も答えず曖昧に頷いた。本当はその裏で、俺と一人にしかわからない罪と葛藤があったが、きっとこれからも告白することはないだろう。
 確かに、今になって改めて振り返ってみると、およそ十七の年に経験するには重たいことばっかりだった気がする。その結果、急速に大人になって今があるのかもしれない。いいことなのかと言われると、無邪気さを放り捨ててしまったので多少もったいない気もしなくもないが……。
 それから来年に向けたコース選択の話を少ししてから、二者面談は終了と相成った。初めから意思が明白だったこともあり、実質状況確認のみのあっさりとした面談だった。
 須藤先生に一礼して教室を出ると、廊下に置かれた待機用の椅子には次の面談予定者がすでに座っている。
「よっ、おつかれー」
 日野だった。彼とは長らく席が隣同士仲良くさせてもらっていたが、残念なことに先月の席替えで教室の端と端になってしまった。おかげでお互いの席へ行くのに毎度教室を横断しなくてはならなくなったが、それもまぁ、悪くない。
「面談、どうだった?」
「特に何もなかったよ。ちょっと雑談したくらい」
「いいよなぁ、千羽。お前成績いいもん。小言言われる隙ねぇじゃん。あー、だりぃ」
 背もたれに体重を預け、心底憂鬱そうに日野が愚痴をこぼす。まだ始まってもないのにもう文句たらたらだが、彼が勉強嫌いであると知っている身としては返答に困る。実際、この前の学期末試験でも全教科平均点以下だった。
 どう返したものかと考えていると、須藤先生が教室から出てきた。次の生徒がいつまで経っても入ってこないものだから、様子を見に来たらしい。
「こら。だるいとか言ってないで早く入りなさい。時間が押してるんだからな」
「ちぇー、わかったって」
 さすがに先生が直々に急かしに来た以上、ごねてもいられない。観念して日野は椅子から立ち上がり、教室の引き戸に手をかける。
「頑張れ、日野」
「おー……」
 すれ違いざまにエールを送ると、たいそうやる気のなさそうな返事が返ってきた。教室に入る直前、ふと日野がこちらを振り返り、思い出したように口を開く。
「千羽ってさ、なんか変わったよな」
 自分ではそういう自覚はなく、俺は小首を傾げた。
「そう?」
「おう。なんつーか、色々吹っ切れたぞー、って感じ」
 他人の目に、今の俺はそんな風に映っているのか。自分では明確に感じ取れない些細な言動の変化も、周りからすると案外如実なのかもしれない。
 そういえばこの頃、前みたいに心を無にして折り紙に没頭する時間が減った。生きていくのに忙しくそれどころじゃないといえばそうだが、確かにこれは前向きな変化かもしれない。
 折り鶴を折ることは、俺にとって決して趣味といえる行為ではなかった。現実逃避の手段として逃げ込んでいた世界に、今は逃げ込まなくなった。逃げ込む必要がなくなった。
 俺は肩をすくめ、茶化すように一つ笑う。
「じゃあ、それはいいことだね」
「だな!」
 俺の答えに日野はニカッと歯を見せて笑い、今度こそ自分自身の二者面談に出陣していった。ガラガラと音を立て、教室の戸が閉められる。説教は勘弁してくださいよ、などと先回りして小言を回避しようとする日野の声が、最後に一瞬だけ聞こえた。
「――いいこと、なんだ」
 傍らから皮肉を言う声がする。振り向かずとも、この声の主を間違えることはない。
 さっきまで廊下には俺と日野しかいなかったのに、俺の背後には張り付くようにもう一人の気配が立っている。生者のものではない。この世ならざる死者のものだ。
「ツル」
「家庭が崩壊したり、自分が死にかけたり、怨霊に一生取り憑かれる羽目になったり、”いいこと”で片付けるには代償が大きすぎると思うけど?」
「……取り憑いてる本人が、それ言う?」
 生前の名を知った今、満と名前で呼ぶべきなのかもしれないが、呼び慣れてしまったのであだ名のツル呼びのままだ。
 代償が大きすぎると彼は言うが、代償が大きすぎたのは彼も同じだと思う。他人の心を軽くしようと始めた嘘のまじないが本物になってしまい、それにより子どもを神隠しさせる怪異に変質させられたツルの方がよほど酷な気がする。
 人を助けとしようとしただけで、その結果自己の存在そのものが消失するなど、あまりに割に合わなさすぎる。半分、俺のせいではあるだろうが……。
