折り鶴サマの満つる刻

 塩越高校の正門についたとき、ちょうど町内に設置されているスピーカーから夕焼け小焼けのアナウンスが流れた。
 四時半を告げるしんみりとした音楽につられて顔を上げると、空は全体の半分近くまで紺色が侵食してきていた。残された猶予はあまりないらしい。
 仮病を使ってわざわざ休んだ学校に、結局その日のうちに自ら足を運ぶことになるとは本末転倒な気もする。先生になど遭遇しようものなら絶対話がややこしくなるだろう。誰にも見咎められないように、と心の中で三度願掛けをし、正門を跨ぐ。
 本来なら放課後になれば、校庭や体育館では部活動の音の一つや二つ聞こえてくるものだが、今日に限っては音どころか人影すらない。
 その静寂ぶりに不気味さを覚えるが、よく考えると二学期の中間試験が近い。試験二週間前で全部活動が活動中止になっているからか、と思い至ると急に怖さは吹き飛んだ。
 別にまだ施錠時間となっていないため、正面の生徒用昇降口からすんなり校舎の中に入れた。生徒はみんな下校したようで、がらんどうのコンクリートの箱の中には生き物の気配がしない。
 まるで校舎そのものが異界に飲み込まれたような雰囲気だ。周囲に先生の目がないことを確認しながら、俺はなるべく足音を立てないよう屋上へ急ぐ。
 塩越高校の普通コースが使っているこの校舎には、屋上への出入り口が二か所ある。一つは中央階段の先で、一番よく使われる出入り口でもあるが、俺が起こした事故のせいで今は封鎖されてしまっている。
 もう一か所は、避難用に設けられた外階段から伸びる備え付けの梯子だ。避難階段など普段は誰も来ないため、ここに梯子があることを知らない同級生も多い。
 幽霊だった頃は壁があろうと鍵があろうとすり抜け放題だったが、生身の人間に戻った以上そうも言っていられない。中央階段には向かわず、最初から一直線に避難階段を目指す。
 途中、職員室の前を通らねばならないので抜き足差し足通ったところ、どうも職員会議の真っ最中のようで、教頭先生が学園生活の規律について、何やら長ったらしく小難しい演説をしていた。
 学年集会などでされては眠くて仕方ないものだが、今回に限ってはおかげで音でバレることなく職員室前を通過でき、心の中で拍手を送った。
 屋上へ続く梯子は最上階の階段の傍らにひっそりとあった。元は屋上点検用だったかもしれないが、長らく使われた形跡もなく所々錆が進行している。
 一瞬、上っている途中に壊れたりしないかと警戒したが、さすがにそこまで不備を放置していないだろうと腹をくくる。右足がまだ完治していないため、一段上がるだけでもだいぶ苦戦したが、どうにかよじ登ることに成功した。
 無人の屋上は開けていて殺風景で、ここが高校の校舎とわかっていても、どこか打ち捨てられた廃墟のような寂寥感が漂う。足をかばいながらゆっくりと屋上の縁へ向かい、荒い金網の隙間から海を遠望する。
 夕日が西の空を真っ赤に燃え上がらせる。雲がまるで炎に焼かれて身もだえているように、不規則に形を歪めながら流れていく。
 地平線に漂う蜃気楼の向こうに、あの幻の町は変わらず揺蕩っていた。心なしか、先ほどまでよりずっと近くに見える。じっと見入っていると徐々に遠近が狂い始め、波に打ち寄せられた町並みが現世を侵食する。
 眼下に広がる塩越の町が、いつの間にか見知らぬものに変わっていた。現代的な建物が軒並み消え、瓦やトタン葺きの古風の建物の合間に畑が広がり、白黒写真でしか見たことがないような板葺きのあばら家が密集したエリアまである。
 初めて見る光景のはずなのに、これが六十年前の震災で失われたかつての塩越の姿なのだろうと予感した。
