九月中頃。少しは残暑も和らいできた週末、俺は近所の商店街にある花屋で買った仏花を持って長石寺を訪れた。
この日は祖父の命日だった。別段、特別な法要をするわけでも、毎月必ず参っていたわけでもないが、近頃あまりに身の回りが騒がしすぎて、息を吐く暇もない心を鎮めようとしたところ自然とここに足が向いていた。
母が亡くなるまで、悩みや考え事があるとよく祖父の墓前に来ていた。生前から相談に親身に乗ってくれた祖父に、死後も甘えていたのかもしれない。今も無意識にその癖が染み付いたままだ。
花立てに花を供え、手桶に汲んだ水を墓石にかけていく。線香の煙が秋の澄んだ空に立ち上り、どこからか高々と鳴くモズの声が響き渡る。
背中に差す陽光の温かみと線香から香る白檀の匂いに包まれ、ぐちゃぐちゃに絡まった思考の糸がほどけていくのを確かに感じる。不謹慎かもしれないが、死者に見守られているように感じられるこの瞬間が、俺は好きだった。
光里も一緒に来たがったが、今日は職員とホームで留守番してもらうことにした。俺が健康体であるならまだしも、この足では現状何かあっても満足に妹を守れない。足がよくなったらもう一度祖父に会いに行こうと約束し、納得してもらった。
手を合わせてお参りを済ませ、傍らに立てかけた松葉杖を手に取る。リハビリは順調だが、昔のように思うがまま動かせるようになるまではまだ少しかかりそうだ。
霊体を経験して肉体に戻ったが、肉体とは重たい入れ物だ。だがその重さがあるから人をこの世に繋ぎとめていられる。でないと魂だけでは軽すぎて、どこへでもすぐ飛んで行ってしまう。
まさかこんなことを実体験に基づいてしみじみ実感する日が来ようとは、本当に人間、生きていると何があるかわからない。
「おや、海斗くん。足の具合はいかがですか?」
帰りに本堂の前を通ったとき、ちょうど竹箒を手に境内を掃除している最中だった住職さんがこちらを見つけ、軽く手を掲げる。首から白いタオルをかけた作務衣姿だ。
「だいぶ痛みは引きました。そろそろ杖を外してもいいかもしれません」
俺は足を止め、小さく会釈した。記憶がある程度戻り、長石寺には祖父の代からお世話になってきたことも覚えている。祖父の葬式も、母の葬式も、この方に執り行っていただいた。
「そうですか。順調そうでよかったです」
ほっとしたように住職さんは微笑み、次いでどこか申し訳なさそうに眉を下げる。
「この前は、どうも失礼しました。隣町の寺に赴いていたもので、事故があったと後から知りまして……」
一瞬なんのことかと思ったが、いつぞやまだ幽体離脱していた頃、ツルを追いかけてこの寺に来たときのことだと思い至る。墓地の外れで、生者に対するのと何ら変わらない態度で声をかけられた。
あのとき住職さんが俺を幽霊と認識しなかったのは、単に事故のことを知らず、俺が健康体でいるものだと思っていたからのようだ。
「いえ。正直、気兼ねなく声をかけていただけて嬉しかったです」
「そうですか? 海斗くんが大変な時に、少し無神経だったかなと思ってましたが……ならよかったです」
住職さんの言葉は優しく、この世にはまだ”千羽海斗”を想ってくれる人がいるのだと再確認する。
誰にも気づいてもらいないのは寂しいし、虚しいものだ。自分が本当に世界に存在しているのか、自分でも自信を持てなくなっていく。
本当に死者なら、それでいいのかもしれない。でも俺は生きている。つかの間でも自分が幽霊であるという現実を忘れられたことは、この先も肉体を持って生きていく上で、俺にとっては重要なことだった。
「しかし、祖父の跡を継いで長らくここの住職をしてきましたが、現世に漂う霊魂があんなにはっきり見えるとは思いませんでした。生きている人と遜色ありませんでしたね」