 逢魔が時の校舎の屋上での再会から、二三ヶ月くらいは経った。あのとき強引に結んだ約束の通り、ツルは今も俺に憑りついている。一応、繋ぎ止めることには成功した。
 あのあとしばらくして、行方不明になっていた町の子どもたちは、それぞれ別々の場所で各々見つかった。失踪の原因となったミツルさまがいなくなったからだろう。神隠しに遭っていた間の記憶はおぼろげだが、不思議とみんな楽しそうにしていたという。
 誘拐事件として捜査していた警察は何事だと首をひねっていたが、その影に一見恐ろしくも優しい怪異の存在が隠れているとは、夢にも思わないのだろう。
 不幸な子が一人でもいなくなればいいと言っていたツルの言葉は、きっと心からの本音だった。だから消えた子どもたちは、誰一人命を奪われることなくこの世に生還した。殺すことが目的ではなかった。
 ミツルさまの神隠しは呪いではない。現世で不幸にさらされた子どもを、不幸そのものから隠すための慈悲。そう解釈するのはご都合だろうか。
 だが肉体が滅び、実体のない幽霊でしかないツルには、こんな形で現世へ干渉することしかできなかったのかもしれない。まぁ、極端で強引な方法であることは擁護しきれないのだが……。
 ツルはもとの幽霊に戻った。オカルトもスピリチュアルも俺にはわからないけど、これまでツルが一人で全部背負い込んでいた罰を、俺も半分背負ったから荷が軽くなったのかなとか勝手に思っている。
「どこ行ってたんだ? 教室に入った瞬間どっかいってたけど」
「屋上。いつものとこ」
 昔からずっとツルのお気に入りだった、あの貯水槽のことだろう。
 特定の個人に憑りついたことで、ツルはあまり遠いところへ行けなくなった。具体的には俺から離れらなくなったが、それでもたまに目に見える範囲にいないことがある。
 授業中や日野たちとしゃべっている間、さっきの二者面談のような真面目な場面には、いつもツルは行方をくらます。空気を読んで俺の人生を邪魔しないことが、幽霊としてこの世に迷う、彼なりの線引きなのだろう。
 正直、これまで散々彼には振り回されてきたのだから今さらなんだ、と思わなくもないが、彼の存在もあるから、俺はなおのことこの町を出て大学に通うという選択肢を考えられないのだろう。
「体の具合は?」
「幽霊に具合も何もないんじゃない?」
「それはそうだけど……いや、はぐらすなって。わかるだろ、言いたいこと」
 危うく流されかけ、慌てて会話の流れを引き戻す。俺が聞きたいのは、ツルにまた怪異化の兆候が起きていないか、ということだ。本人はのらりくらりとしているが、こっちにとっては大事なのだから有耶無耶にされるわけにはいかない。
「こうして幽霊でいられるくらいには安定してるよ。海斗くんが祟らせてくれることになったからね」
 こちらの気も知らずケロリとしているツルの様子に変わりはなく、無理をしている気配もない。どうやら本当に大丈夫のようだ。もしこんなところで笑えない冗談など言おうものなら、と思っていたが、さすがにそこまで分別のない奴ではないか。
 いや、そういう性格じゃないとわかってはいるが、人をからかうことが生きがいというか、趣味みたいな奴でもあるのは本当だし……。
 ツルもとい、ミツルさまに憑かれてから、身の回りでよく物がなくなるようになった。大抵ツル本人を問い詰めれば数日後にはどこかで見つかるのでさほど気にしていないが、霊障といえば霊障かもしれない。
 元々『ミツルさま』は子どもを神隠しさせる怪異だったから、代わりに俺の持ち物を神隠しすることで落ち着いているらしい。
「そっか。なら、いい」
 変わらず飄々としているツルと話していると、彼が怪異に成り果てようとしていたこと自体、嘘だったように思えてくる。だが今日までの出来事は全て違わず現実で、時折忘れるなよと言わんばかりに胸に棘が刺さる。
 ツルのチョコレート色の瞳も、今だって時々虚ろに翳る瞬間がある。過去は乗り越えることはできても消えてなくなりはしない。ついた傷は残り続けるし、痛みだって忘れることはない。それも含め、母のことも、ツルのことも、俺は一生背負っていかねばならないのだ。
