折り鶴サマの満つる刻

 平穏無事に学校での一日を乗り切り、光里のお迎えのために保育園に向かう。夕方とはいえまだまだ残暑が厳しく、杖を突きながらの移動はなかなか骨が折れる。
 じめっと張り付くような熱さの中、保育園の正門にたどり着いた頃には額を汗が伝っていた。建物に入ると冷房の利いた涼しい風が全身を包み込み、生き返るような心地だ。夏はこの瞬間が一番好きかもしれない。
「あぁ、海斗くん。今日もご苦労様です」
 この時間帯によく会うベテランの保育士さんが俺に気づき、声をかけてきた。ぽっちゃりとして、いつも温厚な笑みを絶やさない方だったと記憶しているが、今日はなんだか歯にもの挟まったような曇った表情をしていた。
「何か、ありました?」
「あ、いえ、大したことは何も。ただ光里ちゃん、今日は少しぼうっとしてることが多くて、ちょっと心配だったもので」
 呼んできますね、と言い、保育士さんは立ち上がって奥の部屋へ引っ込んでいく。光里が所属するひまわり組の部屋は入り口に一番近い場所にあり、ここからでも少しだけ室内の様子を見ることができる。
 黄色とオレンジ色のパズルマットにペタンと座り、光里は手に絵本を抱えながらどこかをじっと眺めていた。視線の向きから、恐らく天井付近を見つめている。
 同室を駆け回っている他の子どもたちは、誰一人光里と同じものを注視していない。確かに、少し様子がおかしいように思う。今朝までは元気そうにしていたのだが……。
 さっきの保育士さんが光里の横にしゃがみ込み、肩を軽く叩いて何か語り掛けている。ようやく光里の視線が天井から地上に降りてきて、いそいそと絵本を片付けようと立ち上がる。
 しばらくするとリュックサックを背負った光里が、とててて、と嬉しそうに駆け寄ってきた。つい数分前まで無為に天井を見つめていた虚ろな様子は微塵もない。
 もしかして熱でもあるのだろうかとおでこに手を当ててみるが、直前まで外にいた俺の方が高いのではないかというくらい、全く問題なさそうな体温だ。頭を撫でられたと思っているのか、光里はちょっと嬉しそうにしている。
 保育士の方々にさようならの挨拶し、光里と一緒に家路につく。歩きながら、光里は今日保育園であった楽しい出来事を指折り数えて話してくれる。お絵かきの時間に書いた絵が先生に褒められたことや、新しい友達ができたこと。誇らしそうな光里の横顔は弾んでいて、やはり具合が悪いわけではないらしい。
「おにいちゃん? ひかりのおはなし、きいてる?」
 制服の袖をおずおずと引き、光里が一転して不安そうに眉を下げて俺を見上げる。なるべく顔には出ないよう気を付けていたのだが、聡いこの子には見抜かれてしまうようだ。
「聞いてるよ。兄ちゃんの絵を書いてくれたんだろう?」
「うん! せんせいがね、じょうずだよって。おにいちゃんにも、あとでみせてあげる」
「ありがとう。楽しみにしてるよ」
 妹が今の保育園に馴染めているのなら、兄としてこれ以上に嬉しいことはない。人見知りで大人しく、外で遊ぶより絵本やままごとを好みがちな光里は元来友達が少なく、それがずっと心配だった。
「新しい友達って、どんな子?」
「んーと、かわった子」
「変わった子?」
「いっつもひとりで、だれともあそばないの。さみしくないの? ってきいたら、じゃあひかりちゃんがなかよくしてくれる? っていわれて、おはなしした!」
「へぇ、それは確かに変わった子だね。なんてお名前なの?」
 話の流れでなんとなしに尋ねたつもりが、光里は「うーん」と首をひねって考え込んでしまった。どうやらわからないらしい。
 それは友達と呼べるのかと思ったが、俺もツルの本名を未だ知らないのだから人のことは言えないかもしれない。
 夕闇の迫る道を抜け、つぐみの家の玄関をくぐる。ちょうど昼勤と夜勤の職員が引き継ぎをしている最中で、職員の部屋からは話し声が聞こえていた。