れっきとした心霊現象を体験したにもかかわらず、住職さんはどこか楽しそうだ。貴重な経験をした、くらいにしか思っていないのかもしれない。
光里もそうだけど、日常的に霊が見える人の目に、この世界はどんな風に映るだろう。ホラー映画のようにおどろおどろしいものだろうか。これまでは別段気にしていなかったが、今は一瞬でもいいからその世界を自分の目で見てみたい。
もし本当にツルが生きた人間でなかったとしたら、霊感がない俺は一生彼を見ることも離すこともできなくなるのではないか。その可能性がたまらなく怖い。
「どんな霊体でも、そんな風に見えるものなんでしょうか」
「どうでしょう。私は海斗くんしか見たことがないのでなんとも。あるいは現世との縁が深ければ深いほど、幽霊の姿も濃くなるのかもしれませんね。幽霊が実体を伴う怪談も実際にはありますし」
確かにそれは一理あるかもしれない。私の勝手な想像ですけど、と住職さんは付け加えたが、俺は内心納得した。
怪談話の定番の一種として、離れたところにいる家族や友人のもとを訪ねるも、同刻に当人は亡くなっているというパターンがある。だいたいは後から訃報を知り、先の訪問が幽霊によるものと気づく。俺を幽霊と思わなかった住職さんの状況と同じだ。
「……そういえば、住職さんは代々ここのお寺を継いでらっしゃるんですよね?」
「ええ、そうですよ。何か、聞きたいことでも?」
「ミツルさま、という怪異を御存じありませんかか? 泣いている子どもを、どこかに連れていってしまう妖怪? みたいなんですけど」
光里と同じく幽霊が見える人なら、同じようにミツルさまとやらを見てはいないだろうか。光里が聞いた少ない情報を噛み砕いて俺はそう尋ねる。
「ミツルさま、ですか……」
手を顎に当て、住職さんは「うーむ」と唸って考え込む。
「そういった妖怪がいるという話は聞いたことがありません。少なくとも、土着の何かということはないかと」
「そうですか……」
この町に長く根付いてきた住職さんなら何か知らないかと期待したが、当てが外れてしまった。落胆が声ににじまないよう平静を保ち、俺も一緒になって考える。
土着信仰に由来する類のものじゃないなら、後から形成された怪談か都市伝説ということになる。折り鶴サマのようにどこかに出所があり、そこから広まったことは容易に想像つく。問題はそれを探る手掛かりがあまりにも少なすぎることだ。
「ただ、最近子どもたちから似たような名前を聞いたことならありますね」
望み薄とわかっていても、一度町の郷土史をじっくりさらわないといけないだろうかと考えている最中、住職さんが発したその一言に思わず顔を上げる。
「蜃気楼が出ると、海から黒いお化けがやってくるという話です」
これだ、と思った。光里が言っていた友達とやらも、きっとこの黒いお化けのことだ。
「その話、詳しく伺ってもいいですか?」
「もちろん。といっても、私もさほど詳しくは知らないのです。子どもたちは、お化けそのものについてはあまり話してくれないので」
そう前置きしてから、住職さんは自身が知っている限りの『ミツルさま』にまつわる怪談を語って聞かせてくれた。
どれも断片的で、実体の掴めない噂話の集合体だった。隠れて泣いていると姿を現すとか、海沿いで一人でいると連れ去られるとか、バリエーションがいくつもある。だがどの噂でも『ミツルさま』は蜃気楼と共に現れ、蜃気楼の消滅と共に去るということだ。
そういえば、今年は例年に比べて蜃気楼の観測数が多いと誰かが噂していた。同時期に囁かれるようになったミツルさまの噂。
こんなところにも、偶然の一致がまた一つ。