 二者面談さえ終われば、この日の学校での予定は一通り終了となる。自分の通学鞄を拾い上げ、俺は下校するべく中央階段を足早に下りていく。
「妹のお迎え?」
「いや。まだ時間があるから、工房に顔を出してくる。将来的に雇ってもらうにしろ、まずはアルバイトとして雇ってもらわないと」
「真面目だねぇ。もうお金の話してるよ」
「卒業まで一年しかないからね。受験がないと、勉強面で気を回さなくて済むのは、ある意味気楽かもな」
 昇降口で靴を履き替え、校庭に出る。潮の香りに満ちただだっ広い砂の校庭は静かで、やたらと空が開放的に見えた。
 校舎の屋上を取り囲む金網は全て補修され、そこで悲劇があった痕跡すら抹消されている。もし自分がこの場で命を手放していたなら、今こうして何もかもが元通りになった日常の中に存在ごと埋もれていただろうか。
「……結局、僕は君を救えたと言えるのかな」
 四月に二度目の出会いをしたその場所を見上げ、ぼそりと誰に聞かせるわけでもなくツルが呟く。穏やかな冬の日差しが透けるその横顔は儚く、吹けば霧散しそうに軽い。
 俺は沈黙する。それはきっと、一生答えの見つからない問いだ。
 俺のエゴで彼をこの世に繋ぎ止めていることが、果たして正解だったのかわからないのと同じく。
 今でも俺には霊感はない。光里に見えているものを、俺は何一つ見えやしない。だが唯一、ツルのことだけは誰よりもはっきりと見える。その理由を、ずっと考えていた。
 呪われるのを受け入れたとき、一部だけではあるが、ツルの過去と思われるヴィジョンを垣間見た。自分の存在価値を探して他人に尽くし、最期は誰にも見つけてもらえず一人骨になった少年の記憶――。
 似ているからだと、そのときふいに気づいた。俺たちはどちらも、本当の意味で自分を肯定してくれる”近くて遠い誰か”に飢えていた。家族や血縁とも違う、他人でありながら求め合う、そんな夢物語のような存在を。
「あなたに、俺は救えないよ」
 人は誰もが一人だ。そばにいて寄り添い合うことはできても、自分自身の人生や決断に責任に向き合えるのは、結局自分しかいない。
「救わなくていいから、そばにいて。これ以上勝手にいなくなられるのは嫌だから」
 ずいぶんと偉そうな言い方だと、自分でも思う。だが本気でそう願っているのだからどうしようもない。
 記憶喪失で一度思い出を失くし、幽霊状態で出会い直し、一人肉体に戻って記憶を取り戻し、二度ツルの存在を失くしかけた。三度目はごめんだった。
 ミツルさまになってしまったツルでは意味がない。意地が悪く、感情が読みにくく、何考えてるかわからないくせに寂しそうに笑うツルでなければ、俺は救われることもなかったのだ。
「仕方ないなぁ」
 そう言いつつも、ツルの口調は嬉しそうだった。
 似ているからこそわかる。俺も彼も、誰かに自分という存在を見つけてほしかった。俺がツルを必要としたように、ツルもまた俺を必要とした。
 昔も、今も――。
「どのみち、君が死ぬまで一緒だよ。身も心も、一つになった仲だしね」
「……そうだね」
 物言いにはだいぶ語弊があるが、確かに現状、俺の一部をツルに明け渡して憑依を許しているような状態だ。心はさておき、身は一つみたいなものだろう。
 いつぞやからかい調子でそう言われたときには、冗談はよくないと返したものだが、まさか否定する言葉に困る日が来るとは……。やはり癪だ。
「だから祟るのも、俺一人で我慢してくれ」
「はーい」
 淡いオレンジ色に染まり出した西の空に、少しずつ太陽が傾いていく。鞄を肩にかけ直し、俺たちは並んで塩越の坂を下し始める。
 一人は足音を響かせ、もう一人は影も落とさない。すれ違う人々がツルの存在に気づくことはなく、俺以外の全てにとって、ツルは空気同然の透明人間でしかない。
 一万人にとって無価値な存在でも、ただ一人にとっては替えの利かない唯一になれるのなら、それで十分だ。
 いつかツルを成仏させてやれればと思ってはいるが、その方法は未だわからない。そんな方法があるのかもわからず、もしかしたら本当に俺が死ぬ瞬間までこのままかもしれない。
 それでも構わないと思えるのは、自分は一人じゃないという確かな安心がもたらす心地良さを、俺はもう味わってしまったからなのだろう。