 ――やはり、ツルが生きていた時代はここだったのだ。
 どう考えても非現実的なことが目の前で起きているが、気にしようという気にはならなかった。昼と夜が混ざり合い、此岸と彼岸の境界をも曖昧にさせていく。
 煉獄の炎のように燃え盛る夕日が目を刺し、とっさに視界に右手をかざして目をすぼめる。海面に消えゆく光が筋となり、何かの通り道を敷くように平らな屋上に赤い線を引いている。
 導かれるように、俺は足元に伸びる光の筋を視線で追いかけ、その終着点を探して屋上の一点を見つめる。
 あの古びた貯水槽の上に、黒い霧のようなものをまとった影が蠢いている。人のような形をしているが、塗りつぶされたように真っ黒で、輪郭以外は何一つ判別できない。
 ミツルさま。蜃気楼とともに海から現れ、泣く子をさらう不可思議な怪異。かつて、俺を孤独からすくい上げてくれた人の、成れの果て。
「ツル……か?」
 絞り出した声は自信なさげで震えていた。この期に及んで、まだ疑っていたのかもしれない。だが実際にこの目で見て、半ば本能的に確信してしまう。
 あれはツルだ。だってこんなにも”懐かしい”。
 返事は返ってこない。怪異であるミツルさまは、意思を持った人や幽霊のように言葉を発さないのかもしれない。
 彼が自分の言葉も意思も持っていたときのことを知っているから、その沈黙と無反応が胸に痛く、どうしようもなく寂しい思いに襲われる。
「……俺が、お前を怪物にしたのか」
 夕焼けがまだ残る空に、青白い満月が浮かぶ。相反する二つの天体が同じ空に漂う様は歪ながらも幻想的で、混ざり合う光が紫のグラデーションを空に描く。
 あの日も、こんな月が空に浮かんでいた気がする。
 まだ桜が咲き誇っていた季節に、ここであった出来事が走馬灯のように駆け巡る。日中なのに夕べ昇った月が往生際悪く空にぶら下がり、幽霊みたいに透けていた。
 無自覚に『折り鶴サマ』に願ったがために、亮が死に、母が巻き添えになって死んだ。ずっと家族を苦しめてきた元凶が消え、代償はあったが暴力に怯える地獄のような日々からは解放された。
 せいせいしなかったかと聞かれれば、した、と答える他ない。亮の事故死を、内心喜んでいた自分は間違いなくいた。
 だから余計、苦しかった。
 亮の死は、母の死という代償の上に成り立っていた。それを清々しく思ってしまうことは、母の死をも喜ぶことになってしまう。
 母さんの死など、望んでいなかったのに。
 知人だけを集めた小規模な葬式で、俺は母の遺体を前に泣けなかった。悲しかった。罪悪感でいっぱいだった。なのに涙は一向にこぼれなかった。
 隣では光里が泣いていた。母親の死を、心から嘆くことができていた。泣かない俺を、周りは「強いね」と言った。違う。強くなどない。泣けない理由が、自分でもわからないだけだ。
 それがまるで、本当は助けてくれなかった母のことも恨んでいたのでは、と無言で突きつけられているようで、また罪悪感と自己嫌悪に苛まれて――。
 あの日どうして屋上に足を運んだのか、正直自分でもよく覚えていない。明確に死にたいと思っていたわけではなかったが、気づいたときにはここで潮風に吹かれていた。
 きっかけは、本当にしょうもないくらい小さなことだった。
 いつも訪れている貯水槽の近くに置き去りにしていた折り鶴が、何羽か風に巻き上げられて空へと舞い上がった。
 人の手によって折られた人工物すら自由に空を飛んでいる光景が、その瞬間無性に羨ましく思えた。引き寄せられるように近づき、手を伸ばし、その羽に一緒に乗せていってくれないかと願った。
 一番高いところでそのまま置き去りにして、全てから遠ざけてほしいと。