極楽浄土とかニライカナイとか、日本土着の信仰には海の彼方を常世とか、あの世とするものも多い。地平線の向こうに幻影を見せる蜃気楼が、その信仰を生んだ一端であるとの説もある。
海も蜃気楼も、共に幽世の境に近い。その境界を越えて現れ、子どもを連れ去っていくという怪異。改めて話を聞いても、やはり気味の悪い存在だ。
「でも不思議と、そのお化けが怖いと言う子は少ないんですよね。それが微笑ましくも、不気味にも思います」
不思議そうに話す住職さんも、俺と同じものを感じ取っているようだ。光里も、ミツルさまを友達と呼んでいた。他の子どもたちも、ミツルさまを恐れていない。
印象がまるで定まらない。子どもたちにとって、ミツルさまは恐ろしい怪物ではないということだろうか。毒のようにも、薬のようにも捉えられる、奇妙なほどブレブレな怪異だ。いっそ怪異失格なのではないのかとさえ思う。せめて人を呪うことが目的かどうかくらいは明確にしてほしい。俺はいったい何に文句を呈しているのだろう。
ツルみたいやつだ。彼もずっと、俺の背中を押したり、かと思えば引き止めようとしたり、何がしたいのか全く分からなかった。ミツルさまにも、同じような曖昧さを感じる。
まさかツルがミツルさまだった、なんてことは――。
「あぁ、そうです。海斗くんに渡したいものがあるのでした」
一人ぐるぐるとピースの足りないパズルを前に堂々巡りしていると、住職さんが思い出したようにそう言って踵を返す。
長石寺の境内には金堂と、その横に住職さんの住む家が建っており、作務衣の後ろ姿はそこの玄関へと吸い込まれていく。しばらくすると小さな厚紙のようなものを手に戻ってきて、それをこちらに手渡してくる。
黄ばんで角がよれた、かなり古びた写真だった。時代を感じさせる白黒のセピア色で、燃えたのかちぎれたのか、四つ角の一つが三角形に欠けてしまっている。背景に写っている屋根は、恐らくこの長石寺の金堂のものだろう。
お堂正面の階段の前に、二人の少年が並んで立っている。左の少年は縦縞の簡素な着物に帯紐を結び、もう片方はシャツにズボンと現代に近い装いだ。肩の高さから、前者の方が幼いような印象を受ける。髪を短く刈り上げた坊主頭で、憮然とした表情で写真に写っている。
対してシャツを着ている方の少年は、四つ角が切れているせいで首から上が行方不明だった。坊主頭の少年の肩に手を乗せ、親しげな距離感から友人か、あるいは兄と弟にも見える。
「……これは?」
「先日、寺の倉庫を掃除していたときに見つけたものです。震災よりも前なので、祖父の時代に写されたものでしょう」
てっきり住職さんの子どもの頃の写真かと思ったが、どうやら違うらしい。
「まだずいぶんと若くあどけないですが、片割れの着物の子は幼少期のおじいさまではないですか?」
「祖父の……」
「ええ。寺の奥にしまい込まれたままより、お身内のもとにあった方が、稔さんも嬉しいと思いましてね」
どうやら前の住職さんは町の子どもの面倒もよく見ていた人のようで、他にもこうした子どもたちを写した写真がいくつか残っているのだという。
記憶の中の祖父はあまり写真が好きではなかった。一緒に写ってはくれるものの、いつも眉間にしわが寄った仏頂面で、十人中十人が「お爺さん、機嫌悪いの?」と聞くくらいには表情が険しい。子どもの頃から片鱗はあったようだ。
「ありがとうございます。大事に、します」
素直にお礼を言うと、住職さんはにっこりと微笑んで掃除に戻った。俺もその場を後にし、受け取った写真を眺めながら帰路に就く。
写真の裏側の隅には、小さく鉛筆で文字が書かれている。祖父の筆跡ではないので、ここの先代のものかもしれない。
”稔と満 1963年8月”
稔は確かに祖父の名だ。では満は――いったい誰の名だろう?