 手洗いうがいを済ませ、話を終えた職員と一緒に光里は浴室に向かう。つぐみの家には他に五人子どもが入所しているが、未就学児は光里一人だ。夜になれば浴室は順番待ちになるため、バッティングしないようこのように調整されている。
 光里がお風呂に入っている間に、俺は自室に戻り、リュックサックの荷物を整理する。水筒や弁当箱を取り出していると、くるくると巻かれた画用紙を目に入る。手に取り、折ってしまわないよう気を付けながら広げてみる。
 にっこりと笑う小さい女の子と、同じくにっこり笑顔の男の子が並んで描かれていた。片手に茶色い棒――恐らく松葉杖――を持っているあたり、後者は多分俺なのだろう。紙の余白にも拙いひらがなで『ひかり』『おにいちゃん』としっかり記されている。
 だが二人の後ろにぴったりとくっつくように、黒いクレヨンで塗りつぶされた不気味な影が張り付いていた。
 それは人のような形にも、得体の知れない怪物のような形にも見えた。絵の中の二人が立っているのは花がたくさん咲いた明るい庭なのに、その一点だけが塗る色を間違えたかのような強烈な違和感を醸し出す。
 ひやりと背筋に冷たいものが這い上がる。これは、いったいなんだ? 過去にも光里は絵を描いているが、こんな影が描かれたことなど一度もなかったのに。
「こらー、廊下を走らないの!」
 部屋の外から職員の声と、階段を駆け上がる足音。すぐに部屋のドアが開き、まだ髪が生乾きの光里が戻ってくる。俺の手にある画用紙を見て、嬉しそうに目を輝かせる。
「ひかりのえ、じょうずでしょう?」
「う、うん……上手だよ」
 そう返事はしたものの、笑顔をうまく取り繕えているか少し不安だ。なんのために、光里はこの黒い影を絵に描き込んだのだろう。そうしようと思った理由があるはずだ。だってこの子は、この絵に対してなんの違和感も抱いていない。兄が絵を見つけてくれたことを、ただ無邪気に喜んでいる。
「ねぇ、光里。この後ろの真っ黒なものは何? 影法師か何か?」
 身をかがめて目線を合わせ、例の影を指差してそう尋ねてみる。光里は絵を見つめ、驚く素振りもなくフルフルと首を横に振った。
 この絵の中に、光里にとっておかしい要素は何もないのだ。
「ううん。おともだち」
「友達? これが?」
 自分でも自覚するほど、思い切り眉をひそめてしまう。その黒い塊は、明らかに子どもの描く”友達”として異質で、不気味な予感と予想がむくむくと膨らんでいく。
「……もしかして、新しくできたっていうお友達?」
 にっこりと迷わず頷く光里にめまいがしそうになる。人見知りな妹に友人ができたと安堵していた数分前の俺に「早まるな!」と警告してやりたい。そんな微笑ましい話だったらよかったのに。
「その子はね、ミツルさまっていうの」
「……ミツルさま?」
 よくある人の名前に聞こえるが、”さま”という異質な敬称がついているあたり、ただの人間であるはずがない。
 いや、本当に人間なのか?
 幽霊だった俺のことが見えていたように、光里の目はこの世ならざる者を見ることができる。この黒い影も、そうした幽世の存在なのでは――?
「ないてる子がいるとね、ミツルさまがゆめのくににつれていっちゃうんだよ」
 どこまでも天真爛漫な光里の一言に、疑念が確信に変わる。恐らくそうだ。この怪異は現実に存在する。霊感がない俺の目には見えていないだけなのだ。
 保育園でぼうっと天井を見つめていたときも、ミツルさまとやらはそこにいたのだろうか。だとすると、それはいつも子どもたちのすぐ近くに佇んでいることになる。泣いている子を夢の国に連れていく。笛を奏でて子どもを連れ去るハーメルンの笛吹きのようだ。
 ふいに首の裏に視線を感じ、反射的に振り向く。荷物の少ない殺風景な室内はがらんとしていて、当然ながら誰もいないし、気配もない。
 だがだだっ広い部屋の真ん中で、俺たちを見ている何者かがいるのではないか。そんな嫌な想像がどうしても拭えなかった。