「あのときも、お前は俺を助けようとしてくれてたよな」
 ミツルさまは答えない。独り言のようになっているが、構うものか。言葉が、想いが、あふれて止まらない。ならばいっそ全てを吐き出してしまえ。今になって俺にできる償いなど、それしかないではないか。
 鶴を追いかけていった先が壊れた金網だったと気づいたのは、片足が宙を切ったときだった。体が宙に投げ出され、視界がくるりと回転し、目の前いっぱいに広い空が映し出される。
 落ちていく直前、名前を呼ぶ声を聴いた。ツルの声だったと思う。あんなにも必死なツルの声音を聞いたのは、後にも先にもあの一回限りだ。
 死ぬのか、と思っただけで、恐れはなかった。伸ばされた誰かの手がすり抜け、この体に重なるのを無感動に眺めていた。
 あの瞬間、千羽海斗という人間の器の中で何が起きたか、うまく説明できない。
 ミツルさまの輪郭がゆらゆらと不安定に揺れる。肩越しに振り返れば、地平線の太陽はますます沈み、見えていた蜃気楼も少しずつ消えようとしている。
「どうすればいい? どうすれば……お前を留めておける?」
 どうしたら彼を、元のツルに戻せる? この場に答えてくれるものなどなく、暮れ行く空だけが淡々とタイムリミットの秒針を刻んでいる。
 ツルの魂の変質は、俺の願った呪いを現実にしてしまった、その報いだ。折り鶴サマという偽のまじないを通じて成就した呪詛が、ツルを怪異へと変貌させた。
 なら、その逆もできるだろうか。
 俺が背負うべき罪までツルが一人で背負いこんでいるとしたら、無理やり引きはがすこともできるだろうか。
 本来なら罰を受けるべきなのは彼ではなく、人を呪おうとした俺のはずだから。
 半ば衝動的に貯水槽を上り、黒い陽炎と同じ足場を踏む。ミツルさまは――ツルは、動かない。その黒い炎の中に、迷うことなく腕を突っ込んだ。
 肉体を失った魂をこの世に繋ぎ止める方法など、霊能力者でもない俺にわかるわけがない。だが器が必要だというなら、ここにある。
 古今東西、怪談で語られる幽霊は往々にして特定の場所か、生きた人間に憑りつくことで「うらめしや」を成立させている。基本的には幽霊の方から憑りつく話が多いが、人間の方から憑りつかれに行くことも、理論上可能……なはず。
 そうまでして自分はツルにいなくなってほしくないのかと、改めて気づかされて苦笑する。これでは幽霊にストーカーしているヤバい奴みたいだ。まぁ、別に気にしないが。
「――もう、忘れたりしない?」
 頭の中に懐かしい声が響く。暗闇の底に、瓦礫に埋もれた傷だらけの少年が視える。
 光を探し求めるように頼りなく虚空を彷徨うその痩せ細った指先を、俺は迷うことなく掴む。今度こそ手のひらをすり抜けることのないよう、強く強く握りしめる。
「しない。絶対に」
 だからどうか、償う機会をください。俺はまだ、彼に何も言えていないんだ。ありがとうも、ごめんも、他に伝えるべき何もかもも。
 膨大な闇が、腕を通して心の内側まで流れ込む。自分の体が自分のものではないような感覚がし、刹那、意識が遠のく。
 この感覚を知っている。人ならざる者が、俺の体を乗っ取ろうとする感覚だ。あの日屋上から落ちようとしていた俺の体にも、同じ現象が起きていた。
 ――憑りつくことで、ツルは無理やり俺の転落を防ごうとしたのだろうか。
 ふっと浮かんだ疑問の答えを、俺は持っていない。だが今はまだ、聞かないでおこうとも思った。もう少しだけ、期待することを許してほしい。
 あの一瞬の憑依のおかげで、この身は致命傷を負わずに済んだのかもしれないと。
 またもそんな都合のいい解釈をしようとしている自分は、やっぱり勝手で最低な奴だなと自嘲した。