富山湾に面した、人口一万人程度の小さな町。それが塩越だ。海沿いにあることと、古来は和紙の産地だったことからついた名前だという。
1963年というと、史上最大級の石油コンビナート火災を起きた新潟地震の直前だ。震源となった新潟県に隣接する塩越町も被害を受けたと聞いている。六十年以上前のことだ。
記憶する限り、養子として千羽家にもらわれた祖父に兄弟はいなかった。あの顔のわからない少年は友人だったのだろうか。写真の文字を信じれば”満”が名前だろう。一般的には”ミツル”と読まれる漢字だ。
満と、ミツルさま。同じ読み方をするところが妙に気にかかる。ツルの名前とも、一文字しか違わない。
突如ポケットの中でスマホが鳴る。
電話なんて珍しいと思って画面を見ると、つぐみの家の職員からだった。その連絡先の表記に、嫌な予感を覚える。
『もしもし、海斗くん? 今、もう町に戻ってきてるかな?』
通話ボタンをタップし、スピーカーを耳に当てると。真っ先に鼓膜を突き抜けてきたのは焦ったような女性職員の声だった。
「はい。今から戻るところです。何かあったんですか?」
『光里ちゃんの姿が見当たらないのよ。そっちに行ってないかしら?』
その切羽詰まった一言が、真夏の陽光を凍り付かせた。
この日は祖父の命日だった。別段、特別な法要をするわけでも、毎月必ず参っていたわけでもないが、近頃あまりに身の回りが騒がしすぎて、息を吐く暇もない心を鎮めようとしたところ自然とここに足が向いていた。
母が亡くなるまで、悩みや考え事があるとよく祖父の墓前に来ていた。生前から相談に親身に乗ってくれた祖父に、死後も甘えていたのかもしれない。今も無意識にその癖が染み付いたままだ。
花立てに花を供え、手桶に汲んだ水を墓石にかけていく。線香の煙が秋の澄んだ空に立ち上り、どこからか高々と鳴くモズの声が響き渡る。
背中に差す陽光の温かみと線香から香る白檀の匂いに包まれ、ぐちゃぐちゃに絡まった思考の糸がほどけていくのを確かに感じる。不謹慎かもしれないが、死者に見守られているように感じられるこの瞬間が、俺は好きだった。
光里も一緒に来たがったが、今日は職員とホームで留守番してもらうことにした。俺が健康体であるならまだしも、この足では現状何かあっても満足に妹を守れない。足がよくなったらもう一度祖父に会いに行こうと約束し、納得してもらった。
手を合わせてお参りを済ませ、傍らに立てかけた松葉杖を手に取る。リハビリは順調だが、昔のように思うがまま動かせるようになるまではまだ少しかかりそうだ。
霊体を経験して肉体に戻ったが、肉体とは重たい入れ物だ。だがその重さがあるから人をこの世に繋ぎとめていられる。でないと魂だけでは軽すぎて、どこへでもすぐ飛んで行ってしまう。
まさかこんなことを実体験に基づいてしみじみ実感する日が来ようとは、本当に人間、生きていると何があるかわからない。
「おや、海斗くん。足の具合はいかがですか?」
帰りに本堂の前を通ったとき、ちょうど竹箒を手に境内を掃除している最中だった住職さんがこちらを見つけ、軽く手を掲げる。首から白いタオルをかけた作務衣姿だ。
「だいぶ痛みは引きました。そろそろ杖を外してもいいかもしれません」
俺は足を止め、小さく会釈した。記憶がある程度戻り、長石寺には祖父の代からお世話になってきたことも覚えている。祖父の葬式も、母の葬式も、この方に執り行っていただいた。
「そうですか。順調そうでよかったです」
ほっとしたように住職さんは微笑み、次いでどこか申し訳なさそうに眉を下げる。
「この前は、どうも失礼しました。隣町の寺に赴いていたもので、事故があったと後から知りまして……」
一瞬なんのことかと思ったが、いつぞやまだ幽体離脱していた頃、ツルを追いかけてこの寺に来たときのことだと思い至る。墓地の外れで、生者に対するのと何ら変わらない態度で声をかけられた。
あのとき住職さんが俺を幽霊と認識しなかったのは、単に事故のことを知らず、俺が健康体でいるものだと思っていたからのようだ。
「いえ。正直、気兼ねなく声をかけていただけて嬉しかったです」
「そうですか? 海斗くんが大変な時に、少し無神経だったかなと思ってましたが……ならよかったです」
住職さんの言葉は優しく、この世にはまだ”千羽海斗”を想ってくれる人がいるのだと再確認する。
誰にも気づいてもらいないのは寂しいし、虚しいものだ。自分が本当に世界に存在しているのか、自分でも自信を持てなくなっていく。
本当に死者なら、それでいいのかもしれない。でも俺は生きている。つかの間でも自分が幽霊であるという現実を忘れられたことは、この先も肉体を持って生きていく上で、俺にとっては重要なことだった。
「しかし、祖父の跡を継いで長らくここの住職をしてきましたが、現世に漂う霊魂があんなにはっきり見えるとは思いませんでした。生きている人と遜色ありませんでしたね」
れっきとした心霊現象を体験したにもかかわらず、住職さんはどこか楽しそうだ。貴重な経験をした、くらいにしか思っていないのかもしれない。
光里もそうだけど、日常的に霊が見える人の目に、この世界はどんな風に映るだろう。ホラー映画のようにおどろおどろしいものだろうか。これまでは別段気にしていなかったが、今は一瞬でもいいからその世界を自分の目で見てみたい。
もし本当にツルが生きた人間でなかったとしたら、霊感がない俺は一生彼を見ることも離すこともできなくなるのではないか。その可能性がたまらなく怖い。
「どんな霊体でも、そんな風に見えるものなんでしょうか」
「どうでしょう。私は海斗くんしか見たことがないのでなんとも。あるいは現世との縁が深ければ深いほど、幽霊の姿も濃くなるのかもしれませんね。幽霊が実体を伴う怪談も実際にはありますし」
確かにそれは一理あるかもしれない。私の勝手な想像ですけど、と住職さんは付け加えたが、俺は内心納得した。
怪談話の定番の一種として、離れたところにいる家族や友人のもとを訪ねるも、同刻に当人は亡くなっているというパターンがある。だいたいは後から訃報を知り、先の訪問が幽霊によるものと気づく。俺を幽霊と思わなかった住職さんの状況と同じだ。
「……そういえば、住職さんは代々ここのお寺を継いでらっしゃるんですよね?」
「ええ、そうですよ。何か、聞きたいことでも?」
「ミツルさま、という怪異を御存じありませんかか? 泣いている子どもを、どこかに連れていってしまう妖怪? みたいなんですけど」
光里と同じく幽霊が見える人なら、同じようにミツルさまとやらを見てはいないだろうか。光里が聞いた少ない情報を噛み砕いて俺はそう尋ねる。
「ミツルさま、ですか……」
手を顎に当て、住職さんは「うーむ」と唸って考え込む。
「そういった妖怪がいるという話は聞いたことがありません。少なくとも、土着の何かということはないかと」
「そうですか……」
この町に長く根付いてきた住職さんなら何か知らないかと期待したが、当てが外れてしまった。落胆が声ににじまないよう平静を保ち、俺も一緒になって考える。
土着信仰に由来する類のものじゃないなら、後から形成された怪談か都市伝説ということになる。折り鶴サマのようにどこかに出所があり、そこから広まったことは容易に想像つく。問題はそれを探る手掛かりがあまりにも少なすぎることだ。
「ただ、最近子どもたちから似たような名前を聞いたことならありますね」
望み薄とわかっていても、一度町の郷土史をじっくりさらわないといけないだろうかと考えている最中、住職さんが発したその一言に思わず顔を上げる。
「蜃気楼が出ると、海から黒いお化けがやってくるという話です」
これだ、と思った。光里が言っていた友達とやらも、きっとこの黒いお化けのことだ。
「その話、詳しく伺ってもいいですか?」
「もちろん。といっても、私もさほど詳しくは知らないのです。子どもたちは、お化けそのものについてはあまり話してくれないので」
そう前置きしてから、住職さんは自身が知っている限りの『ミツルさま』にまつわる怪談を語って聞かせてくれた。
どれも断片的で、実体の掴めない噂話の集合体だった。隠れて泣いていると姿を現すとか、海沿いで一人でいると連れ去られるとか、バリエーションがいくつもある。だがどの噂でも『ミツルさま』は蜃気楼と共に現れ、蜃気楼の消滅と共に去るということだ。
そういえば、今年は例年に比べて蜃気楼の観測数が多いと誰かが噂していた。同時期に囁かれるようになったミツルさまの噂。
こんなところにも、偶然の一致がまた一つ。
極楽浄土とかニライカナイとか、日本土着の信仰には海の彼方を常世とか、あの世とするものも多い。地平線の向こうに幻影を見せる蜃気楼が、その信仰を生んだ一端であるとの説もある。
海も蜃気楼も、共に幽世の境に近い。その境界を越えて現れ、子どもを連れ去っていくという怪異。改めて話を聞いても、やはり気味の悪い存在だ。
「でも不思議と、そのお化けが怖いと言う子は少ないんですよね。それが微笑ましくも、不気味にも思います」
不思議そうに話す住職さんも、俺と同じものを感じ取っているようだ。光里も、ミツルさまを友達と呼んでいた。他の子どもたちも、ミツルさまを恐れていない。
印象がまるで定まらない。子どもたちにとって、ミツルさまは恐ろしい怪物ではないということだろうか。毒のようにも、薬のようにも捉えられる、奇妙なほどブレブレな怪異だ。いっそ怪異失格なのではないのかとさえ思う。せめて人を呪うことが目的かどうかくらいは明確にしてほしい。俺はいったい何に文句を呈しているのだろう。
ツルみたいやつだ。彼もずっと、俺の背中を押したり、かと思えば引き止めようとしたり、何がしたいのか全く分からなかった。ミツルさまにも、同じような曖昧さを感じる。
まさかツルがミツルさまだった、なんてことは――。
「あぁ、そうです。海斗くんに渡したいものがあるのでした」
一人ぐるぐるとピースの足りないパズルを前に堂々巡りしていると、住職さんが思い出したようにそう言って踵を返す。
長石寺の境内には金堂と、その横に住職さんの住む家が建っており、作務衣の後ろ姿はそこの玄関へと吸い込まれていく。しばらくすると小さな厚紙のようなものを手に戻ってきて、それをこちらに手渡してくる。
黄ばんで角がよれた、かなり古びた写真だった。時代を感じさせる白黒のセピア色で、燃えたのかちぎれたのか、四つ角の一つが三角形に欠けてしまっている。背景に写っている屋根は、恐らくこの長石寺の金堂のものだろう。
お堂正面の階段の前に、二人の少年が並んで立っている。左の少年は縦縞の簡素な着物に帯紐を結び、もう片方はシャツにズボンと現代に近い装いだ。肩の高さから、前者の方が幼いような印象を受ける。髪を短く刈り上げた坊主頭で、憮然とした表情で写真に写っている。
対してシャツを着ている方の少年は、四つ角が切れているせいで首から上が行方不明だった。坊主頭の少年の肩に手を乗せ、親しげな距離感から友人か、あるいは兄と弟にも見える。
「……これは?」
「先日、寺の倉庫を掃除していたときに見つけたものです。震災よりも前なので、祖父の時代に写されたものでしょう」
てっきり住職さんの子どもの頃の写真かと思ったが、どうやら違うらしい。
「まだずいぶんと若くあどけないですが、片割れの着物の子は幼少期のおじいさまではないですか?」
「祖父の……」
「ええ。寺の奥にしまい込まれたままより、お身内のもとにあった方が、稔さんも嬉しいと思いましてね」
どうやら前の住職さんは町の子どもの面倒もよく見ていた人のようで、他にもこうした子どもたちを写した写真がいくつか残っているのだという。
記憶の中の祖父はあまり写真が好きではなかった。一緒に写ってはくれるものの、いつも眉間にしわが寄った仏頂面で、十人中十人が「お爺さん、機嫌悪いの?」と聞くくらいには表情が険しい。子どもの頃から片鱗はあったようだ。
「ありがとうございます。大事に、します」
素直にお礼を言うと、住職さんはにっこりと微笑んで掃除に戻った。俺もその場を後にし、受け取った写真を眺めながら帰路に就く。
写真の裏側の隅には、小さく鉛筆で文字が書かれている。祖父の筆跡ではないので、ここの先代のものかもしれない。
”稔と満 1963年8月”
稔は確かに祖父の名だ。では満は――いったい誰の名だろう?
富山湾に面した、人口一万人程度の小さな町。それが塩越だ。海沿いにあることと、古来は和紙の産地だったことからついた名前だという。
1963年というと、史上最大級の石油コンビナート火災を起きた新潟地震の直前だ。震源となった新潟県に隣接する塩越町も被害を受けたと聞いている。六十年以上前のことだ。
記憶する限り、養子として千羽家にもらわれた祖父に兄弟はいなかった。あの顔のわからない少年は友人だったのだろうか。写真の文字を信じれば”満”が名前だろう。一般的には”ミツル”と読まれる漢字だ。
満と、ミツルさま。同じ読み方をするところが妙に気にかかる。ツルの名前とも、一文字しか違わない。
突如ポケットの中でスマホが鳴る。
電話なんて珍しいと思って画面を見ると、つぐみの家の職員からだった。その連絡先の表記に、嫌な予感を覚える。
『もしもし、海斗くん? 今、もう町に戻ってきてるかな?』
通話ボタンをタップし、スピーカーを耳に当てると。真っ先に鼓膜を突き抜けてきたのは焦ったような女性職員の声だった。
「はい。今から戻るところです。何かあったんですか?」
『光里ちゃんの姿が見当たらないのよ。そっちに行ってないかしら?』
その切羽詰まった一言が、真夏の陽光を凍り付かせた。
